第一章 村のあけぼの

 第一章の第一節から第四節までは、滝沢南中学校教諭相馬正美氏拇導による郷土研究部発行『滝沢の歴史』第一号の発表を殆ど掲載したものである。

第一節 滝沢縄文式文化の特徴

 縄文式文化は、土器の特色によって、早期・前期・中期・後期・晩期に分けられている。わが滝沢村からもこの五期全部が出ているようである。石器もまた同じように、極く粗末なものから時代の下った精巧な磨製まで出土し、色とりどりである。しかも弥生式のものまで発見されているので、縄文式八千年・弥生式二千年・計一万年もの長い年月の多様な土・石器の形態には目をみはるべきものがたくさんある。これこそ、滝沢村における遺物の第一の特徴にあげることが出来るであろう。

 第二の特徴としては、規模が非常に大きなものであるということである。私達はかつて、滝沢村に散らばっている遺物について途方もない話をきいている。石器をカマスに二つつめたが持てなかったこと。土器がかたまっているのでシャベルで掘り集めた話、バケツに古銭を二杯も集めた人など、数えたらきりがないほどである。遺物が金に換えられて失なった例が多いと聞いている。話はともかく、私達が見かける土器・石器の量はぼう大なものであることには疑いないのである。

第二節 滝沢村の地質と地層

 昭和二十三年まで、日本人は、縄文式文化以前には日本に人間が住んでいなかったと考えていた。なぜならば、私達が住んでいる黒い土層(沖積層)の中からしか縄文土器が出てこなかったからである。この沖積層は、今から約一万年ほど前に出来た一番地球で若い土層である。

 ところが、昭和二十四年にこの沖積層の土の下にある赤土の洪積層(数万年前)の中から、石器が出てくるという一大事件がおこった。これが有名な群馬県の岩宿遺跡である。この岩宿の原始人は、土器の作り方をまだ知らなかったので、この時代を無土器時代と呼び、数万年も前から日本人が住んでいたことがわかった。このことで研究を進めるために、地層や地質の研究が非常に大切であるということがはっきりしたのである。従って土・石器の研究と地層・地質の調査は切り離すことが出来ないのである。発見した土器や石器を調べるためには、場所と地層、出土した遺物の記録があって、初めて遺跡になるのである。つまり、一番最初に生活した人々の遺物は最も深い地層の中に埋まっており、その上に次に来て生活した人々のものが埋まり、最後に一番浅い土層に最も新しい人々のものがあることがわかるという訳である。

 滝沢村の地形を大きく分けて、東部は二〇〇メートルの平地と、北西部は六〇〇m以上の高地、中部は南北にのびる台地になっており、その大部分が火山灰岩か火山岩層で、北上川に近い東部の平地に沖積層があり、主としてこの層から土・石器が出土している。

第三節 滝沢原始人の石器から

居住地のありさま 縄文土器式時代の生活

 私達の拾い集めた滝沢村の石器から、滝沢原始人とその生活について話してみたいと思う。

 (本村の風林=縄文早期<岩手県最古であると秋田良夫氏はいう>白山=縄文晩、八幡舘(古墳)、参郷の森、上篠木=縄文前後晩、熊野山、別当森=縄文後、大畑=縄文晩、仏沢観音堂=古墳前、三日月神社=縄文前中後、土沢=縄文後、湯舟沢=縄文晩、松屋敷=縄文晩、川前農学部合宿所=縄文後、貝がら谷地=貝塚等東面、あるいは南面の畑地からたくさん石器や土器が出ること)を考えると、動物を食べていたことが明らかに分る。貝塚を掘ると、鹿や猪の骨がたくさん出てくる。これは裏の森林や丘で、猪やあっさりした淡白な味の鹿の肉が当時の人々にとって一番の御馳走だったであろう。しかも外の獣より躰が大きく、一頭捕れば大勢で何日も食べることが出来るのであるから、これを捕るのに一生懸命だったのは当然である。外の小動物はおもに毛皮をとるため捕ったのであろう。鳥類の骨もでる。しかし、発見されたものの中で、犬の骨だけは他の骨とは違っているという。それは明らかに葬られたままの様子がうかゞえる。犬は人々の仲間であり家族の一員として狩りのときには猟犬となるからである。獣をわなにかけたり、落し穴に落したりして捕ったこともあるであろうし、森林や野原の境辺に待ち伏せして、わなをかけたこともあったであろう。また鳥をば弓矢で射たり、わなにかけたのであろう。鳥類ではカモが最も多くハト・キジ等があり、(今知られている動物には四百五十種もあった。農業をしなかった当時の人々は、野山や川等から食べられるものを集めたであろう。草木の若芽や若葉や山いちご・栗・くるみ・とち・野ぶどう・茸・百合の根・山芋等季節季節のものを取ったのである。植物は百八十種にも及んでいるから、食えるものは殆ど食ったことがわかる)その中で保存の出来るものは、少しは貯えたことであろう。シダ・ゼンマイの根を石皿の上ですり、石をもってつぶし、澱粉を作るようなこともあったと考えられる。

むかしの家のつくりかた

 また人間の知恵は凡て石器にたよっていた訳ではなく、色々なことにまで及んでいたと考えられる。例えば海の近くに住んでいた人々が採取したハマグリやアサリのような二枚貝は、多くの場合土器を火にかけて湯をたぎらせた中に投げ入れる。ゆでられた貝は、口を開くので、その身を出して食べる。そしてまた身を乾燥させて、海から遠い奥地の人々の処へ交換品として持って行ったと考えられる。このことは貝塚から出る大きなハマグリやアサリを観察すればわかるのである。それは貝殻のふちに傷のついたのが見当らないためである。鉄の小刃など全く知られていなかったこの時代に、石の小刀で生の貝をこじあけ、むき身にしようとしたらどうであろうか。かならず貝殻のふちに傷をつけるはずである。だから、勢い湯に入れて口が開いた時、身をとり出すのが、一番簡単である。また直径十センチもある大きなハマグリは、石の小刀ではとても口をこじあけることは出来なかったであろう。このような二枚貝は蝶番(つがい)で両方の殻がピッタリ合ったまゝ貝殻に多いのもこうしたむき身のとり方を物語っている。またサザエのような大きな巻貝はどうして食べたであろうか。貝塚から掘り出した大きな巻貝の殻を口を上にして、その下からのぞくと、殻の表面が灰黒色にこげていて、指でおすと孔があく程もろくなっているそうである。そこは火の強い炎があたった処で、丁度今の壷焼にあたるのである。

 こうして考えると、石器の中にはこのように目に見えないことでも、石器の使い方を理解することができる。滝沢における石器やその他のものから、資料があればある程、本当の原始人の姿をうかゞうことが出来る。

第四節 滝沢の石器技術の進歩

 原始人は早期・中期・後期・晩期を経るにつれ各方面の技術を発達させたのである。その中の石器中、丹念に磨いた斧、鋭く尖った打製槍、石鏃、また竪穴を掘る石器、さらに石の剣、棒、また打製のうちでもすばらしい石器の環状耳飾等、その上生活に余裕が出てくると、ヒスイに孔をあけて植物の繊維などでつるし、身につけたのである。

 その他釣針や鋸や網に様々の骨角器、石器等が使われた様である。滝沢村の石器もその種類は非常に多く、石鏃、石鋸、石槍、石錐、石匙、打製石斧、磨製石斧、石皿、敲石、砥石、凹み石、石冠、石錘、石棒、岩偶、岩版、環状耳飾、鑑節形玉器、勾玉、石剣その他がある。

 (大坊善章氏は「これらの石器、土器は、自分で作ったものを自分で消費する自給自足の形態をとり、これらの用具は使う者が最も使い易いように考えて作ったものである。とにかく働きさえすれば自然の食糧で間に合っていた。猛獣等をおそれて小集団を作り、決して孤立せず、しかも互いに交易していたであろう。そのことは、それらの用具に地域差が少ないことからも伺われる。例えば上篠木の石鏃の材料は区界より、鬼越の石が東西磐井へ、太田から出土したメノウは海岸の物で当時相互に交易したことを物語る」と述べている)

第五節 原始的畑作農耕

 原始的畑作農耕の有無については定説がなく、今後の研究にまたねばならないが、その存在を認めようとし、それを実証するためには、なお多くの努力が必要であるとして『岩手県史』は酒詰仲男氏の『先史農耕-貝塚』から引用している。

 1 日本の縄文石器時代は、採集経済段階に属するという事が従来余り反省もされずに殆ど定説のようになり、既に中・高等学校の教科書にまで、そのように記載されている。しかし最近無土器文化という、旧石器時代に属するらしい一つの文化が発見されたのに伴い、新石器時代に属する縄文石器時代が、何故世界の通則を外れて、自然経済時代と解されるのであるかという疑問が起ってきた。

 2 それについて、日本の縄文石器時代を旧石器時代と解し、それ故採集経済段階に属するのだと解するのも一見解であるが、すでに土器・石鏃磨製石斧のあるその時代を旧石器時代とは解釈されない。

農耕に生きる人たち

 3 逆に縄文石器時代の社会は、実は農耕社会だったのではなかろうか。再検討をしてみる必要がある。これまでは弥生式時代から、稲の耕作が始まったのをもって、日本の農耕社会の始源としてきた。しかし稲のみが栽培植物というはずはなく、稲耕作のみが農耕社会の条件となるのでないのも明白である。

 4 日本の縄文石器時代人は、
a 定住生活を営んでいた。
b 女性土偶によって表徴されるように、母系制社会であった。
c 栽培植物としては、先ず栗をその対象として択ぶことができクルミ、トチも多少は管理したとも考えられる。
d その他副食物として、蔬菜類その他を狭い菜園で耕作していた可能性は充分である。
e 農耕具については、これまでもしばしは論じられたが、すべて石器であって、最も大切な木製品・竹製品については、低湿地遺跡の調査が低調であるため、殆ど全く手がついていない現状である。しかし実は質的にも、量的にも大切なのは木竹製品である。土器の大部分も収穫物を保存するための農器具である。

 5 以上の諸点を論拠として、新石器時代に属する日本の縄文文化時代は、自然経済に依存するものではなく、農耕経済社会であったと解して差支えないのではないか。そうすればよく世界史のつじつまにも合致するのである。

 この様な結論を導き出すために、そのことを証明するためには
第一に栽培植物が何であったかを明らかにする必要があり、
第二にその社会の定住性に関連して、できれば畑の遺跡を見る。
第三に遺物の大部分が農耕具であることを実証し、
最後に、社会機構が耕作を生産手段とした農業社会であったことを、要約表徴するようなものがないかどうかを、探してみる必要がある。

 第一の栽培植物について。稲の栽培は弥生式時代から始まったが、麦・稗・粟・蕎麦も近頃の主たる澱粉性食物源である。しかし後者が石器時代遺跡から大量に出た例はなく、実は相当高度の農耕技術をもってしないと、日本の自然風土には少し寒すぎる。これらを自然に近い状態で栽培するなら、むしろ北海道以北が適するであろう。それよりも石器時代低湿地遺跡の悉くから出ている栗が重視される。栗は関東以北が最適地で、植物生態学上栗帯と呼ばれる地域に該当する。栽培種でない山栗・柴栗等も、手をかければ中以下の大きさになる。石器時代の悉くは中大のもので、明らかに栽培種である。栗は三年すれば例え一個でも結実するし、下草を刈り施肥し毛虫の被害から護るように管理すれば、少なくとも十年間は多産維持ができる。おそらく石器時代の遺跡の周辺は栗畑に囲まれていたであろう。

 栗と同地帯に、橡・胡桃がある。シイも重要だが、栗より幾分暖い地方の植物で、九州瀬戸内方面の早期の大遺跡では、大切な食料源であったらしい。栗の栽培は、中期縄文時代の寒冷期になって盛んになったろう。

 栗帯の下ばえの中に蕨の根がある。また日本の山野にはヨメナ・セリ・タンポポ・イタドリ・ヤマゴボウ等、全部食えるものがありゲンノショウコ・トリカブト等の薬用植物もあり、ナツメ、アケビ・ヤマブドウ・モモ・ウメ・カキのごとき漿果、あるいはそれに近い果物がある。椿・麻から池や衣調の繊維が得られ、モチのきの皮でモチを作り、ムクのきの実は洗材となる。後期縄文の余山貝塚から、瓜・麻が採集され、埼玉県真福寺低湿地遺跡から、瓜、瓢箪、トウナス・小豆・稗等の種子が発見された。

 こう考えると、栗畑以外にも、前栽目的な農耕があったと肯定せねばならぬ。日本は世界に稀な酸性土壌の分布を見、耕作にはまず灰を補給する必要があったと思う。埼玉県黒谷貝塚の一住居地付近で発見された大きな数個の灰の堆積等は、この肥料用灰ともみられる。貝塚の貝層の間にも、厚い灰の堆積が見られるし、千葉県の「そのう」貝塚等の細かく打ち砕いた貝塚層も、石器人が畑に敷くためにしたかも知れぬ。畑地の発見はないが、東京都小豆沢貝塚の一地点で、うねらしく起伏したローム面を掘ったことがある。

 しかしかかる澱粉食料や、蔬菜やそれに近いもの、ワサビ・ショウガ・サンショウの如き香辛料や甘味・酸味・塩等の調味料もあり、その他動物食料にもこと欠かなかったとすれば、石器時代人の食膳も、相当賑やかであったろう。

 第二の定住性については、縄文石器時代の集落は一種の泉集落で、自然湧水の直側にある。それも多くの遺跡では遺物が包含され、貝塚を伴う遺跡では、厚い貝層が普通である。竪穴遺跡が多いことは、本邦集落の定着性を最も有力に物語る。土器も下層に少量あるのから次第に数量を増し、文様も漸変する。

 見塚には人骨が埋葬され、墓地だったことも示される。各集落にはその属する領域があり、種族同盟が成立し、かかる地域性を基礎に各集落の定着性が成立していたろう。最近次第に明らかになりつゝある文化圏のごときものは、かかる過去の遺制を示唆するだろう。

 第三の農耕用具については、これまでも農耕存在の証拠に取り上げられた石製農具類は、耕どう用の有肩石斧と、調理用の石棒・石皿等である。環状貝斧や環状石斧やアカニシのごとき巻貝に棒をつけた農具、鹿の肩胛骨を利用した耕具の発見の可能性がある。しかし、木の棒の尖端を尖らせ広くしただけでも、充分楽に土は掘り起こせる。この外播種・除草・収穫の農具もあるわけである。

 余り気のつかない層も、多少とも前栽園があれば、完全でなくとも相当厳密に定まっていたろう。竹の杖のようなもので草の根を掘りとったであろう。火田法にあわせて灰も播いたろうし、粟でも根もとに堆肥等を入れたりしたであろう。収穫は大した問題でなく、むしろ容器が大問題である。篭・網・土器が様々に使われた。

 土器の大部分は農産物に関する容器で、宝物や衣類入れにも転用された。真福寺貝塚の火災にあった一住居址の壁体は、大がかりな竹製の編み物で、同じ低湿地から漆塗のかごの器物が発見され、同じく木製耳栓も発見された。貯蔵には土器の外、アンペラ等を敷いた小竪穴に入れたであろう。澱粉製の食糧に関連して、アルコール製飲料は、木製品の外、注口土器等が使われたであろう。この外椀・鉢・皿・膳等の食器類は、当然木・竹製品が常識で、土器は火にかけるためにのみ必要であったといえる。

 第四の母系制については、火田法の播種から、収穫後の貯蔵・管理・調理までが、大体女性の手で行われるのが農耕の世界的通則で、容器を作る仕事の大部分も、女子の仕事で、このころの機織具は不明であるが、衣類の編織・縫仕事・調理と洗濯・出産と育児・火の管理まで、石器時代は多忙であったろう。かかる母系制社会を端的に一挙に表徴するのが土偶である。土偶は早期からあり、以後非常に殖えてくるが、大部分は女性を表わす。着衣を原則とするらしいが写実的な乳房を付し、妊娠や結髪の状を示したのもある。土偶は女性の生殖力・繁殖力・豊作を象徴する祭祀の要具らしく、世界原始農耕社会に共通する遺物で、農産物の豊饒を祈るのにも関係がある。母系制社会の一表徴とされる。かかる遺物をも含めて、他の諸事象と共に、日本の縄文社会が、農耕経済段階にあったことをいいたいのである。