第三章 滝沢村と安倍氏

第一節 安倍氏

下厨川 厨川付近図

 厨訓の柵のたたかいについて陸奥話記によれば、厨川の柵は「西北に大沢(だいたく)をひかえ二面に河をへだて、その河岸は三丈あまり」ということになっている。厨川の柵の西は滝沢村の大釜、東は安倍舘にいたる十三町あまりである。その当時、今の雫石川を厨川(組矢川から)と呼んでいたが、この川は今よりずっと北方を流れ、天昌寺の南を通って夕顔瀬橋のあたりで北上川に流れこんでいた。従って厨川の柵は、この厨川の北岸に沿うて築かれ、その中心が天昌寺にあったと考えられる。源頼義・義家・清原武則らの官軍は康平五年(1062年)九月十五日に厨川にせまる。柵には高いやぐらが築かれ、広い空堀の底には刃がさかさに植えられ、官軍の渡ってくるのを防いだ。義家は太田に陣をとってその夜をすごし十六日の朝柵に攻めかかった。しかし、貞任の軍は堀の向いに婦女子をして踊りをおどらしめやぐらの上から弓矢を射かけ、また石や熱湯をあびせかけて防いだ。その日は数百人の損害を出す。十七日も朝からはげしい戦いであったが、午後二時になり西南の風が吹き出してきた。これをみた義家は枯葉をかり集めて山のように積み上げ、柵の西南の方から火をかけた。はげしい西南風のため火はたちまち柵に燃えうつる。さすがの貞任の軍もこの火攻めのために混乱し、そのすきに厨川を渡った官軍は柵にせめかかる。貞任らは東方の嫗戸柵にこもって最後の戦いを続けたが、総攻撃によって討たれ、弟の宗任・家任・正任・重任・則任は降参する。貞任の子十三歳になる千世の童子は殺され、妹むこの藤原経清はとりこになって殺される。これを前九年の役とよんでいる。

 安倍氏は夷族の長だけではなく、一族に僧侶がある位であったから、仏教文化と両々相俟った郡司として辺境在地勢力をもっていた。このことは、義家が「衣の舘はほころびにけり」の下の句に対して、貞任は即座に「年を経し糸の乱れの苦しさに」と上の句を返し、敗戦後掃われて京に上った宗任が、梅の花を侮蔑的に示されたとき「我国の梅の花とは見たれ共、おうみや人は何と云らん」とこれも即座に和歌の応答。このように教養のあったことを物語っている。玉山村・北上市・水沢等の仏像は安倍時代のものといわれているから、一族は仏教にも通じておったと思われる。

 安倍氏の柵が焼かれたことは、中心部落の破壊ばかりでなく、一般の民家も相当破壊されたことであろう。

第二節 安倍氏と本村に残る地名

藤原光貞の陣営を夜襲する安倍貞任

 安倍氏によって本村に残された地名を大別すれば二つになる。その一つはほぼ南西から北東に連らなり、他の一つはほぼ東西に続いている。前者は概ね大坊直活氏によるが、後者は沢村一豊氏の口述によるものである。これらのことから前九年の役は、点の移動の戦争ではなくして、平面的な戦争であったのではないだろうか。

一 南西から北東に連らなる地名

〇高舘(大釜)
 白山にあって、別名大釜館・八幡館ともいい、宗任の居館であったとか。

〇千が窪(大釜)
 前九年の役に安倍貞任は、鶴脛・比与鳥の二柵から追われ、厨川柵を最後にくいとめようとする。その一支隊伏兵一千をこの地に備えて敵の攻守に当らしめる。激戦するも遂に撃破られ、ここを支えることが出来なくなる。千人の伏兵が潜伏した窪から千ガ窪となる。

〇釜口(大釜)
 前九年の役に八幡太郎義家は、安倍貞任を追撃して厨川柵に迫るや、対岸は水嵩が多いので、方八丁を西に雫石川を渡って迂回し(一説には繋温泉に宿泊)、この地に陣営を構えて兵站部を設け、陣釜を据えて兵馬の糧食を供給した所である。傍に八幡大明神を祀り、また陣釜を据えること三日間、遂に康平五年(1062年)九月十七日厨川城が落ちたという。爾来釜口明神と称し、さらに転じて大釜となる。今なおその釜場から当時燃料に供した炭塊を掘り出すことがあるという。

〇高波気(大釜)
 大釜の細屋の高台にある。この高波気は、前九年の役に当り、義家が館とした処とか。また吾妻鏡に厨川の波気に傔仗次之が住み、工藤小次郎が訪問しているから、岩手郡の中心地であったろうか。

〇参郷の森(篠木)
 前九年の役において、安倍貞任等厨川柵に討滅するや、貞任の女逃げてきてこの森による。折柄その身臨月、やがてここで出産をする。その名を之に因んで産後の森といい、その後転じて、参郷の森と称するようになる。

〇鎧(鵜飼)
 村役場から盛岡に出る街道の左側に「ヨロイ」と称する処がある。そこはやや低地で、芦類おびただしく繁茂し、鵜等群棲しておったという。源義家が安倍勢征伐中、休息の折、甲冑を一時物にかけてから、その名が出たという。後世、そこに小祠を建て敬意を払っていたが、田村将軍が兜をかけた兜神山に合祀し、その鎧の小社のあった個所を水田にも畑にも耕さず、明治の始めまで盆栽のような枝振りのよい小作りの松が二本あって不浄を戒めておった。昭和三十八年土地改良区による耕地整理によって姿を消すことになる。

〇旗曳谷地(滝沢)
 土沢と平蔵沢との間の湿地を旗曳谷地という。これは前九年の役に源氏の支隊がこの湿地を乗馬のまゝ横断しようとしたが、馬の脚が湿地に深くはまり込み、旗の末端を引摺ったところから旗曳谷地というようになる。この付近の小高い処を旗曳山(狐洞山)といっている。

〇木戸口(滝沢)
 旗曳谷地の下流に古い沼がある。この谷地と沼との間に長い柵をつくりここで敵の進退を抑制し、一カ所を木戸口にした。

〇松屋敷(滝沢)
 安倍貞任は牙城を厨川柵におき、その副城をここに定めて、正妻及び多数の妾、その他多数の子女や奴僕を居らしめ、一朝事に備えていた。八幡太郎源義家は八幡森(黄金馬場)に陣を進め、真向に牙城を攻落する計画を装い、兵力を集中し不意に陣を転じて副城を奪取したが、この時一女(貞任の妹)衆におくれ姥屋敷に逃げ落ちたという。この女は彼の有名な姥で、その子孫は永く一家をなすという。

二 東西に連らなる地名

 前九年の役で源氏は夕顔瀬の橋をどうしても抜くことが出来ず苦戦をしていた。源義家が不幸にも安倍貞任の捕虜となり、北上川の西側(蛇の島の対岸)の崖下に作られた牢屋に入れられた。このとき義家に食事を運んだのが貞任の娘であった。娘が降る度に、崖端にある松の木に手をかけて降りていった。以来その松を“手掛の松”と呼び今も現存している。

 娘は都の美男子義家にすっかり魅せられ、義家にきかれるままに夕顔瀬の守りを教えたのである。夕顔瀬を破るには寒い日の朝早い戦に限る。息の出るのは人で、出ていないのは夕顔に鎧を着せたのであると教える。その上、また会うことを約束して義家を逃してやる。義家は教えられた通り、払暁戦によってなんなく夕顔瀬を突破することが出来た。以来この瀬を夕顔瀬と名づけ、ここにかけられた橋を“夕顔瀬橋”というようになる。

前九年の戦い(絵巻より)

 貞任はこれを知り大いに怒り、一番悪いのはこれだといって娘の陰部を切りとり、安倍館の堀に投げ捨てゝ殺したという。その後、この堀の中から尻の切れたような短い「たにし」の“尻無し貝”が出るようになり、娘の化身だといわれたが、今日では市営住宅が建ち並び堀の後は少し位しか残っていないし、貝は見当らない。

 さて夕顔瀬を破られた貞任は、大いに奮戦し矢が尽きたので、葦の矢を放つ。その後堀端からは“片羽のよし”といい片側にだけ葉のあるよしが出るようになったといわれている。これも大正年代までで今日は見当らない。

 戦況不利となった貞任は、西方さして逃げ、今の青山陸運事務所付近通称狐坂の低い所に白米を一面にまき散らした。時あたかも秋月明光の夜、義家の軍勢は大きな川と思いこみ進軍を中止、翌朝見れば白米であった。以来この辺一帯を“米が沢”と呼ぶようになり、今でも鵜飼の人達はそうよんでいる。

 さらに貞任は諸葛川で奮戦し、夜になって上流耳取付近から川に大量の籾殻を一杯流す。昔の諸葛川は鬼越方面・沼森方面の小河川と、木賊川が合流し、かなり大きな川だったことは今でもわかる。義家の軍勢が籾殻によって川がわからず、ざんぶざんぶと川に飛び込み、溺死する者数百に及んだという。はい上がるところを貞任軍は小高い笹の茂っている森よりねらいうちして義家軍を苦しめた。このときから籾葛川と呼ばれたが、何時の間にか“諸葛川”に変り小高い森は笹森と呼ばれるようになり、今も鵜飼字“笹森”となっている。

 敗れた貞任は西方の谷地をさして逃げ走りつゞけた。やゝあって少し小高い場所に、一本の大きな松の木があったので、その枝に“鎧”をかけて休み、都の者共はこの谷地だけは渡れまいと安心して休んでいた。一方の義家軍、谷地に足がめり込んでどうしても進めない。その中の一人の武士は、うまいことに案づき、細い木で輪を作。足の下にはいている。義家はこれを見て良いことに案づいたと喜び、以来これを案付と呼んだが、何時のまにか雪の上を歩くのに都合がよいので“カン付き”と呼び方が変ったといわれる。貞任はまさかと思っていたのにへんな輪をはいた軍勢に急に押しかけられ、鎧をとるひまもなく松の枝にかけたまゝで逃げのびる。これよりこの付近を松の木または鎧の松とよび、下鵜飼工藤与太郎氏宅北側に、明治の初年ころまで松の根が残っていたといわれる。小高いその場所は昭和三十八年の耕地整理で平になり今日その跡かたもない。

 さて貞任はいかにこの土地になれていたとはいえ、同じ谷地を走るのであるから、案付をはいた義家にとうとう森に入る一歩手前で追いつかれ、左足を切り落された。それが化石となり、今でも“安倍足”といって足首より下の草鞋ばきの化石が工藤正憲氏宅北側に残っている。

 片足を切られたさすがの豪勇貞任は、手をついて這い上がった坂は今の“手這坂”であり、坂の中腹にある沢で胴を切られて最期をとげたといわれている。これが今の“胴が沢”である。

 “姥屋敷”についての一説に、安倍一族の牙城がおちたとき、貞任の異母妹が従者を具して姥屋敷に落ち延びる。これがかの有名な安達姥で、その子孫は永く伝わり一家をなしたが、天明の凶作のとき一族餓死して今日は子孫伝わらずという。

 以上のように現存している地名は、大釜から滝沢に至る広範囲にわたっているが、ことの真意はともかく地名が残るほど関係が深かったことを意味している。前九年の役の戦中本村においては三日間の短期間であったが、戦いが激しかったので住民の多くは肉親を失い、田畑が荒らされ、人の心がすさんだことは事実であったにちがいない。