第五章 維新の混乱期

第一節 盛岡藩の農兵組織

 慶応四年(1868年)正月、鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰の役は、奥羽に波及し、遂に奥羽北越三十余藩よりなる白石同盟の結成を促すに至り、戦禍を招来し、各藩は軍備を整え、攻防に備えるに急であった。

 南部藩においても事態に対処し、急速に戦時体制を整える必要に迫られ、藩士族卒の動員以外に、庶民をも動員調練し、不時の用意に備えたのであった。

 徴用兵には、山伏より編成されたもの、マタギにより編成されたもの、農民により編成されたもの等雑多な編成が行われたが、その任務は皆一であった。

 次に例示する農兵組織は当時の時局を反映する一資料であって、戦闘要員は武士階級のみで充当するという往年の慣行が改められている。

 当時の農兵は、もちろん、後方勤務要員であって、直接戦闘に参加するいわゆる兵士ではないが、敵方の来襲等に際しては、防戦に当る任務を課され、その訓練をも受けている。雫石通人口約一万人ばかりの地域から約四百人が徴兵され、一個大隊が編成されている。

 これら農兵等に徴兵令が下されたのは慶長四年七月であって、時あたかも南部藩が奥羽同盟側に態度を決し、軍事行動を起して、秋田佐竹藩に対して攻撃に移ろうとしている重大な瀬戸際であった。農兵隊編成には、次のごとく沙汰している。

 此度御軍用ニ付キ農兵組立御沙汰書帳
   慶長四年辰ノ七月
     演説 当今非常ノ形勢ニ付キ農兵組立候条。別紙軍ノ趣堅ク相守リ、戦争ノ場ニ臨ミ候ハバ身命ヲ惜マズ相働キ、数百年ノ御国恩ニ報イ奉ルべキ事。
 但シ、戦争ノ上討死ノ者ハ、某子孫御取リ立ニ相成リ候様申シ立べク候。其外抜群ノ功名手柄コレアル者ハ、相当ノ御賞方申シ立べク候間、安心イタシ相働キ申スべキ事。
     七月

 すなわち、非常の際につき、農兵隊の編成を行うが、軍令を守り身命を惜まず働き、国恩に報ずること、戦死の者、軍功の者には相応の取立恩賞を与えるというもので、下記軍令には、次のごとく規定している。但し、これは雫石通代官所直轄内の徴兵例で、他通りにあったかどうか不明である。雫石通りは国見峠を越えて秋田に通ずる要路に当り、防禦の備えも最も厳重であったものと思われる。その要旨は、

一、農兵は猟師並びに十六歳以上四十歳までの身体強健な者を選び一大隊とすること。
  但し、橋場村は境界要地につき、あえて年齢を論じないこと。

一、五人をもって一伍とし、八伍四十人を一小隊、十小隊四百人を一大隊とする。一伍には小組頭一人、一小隊には組頭二人、一大隊には隊長一人、軍監一人その他役司等を置くこと。
  但し、隊長は代官、軍監は御物書、組頭は肝入・名主、小組頭は伍中才覚ある者を選び申付ける。その他役司は古人与力等から申付けること。

一、軍様式は古来よりの式法、また近年改革の法則もあるが、急場に教練しても容易に熟練し難いは当然であるから、安政年度制定に基づき、先ず鼓・貝・鐘の三令をもって、隊伍の進退を差図すること。
  近日範野において調練を行うについて、各自道具を持ち参集すること。

一、出張の節は、一人に付き玄米八合、銭三百八十文の手当を支給するについて熱心に訓練を受けること。

一、道具は、鉄砲・槍・長刀あるいは鹿槍・長柄の槍・鳶嘴(とびぐち)等の類各自所有の品を持参すること。尤も所持しない者には貸与するものであること。
  但し、近日調練の際に道具を持たぬ者は、仮に棒・竹槍の類を持参すること。

一、鉄砲は要器であるが、非常時局なるについて、農兵共に貸与する。猶予がつくまで猟師達はもちろん、調度可能な者は各自新調するように心掛けること。

一、毎月三度あて一小隊毎に申し合せ、鉄砲の稽古をすること。わけて冬から春にかけて農閑期は随時に稽古すること。
  但し、指南の者は追々派遣するが、それまでは身近の猟師に就いて指南を受けること。

一、今日の形勢は、すでに切迫し瞬時も油断し難い場合に当面した。これにより雫石村は臨済寺境内、長山村は岩井花・稲荷山・西海枝森堂山三ヵ所、西根村は石仏・堀切裾二ヵ所、上野村は松峯坂、御明神村は大坂、繋村は館市館、安庭村は稲荷山、何れも展望の良い処に高楼を建て、合図場を定めておいて、胡桃皮あるいは桐木で螺貝をこしらえておき、二人交替に昼夜番人をおくべし。万一急変があり、注進に接したならば、一人は螺貝をもって四方に合図を行ない、一人は指揮所に駈付注進すること。
  但し、高楼建設には苫長木などの類有合せの品を用い、特別に経費をかけないこと。

一、合図あり次第、各自道具を持参の上屯所に集合し、組頭が隊伍を改め、隊長・軍監の指揮を待つこと。
  但し、各村の屯所は下の通り。
     雫石村・長山村・西根村     高前田野
     上野村・御明神村        越中畑
     繋村・安庭村          籬野
     橋場村             村はずれ
  上の通り、定置するから、合図次第迅速に集合すること。

一、太鼓を打鳴した場合は進撃すべきものと心得、緩急に応じ隊伍を整えて進み、敵に近付きさま討入すべし。また鐘を聞いたときは退くものと心得、たとえ戦争最中であっても速やかに退き、隊伍を乱さず、次の命令を待つこと。
  但し、鬨声(ときごえ)その他の合図は調練の節に教示する。鎧・太鼓等は当分の間寺院より借用、あるいは神楽太鼓胡桃皮の具等を用いること。

一、戦場に臨んでは、自己の功名を焦らず、一伍一隊互に助け、勝利の心掛に専心すること。

一、合印(あいじるし)はかねてのとおり、麻・木綿の内、長さ三寸五分、巾二寸五分にして黒の二つ引竜をつけること。なお今度仰せ出された黄木綿は地所に持参し、隊長の指図次第、胴手足に一様に結びつけること。
  但し、合言葉は、夜討等の際、隊長から指示される筈であるが、問答に馴れ、かつ急変のある夜分の集合の際の心得として、先ず仮に虎かと問われたら、翼と答えること。

一、現下の形勢故、何時変事が発生するか予測し難いから、軍服並びに戦道具はもちろん、草鞋・松明・糧食等に至るまで常に用意し、合図次第、迅速に出陣する覚悟をすること。
  但し、何時出陣するとも、携帯食糧は用意しておき、松明は夜中出陣の際でも灯さず持参し、隊長の指揮を待つこと。

一、合図に誤ることがあるから、子供達螺貝を弄ぶことを禁ずること。
  但し、修験にて法螺を吹くことも、この場合止めることにする。

 以上により、当時の農兵に対して、鉄砲・槍・長刀・鹿槍・長柄鎌・鳶ぐちの類を携帯させる趣旨よりすれば、農兵の性格が後年の特科隊に属すべき性質を具備している。

 この不幸なる奥羽戊辰の役は、明治元年(1868年)十月に至って鎮定をみたが、十二月には同盟軍として官軍に桔抗した諸藩は、領地の没収または削減、あるいは転封等の処罰を受けたのであった。

第二節 戊辰の役と本村

 戊辰の役における南部藩の急激な戦時体制は、いわゆる本職としている武士のみならず、マタギ・農民までも駆立るほどであったから、雫石通のごとき徴兵令が厨川通りにも令かれたかどうかは、資料がないので何ともいえないが、大釜の善四郎どに残る次のごとき文書によれば、会津征伐に軍用手伝をなし八石七斗五合の御免地となっている。雫石通りの東隣りに位置する厨川通りが平穏であるはずはない。少なくとも雫石通りに準じた徴兵令に近い布告が出されたことが想像される。このことは旧家に鎧・兜を始め、槍や長刀の類が、大正の末期まで残っていたことによっても推察される。

 厨川通
一、八石七斗五合            大釜村 善四郎

 慶応四年(1868)八月七日会津御征伐応援として御出兵之節軍用御手伝活用相勤め候ニ付き御免地下しおかる