第一章 滝沢村の戸数と氏を中心とする村落構造

 本村の東はやゝ平地で、西は山地になっており、南から北に大釜・篠木・大沢・鵜飼・滝沢の五大字が並立している。

 宝暦十一年(1761年)九月二十八日付の盛岡城事務日記の宗門改惣人数中に、厨川通り御村方旧家左の通りとして、大釜四軒、篠木二軒、大沢九軒、鵜飼七軒、元村七軒、〆めて二十九軒となっている。この二十九軒は、上代の田村麻呂時代なのか、安倍氏時代なのか、それとも、中世なのかは明瞭にされていない。この二十九軒のころは、自然とたたかいながら、自然の動植物を食料としておったものであろう。第二十八世南部重直が、慶安二年(1649年)十一月二十日長坂山に鹿狩りをした際、鹿四百十七頭、狐五頭、猪十三頭、約一カ月後の十二月十三日には、楢木沢から、なんと一千六百二十頭もの鹿と狼五頭、兎二匹、狐二匹をとり、承応二年(1653年)十月十日には松屋敷において鹿百八十九頭、寛文六年(1666年)正月二十日には同じ松屋敷で八百二頭に狼一頭、寛文十年十月八日には若殿様(行信)が湯舟沢において鹿一頭鉄砲で打ちとっている位であるから、狩猟時代において、生命を繋ぐのに事欠かなかった。後、田村麻呂以降、森林を伐採し、焼畑を作り、焼畑から開田されるのであるが、それは、太田から大釜・篠木・大沢と北進をしていくのである。しかし、近世の末期までは稗・粟を主とする雑穀畑地生産を主体としていた。

 いい伝えによれば、篠木の斉藤家は、昭和の初めに三十七代で、田村麻呂に従ってきた家来といわれていて、本村の最古と思われる。田村麻呂が延暦二十三年(804年)に征夷大将軍に任ぜられて、胆沢城から志和城まで来たが、そのとき武蔵・上総・下総・常陸・上野の関東から約三万人位移住している。大釜の斉藤家や、篠木の工藤、大沢の佐々木・三上・佐治ェ門家は、太田・仙台から移住して来たといい伝えられているから、志和から太田を経て定住したのではないだろうか。

 平泉の藤原時代には、山伏の子孫といわれる大沢の藤倉家や半在家と、佐藤家・熊谷家はこの時代の来村といわれ、斯波氏時代の大釜氏を慕って来住したといわれる山口県周防の国の産土井尻氏は、南部藩以前と思われるし、南部藩時代には、武田家・井上家・大沢の下屋敷の斉藤家・大宮家があげられる。その外、角掛家と駿河家は江刺より、田沼家は野田より、主浜・中村両家は加賀より、大沢の割田は京都より、日向(ひなた)は日向(ひゅうが)よりとなっている。

 南部氏が三戸より南下して、不来方城に移るや、開田が急に奨励され、綾織越前広信の掘った越前堰の利用はもちろんであるが、幕府に献上する三鳥捕獲のために、村内各地に堤を作ることと相まって、急激に増加をするのである。

 本村に関係のある大坊直治氏の調査による当時の南部藩の名のある士族は、鵜飼・上田・上領・亀ヶ森・七戸・杉田・大坊・照井・戸田内・長牛・野辺地・橋本・牧田・村木・本宿・山崎等の各氏である。これら士族の殆どは大坊氏のみを残して現存していないが、同道した家が残っていたことが予想される。その外に沖田家と長岡氏も士族であるといわれている。

 徳川家康は江戸に中央政権を樹立したが、全国大名を統御する必要から思想の統一が必要であった。そこで日本古来の神道・仏教・儒教以外のものを排除する方針を示した。キリシタン禁止が幕府の方針でますます強化され、寛永十一年(1634年)には、外国往来も禁止になり、キリスト教信者が改宗を強請されるに至った。南部藩でも西教禁止を強化し、寛政十二年には、その信者の調査書が出来あがっている。西教禁止が厳格になって、その宗徒でない証明として多くの庶民は仏門に登録し、その寺院の檀徒たる証明をうけるようになった。しかし一方では新寺院の創建を押えてこれを規制しているが、戸口調査と寺院とはこうして不可分的なものとなっていた。

 慶安四年(1651年)切支丹禁止に基づく領内の戸口を全面的に調査した結果、戸数三万八千七百四十七軒、人員二十九万二千二十八人であったという。これによると一戸当りの人員は七人五分と算出される。

 盛岡藩の戸口調査は、全領地の検地が終了して、三十三区の地方行政区が決定し、諸制度が完備した結果行われたものである。五人組を単位とし、村肝入の責任者として調査されている。村単位の戸口調査は残存していないが、代官宛に提出され、藩庁で集計していたものであろう。戸口調査は毎年秋に行われ、十月中か十一月中に幕府に提出するを例としていた。

 寛政年度(1789-1801年)の戸数について『南部叢書』五の“邦内郷村志”巻二に次の様に記している。


  大釜村    九二軒  内訳  大釜八〇、日向三、仁佐瀬二、沼袋七
  篠木村    六四軒  〃   篠木六二、外山二
  大沢村    五八軒  〃   大沢五八
  鵜飼村    七一軒  内訳  鵜飼六四、姥屋敷六、鬼古里一
  滝沢村   一一四軒  〃   角掛一四、楢木沢五、松屋敷三、巣子一、
                  野沢一、芳野木沢四、大崎一、湯舟沢七、
                  土沢六、平蔵沢九、黒ヶ沢一、元村四一、
                  耳取六、牧野一、一王子三、大石渡七、
                  柳沢四
       計 三九九軒

 寛政九年(1797年)には、大釜村九十四戸、篠木村六十四戸、大沢村五十八戸、鵜飼村七十一戸、滝沢村百十四戸、計四百一戸である。

 藩制時代には、武士と町人の人口は増加しているが、百姓をば生かさず殺さずで、かくすことの出来ない年貢は、必ず納入しなければならなかった。その上、明家以外には分家が出来ず、いきおい間引をしなければならなかった。間引については『第四編、第一章、第十七節三、産児制限』で述べることとする。さらに、五人組を単位とする納税は家庭の事情如何を問わず完納せねばならなかったので、他家への迷惑を考慮し、大家族が多かった。大坊直治氏の調査によれば、大正の初期でさえ、元村の庄右ェ門どは、大家族で、五夫婦二十二人であったという。とにかく藩政時代の人口は四百戸内外であったであろう。

 盛岡県の石高は十三万石、その郷村数は四部で百六十二村、戸口調査の事務については、明治二年(1869年)四月まで寺社奉行扱いで、旧例の切支丹宗門帳様式でやり、これは戸口調査の最後であろう。従って戸口調査の関連事務は完全に寺院から分離したことになる。

 人の名前はそれぞれの符牒に過ぎないようなものであるが、それのみでなく、人間相互を区別し、社会においてその人の人格をはっきり浮き上がらせる意味をも持っている。従って、卑屈な人は、名前を明らかにしたがらないし、逆に野心家は名前を売りこむのである。この露骨なのが選挙である。

 社会的に活躍しなかった一般庶民の明治以前は、どごそれどの何番目のオズとか、どごそれどのアネ等といわれ、社会的に活動するようになって、男子は、太郎兵衛・滝右ェ門・新左ェ門・松之助・三助・作十郎・清之亟のようになっているが、女子にはトラとかカネとかマンとかの名前はあったが家庭内だけであって、公の場にはその名前を露わさなかった。元村のキリシタン改帳には六右ェ門女房とか、亀蔵女房となっていて、名前がない。遠く平安時代にさかのぼると、女流作家で有名な紫式部・清少納言といういい方は知られているが、その人個人の名前は出ていない。中世になって、社会的・政治的に重要な地位にあった北条政子のような女傑ははっきり現われているが、一般の名前を明瞭にする必要がないということは、このことからも知られる。

 明治二年十月には、従来百姓の名前で、国名や官職名を名乗っている者は、早々に改正すべきことを告示された。従って、例えば今まで越後・土佐・加賀・兵庫・丹波・出雲等と国名を名乗っていたものや、何兵衛・何左衛門・何太夫・何輔・何助・何介・何之亟・何之進等と官職名を名乗っていたものは、すべて名前を変えなければならなくなったわけで、大いに錯綜混乱を生じたのであった。

 この改名は、たとえ拝領して襲名していた者でも適用されることになり、改名したならば、組頭を通して名主のもとに届けることであった。

 何兵衛・何右ェ門・何助・何之進等は、当時の人名ではごくありふれたものであったから、恐らく当時の人名の三分の一位は改名させられたのではなかろうか。

    演説
  国名、官名其儘相用い候向は勿論
    何兵衛・何左衛門・何右衛門・何太夫・何輔・何助・何介・何佐・何之亟・何之進
  等の名相用い居り候者、相改め申すべき事
    但し拝領名共相改め申すべきこと
      十月十四日
  上の通り仰せ出され候間、名改め成され、其段組頭を以て名主所へ御屈成さるべく候。以上
      巳十月二十日            名主所
      組頭中          (御明神黒沢文書)

 結局、人間は個人的に生きることのみではなく、反面社会的にも能動的に生きねばならない両面を備えているから、自己自身の名前をもって自分が両面を両立させるように生きることではないだろうか。

 藩政時代の前期ごろまでは、人が生れてもあえて届けることを要せず、たゞ死亡したときにのみ自己の菩提寺に埋葬する関係上、寺まで届出をなしたようである。しかもこれが内墓に葬る場合にはその手続さえも完全に行われていなかったらしい。だから当時の人口動静は極めて曖味なもので、後年戸口改め等が行われたが、それにしてもすこぶる不完全なものであったに違いない。しかし、藩政時代の中期以降になると、出生と共に氏神へ参じて氏子となり、氏子札を貰い、且つ死亡の際はこれを寺まで届出でることが稍励行されているようである。この氏子札は、一方において今日の戸籍登録の意味を有すると共に、他方で邪宗門に対する信仰抑圧の一手段である役目の方がむしろ大きかった。

 盛岡県では、明治三年八月十三日、庁内の事務機構を改めて八懸(かか)りとし、その中に戸籍係りがあって、戸籍事務を扱っている。

 明治三年九月十九日太政官から「自今平民苗字、差し許され候事」という布告がでて、平民でも苗字を称することが公認され、戸籍等の調査と相まって、その後は必ず氏を持たねばならなくなった。旧藩政時代には、武士以外は、特に藩主から苗字を称することを許されたもの以外は、氏を称することが出来なかったから、苗字を許可されたことは、一般庶民にとっては大きな喜びであった。後同八年二月十三日には必ず苗字を称することとなる。

 盛岡県においては太政官布達に基づき、明治四年二月三日、従前穢多(えた)非人として一般農商より排斥されていたこれらの人々を、平民の民籍へ操入ることを布告している。とかく明治時代「新平民間題」として社会を賑わした新平民の語もここに発している。

 それまで穢多非人は、一定の耕地や所有地がなく、その職業も一般から忌避されるようなものに出働したりして生計を保っていたが、平民編入と共に、その生活も向上するようになった。

 明治四年四月四日、政府は先進地の例にならって戸籍法三十三則を規定し、これを公布したので、漸く戸籍編成の基本が確立をした。その規定によって行政区の中に、戸籍を調査する区画を設定し、区ごとに家の軒数・人員・性別・生死・出入が調べられることになった。そのため、戸籍区に戸籍調査の責任者として戸長が任命され、戸長は毎年十一月調査を完了して県庁に報告、県庁では管内戸口の実情を集計して政府に報告するものであった。この戸籍台帳は、世に壬申(じんしん)戸籍と称せられ、近代最古の戸籍台帳となっている。

 明治四年十月二十三日になって、県では県内を三十九の戸籍区に区分し戸長と祠官をおき、郷村の戸口調査をその区ごとに取りまとめる責任者として発令されたものである。従って祠官や祠掌と同時に発令になっている。これは神社整理に伴って、郷杜・村社を決定し祠官・祠掌が発令され、その祠官と祠掌が、その氏子区域の氏子帳を調整する責任者とされた。この氏子帳は、戸長のもとでは戸籍帳であり、戸長の所管区域は戸口調査の一区域であった。

 明治五年五月五日、政府から「従来、通称名乗両様相用い来り候輩自今一名たる可き事」と布告された。昔は綾織前広信のように、名前が越前と広信の二つを使用し、篠木の三右ェ門どには、三太郎三右ェ門、三右ェ門市郎兵衛、理惣治三右ェ門等があった。

 明治の戸籍には華族・士族・平民の三種別が採用された。明治七年八月、華族並びに士族が分家する場合は平民籍に編入されることとなった。同時に分家に家禄を分割することも禁止になった。従って士族の家禄の最低単位たる一戸分は細分することがなく、士族戸数に増減がないのが原則となった。新しく戸籍台帳の整備されたのは明治五年であるが、それには士族を別扱いした様子がない。しかし明治十二年以後は、戸口統計に士族は別扱いとして登記されている。明治五年の壬申戸籍簿の次に明治十一年に戸籍台帳が整備されたから、このときから士族の戸口が特に登録されたものであろう。

 政府は明治九年八月、太政官布告第百八号をもって金禄公債を発行し、士族給与最後の処分を行なった。このときの士族約四十万戸に対して、総額一億七千三十六万一千九百余円であったという。この士族公債を取得する資格を有するものは、いわゆる士族であり、士族公債とは、免職手当と解してよろしかろう。士族とは武士家族のことであり、武士とは本来軍士のことであるが、明治政府は従来の武士を解放して徴兵制度を採用し、徴兵をもって軍人としたので、従来の軍士である士分が解職になったのである。

 とにかく国民全体が氏を称することができたこと、多様の名乗りを一つに限ると改めたこと、帯刀を禁じて四民を平等にしたこと、士族や官吏に対し途中の土下座を廃止したこと、土地の所有を一般に公認したこと、このようなことは旧藩時代にはないことであった。

 これらのことは国民に階級差を除き、四民平等の具体的なこととして、まことに画期的なものであった。

 後年になると、郷村の行政にも、地区の人民の参与の途が開け、村会議員を選挙するようになり、後には都会、県会、国会の各種議員を選出するようになる。人権の拡張でもあり、自由平等への進展過程の一つの表れである。

 明治四年(1871年)のいわゆる壬申戸籍調の通達が下の通り、出されている。

 四月十二日今般戸数人員点検として、来る十四日、卯中刻より廻村致し候条、先般仰せ出され候書上と、現在の人員并に氏子札(人口札)と突き合せ検査致すべく候間、戸毎に家族相纏め居り申すべく候。尤も寄留旅行の者届これあり候えば、其節別して相断り申すべく、其外他行の者行先にて病気罷り成り、或は介抱看病等にて罷り越し又は奉公雇人抔の内病気にて帰宅相成り難き者もこれあり候はば、其事柄証書を以て申し出候はば、右にて検査致し候。且又其日に当り、至急公私の事務にて他行の者は是又旨趣申すべく候。勿論当日夜に入り候ても其日限りの分は検査致し候間、各伍中へ洩らさざる様通達致すべく候事。

 この時大釜村は一〇九戸で、男 三四三人、女 三一四人
    篠木村は 六五戸で、〃 二二六人、〃 一一七人
    大沢村は 七五戸で、〃 二五二人、〃 二五一人
    鵜飼村は 九五戸で、〃 三二五人、〃 三〇九人
    滝沢村は一八九戸で、〃 六三九人、〃 六一四人
 これらの合計が五三三戸で、〃一七八五人、〃一七〇五人
                     計三四九〇人となり、戸数が百戸以上も増加したことは、藩政時代の重圧から開放された農家は、分家をして戸数が増加したものであろう。

 明治六年、郷社岩手山神社に属する現在の本村分の氏子(戸数)は、
   大釜の八幡宮に属するのは二〇四戸
   篠木の田村神社  〃   六五〃
   大沢の熊野神社  〃   七五〃
   鵜飼の駒形神社  〃   九七〃
   滝沢の角掛神社  〃   一七〃
              計六一九戸となっている。

 大正九年には、七二七戸(明治初期に比較して二百戸増加し)
                 人口は 五、〇五五人
 同十四年には、八三七戸で、    〃  五、一四五人
 昭和五年には、八五五戸で、    〃  五、六二〇人
 同十年には、八七五戸で、     〃  六、〇三六人
 同十五年には、八九五戸で、    〃  六、一六五人
 同二十二年には、一、四三九戸で、 〃  七、九〇六人
 同四十年には、二、一五三戸で、  〃 一一、八七一人
 同四十四年には、三、一二六戸で、 〃 一二、四六一人
となって年々増加をしている。但し、これらは全村の世帯数と人口であって、農家戸数と同人口ではないのである。

 昭和三十一年二月一日付の農業基本調査表によれば、
農家戸数             一、二三〇戸あり、
その中明治以前からの営農家は     三九四戸
明治年代は              二九五戸
大正年代は               六二戸
終戦前は                六一戸
終戦後は               四一八戸

 昭和三十三年の村勢要覧に開拓戸数、五四五戸となっているから他町村からの入植者を除いた農家戸数は一千戸内外であったろう。

 嵯峨天皇の勅撰による、弘仁六年(815年)に成る『新撰姓氏録』中、本村の同姓氏は、橘(立花)、高橋、竹田(武田)、石川、吉田、菅原、中村、大田(太田)となっている。この姓は現在の姓と同一でないにしても、すでに本村に居住していたことが立証される。

 昭和三十二年十一月三十日現在で、村内の姓を調査した結果は次の通りである。

   大釜三八三戸武田八六戸、田沼六〇戸、斉藤四六戸、勝田三四戸、大宮二四戸、竹鼻二三戸、吉清水二一戸、日向一九戸・土井尻一五戸、工藤一三戸、柳・菊地各五戸、伊藤・沖田・西村各四戸、阿部・長岡・藤沢各三戸、及川・小川・主浜・松岡は各二戸で、赤沢・蛯名・上村・金沢・川口・田村・谷藤・高橋・似烏・畠山・藤野・藤崎・藤原は各一戸である。

   篠木二五三戸主浜七五戸、斉藤六七戸・武田四三戸、中村一五戸、日向一三戸、工藤九戸、藤原六戸、長峯五戸、野々田・馬場各三戸、佐々木・佐藤・谷口・田沼は各二戸で、勝田・菊地・木村・高藤・福田・高田は各一戸である。

   大沢二二七戸斉藤五五戸、沢村四一戸、藤倉二四戸、大坪二三戸、堰合二二戸、三上二一戸、佐藤一一戸、高田八戸、佐々木七戸、工藤六戸、梅村四戸、沢目・月居は各二戸、西村は一戸である。

   鵜飼三二四戸三上五〇戸、高橋三四戸、石川・西村各二五戸、藤村二一戸、佐々木一八戸、長内一五戸、斉藤一四戸、大森・沢村各九戸、佐藤八戸大川七戸、大坪六戸、赤石・牛抱は各四戸、上田・阿部・木村・木幡・陸・土井・野村・藤倉・一条は各三戸、朝賀・泉山・梅村・小山・太田・菊田・工藤・桜井・沢・主浜・堰合・鈴木・中村・宮林・村山は各二戸、林・岡村・大井・鎌田・垣内・栃内・下長・白石・瀬田・関・布川・平賀・本田・星川・増子・森屋・簗場・矢羽々は各一戸宛である。

   滝沢八四五戸角掛一二八戸、井上一一九戸、熊谷六五戸、大野四〇戸、駿河三七戸、関村三五戸、柳村・大森各三四戸、上野一九戸、高橋一七戸へ斉藤・中村各一六戸、工藤一五戸、松村一一戸、佐々木・伊藤各一〇戸、藤田・吉田は九戸宛、太田八戸、佐藤七戸、赤松六戸、下田・瀬田・武田・石川・小山田・千葉・畠山・山本は各五戸、伊藤・加藤・武蔵は四戸宛、鈴木・堰合・岩部・石亀・一戸・遠藤・大坪・長川・釜沢・館沢・武藤・三上は各三戸、坂本・杉田・荒川・岩井・上杉・太田代・菊地・木村・久保田・立花・大坊・竹内・出口・栃沢・長岡・中田・野村・藤沢・藤原・宮野・三田村・村野・吉谷地・米沢・大坂谷・国分は各二戸宛、和山・横江・米内・吉川・山瀬・女鹿・村松・村井・皆川・三浦・松館・堀合・古川・藤岡・深田・箱崎・橋本・中野・富岡・寺島・武村・竹村・桜・笹森・昆野・今野・小向・黒沼・串原・金崎・川浜・神小路・上平・川村・勝山・貝山・門目・大内・乙部・生内・小笠原・長部・大沢・榎本・梅村・生方・飯泉・岩崎・今川・池田・阿部・青木・荒屋・谷藤・袖林・管原・柴田・新谷・笹原・沢村各一戸となっている。

 滝沢村の同姓十軒以上は下の通りになる。

 斉藤一九八戸、武田一三四戸、角掛一二八戸、井上一一九戸、主浜七七戸、三上七四戸、熊谷六五戸、田沼六二戸、高橋五一戸、沢村五〇戸、工藤四五戸、大森四三戸、大野四〇戸、佐々木・駿河各三七戸、関村三五戸、柳村三四戸、中村三三戸、大坪三二戸、石川・西村各三〇戸、佐藤二八戸、堰合・藤倉各二七戸、勝田二五戸、大宮二四戸、竹鼻二三戸、日向二二、藤村・吉清水各二二戸、上野一九戸、土井尻・長内各一五戸、松村一一戸、伊東一〇戸。

 以上の同族は、全村戸数二〇三二戸の約八〇%に当る。

 昭和四十四年十二月一日現在、行政連絡員の調査による村内の姓は下の通りである。

   小岩井八七戸斉藤一一戸、主浜六戸、工藤五戸、佐々木四戸、上村・小川・高橋・武田・畑中・吉清水は各二戸、青木・浅沼・伊藤・岩井花・蛯名・大宮・小笠原・岡田・小田島・小野寺・折居・勝田・一仁・川崎・木村・小池・小瀬川・讃枝・沢瀬・柴田・高畑・滝沢・田子・谷藤・田沼・田村・千田・土沢・徳田・中道・沼田・羽上・橋野・早坂・日向・藤崎・藤野・藤沢・細川・正木・松原・松本・三上・三河・村松・谷地・山崎・山平・米沢は各一戸。

   大釜二二四戸武田五五戸、田沼二七戸、斉藤二二戸、勝田一六戸、大官一五戸、竹鼻一三戸、土井尻一一戸、工藤一〇戸、日向・吉清水各八戸、菊地・佐々木・松岡は各三戸、阿部・佐藤・長岡・仁佐瀬・西村は各二戸、赤石・伊藤・石川・沖田・小野寺・生内・川口・菊地・熊谷・高橋・竹花・中村・畠山・深持・星・前沢・三上・柳・横屋・脇田は各一戸宛。

   篠木一三八戸主浜三七戸、斉藤三〇戸、武田二五戸、中村一〇戸、工藤・日向各五戸、佐藤・長峯各三戸、佐々木・高橋・野々田各二戸、阿部・内村・加藤・金沢・川村・木村・近藤・高田・高藤・田沼・馬場・福田・藤原・船越・吉清水は各一戸宛。

   大沢一三〇戸斉藤二七戸、沢村一七戸、藤倉・三上各一五戸、堰合一三戸、大坪一二戸、佐藤九戸、高田・佐々木各六戸、沢目・工藤各二戸、梅村・遠藤・大川・小笠原・西村・藤原は各一戸宛。

   鵜飼二〇四戸三上三四戸、西村一八戸・工藤一六戸、高橋一五戸、藤村一四戸、佐藤九戸、大坪八戸、斉藤七戸、大森・長内・沢村各六戸、大川・佐々木・藤倉は各五戸、牛抱三戸、赤石・沢口・中村・陸各二戸、一戸は阿部・石川・伊東・梅村・遠藤・大信田・太田・大宮・小山田・欠畑・金矢・金田・鎌田・橘内・木村・熊谷・木幡・小松崎・金光寺・沢藤・下長・下田・管原・堰合・関村・瀬田・高杉・武田・田中・千田・西川・日下・福士・星川・松館・松本・村山・矢幅・山火になっている。

   姥屋敷八二戸石川一一戸、佐々木九戸、三上五戸、佐藤四戸、鈴木三戸、高橋・須藤・宮林・小林・土井・安孫子・滝沢各二戸、一戸は圷・鎌田・庄司・木田・本田・斉藤・柴田・増子・伊藤・高瀬・根本・朝賀・若松・橋本・大塚・渡辺・小関・秋場・布川・武田・名須川・佐々間・酒井・小野寺・畑村・横田・山本・畠山・安部・藤倉・関・白石・平賀・大井・小山・管原になっている。

   元村三四七戸井上七二戸、太野二八戸、大森二一戸、駿河二〇戸、佐々木一一戸佐藤・斉藤各一〇戸、高橋・加藤各九戸、小山田・中村・関村各六戸、三上・熊谷各五戸、下田・鈴木各四戸、阿部・千葉・村上・菊地・小野寺各三戸、釜沢・舘沢・古沢・石川・川村・及川・長山・太田・谷藤・吉田・国分・山下・下山・竹井・古川各二戸、斉田・庭・荒川・菅原・梅木・土屋・小森・木内・松館・横田・寺島・細田・四戸・木村・岩部・谷地・山田・杉村・山館・小野・朝賀・耕野・小笠原・堰合・武蔵・武田・水上・榎本・乙供内・菊田・宮野・大坊・塚原・岩根・沢村・滝川・幅上・田中・川崎・藤村・村井・館・長内・岩崎・皆方・田中館・伊藤・小林・南川・山内・尾張・工藤・宇佐美・黒沼・岩間・大谷地・桜井・平沢各一戸。

   一本木一六七戸角掛八二戸、松村五戸、千葉・武村・各四戸、畠山・藤原・伊東各三戸、柳村・伊藤・大坪・吉川・遠藤各二戸、以下各一戸の昆野・田村・三田村・井上・田代・桑原・岩泉・鎌田・中村・石井・八重樫・熊谷・高橋・荒屋・工藤・石川・下井・加山・野崎・兼沢・丸山・竹内・阿部・上杉・吉田・鈴木・野村・山田・武田・梅村・箱崎・勝山・細田・桜・関・太野・岩井・落安・橋本・小山・伊壷・長川・横井・中島・飯泉・佐々木・大沢・岩崎・木村・君成田・田鎖・藤沢・御方。

   自衛隊一一五戸佐藤一一戸、佐々木一〇戸、出口六戸、角掛五戸、小笠原・伊藤各四戸・工藤・開口・鈴木・田中・菊地・遠藤・畠山各三戸、阿部・小野寺・宮沢・千葉・菅原各二戸、以下各一戸宛沼田・馬場・石山・川守田・高平・立花・池尾・及川・猪俣・野中・村上・坂本・野原・萩原・平野・前田・二本松・広瀬・金野・今野・小山・那須・太田・石原・石戸谷・稲葉・沼山・相楽・大崎・小浜・近藤・斉藤・高橋・塚本・戸田・細川・船木・吉田・横田・木村・島崎・藤原・千田・金。

   柳沢一三二戸佐々木一五戸、上野一一戸、井上一〇戸、中村八戸、山本四戸、工藤・佐藤・高橋・畠山・松村各三戸、浅水・太田・菊地・串原・斉藤・柴田,高田・舘沢・角掛・日影・東平・藤本・三浦・中田各二戸、青木・有馬・石川・泉舘・梅村・大上・大島・小原・欠畑・角野・鎌倉・川辺・川村・久保田・熊谷・桑原・坂本・桜井・沢村・渋田・下平・須賀・鈴木・堰添・武井・竹内・竹村・中島・畑・原・府金・藤間・藤田・松本・三田村・中沢・山上・山崎・山瀬・横田・若松、以上は各一戸である。

   川前五〇四戸熊谷三九戸、柳村二七戸、関村二四戸、高橋二一戸、佐々木一八戸伊藤一三戸、斉藤一二戸、佐藤一一戸、工藤・千葉・吉田各九戸、菊地八戸、阿部・鈴木各七戸、小野寺・中村・畠山各六戸、瀬田・菅原・武田・小林各五戸、岩崎・石亀・堀江・角掛・米内・柴田・太野・乙部・立花各四戸、赤松・三上・一戸・瀬川・藤村・岡本・平野・井上・桜・福田・武藤各三戸、伊香・伊東・上野・及川・太田・川崎・菊池・館・栃沢・平野・古屋敷・藤田・藤沢・三浦・村井・女鹿・山崎・山田・山本・吉谷地・大村・村野各二戸、秋本・合川・赤石・赤沢・荒井・安保・石倉・今川・石川・岩渕・梅津・梅内・上野・遠藤・小棹・小野・大坂谷・大鹿糠・大森・大内・大沢・大山・小山田・長部・小原・大矢・小川・角田・加藤・桂・貝山・片岡・上平・川原・金崎・掛川・賀東・川本・川村・鹿島・木下・久保・久保田・鍬形・小向・小針・小坂・小石・近藤・小西・小泉・駒ヶ峯・小森・坂本・笹原・笹平・柵山・下川・渋谷・下川原・白沢・七戸・治田・杉田・末永・外久保・丹野・谷口・竹田・多田・田上・竹内・滝沢・高野・茶畑・茶屋場・網木・土方・塚沢・豊田・栃内・戸館・時館・中畑・中田・中山・西村・新田・野月平・野中・野村・畠山・林・畑・八田・林野・幅・橋本・八屋・畑中・平田・日野・日野沢・広内・樋口・藤倉・古川・藤岡・本堂・細田・堀合・掘間・星・保坂・曲谷地・真山・松坂・三原・南野・三浦・皆川・村上・向井・村山・村田・山口・山沢・八幡・柳谷・八橋・八重樫・山下、横浜、横井、米島、横浜、和山、渡辺、渡部各一戸。

 以上、同姓十軒以上を列記すれば下の通りである。

 斉藤一一九戸、井上八五戸、角掛八二戸、武田八〇戸、佐々木五八戸、佐藤五一戸、三上・工藤各四九戸、熊谷三九戸、主浜三七戸高橋三六戸、大野二八戸、柳村・田沼各二七戸、関村一五戸、駿河二〇戸、中村・西村各一八戸、沢村一七戸、勝田二〇戸、大宮・藤倉各一五戸、藤村一四戸、堰合・竹鼻・日向各一三戸、大坪一二戸上野・土井尻・大森・石川各一一戸、吉清水一〇戸。

 以上の同姓は、全村戸数二一三〇戸の約五〇%に当る。

 昭和三十二年の姓の数と、同四十四年のそれとの比較に当って、前者を上位、後者を下位に示せば次の通りである。

 斉藤一九八戸-一一九戸、武田一三四戸-八〇戸、角掛一二八戸-八二戸、井上一一九戸-八五戸、主浜七四戸-四九戸、熊谷六五戸-三九戸、田沼六二戸-二七戸、高橋五一戸-三六戸、沢村五〇戸-一七戸、工藤四五戸-四九戸、大森四三戸-一一戸、太野四〇戸-二八戸、佐々木三七戸-五八戸、駿河三七戸-二〇戸、関村三五戸-二四戸、柳村三四戸-二七戸、中村三三戸-一八戸、大坪三二戸-一二戸、石川三〇戸-一一戸、西村三〇戸-一八戸、佐藤二八戸-五一戸、堰合二七戸-一三戸、藤倉二七戸-一五戸、勝田二五戸-一六戸、大宮二四戸-一五戸、竹鼻二三戸-一三戸、日向二二戸-一三戸、藤村二二戸-一四戸、吉清水二一戸-一〇戸、上野一九戸-一一戸、土井尻一五戸-一一戸、長内一五戸-六戸、松村一一戸-八戸、伊東一〇戸-五戸となっており、増加したのは佐々木、佐藤、工藤のみであって、殆どは減少している。

 昭和三十二年の全戸数と同姓の割合は八〇%であったが、おおよそ十年間に五七%に減少している。この減少は将来益々激しくなるものと予想するのである。前者と後者の全村戸数は約二千戸であるから、他町村からの転入が増加したことを意味している。

 本村の産業就業人口構成は昭和三十年ごろまで約九割を占めていた農業が、第二次第三次産業業がのびて、同三十五年には約六割に減り、同四十年には五割をわり、年を追うて減少している。しかし、同三十年より同四十年までの十ヵ年間の農家戸数は一千三百五十戸内外で、激減していないことを同四十三年の村勢要覧が示している。

 以上、本章は、戸数と氏を中心として述べたのである。