第一章 信仰

 信仰について、森博士は次のごとく述べている。

 古い信仰感覚には言葉がないので、今となっては最も訳りにくいものの一つとなってしまったが、人々の間に共通な普遍的な考え方が起らなかった以前には、人々は皆個々ばらばらで、共同して大きな仕事などは出来なかったであろう。人々が相協力し、外敵を防ぎ大きな仕事をし、生活を発展させるようになったのは、人々の魂を結び付ける信仰の宗教が起ったからである。此の意味で、人間は歴史を作り始めたのはキリスト教とか、回教とか仏教のような宗教が説かれ、共通な考え方で個々の魂を結び付けるようになったからである。だから、人間の歴史はキリスト教とか、仏教などの発生と同時である。我国なども神道の発生と歴史の始まりと同じである。そこへ仏教が入って来ると、共通の考え方に変化が起り、歴史も亦変って来る。

 我国に仏教が入って来たのは、五五二年の欽明天皇の御宇である。仏教が入って来てから六百七十年間は、主として上流の貴族階級にだけ行われていた。これが一般の民衆の信仰となったのは法然・親鸞・日蓮・道元が新宗教を創始してからである。それまでの民家の信仰は所謂神道であった。

 平安朝時代には神道と仏教が混淆して所謂本地垂迹説が行われたが、民衆はむしろ純粋な神道を信じていた。村に氏神を祀り、これを共同神として信仰していた。

 人々は何か異状なこと、事件がある時はその前に「兆(ちょう)」即ち前兆があると信じていた。この前兆によって事前に凶事を知った時は、これを祓うために「卜(うらない)」をし「まじない」をしてこれを克服したのである。その「まじない」がきいて凶事が起らないと「験(きざし)」があったとし、この「験」が継続的に現れるとこれが信仰となっていった。この信仰が単に一人一人だけでなく、多数の人々に行われ、組織化してくると宗教となり、専門の人がこれを行うようになると神主とか「いたこ」とか、職業的な霊媒者が生れた。だから神主とか「いたこ」は多く祈祷師的性格を持っていた。

 これ等の前兆的信仰は直接現在の生活・生産と結びついていたから根強い指導性をもち、生活観、処世観に大きな支配力をもっていた。そしてこの信仰は実際的効果はあったが、それはあくまでも現実的なものであった。然し深い人間苦の問題になると救い得ない問題が多かった。然も時代的には文治的貴族専制社会から武治的武士専制社会に移った転換期において、民衆は非常に苦悩していた。そして自力本願を主とした上から下への貴族的高山仏教では民衆は救われなかった。

 そこへ法然・親鸞の新宗教が起って下から上への他力本願によって民衆の苦悩を救おうとした。貴族的仏教は貴族の没落と共に高踏的な山を下りて民衆の中に入ったのである。

 親鸞は真宗の開祖であり、その高弟の是信房は布教のため奥州に下り、庶民の信仰として発足した。当時奥州は頼朝による征討で虚脱状態になり、民衆のこの虚脱を宗教のみが救うものであると他力本願を説いた。

 (本村の真宗の開基と関連して考えられるものに隠し念仏がある。これら真宗が民衆の間に猛烈に伝播し、信仰されていったのは第一に一般大衆の生活に即したものであったからである。)

 武士社会の繁栄と共にそれに布教したのは禅宗である。禅宗は武家の精神に適合したため次第に隆盛となった。黒石村の正法寺開基無底良紹禅師は本県における最初の禅宗である。禅宗は実践主義であり、生活観、人生観の根底として新しい信仰として当時の人々の心を把えた。

 盛岡には古来から神教・仏教・儒教の外近世のキリスト教が広く庶民に根ざし、これらの宗教は何千年の歴史を持ち昇華され真理を持っている。

 信教の自由は憲法が示している通り、基本的人権に根ざすものであって、心に信仰をいだくべきであるが、ここに正しい判断力を必要とする。ところが苦しいときの神頼みで、迷信に落入りやすい、迷信とは原因と結果に関係がないのにもかかわらず、これがあるかのように信ずることである。神仏を祈ることによって病気がなおるということはそこに何の因果関係も認められない。神仏の教えに従って善をつめば正しい一生をおくることが出来て、天国や極楽に安住することになるという健全な宗教とはおのずから相違している。

 キリスト教信者は毎週日曜日に一家揃って教会に集り、聖書をよみ礼拝をしている。ところが一年一回の神社の祭典・寺院のお盆は形式的で日常生活から全くかけ離れている。

 本来宗教は己の過ぎ去った行動を反省して、新たなる心の入替えをし、己を離れ進んで世に役立つためであったはずだ。

 ともかく、信仰はあくまで個人の心にあるもので、一人で暖め育て、これが共通普遍化し、一人一人が結びつけられるものであると思われる。

 なお、第四編第一章と、第二章の各第一節の信仰を参照せられたい。