第一章 村の公認

 律令時代の行政上の単位は「郷」または「里」であったが、荘園制時代になると、庄、荘、名、保、村等が加わって雑多な性格をもっていた。郷、里は戸数本位で、原則としては五十戸をもって一郷、または一里とした。だから五十戸以上に増加し、増加分が五十戸以上になれば分郷して、新郷を建てる立前であるが、独立の郷をたてるほどの戸数、すなわち五十戸に満たない場合は全戸として本郷の支配下におかれた。

 ところが荘園制度における、庄、名、保は荘園領主、開発名主の規模によって、五十戸の場合もあれば三十戸の場合もあり、荘園を構成する戸数に関係がなかった。しかもその土地は私有で一代限り、従って死亡すれば国に返還し、永世相続すべき性質のものではなかった。だから村の構成も違っていた。

 また、律令的土地でも長い間に変って私有地化し、その徴税を他人に頼み、請負地にしたり、和与をして所有権を切半したり、色々複雑な土地所有になったから、一つの方針で農民を政治することは容易ではなかった。ことに困ったのは度量衡がてんでばらばらであったから一つの村・郷の中でもその使う度量衡で税収が異なり、農民に対して不公平となった。高野山などでは多数の荘園の使用する度量衡がまちまちなので、高野山所有の横桝で計り直したという。それは戦国動乱期において戦争に勝って勢力を増大した大名ほどその量計の多様なのに驚いている。

 織田や豊臣のように最も早く大領主になったものが、併呑する土地が多くなればなるほど、量衡の多様なのに驚き、それ故に度量衡の統一、検地の統一を行う必要が出来、太閤検地の主張される一因となった。

 太閤が占領地を拡大するにつれて、六尺三寸平方を一坪とし、三百坪を一反とする検地を強行し、反対する者は「なで切り」にすると宣言し、断固として統一的検地を実施したことは有名であるが、これによって秀吉は自領の土地生産力を明らかにし、税収を確保し、その徴収に対する不公平をなくすることによって民衆と支配者との間の無用の紛争を清算することができたのである。

 しかし六尺三寸平方を一坪とし、三百坪を一反とし、一反歩から一石二斗を中田とする生産力は何処から割出されたものであるかは問題である。おそらく尾張地方の天正ころの標準生産力であろうが、それで全国的生産力を算出するとすれば東北地方のように水稲生産のおくれている地方、気象勢力の弱い地方ではこれは大変な税法だということになる。だからこれに反対すれば「なで切り」にするといわれても反対せざるを得ないのである。

 太閤検地は全国を同じゲージで測定し、政治効果を一様にするために、従来の村落制度も「村」というもので単一化し、律令的村落、荘園的村落の差を撤廃して「近世的村」とし、行政の単位とした。村の構成は一応聚落の連担を目安とし、一切の土地を何れかの村に属せしめ、村に属しない土地のないように、村と村とを接続せしめ、村を通じて政治すれば、一切の政治は徹底するように組織された。

 従って従来村と村との間に何れの村にも属さない山野があり、ここに堺なく入会いし、放牧したり、草を刈ったり、燃料をとったりしていた。いわゆる入会地も、何れかの村に編入されることとなり、一切の政治は村を通じて行われることとなった。

 村は本百姓をもって構成され、内者・名子・譜代・水呑・扶持喰・添人は隷属百姓として、村の表構成員ではなかった。村の役員は肝入・老名・組頭とし、村の本百姓をもって五人組組織をとり、五戸~十戸の組合から組頭を互選し、その組頭を重立と称し、これによって老名・肝入を選出した。老名は今の助役に相当し、肝入は村長に該当する。この選出を「目論見」といい、この「目論見」を入札、すなわち選挙によって行われた場合もあった。

 明治二十二年の市町村選挙を入札と称しているのは旧藩時代からの遺風である。村の重立によって選出された肝入は、代官の認可によって初めて認命されるもので、目論見は候補者選出の考え方であった。これに町方のある所では外に検断をおき、有力者を任命する風があった。

 村は自ら村掟(おきて)を定め、自ら村内の軽犯罪に対する処分権を認められていた。検断はその宿駅の治安を司り、他国人でも処分し得る権限をもっていた。

 村民個人は訴訟権限を認められず、訴訟はすべて村の名で行い、肝入の奥書を必要とした。税も個人ではなく、村に一括賦課され、それを土地経営規模を基礎として按分比例して賦課された。従ってもし誰かゞ耕作しなかったり、逃亡したり、未納すれば、村民全体がそのものの未納を負担しなければならなかったから、五人組を単位に相互救済に当たり、お互いに監視し、協力しなければならなかった。

 支配階級は村民を強く支配するために、村民を個々に支配しないで、村の中に村民を封じこめ、村を支配することによって村民を支配するという、間接支配を巧に行なった。村に自主的な立法権を認め、軽警察権を認め、村八分の制裁権を認め、本百姓に村を組織させ、村八分権をもって、村民個々の自由な行動を封じ込めたのである。村の制裁権は村民の財産を没収して村で管理し、村民に勝手な行動を認めないようにしていた。村民を村の範疇からはみ出さないように村自身に監督させたのである。ここでは村は個人の生活の安定のためというよりは、村の安定のために、藩の安定のために、個人の勝手な自由を制約するための組織となっていた。それは村民の生産の中心が水稲であるということから一層効果的なものとなった。