第一章 わが国の学校

 『いわて教学物語』に次のように述べている。

 一般にわが国の学校は、大化改新(646年)に始まるといわれている。その教育制度は隣邦大陸の唐から取り入れたが、これは国家形態を整えるための一環として、その支柱となる官吏の養成が目的だった。大宝元年(701年)の大宝律令や養老二年(728年)の養老律令などが制定されるに伴い発展していった。この律令時代の教育は平安末期までである。中央に大学を、地方の国府所在地に国学をそれぞれ置き、教育対象は貴族の子弟に限定された。

 しかし律令制をささえていた経済的基盤の班田制が崩壊すると、政府財源の減少から学校も衰退するほかなかった。班田制から荘園制に移って寺院勢力が擡頭、貴族は武家政治の圧迫に抗しかねて没落し、寺院だけが中世文化の「にない手」として残った。寺院教育の始まりである。寺院はそのもの平等思想から対象も貴族・武士・庶民のいかんを問わず、宗教的な人間修練の場となった。ただその内容は、いぜん、隣邦大陸の宋・元からの受け売りが多かった。

 荘園制が武家階級に侵され崩壊すると、武家が新たに教育の「にない手」と変わり封建制の確立とその維持の手段とした。近世の「藩学」がこれで、武家自らが藩士の子弟を教育する機関であった。一方、貨幣経済の発達に伴う町人階級の擡頭で、その子弟教育機関として“寺子屋”も生まれた。藩学と寺子屋の二本立てゞある。しかし藩学は漢籍を中心とした理論的な教育や武技を主としたのに対し、寺子屋は国学を中心にそれぞれの郷土に即した実用的な教育をほどこしたため、藩学はしだいにすたれ、逆に寺子屋は城下町から農村へと普及、民衆のなかから多くの自覚分子を出すようになった。その普及成長は、近代学校への素地をきずきあげるに充分だった。

 武家の封建制が崩壊し明治政府が登場、急激に欧米の諸制度を取り入れると寺子屋は近代的学校へ脱皮していった。明治五年の新学制がこれで、教育は初めて全国的に組放化され系統づけられた。藩学、とくに寺子屋にみられた地域性・個別性は全く失われ、いわゆる画一教育への転移である。更に資本主義経済の発展は、ますます欧米の影響を受けるようになり、隣邦中国からの影響は、次第に薄れ、逆に中国の教育に近代化を刺激する側に回った。

 明治五年の“新学制”はフランスの中央集権的制度の翻訳移入だった。このためわが国の実情にそわず、同十二年にはアメリカの制度をいれた“教育令”を、さらに明治憲法制定を機に、同十九年にはドイツの国家主義的制度を加味した“学校令”をそれぞれ公布した。つづいて同二十三年の教育勅語はさらに筋金をいれた。その対象は国民全部に義務づけられ、年齢も青年から幼年にひろがり、とくに女子にその門戸を開放するようになったことは特記されよう。教育目的にしても立身主義を強調し富国強兵をはかる手段とされながら、その方法は子供の個性を尊重し、学習に興味と自由を与える建て前をとった。

 しかし、富国強兵策に結びついた国家主義的、画一的教育は、第二次大戦を契機として重視され、教育は転落のドロ沼に落ちこんでいった。こうして敗戦。世は民主主義謳歌時代を迎え、新憲法の制定公布とともに再びアメリカの教育制度を取り入れた。二十二年には教育基本法も公布され、人間形成の教育という本来の姿に立ち返るようになった。いうなれば模倣と強制の教育から独創と自主活動を重んずる教育へ、政治や宗教に奉仕した教育から人間形成、人づくり教育へ大きく転換し、今日を迎えた。いわば我国の教育は、世界史的な環境のなかで浮き沈みを繰り返しながら、近代化の方向へ流れ進んできたわけである。