第二章 滝沢村の主なる氏の考察と伝説

第一節 武田氏

一 大坊直治氏記録

 武田氏は山梨県甲斐の国細屋郷の人である。

 滝沢の儒者太田重裔、大釜の武田熊太郎両氏の談を総合して記せば、武田勝頼は天目山で最期を遂げたとき、一族の某は笈を負うて、我藩主南部侯を三戸城に訪問して事情を述べて救いを乞うた。

 我が藩主深く思いを致し、世は戦国時代なり、さなきだに安き心もなく、何時何所より敵が攻め寄するかも知らず、若し敗れ者を近付け、それが国に依て己が身に禍の及ぶあらんか、悔とも詮なし。加かず、遠く離しておいて間接に保護すべきにより、旧大釜氏の領地に暫らく寓居すべしと、敬遠主義をとりたれば、武田某は領きて、此地に来りしも世を忍ぶ身の永住の設備もあり、兼て僅かに苫を張りて仮の居所を定めたり。唯ここに気にかゝるは、所持の大金にて、之を失わば一大事なりしを虎の児の如く大切にし、決して夜外出せず、又夜中他人の訪問する者ありしも、明日を期してとて、之に応待することなかりしと、其苫屋の入口に愛子を分家し、朝な夕なに世話せし故、何時とはなしに苫口の屋号出たりと。

 細屋の前に、丹後万治二年(1659年)正月三日歿すを初代とし、二代上総は元禄十年(1697年)五月二日、三代も丹後にて宝永元年(1704年)八月十八日歿すの墓石がたっている。

二 武田彩吉氏記録

 天正年間甲斐の武田勝頼遠征の覇国を抱いて空しく天目山麓田頭に憤死するや遺族は守護神八幡大菩薩を奉じて当地に落ち来たれり。現武田家は即ちその後にして、もと甲斐国巨摩郡細谷の人、屋号を細屋と称する理はここにある。

 当地の八幡神社の御神体は、当家祖先の奉持せるもの。例祭にのみこの家から本社に奉遷して祭祀するの例なり。

 古老の談によれば、武田氏を名のる者五・六名南部家に従って三戸に住せしが、南部家盛岡に移住せしより、武田氏も亦盛岡地方に来れり。比の時、南部侯武田氏等を呼出し、各自の好める職につく様にとの命ありたれば、現大釜に住せる武田氏の祖先は、百姓にならんことを願い、許されて百姓になりしものなりと。

 又初め武田を名のるのは、殿様(武田侯)の姓と同じきをはゞかり、武島と名のりしと。然れども一度百姓にならんか、姓の必要なきを以て、一時姓なかりしも、明治維新に至り、再び武田を名のりしという。

 武田氏は、初め四菱の家紋を用いしが、之南部家も四菱なるを以てはゞかり、三菱とせしが、後、南部家向鶴の紋を用いるようになりてより、四菱を用いる事の可否を尋ねし処、元々四菱は武田氏のものなれば、使用さしつかえなしとの返事なれば、復四菱を用いしという。

 武田氏が甲斐の国より来りし事は、旧正月十五日の行事田植唄の中に次の句あり。一つほ植えれや、千ほとなる。甲斐の国の早稲のたねこそ(以下略)とある。

三 私見

武田家家系図(簡略)→

 甲斐源氏の一族である信玄の長子武田彦十郎忠直は、一族郎党を引連れ、南部家を頼って陸奥の三戸へ来、南部家の食客となる。第二十二世南部政康は、忠直に「永代締木戸御免」の家格を与えて庇護し、文亀二年(1502年)四月、彦十郎忠直を閉伊郡に派遣し、小国・江繋及び金沢村の一部を与えて治めさせる。忠直は小国に来るや、大円寺の衰廃を憂えて再興し、領民に仏教を奨め、開田奨励して産業を開発したので、仁君の誉れが高く、大円寺の再開基として崇敬されていた。大円寺の位牌に、大円院殿前官領仁君自通大居士大永七辛巳(かのえみ)星(1527年)四月二十三日陸奥守武田彦十郎忠直と、重徳院殿廓応了然大居士永禄十三甲戌(きのえいぬ)星(1570年)八月十三日武田佐馬之助直家と、泰厳達中居士天正十九年戌星(1591年)八月十三日上野守武田彦右ェ門直信とが安置されていると『川井村誌』が述べている。

 かくのごとく忠直と長男及び次男の位牌が大円寺にあるところから、天文二十二年(1552年)八日・弘治元年(1555年)七月・永禄四年(1561年)秋の川中島と、天正十年(1582年)三月織田信長に敗れ、勝頼親子が天目山に自刃した戦いにも参加しないことが予想される。

 一方斯波氏の家来で雫石御所の客座として来た綾織越前広信は、天正二年(1574年)より、同十三年(1585年)までの間に越前堰を掘ったであろうと、田中喜多美氏が「天正年中の越前堰考」で述べている。

 盛岡築城が慶長初年(1596年)であるから、南部氏がやがて南下して、不来方城に落着こうとする城下の近く、越前堰を中心にして厨川通りの南西に、水田の実権を握っておった斯波氏に属する綾織越前(1574年-1584年の間に越前堰を掘る)を、そのままにしておくはずはない。ここにおいて南部氏は、盛岡築城以前に、家臣忠直の三男丹後(1659年卒)を大釜に派遣して、越前を監視せしめたものであろう。

 この丹後の子孫が昭和四十年には、百三十軒もの分家が出現している。

 なお、第七編第一章第一節四の綾織越前を参照せられたい。

第二節 斉藤氏

一 別当様

 私の祖先は田村将軍の家臣斉藤五郎兼光と家人がいい、岩手山の別当を許されていた。明暦元年(1655年)、居宅自火にて焼け、伝来の宝物並に諸書残らず焼失し、明らかではないが、先祖より淡路守まで二十四代になっている。

 延宝元年(1673年)に神社神木書上を仰せつけられた時、承応三年(1654年)吉田家下称宜になっておったと書上げている。           篠木村柳沢別当 斉藤伊豆守 藤原正次

 篠木村柳沢称宜持地高拾壱石四斗五合御堂掃除のため、年貢の外諸役御免
           明暦四年(1658年)三月十八日
                      漆戸勘左ェ門  印
                      桜庭  兵助  印
                      毛馬内九左ェ門 印
                     柳沢称宜へ

 斉藤家は社家か山伏か明瞭ではないが、慶長十二年(1607年)四月十五日称宜であると、御代官様へもお目にかけている。よって伊豆守より代々社家に紛れないものである。後略。

 元禄元年(1688年)十月二十一日 篠木外七ヶ村老名連より

 猿田彦舞については秘伝なる懇望しきり、よって藤原正清に謹んで之を授与する。
   寛保三年(1743年)四月吉日       武江日吉山王神官 小川忠邑 印 斉藤淡路守殿

 萬治以前の裁許状は焼失している。

 萬治三年(1660年)八月二日 斉藤淡路守藤原政吉 風折烏帽子、狩衣。
 貞享四年(1687年)八月三日 斉藤伊豆守藤原正次
 享保三年(1718年)七月十八日 斉藤伊豆守 藤原正幸
 享保十六年十二月二日斉藤淡路守藤原正清、大勝寺と柳択一乱に付き、無調法にて揚屋人を仰せ付けられる。尤も五ヶ年中。
 宝暦九年(1759年)四月二十七日 斉藤伊豆守 藤原正宗
 寛政六年(1794年)斉藤出羽 藤原正重、守を願い出てしも許可にならず、後に日向少輔、十八神道吉田家より授けられるに方り居易仕る。
 文化九年(181年)八月十一日 斉藤出雲守 藤原政世
 文政九年(1826年)七月四日 斉藤伊織 刀差格 後に伊豆
 元文二年(1737年)六月より藩公に拝掲し来たっている。尤も元祖五郎兼光より私まで三十二代である。弘化二年(1845年)九月斉藤伊織
 弘化四年四月二十一日 斉藤出雲(守なし)藤原政利
 元治元年十一月二十七日 斉藤出雪次の名求馬、斉藤求馬次の名織人。
 大正十一年十一月 斉藤織人(現戸主)                (滝沢の大坊直治書記す)

二 下屋敷

 的場を設備し農業を営まず。弓矢、馬術の練習をなし、山へ狩りに出たる由、後世苗代より矢尻出ずる事によって立証される。

 南部氏に従って移住せるものにはあらず、それ以前に南方より来たれる落武者にして、五十石や百石ではなかったらしいと家人いう。

 石碑が享和(1801年)からであるが、寛政十年(1798年)寺に奉納せるものを見て、当時、隆盛であったことが想像される。

 南部氏の盛岡築城は慶長初年(1596年)であるから、下屋敷の斉藤家は南部氏以前ではなく、以後と推定される。

 家紋は、丸に三つ柏である。

三 小半在家(こはさぎ)

 小半在家は、半在家、山伏半在家法院鏡山自圓宮司(正徳二年=1712年)の分家である。

 家紋は丸に二つ引きである。

四 その他

 大釜の斉藤氏は太田、大沢の三次ェ門どは仙台からそれぞれ移住せしものなりという。

第三節 吉清水氏

 第二十九世南部重信は、度々遊猟に大釜へ見える。日向の入口の左折側に湧水がある。この清水を重信から「この水をもって、御膳水にあてる」との言があり、後、吉清水なる名を賜わる。世子行信もまた訪ねていることが古文書に見ゆ。

 土地の人は、この清水で眼を洗い、あるいは腹痛のとき、この水を飲み、神と崇め、鈴の緒を吊したほどである。

第四節 土井尻氏

 周防の国(山口県)の伯楽、江戸幕府の御厩動務中些細のことから浮浪者となり、旅稼ぎをしながら、この地大釜氏の元にたどりつく。ここは馬産地故、ここに旅の草鞋をぬぎ、伯楽を正業、農業を副としていた。その庭内に「薬師瑠璃光如来」と正面に刻み、左側に馬櫪大神と書いた供養塔が建立してある。また田圃中に墓碑があり、正面に「伯玉道養楽居士」の法名その左面下に周防新助とあるが、年月日の記入がない。この家の屋号を新助どという。

第五節 主浜氏

 南部氏と加賀氏とは親類の間柄で、南部氏入城後、石川県主浜(ぬしはま)より加賀の兄弟の一人、加賀介が移住したものであるという。

第六節 藤倉氏

 坂上の田村麻呂の従臣である篠木の斉藤家に伝わる安永二年(1773年)三月の伝授書によると、「右神楽は唯一神道斉藤家代々の秘流神楽謡舞箇条の大事、今、皆伝せしめ畢(おわ)んぬ」として、岩駕山正一位田村大明神神主斉藤淡路守藤原正吉から藤倉帯刀殿に伝授されている。また、分家に神道という屋号があり、家人の話によれば、先祖は大和であるという。分家の数等から推察すれば、南部氏が盛岡に築城後、大和の国から下って来た山伏であると推察されるが、同家は火災にあっているので文書がないから、実証することが出来ない。

第七節 牛抱氏

 鵜飼の迫に大谷地と称する家があって、姓は牛抱という。この家の人々は、体格人に勝れて偉大である。

 九戸郡の野田は、南部藩にとって重大な塩の供給地であったが、昔、塩を駄せる荷牛がある川に来たときに、洪水で渡渉が出来なかったが、そこに大谷地来合せ、荷のまゝの牛を一匹宛抱き上げて、川を越した。時の殿様、痛く感銘、牛抱なる姓を許されたと村人が言い伝えている。

第八節 牧田氏

 三百石の禄を食み、平蔵沢に居住する。二代目平馬は平蔵沢山に杉・桧を植えて造林し、鬼古里に堤を作り、開田し、牧田家中興の祖である。彼は能書家であり、画人でもあった。文化年中、蝦夷が島が、ロシヤに冒されたとき、藩命によって、函館の警備につき、当時の書及び絵が保存されてあるという。利済(としただ)の最も好む心眼流の剣術家で、藩主の師範役を勤め、数十名の門弟を持っていたという。

第九節 駿河氏

 延暦年中、江刺の大井郷・信濃郷・甲斐郷・橋野郷の四郷中、信濃郷に徳民駿河といえる者征東将軍に従って、胆沢城におったが、柘植進展に伴い、一門諸国に流散する。稗貫郡宮野村に十四・五軒、秋田県に七・八軒、駿河姓を名乗る家がある。土沢の駿河もその一族であろう。

第十節 大坊氏

 大坊氏が土沢に知行所を得たのは、牧田氏に後るること約二十年後の安永年中(1773-1781時)で、最初は六之亟の座敷に借宅し、後記念標のある屋敷に昭和三年まで居住する。土沢居住は百五十年間である。

   明和七年(1770年)三月二十一日 盛岡城事務日記  大坊嘉藤治・福島小十郎・坂牛甚兵衛此度江戸より引越ししたから、御蔵の御証文御勘定頭差出し、前三人へ相渡す事。

 大坊氏が知行所を藩主から頂いたのは、明和三年(1766年)で、牧田氏の寛保二年(1742年)より二十三年後であるが、寛政八年(1796年)四月平蔵沢溜池の築堤は牧田と相提携して施行をしている。このとき、第六代の牧田命助、新田肝入弥蔵、第八代大坊藤吉、新田肝入六之亟が関係をしている。大坊は元々常府で江戸にばかりいたのであるが、第七代嘉藤治のとき国元へ下り、御勘定所御物書、野田鉄山奉行を勤めている。第八代政森は、五戸御蔵奉行・福岡御蔵奉行を勤め、寛政三年(1791年)退役し、知行新田に在宅したのである。

第十一節 井上氏

 湯舟沢に堀向と称する家があり、甲斐より、また、一説には近江から移住したものであるという。この堀向において、例年の例により、大晦日に新たに調える門松に注連縄の片方のみを柱に結び、他方は地上に垂れ、夜明を待って結ぶ家風がある。これは『南部史要』にある建久二年(1191年)の遺例を伝えたものであると。

第十二節 角掛氏

 江刺郡神職及川亀寿氏をわずらわして、角掛の起原を質したところ、下の回答を得た。

 当郡に角掛村がある。

 一説に胆沢郡化粧坂掃部長老の妻が大蛇に変身し、年に一度乙女を食べようとする。貢の順番に当った松浦佐与姫は深窓に育って修養を積んだ甲斐があり、その信仰と経文とによって、大蛇の角が落ちたという。この角が飛んで来て、これが村内の木にかゝる。

 また、この地の館主に羽山四郎兵衛重勝といえる人鹿を愛し、常にこれを連れて林間を歩く。重勝が休めは、鹿もまた木の枝に角を掛けて休む。ここから角掛というようになる。

 また、文治年間葛西清重の臣、角掛三郎が羽山館に住み、近郷を領有しておったが葛西氏滅亡と共にこの館主も行方不明となる。あるいは一本木角掛家の祖先であるかも知れないと。

 なお角掛神社参照のこと。

第十三節 その他

 関東武士の一族といわれる工藤氏・佐々木氏があり、平泉の藤原時代と思われる佐藤氏・熊谷氏・高橋氏・石川氏があり、南部氏のころ移住した大宮氏があり、田沼氏は野田、三上氏は仙台、中村氏は加賀、割田の沢村氏は京都、日向氏は日向(ひゅうが)、大森氏は五戸と言われている。

 (以上氏の考察と伝説は、主として大坊直治氏の調査である)