第一章 近世の南部藩

第一節 農業

一 水稲生産

 近世の封建社会の経済的基礎は農業生産、ことに水稲生産力にあったといわれている。水稲生産力を社会生活の基礎にすることが出来たということは、日本の好運であった。それは今日でも代替することの出来ない最も経済的な栄養価の高い、おいしい食糧であった。それは縄文文化を一躍弥生式土器文化へ、そして今日の文化を確立する経済的基礎となったものである。

 人々は米食することによって、長時間の労働にたえ、極めて勤勉な国民となった。それはすばらしい文化を作るエネルギーとなったと同時に、また長い戦闘にもたえる力ともなった。人々はその効果を知り、如何なる悪条件を克服しても稲を作ろうと努力するようになった。日本の全歴史において、最も多くの人が生産に努め、技術改善に心血を注ぎ、最も多くの人々がこれを常食にすることを念願したものは米であった。それは最大の需要をもったが故に、最大の生産努力が払われたといっても過言ではないだろう。それだけにその生産の諸条件を無視して、米は急速に普及し、生産され、国家もまた財政の基礎としたのである。

 しかし稲は亜熱帯種の植物であり、国土は南北に細長い島嶼であり、北と南では水稲生産力に大きな差を生じた。この差は経済力の差となり、生活力の差となり、文化の差となった。ことに近世期において水稲米生産力の北限地といわれる南部藩は、近世封建諸藩中最悪の条件におかれることとなった。「三日月の丸くなるまで…」と詠われた南部藩も、水稲生産力最悪の地として大きなハンディを受けることとなった。しかも盛岡は、南部藩の行政首都として、その中央的位置にあると同時に、南部藩の田の多い地帯と、畑の方が多くなる地域の境界的位置に設定されたことは政治的に重要な意味をもっていた。それは経済力の差をはっきり見せつけると同時に生活力・文化力の差をはっきり見せている。それは決して農民の農業技術の劣悪さによるものではなく、気象条件の弱さに禍いされたものであった。すなわちオホーツク海の低温の東北風のもたらす被害のためであった。しかし人々は自分達の技術の拙劣にあると思い、非常なしこりを持つようになった。このしこりがこの地方を僻地化する一つの原因となった。

 近世封建社会の民政というものは殆どなかった。しいて拾うならば、それは水稲生産力増強政策であった。溜池の築造・用水路の開鑿等、財政力の増強を目的にしたものであったが、同時にそれは水稲生産力の増強であり、民生の強化となった。しかし近世を通じて奨励される水稲生産力の増大はこの地方においては、しばしば大凶作の原因、被害拡大の要因となった。それにもかかわらず、南部藩は水田増強政策を中止することができなかったことは、悪政の原因となり、他藩に見られない皮肉な矛盾となった。

二 南部藩の新田開発

 新田開発について、森博士の『岩手を作る人々』から抜萃して掲載をする。

 元禄から天明に至る百年間は幕政の爛熟した時代である。戦国末期的な武断政治が全く文治政治に変った時期である。赤穂浪士復讐事件は古武士思想の最後の現象であり、その処置は既に武断政治が完全に終り、文治政治の支配が勝利を占めた事を物語っている。幕府の重臣政治は終り、門閥は低いが、文治政治に才能のある側用人が政権を牛耳り、門閥的な古武士は名実共に政治の第一戦から後退してしまった。然し門閥は低いが、学問的であり、世情に明るい、極めて文教的な人々の出来たことは、社会が固定し、安定し、所謂泰平の世となったのである。幕政の初期に見られるような、大名の転封、断絶、減封は減り、浪人もなくなり、実子がなくとも養子相続が認められ、大名の位置は漸く安定した。大名の位置の安定は家臣の安定であり、家臣の安定はその下に支配された平民階級の安定となり、社会全体に平安の気が漲って来た。

 寛文四年(1664年)春から第廿八世南部重直の病弱が一般に知れわたった。重直に二子あったが、子運がなく、二子共に早世をした。相続人がなく、そこへ重直の病勢は刻々に悪化し、九月十二日五十九歳を一期として逝去した。

 嗣子がなければ御家断絶は幕府の根本方針である。

 幕府は最後の宣告を待つこと二ヶ月、十一月十日重直の弟重信、直房の二人は急遽江戸に召集された。夜を日に継いで上京した二人は大老酒井忠清から意外な命令を受けた。

 「南部は家柄も古く、其上利直は第一の忠勤があったから、十万石を二つに分け、重信は八万石を領して宗家を継ぎ、直房は新たに二万石を以て一家を起すべし。」分割相続である。

 茲において、南部藩は盛岡藩と八戸藩の独立した二つに分裂したのである。これは二方石の支藩が出来たので分裂したのではなくて細胞分裂の如く独立した二つの小藩となったのである。幕府は峻厳な相続法を立てゝこれに抵触したものは容赦なく断絶を計ったのであるが、その結果は浪人を増加し、社会不安の種を蒔くことになったので、これを改め、藩を小さく分ける方針に変えたのである。即ち小藩政策の現れである。

 藩は九戸郡から三十八ヶ村、三戸郡から四十一ヶ村、紫波郡から三ヶ村で実収高三万六千石余を分け八戸藩の領有地とした。これによって盛岡藩は十郡四百四十七ヶ村で八万石となった。然し、その実収高は二十五万五千二百石余となり、幕府に隠してある非公式の村は二百四十七ヶ村もあるのだ。二万石の減俸を恢復するには愈々政治を刷新しなければならない。重直の後を継いだ重信が明君であり、政治に専心したので藩内もよくまとまり治績大いに上がった。殊に奥寺八左衛門、松岡覚左衛門等は鋭意新田を起し、減俸回復に努めた。

 約二十年後の天和三年(1683年)五月七日には領内の新田二万石を加え再び前の如く十万石となった。これは二万石の減俸に発憤し、一意新田開発に努力した賜物である。禍を転じて福となしたというべきである。

三 農業生産

 南部藩の領域は、天正十九年(1591年)八月決定をみた北奥十ヵ郡の地である。この内、和賀・稗貫・紫波・岩手・二戸・鹿角の六郡は内陸部の郡であり、殊に和賀・稗貫・紫波・岩手の四郡と遠野地方(閉伊郡に附属する)は、北上川水系の地域であるので、盛岡南部領の米産地となっている。他の閉伊・九戸・北の四郡は海浜を含んでいるので、海陸両産の地帯となっている。

 この十ヵ郡の面積は四千四百二十五平方里であるが、領内総人口は三十三・四万人程度、それを賄う農業生産力は、この人口を扶養し得る程度で余剰力はなかった。

 寛永十一年(1634年)閏七月の領内十郡郷村目録によると、二十万五千五百五十四石としてあって、表高十万石の倍以上であるから、軍役にしても、財政的に苦しくなかったらしい。

 農業生産力中、その米穀は、北上水系の四郡を主産地とすることは、藩政時代を通じて不変である。

 その後十年目には二十二万二千四百五十石余この内訳は田高十六万二千四百五十石余、畑高六万二千九十一石余、惣村数六百八十八ヵ村となっていて、十ヵ年間で一万七千石近い増加である。これは生産の増加も若干あったとしても、検地の出目(でめ)(資料一参照)と解すべきであろう。正保四年(1647年)領内絵図に添え書上げたと称する石高は廿二万二千四百余とあって、寛永二十年(1643年)の改高とほゞ同一であり、その説明に「但し内検地仕候へハ、廿二万二千四百石余御座候。この物成、寛永十六年(1639年)より正保二年まで、七ヵ年分ならし、一ヶ年ニ付而、ニツ一分なり。右物成高十万五百五十石ニ割込候ヘハ四ツ六分ニ当ル」としてある。寛永十六年以後の検地高であり、表高と内高の合計なのである。また寛永二十年六百八十八村あった村数は、正保四年の書上では五百三十八村とあって、百五十村の差異となっている。検地の施行に伴い、行政上の必要から村邑を決定したものらしい。その後、寛文四年(1664年)の書上にも、この五百三十八村に変化がない。

 正保四年の書上では、表高十万五百五十石のうち、七万二千四百十三石余は水田、二万八千百三十六石余は畑高としてある。

 岩手郡の表高は五十五ヵ村で一万四百二十九石八〇七で、田は八千五百六十二石七一五、畑は一千八百六十七石〇九二となっている。

 この村高は、幕府書上げの表高であって、内高は三千石前後であろう。

 その後、寛文五年(1665年)の春、表高十万石のうち、五分の一の二万石を八戸藩に分地した。寛永以降二十数年で、どの程度生産力が伸展したか明らかでない。盛岡藩では寛文六年から全領にわたる検地をはじめ、天和三年(1683年)に終った。その結果出目が多くなり、新田と合せて二十五万石近くなり、表高八万石に新田高二万石を加えて再び十万石の軍役をつとめる大名となった。それだけ生産力が増大していたことにもなる。

 天和三年五月七日、南部重信は将軍家の召に応じて登城した。閣老堀田筑前守・大久保加賀守・阿部豊後守・戸田山城守等列席し、堀田筑前守より次の如く伝達を受けた。

 其方儀、常々実体(じってい)(実直)に御奉公相勤め候に付き、領内も広場に候よし聞し召され候。これに依って、花巻二郡にて新田二万石を本地八万石へ加増成し下され拾万石の高仰せ付けられ候。右軍役(やく)相勤むべき旨仰せ出さる。

 寛文五年から十九年目である。八万石から十万石になったのであるから二五%の増加である。しかも文面では花巻二郡の新田としてある。寛永十一年(1634年)の二十万五千五百石、正保四年(1647年)の二十二万二千四百石、天和三年(1683年)の二十六万七千七百石(八戸領二万石含む)等の累増数字は、概ね新田開発その他によるもので、寛永十一年から天和三年に至る間に六万石余、即ち三〇%の増加は農業生産力の如何に勝れていたかを示すものであろう。

厨川諸郷の表高→

厨川諸郷天和元年の石高→

 正保四年藩調査の厨川五ヵ村は前述のごとく一千百三十七石余の石高であったが、これが三十四年後の天和(な)元年(1681年)になると、新田開発が進み大沢川原・栗谷川野新田・平智・平賀新田・土淵・滝沢を加え厨川諸郷の合計高は約五倍の五千六百六十石と増加している。南部重信の新田開発と相俟って、厨川西部の越前堰水路が拡充されたであろう。

 大釜の高根、後年の小岩井農場地域に松岡作左衛門が新田を開発したのも、重信治世の寛文年代(1661年-73年)以降のことであろう。

 繋村肝入館市家留書帳によると寛文七年(1667年)まで、雫石代官が雫石郷の外に太田・鹿妻・飯岡・栗谷川・沢内の諸郷を所管していたとある。

 享保三年(1718年)藩は岩館甚右エ門に命じて、土淵・平賀・上厨川・下厨川の城下新田の開発に全力を尽している。

 藩政中ごろに属する享保二十年(1735年)の石高は、御蔵入高は十四万一千九百三十七石余、家中給所高は十一万三千二百七十八石余で合計二十五万五千二百十五石となる。岩手郡(上田・栗谷川・雫石・沼宮内)の総高は三万六千九百七十一石六斗三升で、蔵入高は二万五千百九十四石六斗八升四合になっている。(穀物品種資料二参照)

 元和元年(1615年)ごろの二十四万七千六百七十六石に比較すると二万五千石程度の増加である。

検地

 この間に元禄七年(1649年)・八年・九年・十年・十二年・十四年・十五年の凶作の連続があった。しかしながら全領的に見ると、北上川水系遠野を含めた五郡の農業生産が伸びていることが知られる。それに反して二戸郡や北郡は減じている。このことは、領域の南方北上地域は農業生産力では優位に立ち、領内の北方は農業生産力において劣勢であることを示していると言えよう。すなわち藩政中期においても、北上水系地方の農業開発は活?であったことを示している。

 寛保元年(1741年)諸士に令して新田開発を許す。よって諸士争うて新田を開発する。中には公用の水を渇せしめ、新田に漑ぐの私曲を演じて罰せられるものも出たから、この令を廃したと大坊直治氏が述べている。

 寛保三年に至り、藩は新田奉行をおき、さらに一層開田に努力をした。また、諸士も自分の禄高を開田に需め様としたので、著しく水田が増加をする。

 宝暦三年(1753年)春の改高では、二十六万二百八十余石で、享保二十年(1735年)に比較すると七千八百八十石程度の減高である。生産力の衰退は掩うべくもない徴候を示している。このころから生産人口たる農業人も伸びていない。このときの栗谷川通の総高は六千二百六十二石二五一で、その内蔵入高は六千七十四石七七六で、給所高は百八十七石四七五となっている。

 『邦内郷村誌』に依る米の生産高は次掲の通りである。

寛政(1789-1801年)・享和(1801-4年)年間の石高→

 さらに文化年間(1804-18年)になると、八戸南部領を加えても二十八万九千二百七十余石である。宝暦(1751-64年)・天明(1781-88年)の飢饉が災して、領内の農業生産が低下したことを如実に示すものであろう。

 藩政後期において、郷村の石高の伸びない原因として、宝暦五年(1755年)・六年・七年・九年・十一年・十二年・十三年の凶作の連続、天明三年(1783年)・四年・五年・六年・七年・八年の凶作の連続、天保三年(1832年)・四年・六年・七年・八年・九年・十年の凶作の連続があった。

 宝暦・天明・天保の凶作は、前の元禄の凶作と共に、四大飢饉と称せられるもので、宝暦の大飢饉では餓死者四万九千五百余人、悪疫で斃れた者を入れると死者六万人を越え、馬匹の斃死も二万頭に達したという。

 天明の大飢饉では、餓死者四万八百余人、悪疫で斃れたもの二万三千八百余人、他領逃亡者三千三百余人であったという。天保の凶作もまた大飢饉をもたらした。

 南部藩は享保年中から諸産業は振わず、財政不如意であったところへ凶作の頻発である。加えて寛政年間(1789-1801年)以降は北方警備の費用が課せられた。一家の死亡、あるいは離散のため、働き手の不足、耕地の放棄、荒地の続出で、農業生産力は著しく萎縮したのである。

 文化年間(1804-18年)は平年作の続いた時代であるが、それでも文化末年ごろは、八戸領を含めた十力郡の総高は二十八万九千二百七十余石であって、その生産力が伸びているとは言えないのである。

 このときの岩手郡の石高は三万五千九百三石三八九で、内訳の本高二万八千八百六十三石二四で新田改田共七千四十石一四三となっている。

 天和元年から百五十六年後の天保八年(1837年)には、各村とも石高が増加している。特に鵜飼と滝沢両村は倍になる。このことは稲の北進したことを意味する。

天保八年(1837年)厨川通郷村石高→

 以上のように、藩政末期における南部領の農業生産は頻発した凶作等のため、全体的には伸展していない。そのため藩財政は苦しくなり、一般庶民の生活を窮乏せしめたのである。

 殊に諸外国の軍艦・船舶は日本の周囲に来航して日本を脅威するに当り、日本の国防問題が重要化し、南部藩も自領の沿海防備の外に蝦夷地防備を割り当てられた。そのため文化五年(1808年)二十万石の禄高とされたのである。当時の幕府から示された軍役では、二十万石の大名は常備兵一万人を持つことであり、その金費は領民の負担である。盛岡南部氏は、寛文五年(1665年)、領地十万石から二万石を八戸藩に分割した。その後天和三年(1683年)八万石を十万石に引き上げられた。二五%の格上げは、当時の生産力からして当然と言えるが、文化五年の格上げは極めて不自然である。すなわち、その後の生産力の増加は決して一〇〇%の増進を示していないのである。

 藩政末期になると、諸士に対して新田開墾を奨めたので、諸士が活溌に開墾を企てゝいる。そのうちの顕著なのは、北郡三本木平の開発である。後世水田から十五万石の米を生産したが、藩自体の財政を助けるまでには至らなかった。

 本村における南部藩最後の検地は慶応四年(1868年)三月に鵜飼、翌四月には大釜・篠木・滝沢が実施されているが、大沢の検地については見えていない。

 諸大名は農民を「生かさず、殺さず」として押え、農民は厳しい封建制度の中で、表面三分の一の年貢と、残り三分の二を飯料としていた。この飯料から役銭・伝馬役・現品納入・その外郷役・臨時税が加えられているから、大体五公五民程度であった。

 度々施行された検地を基礎にし、坪苅によって上・中・下・下々の四段階から租税が徴収され、検見後でなければ稲刈が出来ず、雪が降ってから刈り始める処もあった位、しかも二十石を一組とし、五戸から十戸位の共同責任で税を納入しなければならなかったから、自然そこに、相互扶助の暖かい心情、すなわち「ゆい」が、長い間継続されたのである。

 南部利直が盛岡に居城を定めてから、三百数十年間に領内の凶作は五十回を数えるが、最も深刻なのは、元禄・宝暦・天明・天保の四大飢饉であった。封建制の厳しい中で、物資の交易は思うように行かず、草木の根をかじり、犬猫鼡を始め家畜も屠り、甚しいことには、壁土にぬりこめた藁を洗い出し、これを煮てたべ、恐しいことには人肉で生命をつないだ者もあった。金の貯えもなく、穀物を持たない者は、悪疫に苦しみ餓死を待つより外はなかった。現在滝沢村に餓死供養塔が四基建っている。しかしながら、農民は凶作に屈することなく、耐寒品種を探したり(永禄年間<1560-1570年>には九十六種の稲があった)、わずかな耕地にも早稲・中稲・晩稲を植えて凶作の被害を少なくしようとした。

 水稲では「豊後」という品種が広く栽培されていた。これは晩生種で収量が多いが耐寒性がなく、冷害に弱いため、天保八年(1837年)には作付禁止の命令がだされたことさえある。しかし天候が順調な年は多収なので、一概に廃止することはできなかったようである。早生の良種としては、卯年早生があった。天明三年(1783年)卯の年の凶作にも好果を収めたのでこの名があるという。収穫を多く望む農民の努力に上り、嘉永のころ(1850年)には、反当たり平均一石二斗位の生産をあげている。一度平年作ともなれば、三年の食が賄えられた。ことに税はそのまゝであったから、豊作のときには生活に潤をもたらした。

 この外、大雨による各河川の洪水・台風・病虫害・狼害等の災害のため、幾多の悲惨な運命に虐(しいた)げられたことが数多くある。

 これらの苦難を乗り越えたのは宗教を信仰し、これ一途に生きて来たためであった。

 従って、領内人口は士族・町人は増加しているが、農村人口は増加せず、間引をして後続子孫を残したのである。

 とにかく、平安時代田村麻呂によって、初めて稲の栽培を習得したのは、雫石川の水深から考慮すれば、大釜村が最初であると推察される。この大釜村から漸進的に稲が北進と東進をしたことは前述の通りである。これが飛躍的に増反されたのは南部藩時代であった。

 畑作物としては、大麦、小麦、稗、粟、大豆、小豆、大麻、蕎麦、そらまめ、菜種、胡麻等が栽培されていた。玉蜀黍は天正年間(1573-91年)に伝わったものだが、本村の記録には見えない。

 蔬菜には大根、かぶら、つけな、ごぼう、にんじん、なす、きうり、かぼちゃ、ねぎ等があったが、甘藷、馬鈴薯、豌豆等の記録は見当らない。

 果樹では柿、栗、梨、ぶどう、梅等があったが、殆ど自家用としたらしい。

 寺森の一部に茶畑又紫土手、紫堤等の地名があるので、茶、紫(絹)、藍(木綿)を栽培したのであったが、実用化は紫と藍のように思われる。

(資料一)

   出目(でめ)

 貫納にあたり、量目を所定額より、多少実際より増して行うことが、近世以前より行われており、これを出目という。出目米(延米)はその一例である。また江戸時代においては、しばしば、貨幣や改鋳を行なったが、改鋳による益金を出目と称した。検地の結果、増加した高を出高等とよんだが、出目高とも称している。

(資料二)

   穀物品種

享保廿年(1735年)書上の穀物品種の熟季→

 糯稲に晩稲が顕著であるが、粳は早稲・中稲・晩稲とも平均している。その作付歩合は不明であるが、粳稲の早・晩を平均して用いているのは凶作に対する営農心理でもあろうか。この表以外に黍(きび)二十一種、蕎麦四種がある。

 稲に水稲と陸稲があり、陸稲は岡穂と通称される。

 稗も田稗と岡稗に分れていた。

四 綾織越前

(1) 田中喜多美氏の『岩手史学』第四九号「天正年中の越前堰考」によれば、綾織越前は田原藤太秀郷の後胤で、第一代は(藤原胤)高衛、第二代広郷は奥州遠野横田之城主阿曽沼孫次郎広郷と改めと藤平系図の記録に記してある。第三代は広長であるが、天正十九年(1591年)南部信直公が陸奥十ヵ郡の太主となって、北上地方まで領地に加え、紫波郡の外、稗貫・和賀をも所領し、遠野の阿曽沼広長は独立の領主権は認められなかったが、南部氏の附庸として居城を許された。その後慶長五年(1600年)の役に、阿曽沼氏も最上郡に出陣したが、その留守中同族のものに叛かれ散亡した。

 第四代は広行である。遠野の綾織村を知行に給せられ、綾織久之進広行と称し、元亀三年(1572年)志和郡の飯岡合戦に斯波安芸守を援助した。

 『岩手県史』に元亀二年・三年は、三戸太守南部晴政は、南部高信をして盛岡平野に斯波氏と交戦しているとある。しかしながら、九戸政実の弟弥五郎後の中野修理亮直康を高水寺城に送り込んで、斯波御所との正面衝突を回避して、斯波氏に入婿させている。

 第五代綾織広行の長子が越前広信である。すなわち、

 「天正二年(1574年)斯波安芸守より、父久之進飯岡合戦に軍功これあるにつき安芸守(志和御所)の三男岩九郎の客座となって(田中喜多美氏は志和御所の三男岩九郎は雫石城に拠る雫石斯波氏を指し、岩九郎の客座とは雫石御所の客座で、軍事顧問の意であろうと解説している)岩手郡雫石に移住の儀、広長公江懇望に依て移住を蒙り、同三年四月、新城舘縄張し、水の手、不通融にて手塚と相談(天正十四年<1586年>九月陸奥国雫石の主手塚左京進某、封地に襲い来るの時接戦し、同十六年斯波郡領主、斯波氏大輔詮元を討つ<寛政重修諸家系譜>)、岩鷲山麓堰を一方に寄せて用水を引く。其後広長公小田原出陣之なく依て以来南部の附庸となすべき旨、秀書公上意に困て南部公の下知を受け、慶長五年七月広長公最上出陣を仰せ付けられ、遠野留守居上野右近平清水駿河両人家老残置、此時鱒沢左馬助広勝父子上野平清水は、南部利直公之謀言に応じ、逆臣を越し、広長公不在を幸として、利直公へ参礼して君臣の約を結び、広長公の帰路を遮て逆臣之輩国境に伏兵を備ひ、主君之先陣父久之進、神明に指揮すると雖も、遠野へ御入国する事能はず、伊達政宗領内気仙に陣を引、後に遠野領は利直公の領地と成り依て広長公の臣にして綾織之姓南部家に悼り、藤平と改め、農に帰し、慶長十八年(1613年)七月十八日七十二歳にして死去」と伝えている。

 同氏の岩手史学に盛岡築城は慶長初年(1596年)であり、同四年には太守信直が入城しているから、その前は文禄(1592-96年)か、天正年代(1573-91年)となる。雫石城客座時代の綾織越前広信は天正二年(1574年)から同十三年九月までの間に城郭を縄張りし、雫石の用水路を掘ったが、雫石御所と称せられた斯波氏の支族雫石氏は天正十四年(1586年)九月南部勢に攻められて滅亡し、同十六年には宗家斯波氏も三戸南部氏の攻略を受け滅亡したことになり、雫石氏の客座分の綾織越前は当然綾織郷に帰還したものであろう。天正年中の厨川諸郷には、東部に厨川城の工藤氏が拠っており、西部には大釜舘に大釜氏が拠っている。ことに大釜薩摩政幸が雫石氏・猪去氏等と共に、志和諸臣中に算えられており、篠木・大沢・鵜飼は大釜と連続する聚落なのである。大釜舘(現在の東林寺境内その他)は、四周は水田に囲まれた中に段丘を利用して構えられた城舘であり、その濠には根堰(越前堰)から分流した用水を利用した跡が歴然と残っていた。大釜舘も天正二十年(1592年)以降の存続が認められないはずであるから、大釜舘への用水となる根拠も、天正年中と推定してよいかも知れぬ。郡の西部にあたる雫石郷に用水路を掘り、その東部の厨川郷、すなわち、大釜・篠木方面に用水路を掘り、この二つが軍事的と、水田化に利用されたことが考えられるのである。

 いずれ厨川の越前堰は天正十四年(1586年)までか、遅くとも慶長十八年(1613年)七十二歳で死去するまでの間(二十七年間)に掘鑿されたものと推定されるのであるという。

 第六代藤平久之亟広景は父広信の長男であり、新城近傍に田畑を開き寛永二十年(1643年)六月十日歿している。年五十九歳。

繋尾入藤平系図→

綾織越前之事績→

(2) 大正十年(1921年)大沢の沢村亀之助氏の依頼により、遠野の伊能嘉矩氏の書いた『綾織越前之事績』によれば下記のごとくである。

 陸中国篠木村の綾織に一郷士あり、越前と名づく。其綾織に居るを以て、里人綾織越前と通称せり。夙に農を以て業となせしが、其地方到る所の荒野宜しく闢きて、稲田と成すべくして、而かも水利の便に乏しきを憂ひ、自ら意を決して、遠近の山谷を踏査し、岩手山麓なる持篭森沢に於て、水取口を発見せしを初めとし、相の沢・キアタ窪沢・タラノ木沢・其他小沢の水流を合せて、之を引き用ひんことを企て、乃ち、地勢の高低険易(い)を察して、徐ろに、疏水の工事を進め、遂に大釜・篠木・大沢・鵜飼・土淵・平賀の六村落に及ぶべき延長八里余の構渠を開鑿し、為めに、新に水田三百八千余町歩を拓くを得るに至り闔(こう)村民戸の総数約四百、概ね其利沢を被らざるはなく、村民之を徳として、越前堰と号するといふ。

 越前の家もと素封を以て郷閭(りょ)に勢威ありしが、伝ふるところに拠れば、滝沢村湯舟沢の農夫藤十郎といへる者の妹越前の家婢となれるあり。嘗て過ちて、主家に珍蔵する重器を破壊したるに、坐して、越前の斬殺する所となる。而して、其兄、為めに、復讐を思ふも力及ばざるを以て、止むこと久し。偶ま寛文十年(1670年)藩主南部重信公滝沢山に鹿狩を催されし際、藤十郎鹿の呼ぶ子笛を巧みにするを以て、供奉(くぶ)の中に在り、猟獲頗る多かりしかば、公は、大に満足せられ、汝が笛を吹く時に、必ず利運あらざることなし。因りて、其賞として、所望に任し、物を遣はすべし。何にても申し出でよ、との仰せありけるに、藤十郎別に多く望み之なく、ただ篠木の郷士綾織越前が首を賜はるを得んと答ひ上げしにぞ、公は異(あやし)みて、其故を問はせらるゝに、藤十郎恐みて、吾が妹初子が、一旦の過失のために越前の斬殺に遇へる惨事を具さに訴へ上げ、されば軈て有司に命じて越前の所為を糺問せしめしに、藤十郎の申すに相違なかりしより、直ちに越前父子三人を捕へて、入牢を命ぜられ、次で、死刑に処せらるゝと同時に家屋敷等を没収せらる。(或は云越前尚幼児あり、襁褓に在り、時に、捕吏中人情を解する者之を押へて、隠かに、牆外に投ず。乳母懐きて、辺鄙に逃れ、懇に保育する事多年、長ずるに及び篠木の姓を冒して、藩主に仕ふと、後世篠木某といへる足軽ありしが、恐らく、其裔に非じかといふ。而かも、彼は、固く口を緘して、祖先の由緒を語ることを避けたりきとぞ。今篠木にある清雲院は其宅址にかゝる。『南部家記録』に(田中喜多美氏は、これは何を指すか分らず。家老席日誌であれば雑書と称するが、雑書なれば今日籠舍申付以降は不審であるとのべている。)

 寛文十(1670年)庚戌年(かのえいぬ)九月廿五日越前・右京進・伊兵親子三人今日篭舎申付、伝に云越前の女は沢内(和賀郡)の八幡別当の妻となり、故を以て越前の家屋敷取上の際古文書等娘に預りたり

との一節見ゆるといふは、当時の消息を洩せるものなるべし。按ずるに、越前が此最後を遂げしは、六十歳の頃なりと伝ふれば、其溝渠開鑿の水利を興せし成功時代は、承応・万治(1652-61年)年間、即ち四十歳前後の頃にてあるべきか。

 斯の如くにして、越前の家は、子孫全く断絶に帰せしが、初め、溝渠開鑿の工事中、越前は、常に駿馬に騎して、自ら検分したりきの逸話を存するに因み、里人深く其遺徳を欽慕しつゝも、尚ほ、刑余の人なるを憚り、之を馬になぞらへて、神に崇め、叢祠を篠木村内の二ヶ所、即ち、一を綾織蒼前と呼び、現在の庄右エ門どの北西約百米の地点に、他の一つを白松蒼前と呼び、篠木板西側の麓にそれぞれたて、三月十八日に祭をなせしが、明治十年頃前者を清雲院境内へ、後者を孫作どへ移転をし、三月十九日と五月五日を祭典日となし今日に及べり。別に天保十二年(1840年)六月篠木・大釜・大沢・鵜飼・土淵・平賀六村の有志相謀りて、一祠を篠木山王社(田村神社)境内に創し、称して、水神といひ、三月廿一日を期として、年々之を祭祀するもの亦実に越前の霊を崇むるなり。

 尋で明治廿三年(1890年)四月更に有志捐(えん)唱して、谷河尚忠撰文の越前堰記念碑を清雲院に立つ(碑文を略す)、乃ち以て赫々の芳績を、不朽に伝わるに足らんとすれば、其子孫を絶つといふと雖も、永く無形の後ありと謂ふべきか。

 以上田中喜多美氏の『天正年中の越前堰考』(1)と、伊能嘉矩氏の『綾織越前之事績』(2)とを比較するに、

(一)、系図(1)は綾織越前広信-藤平久之亟広景-忠成
      (2)は越前-右京進-伊兵
 南部藩諸家系図には阿曽沼分のみあって綾織・藤平・篠木家のいずれも目録中になし。

(ニ)、年代(1)第二十六世信直治世の天正十四年(1586年)までか、遅くとも第二十七世利直治世の慶長十八年(1613年)卒去まで
      (2)第二十九世重信治世の寛文十年(1670年)と書いてあるが、遅い方の慶長十八年と比較しても五十七年の開きがある。

(三)、死去(1)七十二歳  (2)六十歳頃

(四)、住居篠木の清雲院は其宅址なりというが、清雲院は慶長ニ年(1597年)の創立であるから疑問である。従って、清雲院の東方多吉どではないだろうか。

(五)、大坊善幸氏は南部氏が三戸から盛岡に来る前、既に、綾織越前が百五十町歩の田を保有している。この勢力を押えるために、甲斐の国から武田氏を連れて来たであろうと述べている。
『川井村郷土誌』に、武田信玄の子武田彦十郎忠直は、南部家をたよって、甲斐から一族を連れて三戸に来、しばらく南部家の食客になる。文亀二年(1502年)四月、第廿二世南部政康は彦十郎忠直を閉伊都に派遣し、一部を与えて治めさせたとある。彦十郎忠直の三男丹後は細星の先祖であると伝えている。年代を比較すれば一致しているところから、綾織越前を押えるため丹後を大釜に居住せしめたものであろう(第三編第二章第一節武田氏参照)。

(六)、死刑について(三)でのべた事と重複するが詳細に述べれば、笛吹き藤十郎の妹が、重器一枚を破損したことが原因で、越前・右京進・伊兵が捕えられて入牢、次いで死刑、更に家屋敷まで没収されるという苛酷な仕置は、余りにも残酷すぎる。篠木村から姿を消したからこうなったが、藤平家の系図は、越前は七十二歳で死去し、その子の広景は五十九歳で死亡したと明瞭に書いてある。

(七)、『南部史要』の第廿七世利直慶長五年(1600年)十一月の項に次のようにある。
 遠野の阿曽沼広長の臣鱒沢広勝その主に叛てこれを国外に逐ふ。これより先き広長(三代)の父広郷、豊臣秀吉の召に応ぜずして罪を得たるも、寃されて南部氏の臣下となりしが、内心服せず三戸に来り謁せずその子広長に至りても同様なるより、公機を見てその罪を間わんとするの意あり、広長の臣鱒沢広勝また主家横領の野心を懐けることゝて、竊に公に好みを通じてその力を借らんことを乞ひ公の許諾を得たり。依て広長の不在に乗じて事を挙げんとし広長が公の山形出陣に従へるにも拘はらず、広勝病と称して従はず、而して公和賀忠親の乱によりて軍を還せるも、広長尚ほ山形に留まれるより、広勝機逸すべからずとし、花巻において公に謁し遠野襲撃の策を献ず。公大に喜び桜庭安房(ばあわ)とこれを議せしむ。安房曰く、和賀の一揆討伐の折柄遠野に兵を派する能はざるを以て、遠野の諸士を誘ひ広長の帰るを待て虜(とりこ)にすべしと、広勝これを話し、遠野に帰て家老上野丹波、平清水駿河等を訪ひ、尚ほ諸士を欺て皆自己の味方とし、而して広長が山形より帰り、遠野に入らんとするや、五輪峠より鮎見街道に兵を出してこれを要撃せんとす。広長途中にこれを聞き恐れて気仙郡世田米に出奔す。然るに翌年(1601年)三月に至り、広長伊達政宗の援兵を得て遠野に攻人らんとす。広勝平田(へいだ)に迎へ戦て敗れ、遂に敵のために殺さる。広長の兵もまた損害を受けて退く。同年秋広長またまた兵を率て遠野に入らんとせるより、広勝の子広恒援兵を公に乞ふ。公即ち桜庭安房に兵三百五十を授けて広恒を援けしむ。安房広恒兵を合し、広長と閉伊郡糀坂峠に戦てこれを破る。広長遂に仙台に遁れ遠野平定す。依て公は広恒に二千石、上野丹波、平清水駿河に各千石を賜ひ、丹波・駿河両人を遠野城代とす。尚ほ公は南少弼(ひつ)の女の養女として広恒に妻(めあわ)せたるが、その後広恒酒色に荒(すさ)みて妻を疎(うとん)じ、不義非道の行為多かりしため、公の勘気を受け江戸に出奔したるも、遂に捕へられて切腹を命ぜらる。

(八)、私見

 (1) 『綾織越前之事績』は大正十年(1921年)に伊能嘉矩氏によって、三百年間の言い伝えを記録されたものである。三百年間、人間の口から口へ伝えられたものと思料されるから、いわゆる噂が噂を生んで出来あがったものであろう。

 (2) 三代広長、四代広行は南部氏の臣下となっても内心服従せず、南部氏と広長の家臣鱒沢広勝の結託によって慶長六年(1601年)秋糀坂峠に敗れ、仙台に遁れることとなる。この事が越前の入牢・死刑にまで進展したものであろう。

 (3) 祖父や父との関係で、戦に敗れた同じ年の慶長六年に南部氏に憚り、越前は藤平と改姓し、監視の武田氏をさけて、篠木の清雲院前の綾織から、繋の尾入へ転居し、篠木から姿を消したのである。おそらく越前は天正十年ごろから慶長六年までのおよそ二十年間篠木に在住したものと推定される。越前が転住した事が長い年月を経るに従い、死刑・家屋敷没収にまで発展したものであろう。

 (4) 天正二年(1574年)から雫石城の客座として西堰を掘鑿し、西堰と根堰と同時に掘鑿したものとは考えられないし、余り長年月をかけて掘鑿したものとも考えられない。それは天正元年(1573年)春三戸南部氏は厨川平野より南方に進出し、和賀氏と交戦している。斯波氏は天文の末(1555年)から天正十六年(1588年)滅亡まで存続している。その一族の雫石氏は天正十四年に南部氏に攻められて滅亡している。また同家臣の大釜氏はこの時すでに大釜館に拠っていて根堰から引水をしていたからである。越前は雫石の七つ森の一つである見立森に登って地形を観察した時から、引水の目的を軍事と開田の二つを考えていたことは、根堰と西堰の名称からもうかがわれる。越前は依頼された西堰をさきに掘鑿し、一、二年後の天正三、四年ごろ、即ち広信が三十四、五歳前後に根堰を掘鑿したのであったろう。

 (5) 南部氏は、武田彦十郎忠直を文亀二年(1502年)に閉伊郡に派遣し、大永七年(1527年)に死亡、忠直の長男直家は文禄十三年(1570年)に死亡、忠直の次男は天正十九年(1591年)に死亡と『川井村誌』にみえ、三男の丹後の死亡は万治三年(1660年)と石碑にきざまれている。従って、根堰掘鑿、天正五、六年ごろから天正十年ごろまでの間に丹後を大釜に転住させたものであろう。

 (6) 以上から推定すれば、天正三・四年から、同十年ごろまで、越前は三十五歳位から四十歳までの間に根堰が掘鑿されたものであろう。

五 富豪牧田(ひらた)

 姥屋敷に榑(せん)の木溜池を造り、貯水したものを鬼古里まで引水し、ここに洋々たる三千坪の堤を再び貯水し、燧石山の北側に添ふて新たに水路を掘鑿し、石パネを経て一杯森より上鵜飼に至らしめて潅漑の端緒を開き(鵜飼の人は上河(わっか)と言う)、また別に金沢、仏沢の水を引き、黒沢で二派に分水し、新たにカケセキを掘り抜き、上鵜飼の迫(はざま)に至らしめ、両水を合せて全鵜飼を潅漑している。末は越前堰と合流して土淵方面より平賀新田に及び、水田三百余町歩。黒沢で分派した他の一流、すなわち仏沢の下流は平蔵沢溜池に貯水され、平蔵沢、土沢・耳取の三部落に潅漑すること百町歩に及んでいる。

 石倉山の九合目に、何百貫・何千貫という花崗岩の大石塁々として神秘が籠っているようである。胎内くぐりと称する上端に丈一尺五寸・幅三尺六寸・厚三寸程の自然石に篆(てん)書で新磐手神社と彫刻したものを掲げ、邸宅まで二十町の参宮道を切り開き、両側に杉を植栽し、日光街道に擬した多額の浪費をだしている。また、本邸には精巧を極めた庭園があり、泉があり、反(そ)り橋があり、石灯篭も二、三に止らず、その他佳石珍木の悉くを集め、真に善を尽し、美を尽して造った庭で、特に五大州と称する大石五個を屹立せしめた。しかれども後、明治四十一年九月時の皇太子殿下歩工聯合特別演習を召覧された観武原頭の記念碑に、或は駒形神社境内の忠魂碑にと化し、当時清淳を極めた庭園も今は見る影もないあわれを止めている。

 五大州中唯一石残存しているが、丈八尺ばかり、幅三尺程なる細長き石に

旧文書→

 観武ヶ原の記念碑其石となった五大州中の一石に

旧文書→

 牧田墳墓の地は本邸(平蔵沢の大森重兵衛氏の居宅)より西北にあたる八町の高丘にある。

 本邸より西北にあたる六町の処(墓地の隣地)に溜池を中心として遊園地を造り、奇石珍木を集め、池中に五重塔を水上に浮ばしめたのは岩嶋の奇景より思いついたものであろう。今はただ、池中に台石のみが存している。

 明治の末年ごろまで、この土堤の処々に半ば枯れた幹から新梢伸長して最も雅趣に富んだ桜樹が数多あったが、何時とはなく伐採され、今日においては唯一本昔の名残りを留めている。昔は林間紅葉を折り焚いて酒を温めたと聞いている。

 また邸宅の東北五・六町の処に一丘がある。これに辧財天の堂字を建立し神苑に奇石佳木を植えた形跡あるも、今はただ朝鮮五葉松、絶大なる楓各一本と高さ四尺に直径三尺位の丸味のある自然石の胡桃形に約二升程の盥嗽(かんそう)水を湛えるように鐫(せん)刻した石を存するのみである。

旧文書→

 久しく会津に住し、後江戸に移る。第廿八世南部重直公明暦元年(1655年)御旗本酒井八郎兵衛の推挙により江戸で召抱えられる。

 石倉山の一段低い処に一碑がある。表面には翁が犁(からすき)を杖につき、長い鬚髯(しゅぜん)を垂れ、莞爾たる福相を浮彫としている。

 裏面には (旧文書→)

 第卅二世南部利幹(もと)公享保元年(1716)八月父盛昌病死したので部屋住で父に代り八幡御神事御跡乗を勤める。

 安永二年(1753年)五月昌平学校教官旭山平沢元愷先生牧田の庭園を歎賞し嘯園記を絹本に書き牧田に与えている。

旧文書→

 父盛林は非常な子福者で、命助は第六子として生れた。このころは人倫を無視して長男・長女の外は生れれば俵に入れ、夜陰に乗じて川に拾てるの習であった。命助もこの悲運に遭ったが、俵の中での泣き声、如何にも高く、且つ大いに訴えるように、また悲しむようであったから、棄てるに忍びず、思い直して養育したが、長じて平馬(父と同じ)となり、俊才を以って聞え、且つ書家であると同時に画をも能くしたといい、世に之を俵命助という。

 平馬は幸か不幸か、その兄姉は皆夭(よう)折して、遂に牧田家を支える柱棟となり、弥蔵と相提携して溝渠を通じ、耕地を拡張し、造林にも全力を傾注し、杉三千本・栗一万五千本を植栽し、自己の富力を増大すると同時に村の発展をも促進したのである。

 命助は多趣味で庭園を造ったが、特に風流閑雅の念に富み、彼の石倉山の石の旗五階の塔ツヽミの碑文等は皆彼の手による遺跡である。一方においては画家で、歴山の画は光照寺に一軸、駒ヶ嶺重之氏に二軸存している。その他小品地方に多く散在している。また心眼法(鞍馬流)剣術の師範でもあった。

   用水申合証文之事

一、懸堰かゝり三ヶ村御田地年々水不足に付き此度御相談の上当御村の内、黒ヶ沢古荒畑高三斗六升喜蔵作り当時は谷地に相成り居り候所に五拾間四方の新堤築き立て相用い申し度き旨願い上げ候処、願の通り仰せ付けられ八ヶ村御人足を以て去る当両年に普請致し成就候依て此未用水を引き分け候儀は其御村並に土淵村へ此本水当御村へ此新堤の水相用い候筈然しながら年により本水計にて其御村へ行届き兼ね候はゞ堤水よ。本水を一本柳の下にて落ち合せ双方割合を以て相用い候等申し合せ去九日御代官和井内平作様外岡織右ェ門様御見分の節申し上げ相極め候事実正に御座候後日のため証文件の如し。
  寛政八年(1796年)四月十七日
                 滝沢村古人老 庄右衛門
                           与兵衛
                           甚助
                           長治
                 大坊藤吉新田肝入
                           六之恋
                 牧田命助新田肝入
                           弥蔵
                 滝沢村肝入
                           藤七
  和井内平作様
  外岡織右ェ門様
 紙は厚く大きくその裏に
   鵜飼村肝入
           源之丞殿
   金田一与右ェ門様肝入
           長兵衛殿
   鵜飼村古人老
           与作殿
  第七世 盛連 弓司
      深広院誠誉智生居士 (安政三年<1856年>七月十五日 享年 五八)とある。
 文化十二年(1815年)六月十二日曇(南部藩事務日記)
                        牧田命助
                        同 弓司
 平馬儀老衰仕り起居不自由罷り成り御奉公相勤むべき躰これなきに付き隠居仕り忰弓司家督仰せ付けられ度き旨申し上げ願の通り仰 せ出でられ席においてこれを申し渡す。
                  中村東馬代
                        牧田弓司
 御者頭仰せ付けられ、席において、これを申し渡す
 杉一万本、桧五千本、松五千本植栽す
 天保六年(1835年)五月十七日
                      牧田四郎右衛門
 組御同心西舘武右ェ門と申者無辺流棒諸賞流別伝縄師範仕り居り候旨兼て申し出でこれあり私見届け罷り在り候然処此節出精人数これあり候に付き御稽古場拝借仰せ付けられ下され置き度旨申し出で候これにより苦しからざる御儀に御座候て拝借仰せ付けられ度く左候て出精取り立て申すべく後々組の者共励にも相成り候様申し上げ願の通り御目付を以てこれを申渡す
  第八世 山蔵
      究意院最覚一乗居士(明治三一年<1898年>十月十日 享年 七十四)
 廃藩置県の大変革に遭遇し大に狼狽を極めたのであった。本宅は国立盛岡高等農林学校敷地内にあったが、赤山において陶器業を創始して失敗し、知行所の平蔵沢に引越し、酒造業を行なってまた痛く失敗し、田も畠も売却し、山林は大林区署のものとなり、宅地建家も売払い、裸一貫となって、晩年巣子部落で寺小屋を始め、近所の子供を集めて手習など教えていた。
  第九世 盛(さかり)
 維新の変革にあって父山蔵と共に苦難に合う。現在の岩手公園内の南側の低地に堂々たる建物を新築し、葆光社と名付けマッチ製造を始めたが、そのマッチが如何にしても火を発せず大金を擲ち失敗に終る。その後知人を手頼り上京したのであったが、零落その極に達し、衣食に窮したという。

六 南部藩の築堤

1 はじめに

 南部藩の幕府へ献上する品目中に三鳥、すなわち、鶴・白鳥・菱食がある。これらを捕獲するために各地に堤を構築している。『太田村誌』は堤の普請個所として、上田三堤、向中野通七ヵ所、見前通拾ヵ所、厨川通は滝沢・大喰・斉藤・赤袰三堤・半ヵ堤〆六ヵ所となっており、盛岡周辺だけで二十六ヵ所を普請している。現在の滝沢村に当時どれほどの堤を設定したか明らかではないが、『太田村誌』の滝沢堤は、恐らく『南部藩事務日記』の寛文十一年(1671年)三月十八日に「滝沢御新田堤築き候奉行に丹子惣右ェ門申付」とあるから、ここは湯舟沢堤と推定されている。大喰堤については、項を改めて述べることにする。斉藤堤については、駿河久兵衛氏は観武が原にあるといい、赤袰堤と共に現在盛岡市に属している。

 滝沢小学校の『村史』中に湯舟沢堤として「寛文十一年藩営により築堤、流れて市兵衛川となり、この川の潅漑により、当時元村部落四十一戸の繁栄を見たり」とある。

 大坊直治氏は「菊田鶴次郎氏の前に八木橋堤と称する堤跡今に現存す。小橋を渡り南方の道路は当時の土手なり、この八木橋氏は代々茂右ェ門といい、者頭や御代官を勤め、二百石の中士なり」といい、南部藩のすゝめにより築いたであろう。

 また、同氏は「一本木部落を距る東南半里程手前に加賀内と称する堤あり。箕の如き形の湿地の一方に土堤を築きて貯水し、以て三鳥を誘致せり。殿様再三一本木に出御され、三鳥捕獲をされしものならん。番人の屋敷跡と思われる場所にウツギ・菲・芍薬年々薬を生じ花を開く」という。

 南都氏は三鳥捕獲と開田の一石二鳥をねらった築堤により、本村は飛躍的に増反されたのである。

 鳥類捕獲について、大坊直治氏の調査した『南部城事務日記』中の抜書を列記しておく。

 慶安五年(1652年)三月十四日
今日郭御鷹野に鵜飼へ辰の刻御出御供毛馬内九左ェ門
 寛文六年(1666年)正月十三日 雪
殿様今日卯ノ刻大釜へ御鷹野ニ御出御供奥瀬治太夫にて申ノ刻御帰城
 同年二月六日 晴
殿様若殿様御同道卯ノ刻大釜へ為御鷹野御出御供奥瀬治太夫酉の刻御帰城
 寛文八年九月八日 晴
若殿様御鷹野に太田村へ御出被遊御帰りに大釜へ被為廻申ノ刻御帰被為遊
 同年九月十一日
若殿様御鷹野ニ大釜え御出御昼御弁当前潟と申す所申ノ下刻御帰城
 寛文十年五月二十八日
若殿様(行信公)御鷹野に今朝辰の刻栗谷川へ御出被遊御弁当滝沢午ノ刻御帰城
 寛文十年十月六日
若殿様湯舟沢へ未ノ刻御泊鷹野へ御出被為遊
 同年同月八日
若殿様湯舟沢より今晩酉の刻御帰被遊鹿一頭御鉄砲にて御捕被成
 寛文十二年二月二十五日 雨降
鵜飼野にて網を以て鶴一羽取上候ニ付、則時御新丸鶴屋に御放被成
 同年四月二十五日
殿様卯ノ刻御鷹野に一本木辺へ御田被成酉ノ刻御帰城御供弥六郎・治太夫・雖矢、罷出
 同年同月二十七日
殿様(重信)己ノ刻滝沢へ御鷹野に御出同酉ノ刻御帰城
 同年六月十三日 晴
殿様御気色能く今日吉日に付御鷹野に鵜飼辺へ己の刻出御申ノ刻入御
鶴千代様にも御供にて御出被為成御同道御帰
 寛文十三年二月六日 六ッ半小雪
若殿様鵜飼の方に鶴居り申由にて六ッ半御出被送申ノ刻御帰
 同年七月二十五日 曇
今日殿様鵜飼へ御鷹野に卯ノ刻御出朝御膳御仮屋にて被為遣末ノ刻御帰城被遊
 延宝四年(1676年)八月十六日
殿様御鷹野ニ栗谷川の方に巳ノ刻御出御供は桜庭兵助・橘山七左ェ門にて御弁当場は鵜飼御仮屋なり。申ノ刻御帰城被遊
 同五年三月十八日
鵜飼へ雉子追い奉行として桜庭十郎右ェ門并ニ御中丸御番仕候二十八人の者今日遣はさる
 雉子の数 四十三羽
一昨日十六日も同所で雉子十九羽 兎一匹
 同年十二月十六日
鵜飼村へ雉子迫の為奉行桜庭十郎右ェ門、并に御中丸御番相勤候二十八人之者共被遣候処雉子十九羽兎一匹獲る
 延宝五年十二月十八日
同人等同行今日も被遣雉子の数四十三羽獲る
 同六年十一月十五日
              追鳥奉行被遣箇所 山向源四郎
松屋敷・湯舟沢・滝沢・鵜飼・大沢・篠木・大釜・飯岡・煙山・郡山(其他略之)
 同九年二月十九日
栗谷川筋へ鳥討ニ巳ノ上刻ニ御出被遊御弁当場はうかい御仮屋なり
 元禄三年(1690年)七月十五日
若殿様右近樸御同道にて申ノ刻厨川の方へ御鷹野に御出酉の下刻御帰被為遊
 同四年八月二日
殿様巳ノ下刻鵜飼ノ方へ御出未ノ下刻御帰
 同年十一月十日
 雉子追奉行(下記の外は略す)
松屋敷・湯舟沢・滝沢・鵜飼・大沢・篠木・大釜・太田・猪去・鹿妻
                     野田半左ェ門
                     小本 助次郎
 同九年九月十五日 雨
殿様辰之刻栗谷川大釜・太田へ御鷹野に御出被遊、依之今日御目見得無之
 同年十月朔日
岩手郡角掛村長右門、手負真鶴一羽拾ひ上候に付為御褒美代物三百文被下之
 元禄十四年九月十七日
栗谷川御代官所之内角掛村三十郎鷹取鶴見出差上候ニ付御褒美として御代物三百文被下石川甚平へ御目付本堂源右ェ門相渡之
 宝永六年(1709年)三月二目
栗谷川御代官所鵜飼村佐助と申す者手負雁一羽差上候ニ付為御褒美御代物二百文被下之
 安永三年(1774年)三月十六日
一、鉄砲    一挺
前者昨日栗谷川通大釜村にて目当り迫ひかけ候処捨て置逃け候ニ付御鳥見長岡茂平治、四戸源次郎差上候ニ付御定目之通御褒美被下旨御用人中へ申渡之
 文化四年(1807年)九月十六日
鴨網  五張
           御鳥見
                      大矢 栄吉
                      四戸 吉弥
前ハ滝沢村之板橋谷地にて見当取押候ニ付差出候間差上候旨組頭指出之
 同年九月十九日
鴨網                 御鳥見
                      長岡 茂平治
前ハ耳取谷地にて見当り取押候ニ付差出候旨組頭之を指出す
 同年十月十五日
鴨網 三張              御鳥見
                      長岡 茂平治
前ハ昨日トクサ川谷地にて見当り取押候ニ付差上候
 同年同月同日
一白鳥 一羽             御鳥討
                      蒔田 新兵衛
前ハ昨夕大喰御堤に於て討留直々御賄所へ指出候処矢口宜しきに付献上御手当之義御賄頭中野専右ェ門へ申渡之
 同年同月二十五日
一鴨網 三張             御鳥見
                      長岡 茂平治
                      四戸 守太
前ハ大喰谷地ニ而見当り取押へ差上候也
 文政三年九月九日
近年諸鳥渡不足にて御献上御差支ニ付盗鉄砲網敷吟味方度々被仰付候得共兎角討上も不足に候畢竟盗鉄砲網張候者共数多有之儀(中略)見当り次第捕押訴出候様云々
 同四年三月五目
                   栗谷川通  柳沢村
前之御場所には年々御鷹巣懸有之候御場所ニ候然処事に寄ると巣元へ相障候者も有之儀相聞得候当年巣懸に有之候得共見守等は不被仰付候間堅く相障申間敷旨急度可被申渡候
 但し本文之御場所其外共ニ巣懸等有之飛廻相見得候ハバ申出候様可被申渡候
前之趣御沙汰被下候様組頭申出候間上田通、厨川通、御代官呼上於席申渡之
 安政五年(1858年)八月二十七日
  口上之覚
厨川通滝沢村之内「加賀内」鶴御寄格別鶴下り烏有之候御場所ニ御座候得共安政二年八月御手入有之而己ニ而其後は御手入無之ニ付、水持土手、当春出水ニ而所々水洩有之、水保無之、大破ニ相成、迚も当御献上御用辨ニ相成不申候間恐多き儀と奉存候得共、近々御見分之上早俄取御手入之儀、其筋被仰付御用辨ニ相成候様被成下度奉願上候  以上
  八月二十七日                飯岡 棟八
 御用人中様
前之通以御用状申来候間御用番、武兵衛方与兵衛方差出置候処九月十四日、御附札を以願之通被仰付旨、被申達候間、飯岡練八一 里御用状を以申遣之厨川通御鳥見共江も心得候義申達之
 但し御代官并川奉行、仕様積帳、二通御山奉行、木品細割書付一通、絵図面一枚口上書願相添被相渡候間取揃御勘定奉行一緒ニ相廻之
  柳骨(大坊直治氏)曰武兵衛姓ハ藤田、与兵衛姓ハ栃内にて藩の軍師なり

 以上の『南部藩事務日記』でもわかるように、三鳥の献上烏が不足する事を憂え、鉄砲と網を厳禁し、餌差や鳥見共に大ばみ・新堤・赤袰・上田の堤その他河々を巡視させたのである。

2 大喰堤

 寛永二十一年(1644年)八月二十五日晴(牧部落)=南部藩事務日記

 「初鶴一羽滝沢野に於て中野新十郎今日酉之刻討捕り之を上(たてまつ)る」

 以上の日記でわかるように、当時藩公は将軍家へ献上品として、三鳥を狩猟しなければならなかった。この三鳥を呼び寄せるべく、堤を構築したのである。

 今知られている最初の池は、いわゆる、大喰堤で、慶安三年(1650年)と伝えられている。この堤は大字滝沢にあって、役場より北方三十町、現在の国分農場付近で面積六千七十六坪ある。当時使用した人夫が、飢えていたので食うこと甚しかった処から大喰堤と命名したとかいう。

 寛保三年(1743年)七月二日晴(法泉寺部落)=南部藩事務日記
                        原 平兵衛
                        松田清太郎
 前者支配所大喰堤御普請仰せ付けられ候処最初見積り申し上げ候人数より、格別相減じ其上早く相済み候。尤も御普請場所致方も宜敷出来候に付き御言葉の御褒美仰せ出され候向後右の心得を以て相勤め候様仰せ出される旨席において御目付を以てこれを申渡す

 原平兵衛氏は総理大臣をした原敬氏の曽祖父也

 新渡戸仙岳氏評していうには、鳥溜堤として築いたのはこの堤で藩においては空前絶後の構築であったという。

 文政四年(1821年)三月五日     南部藩事務日記
 栗谷川通り御献上御鳥溜御堤御普請の儀、同所御鳥討御鳥見共より、口上願御人足并に木品積り書絵図面相添え、兼て差し出し候間、御家老中差し出し置き候処、今日左之通仰せらる。
  厨川通之内御鳥溜
一、大喰御堤    (六千七十六坪)
 上は数年御普請もこれなく、至ってアセ申し候。別して水門朽損し大破仕り候間水持かね候。浚ヒ御普請仰せ付けられ候様仕り度く候
  文政四年 四月  日          南部藩事務日記
 栗谷川通り内御鳥溜新御堤
 御普請坪数六千七十六坪一坪に付き人積り探サ二尺掘り堰代切高の処ニ相成るべくは切流に付き残の処は二尺浚(さらい)に仕り候。古水門水堀の処土手敷八間高サ一丈五尺巾七間ゴミ浚留切土手に仕り脇へ水門新規に仕り候上仕様御人足積り上げ下之通り
一、松元木三本、長十三間物、末口五尺廻り 十一人 杣作料
  但水道木入用 二十三人 大工作料
  御積御人足 十八人半 カスガヒ五十四丁
一、六千六百五十八人半 二十三人 釘百八十本合釘五十四本
  内         五十五人 乱杭六百六十本
  六千七十六人 浚御人足 五十五人 芝切賦一人ニ付二把宛
  百五十人 水道木元剪 七人 乱杭打一人ニ付十五間積
       引賦共 十一人 シガラミ懸一人ニ付十間積
  二十五人 木挽作料 六十一人 水道新規据方堅メ方
  二十人 水堀ゴミ揚方御人足 十五人 肝入身分
  二十人 塊(つちくれ)切一人ニ付二百枚賦方共 十五人 定番身分
  十六人 土手亀ノ子堅メ 三十五人 小屋懸御人足
  〆六千五百八十三人半 十人 薪切御人足
上者日数十日に積り上げ申候

 文政四年六月十二日           南部藩事務日記
一、前書にこれある通り栗谷川通新御堤浚御普請明十三日より取り付き候段(後略)

 文政四年六月二十一日          南部藩事務日記
栗谷川通り新御堤出来栄ニ付き明後二十三日其筋御見分下され候様云々
 厨川通りの内御鳥溜
一、新御堤
 上は数十年御手入これなく、是迄は草払御人足の内少々残し置き、自力に及び候程は、御鳥討御鳥見共自分手入仕り候て相用い居り候へ共、迚も大破に及び、下土手十間程崩れ、形代もこれなき様ニアセ、堤の中は高く相成り、水溜り一円これなく候。前の為に第一の大喰御堤も近年下り鳥これなき様に相成り、御鳥討共甚だ迷惑仕り候。これによって外御堤は追て御手入成し下され候共、前新御堤は、何卒此度浚ひ御普請仰せ付けられ候様仕り度く候

 文政四年八月二十五日          南部藩事務日記
                   厨川通御鳥討
                       藤田新兵衛
 菱食雁  一羽
上は大喰新御堤に於て討留め直々御賄所へ差し遣し候段申し来り御膳番へ差し出し候に付き見分を遂げ候処矢口宜しきに付き御献上御手当の儀御家老中へ見させ候上御膳番上田善八郎へこれを申渡す

 文政四年八月廿五目           南部藩事務日記
一、鴨網  二張               長岡 善作
                       豊巻 作助
上は昨日大喰谷地において見当り捕へ押へ候旨訴へ差し出だす
  文政四年九月九日           南部藩事務日記
 近年諸鳥渡り不足にて御献上御差し支えに付き、盗鉄砲稠(はげ)敷御吟味方度々仰せ付けられ候え共、兎角討ち上げも不足に候。畢意盗鉄砲網張候者数多これあり(中略)見当り次第捕え押え訴え候様云々

七 諸葛川

 春子谷地に源を発する諸葛川は約五里流れ、盲淵で雫石川に合流している。本村の石止における潅漑面積は約十二町歩で、全領域約六十町歩といわれている。明暦三年(1657年)九月三日の『南部藩事務日記』に「栗谷川之内諸葛川普請奉行広瀬伊左ェ門と御水主小頭一人今日申付之」とあるから、度々藩において普請をしている。なお大坊直治氏は耳取下田付近の普請なるべしという。

八 甚助堰

 大坊直治氏の記述による。

 元村に太野姓を名乗る家十二軒あり。これが総本家を大野由松氏とす。其四代或は五代先の甚助なるもの、頗る侠気に富み、また土木事業に趣味を有し、中流の生活を持続せしが、柳沢の湧口を基点として、新たに水路工事を起さんことを志し、唯、大曲(かね)尺一個を携へ、土地の高低を測量し、小字巣子部落まで、疎水するの困難さは一通りならざりしものゝ如し。牧野法泉寺より、耳取長根を経て、監獄の西方より舘坂に至り、二流に分れ、一流は谷択橋に至りて北上川に注ぎ、他の一流は住吉より片原町の裏に至り、さらに二流に分岐し、一流は堂の前より新田町を横切り、盛岡駅付近にて鴨大川に合流し、他の一流は木伏に至り共に北上川に注ぐ。その延長実に八里余なり。これによって潅漑する面積は、小谷塚・上堂・舘坂・住吉・片原・新田町両裏・木伏等にて約百数十町歩に及び、産米の一千石に垂んとするを見るに至りしは、その功績決して尠(せん)少なりしとせざるべし。しかしながら不完全なる機具を用いし結果、高低測量を過り、浪費多く、成功に際しては家産傾き生活上に甚だ不如意を極めしを、藩にて探知し二人扶持を給与さるゝことゝなりたり。
                   滝沢村 堰見ノ甚助
 御勘定所附御小者被仰附
                   滝沢村 堰見ノ甚助
 永遠に二人扶持を下し置かる。
 この二枚の御沙汰書は太田重裔(しげすえ)翁盛岡城御物書奉職中御留より写せしことありしを以て今に記憶に新たなるものあるも年号を忘れたりと同翁の直話(明暦二年<1656年>ころか)。
 かくて羽織に小刀を許され、御勘定所に毎月一回出仕せしものなりしが、その真の御沙汰書は寛政年間に火災にかゝりしことあり。それ以前にも火災の厄にかゝり灰燼に帰せしならん。兎に角所在不明にて深く遺憾とする所なりと末孫の談。

九 先子川

 作右ェ門ど(長内)の祖先は、現教育委員会の北隣に五・六畝歩の畑地があって、その辺りに杉の古木数本あるが、そこがすなわち旧宅なりという。かの有名な大力士山ノ上三太夫の宅であることは言わずもがなだが、その姉にお先なる一婦があって、筋肉あくまで逞しく、偉大なる体躯を備えていた。秋期収穫のとき連日の雨で道路は泥濘と化し、村人は郊外より稲・蕎麦・大豆等を馬背にて運ぶにあたり、過って、荷馬を泥濘中に転倒せしむれば、このお先の助力を乞うのを常とした。お先は嬉々としていうには「応諾」と、進んで依頼に応じ、倒れた馬を荷諸共唯一人で泥中より引き上げたという。

 このお先が農具である鉄の杓子をもって、新たに小溝を開鑿し、水田を新墾したが、今日この溝より潅漑すること三十町歩に及ぶ。(弟の三太夫は延宝四年<1676年>死去故おそらくそれ以前と推定される)。

第二節 林業

一 はじめに

 村の山林は昭和四十四年におよそ総面積の三割六分を占めている。

 往古における土地制度のうち、森林の所有関係は明らかでないが、当初は原地住民の共同の使用収益に委せられていたものであるが、やゝ進んで土豪が次第に起って来るに及んで漸次これらに独占される状態となった。従って原地住民の使用開発を妨げ、あるいは利益独占によって土地の利用を充分にさせなかったようである。このようにして地方豪族が永く森林を占有支配する状態が続いた。

 江戸時代になってからは、これらの豪族は大部分藩侯となったので、その占有支配した森林は藩有となり依然として彼等の独占的領有を受け、いわゆる藩有林なるものが成立した。

 南部藩の林政について古いことはわからないが、承応年間(1652-54年)に御山守をおいて森林の管理保護にあたらしめ、原則的に伐採を禁止し、さらに無立木地にヒバ・杉・落葉松・松及び漆樹の植栽を奨励して造林の実をあげると共に馬産地としての採草地を開放していた。

 御山守を惣百姓とする村には租税の一部を免除するなどして「御山見廻立林」を奨励している。

 また元文・寛保年間(1736-43年)には山林の管理保護・造林奨励の布告を発し、宝暦八年(1758年)には領内山林の境界、木数尺廻土質及び流送可能に至る川への距離等について書上を命じ、藩民所有の区別を明らかにしている。

 当時、土地永代売買禁止が行われていたにもかゝわらず、すでに元禄・享保(1688-1735年)には山林売買が公然と行われるようになった。これは、はじめどのようにして民間のものになったかはわからない。このころから藩民いずれの山にも輪伐の実施をはじめ、留山の選定や運上山の制度を採用して計画的に伐採を実施した。

 地方においては代官所に御山奉行をおき山林管理(春秋見廻り)山林に対する租税(山林冥加銭、御山林役「一ヵ山より二百文-三百文位」と称するもの)の課税等に当たらせ、さらに村には山肝入御山守(藩有林の監視人で肝入のすいせんで代官が承認し、何沢・何々山山守として(山に一人から十人位まで置いた)古人(山の境界等に明るい者)の役をおいて責任を持たせ、山火事や盗伐等を厳重に監視させた。

 しかしながら、それでも愛林思想は全面的に滲透しないばかりか往々濫伐が行われ、森林は逐年荒廃の度を加えたので寛政六年(1794年)、文化元年(1804年)に植樹奨励のための部分林の制を改め、「植立」「御山入切手」「苗伏せ」「御立林」等を奨励し、さらに弘化三年(1846年)総御山書上を施行して林籍林簿を整理し、藩内山林の施設及び処分等について、その実体を把握するため実施調査を行なった。これが廃藩置県の際明治政府に引き継がれ新しい山林制度の基礎となった。

二 南部藩の概況

 南部領は山林多く、従って材木の産は少なくなかった。

 桧・杉・黒桧・松・栗・桂・栃・朴木・欅・樅・トド松等の用材は豊富に産出されている。しかし各代どのように産出されていたかは、極めて算出が困難である。

 秀吉は伏見城修築に際し、秋田氏や南部氏にその用材の提出を下命しているから、南部領の木材は、文禄・慶長(1592-96~1596-1615年)中すでに中央にも知られていたらしい。

 殊に南部領は、南部桧の産地として知られており、秋田津軽の藩境、岩手郡・鹿角郡から北郡にかけては、桧・杉の産地である。

 南部利直は就封在職中(慶長四年<1599年>~寛永九年<1632年>)家臣等に出した知行証文の末文には必ず「山林竹木を伐り荒さぬ様に」の文言を添えている。藩政初期から、山林の保護を図り、用材として樹木を育成するための政策であった。

 また伐木した諸材木を点検するために筏奉行を設置している。筏奉行の設置も、寛永二十一年(1644年)にはすでに任命されている。

 慶長(1596-1615年)・元和(1615-24年)・寛永(1624-44年)時代は、領内諸建築に大量の木材が使用され、いわば、公用木の伐り出し時代で、未だ領外に多くの移出をみるまでに至らなかったと推測される。

 盛岡城下仁王小路の北にある岩手町なる町名があり、慶長四年(1599年)八月材木町と改名したのも、雫石川・北上川合流点で、筏着場であったからであろう。新築地堤防の出現(寛文十二年<1672年>着工と云)、北上川は城郭の南方杉土堤付近において、雫石川と合流するに及び、筏着場、すなわち、材木場も下流の杉土堤に移行したものと知られる。

 藩は「留山」と称する制度を採った年代はもちろん明確ではない。慶安四年(1651年)十月廿三日大槌の安渡浦二十三軒が火災にかゝったとき、その伐材を許可している。

 山材は原則的に藩有であるから、伐木の許可がないと伐り出しが出来ないのである。

 材木町に集積した諸木材が、仙台領に移出され、北上川を筏で下るのである。

 藩政初期以来、山林樹木の濫伐を禁じ、また「制木」と称して特に育成に努めたものもあったが、正徳二年(1712年)十二月には、諸木植立を奨励する訓令を出している。

 杉・桧・松・槻・栗のごときも五分の取分証文を交付するとしてある。すなわち成木して伐材する際は、植付したものが半分、残り半分は藩に納入するというのが、基本方針であった。しかし、その後になると、八〇%は植林者自身がとり、二〇%を公収するようになっている。これが「弐分八分御取分(おとりわけ)」制である。

 火災・地震・津波・水害などで家屋を失ったような場合は、藩から木材を給される例があった。それは諸士・寺社・百姓にも及んでいた。

 南部藩は、前期においては、農業生産の向上、産金の豊富、林産、畜産、水産も順調で、財政順調であったが、元禄(1688-1704年)以後になって産業全般が不振となった。従って、そのことが山林を伐り荒すことになって、伐材すると共に留山を強化し、植林を奨励するという政策に転換したのは藩政後期の様相である。

 盛岡南部藩は、早くより雫石川畔に筏奉行を設置し、北上下流への搬出を監視すると共に濫伐を警戒したのは、その良材を産する森林資源保護の顕れであろう。

 領内十ヵ郡にわたる山林から伐採される木材の量は、おびたゞしい数と推測されるし、一般庶民の経済を潤すと共に、藩庫の収入にもなって、藩財政を支える一資源となったことが考えられる。

三 南部藩の林制

 大坊直治氏は、「仁佐瀬より大釜・篠木・大沢・鵜飼・滝沢・湯舟沢・不動沢・柳沢・新田山の所謂内山は御上山にて、一本一草一石たりとも手を触るゝを得ず。村民は持籠森・鎌倉森・帝釈山等より焚料薪を取りたるものなり」という。南部藩は山林に対し厳しい左記の禁制をしいた。

1 山林種目

(一) 官山=御山
 従来江戸上下屋敷の内、火災等に罹った場合、その非常に備えんがため、宮古のごとき運送に便利の地を選び、これを予備とした。此山は如何なる事故あるも伐採せざるを原則とした。

(二) 御留山
 森林繁殖の上から、ある山に限り樹木の伐採を禁じ、または薪炭等に供すべき山を選び立て、凶饉等に遭遇し、薪炭の費途を償うに暇なき場合家中及び窮民に給与するためその伐採を禁制していた。

(三) 私山=葉山
 他人より買入れ、または古来より誰の持山という確証のある山をいゝ、この私山といえども、杉・松・栗の類は濫に伐採することを許さなかった。

(四) 取分山
 これは藩の奨励の下に樹木の植立者はその成木の後二分八分の分収法(藩二・民八)に依って、立てられた山を称して言う。この植立木の枝取は山奉行にて聞届け、元来の伐採は出願の上許可されるを例とした。

(五) 忠信植立山
 篤志者が出願の上、松・杉等を植立てた山を称していうので、成木して用材となれば、これを賞するに身分を引上げ、帯刀または紋服を賜わるなどの沙汰が行われた。

(六) 居久根林
 宅地内の周囲に植立てた植木を言い、その植立者は家屋等の建築用に供する際、その伐木を届出るときは許可されるものである。

(七) 宅地木
 宅地内にある生木の家屋より高くなったものを伐取る場合に、盛岡は監察、在は山奉行に届出ることになっていた。

(八) 寺社林
 寺社境内の伐木はたといその寺社の者が植えたものでも、私に伐採することを禁ず。但し、寺社修繕に供するため届出るときは許可されるものである。

(九) 運上山
 田名部桧山のごとき山数を二百八ヵ年に割合い、その伐採する順に当っている山より五寸角以上の木を田名部山師共に入札せしめ、勝手司用人これを開札し、重役の認可を経て行うものである。

(十) 高の目林
 田畑にあって耕作に適せざるもの、またはその地方の山林に遠隔して不便な場合公税を納めて諸木を栽培する場所を言う。

2 山林職掌

(一) 代官  山林に関する専任の役ではないが、山奉行の上席にあって、民家の建築等に供するためその民林を伐採するときほ、山奉行と共にこれを調査し、相違なきを見届けた上許可する権を有していた。
 道路橋梁の修繕、社寺等の建築のため木材を多数要する場合には、山奉行と共に書面を以て監察役へ進達す。監察役は勘定奉行に協議し、山林方を以て吟味の上、重役の許可を得るを例としている。

(二) 山奉行
 盛岡近山の外、各地に在勤を命じ、その担当する官山を春秋二回見廻りをなし、その他伐木願い、または植立願いの検査地所の検査、あるいは官有の伐木等ある場合は、臨時に巡回するを例としている。官用木払下木とも其本数及需要の程度を調査し、これに鎚印を捺し、その本数の紛乱せざることを要す。
 人民より官木払下の申出あるときは、林相の如何、立木の疎密及木種の良否を検じ、その差異なきものは用途の理由を詳記し、代官山奉行連署の願書を出させ、奥書末書し勘定奉行に進達す。勘定奉行は山林方に下付し、価格の当否等を勘査せしめ、重役に提出し、許可の上伐木元剪証文を製し山奉行に下付す。山奉行は該証文に照し、本種目通尺曲を査糺し、右許可の証として証文を払受入へ下付するという。そして伐木の上造材に鎚印を捺し、山元払出をなさしめ、また根株に鎚印を記するを常法としている。
 右代官山奉行は三ヵ年を以て期限とす。所轄人民より欣慕せられその勤続延期を請うことあるも容易に許可せざることを例としている。

(三) 山林方
 勘定奉行に属し、領木山林の木数を調査し、また山林に関する金銭の出納を担当するものとす、官用の木材の剪出等に係るときは、山奉行と共に現地に派出し、その材木の良否を検査し、官山の取締に関する諸帳簿を査察するものである。

(四) 植立吟味役
 勘定所吏員の中より置き、植立奉行の検査する任にあったが、中古この役を廃している。

(五) 植立奉行
 植木の植立をした者、または種芸に特殊の力を有するものよ。これを選任す。盛岡近傍はもちろん在々に至るまで、松・杉・栗等これら樹木に適当の地を見立て、その地において差支なきを検じ、その現状を具陳した後着手するもので、植立たる樹木を保護するには、その村の有志者を選び、代官よりその積立見守人を命ずるものである。

(六) 山守
 村々の官有を監護せしめ、みだりに伐木する者はもちろん、人民において法を犯す者があれば、山奉行へ訴出するものとする。領内三十三通各村にその官山の多少によって、人員に関係あり、普通一・二名、または四・五名を配置していた。

(七) 山肝煎
 山古人、これは毎村に常置の役目でなく、その箇所により境界紛議の起った場合、古老にあらざれば決すること能わざるより特に設けていたものである。
 これらの制度は時代によって多少の変遷はあったが、大体以上の林目役人があって、山林の保護繁栄を図ると共に伐採を厳重に取締ったのである。林制犯罪の者を山守若くほ村肝煎において認め、山奉行へ訴出したときは、代官と共預けにその手続を議し、山奉行及給人等を派遣せしめその主犯を捕縛し、代官所へ引付け、その従なる者は町宿または村を申付け、代官山奉行において糺弾し、監察へ訴出するを例としていた。盗伐、山火事のごときものに対しては最も厳重にこれを監視取締っていたのである。

3 鐇(まさかり)証文

 山林樹木の伐り出しには鐇証文と称する認可証文を与えて入山せしめていた。はじめは藩の家老席から発行されたらしく『封内貢賦記』中の「御証文条目竝通手判」十二箇条のうちに「春木(き)山鐇役御証文」の一条があり、「右は老中御城有合之御判」とある。その後、その事務は、その地の御山奉行の分掌となったが、御山奉行の事務は代官所に移管されて御山奉行の廃止になった際は、代官所で鐇証文を発行している。

 農民が火災などで類焼した場合、藩の立林(たてばやし)や、入会地の山林から建築材の伐り出しが手続のうえ認可されていた。水源地涵養として、永く保護存置する方策のもとに、水の目御山(おやま)があった。たとえば、紫波郡の農民の水田経営を保護するために雫石地方にある山林を水の目御山として立入を禁じているごとき例があった。

 山林は原則として藩有であるが、比較的自由に出入できたのは入会地であり、入会山からは加入者として、平等な伐木は認められた。ことに農家の燃料としての薪木は炊料山(たきりょうやま)として入山が認められ、必要程度の伐りだしが可能であった。鐇証文の下付がそれである。

 藩政末期頃になると、製鉄燃料として、木炭を製するため、薪炭木が多く伐られるようになった。

 これら山林の種類は土地の事情を勘案して出入を禁じたり、伐木を制限したりしている。藩を経営するための必要によって生じたものであった。従って藩が必要とする場合は、これら山林以外の社堂の境内木すら伐木して使用することもあった。高の目林の外は悉く無税であった。

 後世明治五年(1872年)岩手県から山林の種類を高の目山以外を七種に区分して書上げているので、これを参取して次表に簡単に示すことにする。

4 伐木と極印(ごくいん)

 山林から用材伐採の場合、裁許を受けた材木であるとの証明印に、現品に「極印」を打っている。墨汁を使用する鉄印がそれである。たとえば、(鉄印例→)のごときものがあったらしい。

山林の種類→

四 本村の山林に関する古記録(大坊直治氏調査)

  〇寛永四年(1627年)三月廿九日

 厨川通・沼宮内通・上田通御百姓共へ
鹿角街道盛岡より田頭村迄四十余里之野道前々より並木植立之御趣意有之候得共立放し候場所ニ牛馬之通り繁く是迄植立成木に至り兼候処日夜往来之一里使、或は余儀なき旅仕候者雪中踏迷ひ旅行難儀致候由依て此度田頭村迄並木植立被仰付前奉行村上忠右ェ門、高橋左伝治、大更御新田帳付之者右手先被仰付候間此旨相心得後ニ諸人之救ニ相成候事故木数の多少によらず植付候者は御上之御趣意と相叶候条末々小百姓共迄も心得次之通迫々植付可申候
  厨川通 夕顔瀬片原町先より沼宮内御代官所田頭村迄野道巾二十間程にいたし一尺位迄之小松其間三間程位に植付可申
   但小松は手寄の場所より取可申其筋へ断るに不及候尤植候節根へ廻り四五尺四方芝クレ切廻し野火之防に相成候様心懸可申候

  〇寛文五年(1665年)二月十八日
薪一切無之、何れも迷惑仕候に付、湯舟沢山、滝沢山当月中被下候。誰に不寄為剪取申候由、前両所山守へ手形出す。
  但し塩川八左衛門へ渡す。

  〇元禄八年(1695年)三月廿八日 雫石歳代日記
雫石安庭御山奉行尾入筏改衆御役宅建申候万事諸入料は御上様より被下置候。芳、茅、縄押しもと、御人足は御村より出て、相勤め申候。材木は厨川通鵜飼村御仮屋をこぼし附越申候。四月廿五日御普請相済申候。六月八日御代官下杉孫八郎殿、御山奉行根守源兵ェ殿、栃内伊兵工殿。

  〇松生木剪取制止御達
    元禄十五年六月三日
盛岡近所松山に於て、松之生木剪取申間敷由、兼而被仰渡候得共相違候様に被及御聞候。依之此度急被仰出、別而改人被遣候。向後雑木は小柴松之枯枝落葉之外は一切剪取申間敷由被仰付候。此旨支配有之方并召使ひ候者共迄、銘々厳敷可被申付候。若此上松之生木、小松たりとも剪取候者有之候はゞ、御僉議之上急度可被仰付旨御家中江御歩行之者觸候様に申付御徒頭共へ御目付本堂源右衛門申渡之

  〇御留山
    寛保三年(1743年)六月十日 厨川通御代官所之内
                          滝沢山
前御山此度別而稠敷御留山に被仰付候。雑木小柴たりとも一切剪取不申候様、刃物人申間敷候。御用木倒木共に取申間敷旨被仰付候。且又前御山へ人出入稠敷不仕候様可申旨被仰出候。万一人出入等有之并小柴たりとも剪取候儀相聞得険はゞ、御山守之者は勿論御山奉行は、急度落度可申付旨被仰出。

  〇延享五年(1748)四月六日
鬼古里山のハヅレより滝沢山之境迄。田畑之木の根株有之候通ハ手入不仕、木材一切剪り申間敷候勿論野火通し候事堅く法度ニ及び候也。
前滝沢山ハヅレより鬼古里山のハヅレまで木材一切剪り申間敷勿論野火通し候事堅く法度云々。
大森より姥屋敷迄末文同断
前滝沢山の札は四月六日建之

  〇寛政六年(1794)閏十一月十二日
                不動沢下御山守
                     三助へ  被仰渡
其方儀不動沢御山、片原町長助去年八月栗丸太十六本堂ノ前喜四郎十月五日栗丸太十三本、前御山より栗丸太伐取候節見遁呉れ候様申向候旨御尋之上申上候。前之通中向候ても押て差留伐らせ申間敷候処其儀無く見遁し伐り取らせ候ハ無調法ニ付被仰付様も有之候得共御慈悲を以過料銭被仰付御構無く、慎御免被成候条向後万端相慎可中者也。
 前評諚伺之通御役人共へ申渡之

  〇乍恐奉願上候事(佐助古文書)
鵜飼村鳥谷平御山添、七社明神之御堂大破仕、再興仕度奉存候得共、困窮之私故自力ニ相成兼候。依之恐多く願上候様御座候得共、前社木之内うら枯に相成候松、目通六尺廻、長四間一本、同五尺四寸廻、長四間一本、同五尺四寸廻、長五間一本、同五尺二寸廻、長七間一本、都合四本ハ鹿料五丁鳥居一組、二間樋三丁、四間樋一本、御慈悲の御了簡を以て被下置度奉願上候。願之通被仰付被下置候ハヾ前御堂再興仕併而十五石余御高目用水樋汚損候間取替用水相用申度奉存候。御憐愍を以て願之通被下置度奉願上候。以上
  寛政八年(1796)十一月
                     鵜飼村 佐助
                         三之助
                         彦助
                     老名  与作
                         甚之丞
                     肝入  源之丞
  和井内平作様
        (御代官)
  外岡縫右ェ門様

  〇遺証文(佐助古文書)
一、松元木 三十本 長二丈 末口二尺五寸廻
  上ハ厨川通鵜飼村御山之内新田御山ニ而
一、雑元木 三十本 長二間 末口九寸廻
  上ハ同村の内鳥谷(とや)平御山ニ而
      三十本 長二間 末口九寸廻
  上ハ同村之内高坊御山ニ而
上ハ厨川通御代官所稲荷前街道、増普請入用ニ付上之通依頼願被下候条御山之紛敷儀無之様為剪出可被申候也
  寛政十年(1798年)十一月六日
                石見判(大宜秀虎)
                長門判(八戸篤義)(家老)
                中務(東政隆)

  〇乍恐以口上書奉申上候
此度岩鷲山麓へ小屋掛仕炊料薪代取居候処御沙汰ニ付早速引取申候。随て乍恐奉申上候炊料薪前々大勝寺領御百姓之家二・三軒致無心泊居年々二月山と申候で雪消不申内伐取罷在候。然所当年ニ至リ前家貸不申ニ付無拠嶽山麓サスパタケと申所へ小屋掛仕炊料伐取申候。尤柳沢御新田御境内御林へハ決して相障候儀には無御座候。嶽山中段へ罷登伐取申候。此場所には松栗桧等は一本も無之雑木一通りの御山に御座候。内山通りハ近年山火事以来小柴生ひ立候計にて立木稠敷被仰付候ニ付薪取候御山無之嶽山一応ニ御座候。先年御山林方川井九蔵様、小野寺六蔵様立木稠敷御沙汰被仰付候節も前嶽山之儀ハ高根薪と申候て御構無之伐取候場所に御座候。
前文奉申上候通往古より伐取候場所に候得ば御憐愍を以て是迄之通伐取候様被仰付被下置度奉願上候。以上。
  寛政十二年二月廿九日
                   滝沢村 老名 長助
                          甚助
                          六之丞
                       肝入 与兵衛
  御代官 栃内瀬左衛門様
  御代官 沢田宇右衛門棟

  〇乍恐奉願上候事
栗谷川通滝沢村御百姓共往古より炊料薪先年より岩鷲山嶽山例年二月中堅雪之節剪賦罷(きりくばり)在候処去月廿八日御沙汰ニ付薪取不残引取申候随て恐多願上候様ニ奉存候得共前嶽山御差留被成下候て炊料薪取場所一円無之惣百姓一生一統相続可仕様無御座迷惑至極仕居候間御慈悲之御了簡を以て是迄之通伐取候様被仰付被下度奉願上候。願之通被仰付被下置候ハヾ遠山之事故田打前薪取溜御田地仕付相続可仕難有仕合奉存候。此段惣百姓共一統奉願上候。
  寛政十二年三月十一日
                  滝沢村 老名 長治
                         甚助
                         仁左ェ門
                         六之丞
                      肝入 与兵衛
  御代官 栃内瀬左衛門様
  御代官 沢田字右ェ門様

  〇乍恐口上書を以奉申上候
岩鷲山嶽山にて古来より薪伐取候ニ付例年之通春山相働居候処当年立林に相障候様相聞得候とて御尋ニ付乍恐前に申上候。
先頃より段々申上候通往古より春中堅雪之頃泊山仕嶽腰通より中段迄沢々木立にて伐取来候嶽沢々に飛木と申ハ無御座候。柳沢より嶽麓迄一里半程之間、萱野、柏、飛木立に御座候間夏中日帰ニ罷越候ものハ飛木伐取申候儀も御座候得共春山と申ハ泊山仕、沢々之木立にて伐取来候立林之儀ハ年々野火細毛之節御百姓共大勝寺領之者共双方立合細気仕候故立林ヘハ決して相障候儀は無御座候嶽腰通野火ホソケも不仕候間腰通より上ハ立林之御場所には無御座候間此段御答奉申上候。前文奉申上候通之御場所に御座候故、往古より伐取来候所なるに御吟味に付薪取候様無之御百姓共炊料薪甚だ差支、御田畑仕附には取付候時節に至候処前之仕合にて相続方甚だ以て迷惑之至に奉存候間何卒御慈悲之御賢慮を以是迄之通伐取候様被仰付被下置度奉願上候。誠以恐入申上様ニ御座候へ共御差支にも相成申間敷御場所と奉存候間御見合之上仕附前御沙汰被成下置度事願上候。以上。
  寛政十二年三月十八日
                  滝沢村 老名 甚助
                         長治
                         仁左ェ門
                         六之丞
                      肝入 与兵衛
  御代官 栃内瀬左ェ門様
  御代官 沢田宇右ェ門様
前書之通御答申出候間差上申候。以上。
                       栃内瀬左ェ門
                       沢田宇右ェ門
  御山奉行 小向周右衛門殿
  御山林方 伊藤所左衛門殿
                      肝入 与兵衛
前御呼上にて被仰渡候には岩鷲山にて炊料薪取候儀以来ハ致無心伐取申度願上候様被仰含願書相下る
  寛政十二年四月八日

  〇乍恐書付を以御答申上侯事
厨川通御百姓共炊料何方の御山より薪取候哉と御尋ニ付下に御答奉申上侯
 岩鷲山沢々にて古来より伐取来候御場所御座候。兼々御見分被成下置候通、前通之御山之儀ハ去ル子ノ年山火事以来木立と申も無御座候故御立林稠敷被仰付置候間日々相廻出精立林罷在候。岩鷲山之儀ハ滝沢に不限惣御村御百姓共古来より薪、萱、草共取来罷在候御場所ニ御座候。此段御答申上候。以上。
  寛政十二年七月
            厨川通惣御百姓
                滝沢村 御山肝入 藤七
                鵜飼村 〃    助吉
                大沢村 〃    十右ェ門
                大釜村 〃    新助
                滝沢村 肝入   与兵衛
                鵜飼村 〃    与作
                土淵村 〃    清吉
                大沢村 〃    徳之丞
                篠木村 〃    吉右衛門
                大釜村 〃    主蔵
               上厨川村 〃    藤兵衛
               下厨川村 〃    久之丞
 栃内淑左衛門様
 沢田字右工門様
 安宅平右衛門様
 藤井仁左工門様

  〇当春嶽山薪取ニ罷越候者共名面書上候様被仰渡
菊松、千太郎、長之丞、三人は出違留置候者共
七之助、己の、藤助、藤五郎、虎松、久兵衛、与八、多助、戍松、弥兵衛、申、戍間、三太、勘太郎、己之、せ、四茂、三吉、三之助、宇太、万助、与助、松、松之助、三太郎、戊松、次郎〆三十人
  寛政十二年九月八日
                  滝沢村 老名 長治
                         藤七
                         仁左衛門
                      肝入 与兵衛
  栃内瀬左ェ衛門様
  沢田宇右ェ門様

  〇菊松 千太郎 長之丞
前三人之者、出違差留置候次第具に可申上旨御沙汰に御座候。去春岩鷲山に罷越薪取候節重立候ものにも無御座候得共御尋に付出達留置申候外訳合と申義無御座候。此段申上候。以上。
  享和元年(1801)四月十六日
                       中野専右ェ門
                       栃内瀬左衛門
  御目附 岩館五郎左ェ門殿

  〇享和二年九月三日
鵜飼村鎧大明神別当泉寿院願出候は当六月前杜木杉一本ウツロ木焼木ニ相成直々被下置候処前宮大破ニ付再建仕度候間、前杉山成ニ剪取三十五本地払仕前入用仕度十分一御役御免被成下度旨自光坊末書を申出御勘定頭共為遂吟味願之通寺社御奉行へ申渡之

  〇乍恐春願上候事
角掛村炊料薪前々より岩鷲山之内、笠〆、長鼻、赤堀、鬼股、前四ヵ山々にて取来居候間去年二月も前々之通登山仕度候処前御山差留、其上大勝寺領御百姓共より滝沢村肝入迄届御座候。前之趣御訴申上候処、私共御尋之上御沙汰迄登山之義相控可申旨稠敷被仰含奉畏罷在候。然る処御沙汰も無之如何共難凌罷越伐取候へ共何の差留も無之伐取居候。当年に相成当村より罷越伐取居候処御不審にて御沙汰迄相控候様去年申含候処、如何相心得罷越候哉と御尋御座候。当御村ハ前御山に無之候得ば、炊料無御座候故登山仕供義御不審之趣恐入奉存候。随て奉申上候。去十三日当御村より薪取四人登山仕候処、赤堀御山にて大勝寺領御百姓十四・五人罷越其内長之丞と申者の申す事には炉物相渡可申旨申聞候内二十四・五人一斉にカヽリ薪取四人之内三人之炉物を奪ひ取り引取候。随て乍恐奉申上候当御村之義ハ山中登申せ薪取場所前文之通右四ヵ山より外に無御座候。殊に一里御用状持送之場所にて夜中にても炊科入増且雪中之砌は御用にて御通行御役人様方并に旅人衆中宿遠之場所故御立寄焚火にて御凌ぎ御通り被成候御場所に御座候。前御山御差留にては当村潰れ御用難相勤躰に罷成候ては恐入奉存候間御憐愍を以炊料差支無之様被仰渡之御沙汰相蒙申度奉願上候。何卒相続御用相勤候様被仰付被下置度願上候。以上。
  享和三年亥閏正月十六日
                   角掛村惣百姓共
                      老名 吉
                         宗吉
                      肝入 与兵衛
  中野専左ェ門様
  中里 準見様
前書之通願出候間遂吟味候願之通被仰付下度奉存候。以上。
      正月
                       中里 準見
                       中野専左ェ門
  御目付  箱崎助左ェ門殿
  御勘定頭 松田茂左衛門殿

  〇乍恐口上書之覚
去月十六日御呼上、被仰渡候には大勝寺より被差留候岩鷲山嶽山にて薪取候儀従御上御沙汰有之候迄相控可申旨被仰渡候処段々及数日焚料一円無之致方無御座候ニ付去八日大勝寺領一ノ王子野端際にて小柴伐取居候(中略)。三平と申者伐取り附け出し居り候処中村の円蔵と申者咎候間前文之通焚料差料候間罷越候為伐呉れ候様にと申向け候処決して難相成趣にて円蔵に踏み倒され申候得共此方よりハ一円手向ヒ不仕居候得ば円蔵引取候問頓て附け賦り申候此度仰尋ネには三平義円蔵を打擲(ちょうちゃく)仕候て円蔵義歩行不相成旨ニ御座候得共一円下様の儀相心得不申候。三平義五十八歳にて殊に弱身の者円蔵義ハ三十歳以下の角力取に御座候。仲々五人三人相カヽリ候ても不及力義に御座候。打擲などと申事は不存寄の義に御座候。円蔵儀段々の次第偽申上候事ニ候。村方にてハ兼々被咎候ても此方より手出不仕様相心得居候段申合置候。殊に社木并松、栗之御制木杯伐取不申様若イ者共迄申合置候間御制木等ヘハ相障不申候。前御尋ニ付乍恐御答書奉差上候。以上。
  享和三年二月十三日
                    角掛村惣百姓
                      老名 惣治
                         三吉
                      肝入 与兵衛
  中野専左ェ門様
  中里 準見様
前書之通申出候間差上申候。以上。
                       中野専左ェ門
                       中里 準見
  寺社御奉行 本堂仁右ェ門殿

  〇文化元年(1804)二月
昨日岩鷲山嶽にて滝沢村御百姓十八名薪伐取候所へ大勝寺領之御百姓共来り咎め打擲いたし、両人怪我人有之(中略)、手負人戍松、甚之丞、戍松(二十二歳)右の眉毛の上二ヶ所、右半身腰迄腫有両足不叶、食事ハ去十九日より汁椀にて一株宛日に三度、久慈町七兵衛より膏薬粉薬、両便にも立居相成不申。甚之丞(四十八歳)眉間二打痕、左の眼の下打痕。右乳の下少々腫れ、立居歩行面倒。怪我人は片原迄罷越御医師被遣
                   宿片原丁 久乃亟
                   医師   小寺 玄中
                   医師   生方 了英
                  立合御目付 田中館伝蔵

  〇文化元年(1804)三月廿四日
  山元見分
御代官中里準見、横沢円治、御徒目付、谷崎金兵衛、福田円治、御山奉行梅内定六、岩間恒右ェ門、佐藤長右右ェ門、御帳付幸七、滝沢村肝入三十郎(与兵衛ト改名)、御山肝入兼御村古人長治、御山守三助、御村古人藤七、角掛村古人三吉、宗治、惣兵衛、大勝寺領立合役僧一人、役人中村久右ェ門、肝入善兵衛、古人喜兵衛、兵蔵、与吉。

大石渡よりウトウ坂御山にかかり、大日向御山、黒日陰御山近く迄、滝沢領、鵜飼山境、夫より大森より一ツ森見分相済、御山奉行三人は滝沢領山境迄にて相済、直々盛岡へ引上。御徒目付御勘定方は柳沢に御止宿。御代官両人上下十五人、馬二匹は柳沢村長右ェ門に御止宿、但御定目賄代相払、翌二十五日朝六ッ半時柳沢出立嶽山麓兎口見分相済みて戻り、館ヶ森より戻り、戸草用水上にかけ其儘相下り糠森、大石渡迄両日に大勝寺領紐合せニ相廻り直々滝沢村肝入(禰宜屋敷与兵衛方)昼時分着、休憩、直々盛岡に御戻り被成

  〇文化元年三月廿八日
                     戍松 甚之亟
上両人痛所全快ニ付今日滝沢村に御戻被成下候御目付箱崎助左ェ門より下の通御達有之候

 支配所厨川通滝沢村御百姓共炊料薪材取候場所之儀に付大勝寺と出入ニ及び旧冬御内々被及御沙汰候処取扱延引に相成居候処、当春猶又及取合候。依て旧冬御達申置候通、大勝寺之一札取替薪為伐取可申候、尚当二月之儀ハ追て沙汰致候事。

 上御達之趣今日御代官御両人和談之御挨拶有之候。永々の一件、何も可も諸神之御加護、角掛大明神の御利生と奉存。
                  滝沢村角掛惣百姓
                      老名
                      肝人

  〇文化三年十二月十二日
厨川通御代官所鵜飼村御山守百助願出候ハ同所稲荷御山に来る卯年より巳年まで三ヵ年中杉千本植立差上度尤居宅大破仕候ニ付繕普請仕度候間、前御山杉六本御座候間頂戴仕度旨申出其筋被遂吟味願之通植立杉成木之後見分之上二分通御用木御取上八歩通ハ植立候者に可被下置旨御勘定頭仰之通申渡之。

  〇文化四年四月
古来より之並木松木数并植継小松共に、此度相改別帳を以て書上仕候上は、一本たりとも穏密に失い申候はば、夫々手寄之者、急度無調法可被仰付候。若し大風に而風折根返等有之候節者、前書之通決而枝葉たりとも手を入不申、早速老名肝入方へ為相知、夫々御伺之上剪片寄置可申候。万一不時に右元木之内、一本たりとも紛失等於之有者、近辺之者共、急度無調法相蒙可申候。為後証連印加斯御座候。以上。

  〇文政十年(1827)九月十日
                厨川通下厨川村
                   長之助 子 太郎へ

其方儀当二月厨川通鵜飼村平蔵沢御山へ忍び入り、御制木並ニ雑木密伐り致候趣相聞得候に付御尋被成候処、枯枝は取り候へ共身木は伐取り候儀無御座候旨、申上再応御尋被成候処、平蔵沢御山之内、黒ヵ沢御山にて、御制木并雑木共元伐り、密伐り仕候義、相違無御座候旨申上候。且先達も御山に忍び入り、雑木密伐り致候由、御山制の儀は兼々厳敷御沙汰被成置候処、猶又此度御制木まで伐り取り候段、重々不心得の致方ニ付被仰付様も有之候得共、御慈悲を以て過料銭被仰付親類組合預御免被成儀条向後、万端相慎可申者也。

                厨川通鵜飼村御山肝入
                        長左ェ門
                同       御山守
                      三十郎
                        与 作
                        弥 蔵
                        被仰渡

其方共儀鵜飼村平蔵沢御山之儀内黒ヵ沢御山へ、下厨川村中島住居長之助子太郎と申者忍び入り松、栗、并雑木を密伐り致候ニ付其旨御訴申上候。前太郎儀此度に不限先達も忍び入り、雑木を密伐り数々、其節以来之儀厳敷申含置候処、猶又此度御制木まで密伐り致候旨御山奉行まで申出候。先達も再度迄御山制相破り雑木伐取り候ハバ、其節早速其筋へ申出差図を得取計ひ可申処、其儀無く、其方共限り取計ひ候段等閑之致方無調法に付被仰付様も有之候得共御慈悲を以て慎被仰付者也。

  〇文政十一年九月
                     滝沢村 高橋泰作
 杉一万三千九百本 目通二尺以下
上者滝沢村之内末代久保御山へ六万本楯立之所文政九年焼失、残ハ御備御用并外用又兵衛へ間伐被仰付、残ハ弘化二年(1845年)御改一万七千五百七十二本之内三千六百七十二本間伐、残前之通北上川へ四丁程

  〇文政十二年 二分八分御取分御証文
                     鵜飼村願人
                        三助
一、杉二千六百六十六本 目通三尺廻以下
上者高坊御山洞合へ植立、東西二百間、南北五間程、雫石川迄一里半川出并木性宜敷御座候。

                     同村願人
                        与作
一、杉百五十本
上者清水沢御山沢合へ植立、北上川迄一里半、川出并木性宜敷御座候。

                     同村願人
                        久之助
上者清水沢御山同前文

  〇文政十五年十一月朔日
                      栗谷川仁右衛門
厨川通滝沢村之内松屋敷妻ノ神御山洞合へ杉百本試として植立置候処、根付候ニ付二分は差上六分は同所御山守共、二分ハ頂戴仕度候段申上願之通被仰出。

  〇天保十二年(1841年)九月廿八日
厨川通御代官所滝沢村の内甚九郎見守石倉山当時むつ地立に御座候。前場所苅払、当巳ノ年より酉年迄五ヶ年中杉三百本、栗五百本植立仕度奉存険。依之恐多く申上奉存候得共、二分八分御取分被成下度云々。

  〇嘉永六年(1853年)二月十九日
                        荒木田直江
厨川通御代官所滝沢村大崎御山之内長鼻と申す所へ杉一万五千本、当年より寅年迄二ヶ年中為す志植立差上申度旨杉苗一万本頂戴致度段申出其筋為遂吟味願之通以御目付申渡之。

  〇嘉永六年七月八日
                鹿角街道並木植立御用
                        福田善之助
厨川通諸木植立世話方相免

  〇嘉永六年九月朔日
                        川井 良作
栗の実臥せ置候所二千五百本程育ち罷在候間厨川通御代官所滝沢村松屋敷大崎之内空地へ前苗木為寸志、来春中ニ植立奉差上度御吟味之上願之通被仰付被下置供はゞ、出精植付根付候はゞ御届可申上候間、御改之上御帳入被成下度段申出其筋為吟味候上願之通以御目付申渡之。

  〇嘉永七年七月十一日 永祥院
厨川通滝沢村之内御山空地へ杉一万本為寸志植立差上度、嘉永四年申上願之通被仰付候ニ付植立仕候処、此節根付宜しく成木可仕躰に御座候間、御改之上御帳入被成下度候。

又、同通鵜飼村狼平御山空地へ杉五万五千本嘉永元年より同三年迄追々植立、同四年為寸志差上候小杉之内、去年早魃之ため少なからず日枯ニ相成候間、今明年中植続き差上申度尤も当寅ノ年より亥の年まで十ヶ年中自分物を以て苅払手入仕差上度段申出願之通寺社御奉行へ申渡之。

  〇安政六年(1859年)三月十一日
御支配所下厨川村茨島より滝沢村の内一本木迄鹿角街道二十一里余之野道に旅行之者雪中目印として両側に並木松天保年中茅町長之助、材木町喜之助両人にて御忠信植立、尤野火除之為広く地ぶたを剥ぎ植立仕度奉存候。小松之儀ハ三ヶ年中に六千本頂戴仕度御憐愍を以願之通被仰付被下度(後略)
                   滝沢村老名  与兵衛
                   下厨川村老名 孫右ェ門
                   御山肝入   長治
                          喜右ェ門
被仰付旨御勘定奉行内藤和右ェ門達、有之

五 紫根

紫草

 繊維染色材料としての紫根は、重要なる産物で、密売買が禁じられており、通行手形なくしては移出が出来ず、統制品十四品目中の一つに入れられている。

 林野に自生するムラサキの根を掘り取って紫根染の染料とする処から、これを紫根と称したのである。岩手地方の紫根は、すでに鎌倉時代から知られており、近世は主として盛岡以北が産地となっていた。宝暦十年(1760年)村井白扇著述の『勘定考弁記』の中に「一、紫根城北の在より出て、年々江戸へ趣、世にいう江戸紫ハ南部紫也。」とある。旧南部領の伝統ある紫恨染めは、明治以降次第に衰微し、わずかに岩泉地方に遺存している。紫根は、四十二貫目を一駄とし、一箇の荷造りは十四貫目を通例としている。

 藩政末期ごろになると、その産額は、乾燥したもので、年間五百四十貫(明治元年=1868年)乃至一千四百四十貫目(弘化四年=1847年)とされている。荷造りもまた九貫目を壱個としたという。乾燥した紫根を圧搾して、紙袋に詰め、数袋を重ねて一個九貰目に荷造りをした。売先は江戸・京都・大阪で、陸送や海上運搬で、地方から買入して荷造りし、それを移出販売するため、盛岡の商人鍵屋茂兵衛等に請負せ、その利潤を見込んで定額の御礼金を徴収している。嘉永二年(1849年)ごろ鍵屋は年額百四十両を納めて営業したのである。

 鵜飼在住の矢幅正三郎氏の「紫土堤について」によれば、岩手山麓のものが最上とされ、五貫目が一両もするので、南部藩において栽培すれば莫大な利益をあげる事が出来ると評議一決、嘉永五年より厨川通滝沢村の内大崎菰清水を見立て開墾をなし、紫の試作をしたのである。

 寛政五年(1793年)以来益々蝦夷地警備が問題となり、藩士新渡戸十次郎の産業に関する献言により、試作地は百姓に任かせることとなり、安政元年(1854年)を以て廃止となる。

 今日地図に残る紫土堤は当時を物語っている。

 安政三年になると、農民は夫伝馬で忙しく、紫根掘りが例年の通り出来兼ねる状況になった。

 明治二年(1868年)の紫根生産は一ヵ年六十箇五百四十貫で鍵屋は下記の書上をしている。

   覚
  一金八拾五両也。紫根買入方御礼金。
  上紫根出荷之儀は、大凡一ヶ年六拾箇前後相出申候。尤も岩手郡辺より弐拾箇前後、三戸郡より拾箇、北郡より参拾箇、尤も年に寄り増減御座候。御尋に付、此段奉書上候。己上。

 南部紫根は、特産品日の一つで、鎌倉期より知られていたが、数百年間にわたる産地であったことは、いかに林野に紫が豊富にあったかを物語っているとある。

第三節 馬の飼育

一 はじめに

 南部馬は青森・岩手両県に産する馬の総称であって、陸奥国は主に上北・下北・三戸の三郡に津軽郡の一半、陸中国はその全部の産馬を指して言うのであるが、何時の時代から馬産地となったかは甚だ茫漠としている。

 我が国の産馬業は余程古くから発達したらしく、第二十三代顕宗天皇の御代には牛馬が野に満ち百姓が富んでいたとのことである。

 日本書紀「第二十三代四八五年顕宗天皇二年十月戊牛朔発亥宴群臣足時天下太平民国徭役歳比登稔百姓殷富稲斛鋏銭一文牛馬被野」其の後欽明天皇の御代には七年七十疋、十五年一百疋と二回にわたって良馬を百済に賜うている有様である。

 この様にして、第卅六代孝徳天皇の大化のころには全国に発達したらしく、改新の宣詔にも「旧賦役を罷めて田の調を輸(いた)し、又官馬を輸し兵を徴し、使丁を出し、釆女を貢ぐべし、凡そ官馬は中馬一百戸毎に一疋を輸(いた)せ細馬二百戸毎に一匹を輸せ」とある。

 官馬が多くなるにつれて放牧地を逃げ出す馬も多かったと見えて、第四十二代文武天皇大宝二年(702年)の大宝律令中の厩牧令には「凡在牧夫官馬牛者並給百月訪覓限満不獲各准失所当時估價十分論七分徴牧子三分徴長帳主師准牧長償者使丁准牧子失而復得追直還之云々」と言う様な罰則をもうけている。中には身分不相応の馬車に乗り、護衛を連ねる者も多かったと見え、元正天皇の養老五年(721年)には蓄馬を限定して、親王及大臣二十疋、諸王諸臣三位以上十二疋、四位六疋、五位四疋、六位以下庶人三疋とし、これを越えるときは官に没することにしている。

 以上のことから我が国産馬業の隆盛をうかがうことが出来るけれども、当時何国が最も盛況を呈していたか、陸奥殊にも当地方のごときは果して馬産地の一に数えられていたかどうかは明らかに知ることが出来ないが、隆って聖武天皇天平四年(732年)に至って、東海・東山・山陰三道諸国に詔して国界を越えて売り出すことを禁じており(当時岩手県は東山道に属す)、当時産馬の地方として知られていたのは、仙台九十八牧・南部七百余牧・三春六十七牧・守山十二牧・二本松三十牧・米沢三十二牧・最上二十牧・秋田四十七牧・庄内二牧以上陸奥。那須十八牧・越前十一牧・越中四十六牧・越後二十九牧・常陸十一牧・信濃六牧・甲斐十二牧・下総関宿十五牧・雲州十九牧・加賀十四牧・能登十八牧・紀伊三牧・尾張十四牧・薩摩三十二牧等である所を見れば、南部地方の馬産が如何に繁盛を極めたかは容易に諒察することが出来る。

 嵯峨天皇弘仁六年(815年)陸奥出羽の按察使巨勢朝臣が「軍国の用は馬より先なるものはないにも関わらず、貴人高官の使いや富豪の民が、入り替り立ち替り往来して良馬を捜し、官吏に依頼するため手数がたえない有様である。国内のよく治まらないのも大略原因がここにある。たゞ馬の価格があがるだけでなく、兵馬を得難いと言うかどによって、延暦六年(787年)桓武天皇の御代に科條をたてゝ繁殖馬を一切国外に出さないことにした。けれども、長い年月の間に、いつとはなく法令がゆるみ、禁を犯す者が多くなった。この際、更に厳重に制度を定めて頂きたい」と奏上した結果、陸奥出羽の両国は駄馬を除くの外、一切国境を出すことを禁ぜられたにも関わらず、またまた禁を破る者が多くなって、清和天皇、貞観三年(861年)には、「陸奥国の境を出ずるを許さゞること成例既に久し。今法禁漸く弛み、一旦緩急あらば、何を以て之を支えん。凡て其我馬用に堪ゆるものは、牝牡となく悉く境を出ずるを禁じ以て警備の資とすべし」と言う御達しが出ている。

 醍醐天皇の御代における諸国の馬の価格を見るに南部馬をもって第一としている。参考のため、その価格を列記すれば、 (表→) 各国伝馬、駅馬より各五〇東を減ず。(以上は、滝沢小学校編、村史中の「南部馬考」によった。)

二 南部馬種の起原

 前述の如く、一千余年の太古において既に南部は名馬のほまれ遠近に宣伝せられていたとはいうものの、いわゆる南部馬種なるものの起原並びに来歴の如何に至っては区々であって、いずれをとるべきかに迷うものであるが、次に伝わる主なるものを列挙して見ることにする。

(一) 陸奥の野生種を自然に馴致飼養したものが南部馬である。

(二) 文武天皇が諸国に牧制を施行せられた際、上州甲州武州信州等を第一として、相州等に名牧多く良馬を産出した由であるから、或は是等諸牧の馬を移したとするもの。

(三) 延暦年間(802年―)田村将軍征夷のとき、関東の馬を移したと伝うるもの。

(四) 南部に古来、骨格相貌の異なる二種の馬があり。一を「アイノメ」形と称し、他を「ネンホウ」形と称し、いずれも方言より訛ったもので、前者は乗馬に好適な形貌を有し、後者は使用馬(輓馬・駄馬)に通していた。この二種の馬を配合した結果、遂に現今の南部馬の馬格を出すに至った。

(五) 享徳三年(1454年)足利義満のころに田名部の領主であった蛎(かき)崎蔵人信純が謀反を企て、蒙古(もうこ)や韃靼魯西亜(だったんろしあ)等の馬数百頭を領内に輸入したと称する説。それによれば、信純は海外の擾(じょう)乱に乗じて奥羽の地を掌中に収め様と思い、家臣である峯の坊という山伏に命じて、韃靼露西亜蒙古に派遣して兵馬を借入することを契約せしめた。翌年正月に峯の坊が露西亜の大都督大机賢山・北州の大都督突呂賢・韃靼の大元帥除恕悲・蒙古の大都督大机栓を同行して、北郡沢野浦に帰って来た。そこで信純は蛎崎主税を遣わして迎え、四名の都督を蛎崎の城に招いて、家臣の清岡雅楽頭根津美作守に命じて大に響応させ、その席上盟約を結んで人質を送り、軍馬数百頭、牛畜百頭を輸入したと伝えられている。

 『東北太平記』によれば、「後桃園天皇御宇蛎崎蔵人信純なるものあり。彼は甲斐源氏武田信義の裔なり。信義の次を信晨と云う。次を信吉、次を信道と云う。蔵人は其の子なり。時に奥州八戸の南部氏、南朝に属して、後図を謀らんとの志あり。密に、護良親王の玄孫義純王を奉し、以て北部の主とせんとし、其の子義元王を補佐せしが、蔵人謀して之を知り、御父子及び南部の遺臣、数十人を海上に誘い、之を謀殺せり。是より、先、義純王と共に身を北畠氏に投ぜられし後、村上帝の末の宮、義祥王を奪い、之を奉じて、竊かに兵を遠近に集め、糧食兵馬を整へ、八戸南部及三戸南部を亡し、大挙深入仙台を取り、事を南部再興に籍り、足利氏を倒して天下に僣称せんとの画策将に熟せんとするや、八戸南部氏之を知り、事を未発に防がんとす。此事京師に聞ゆるや、帝南部政経に勅す。政経勅を奉じ、之を討つ。蔵人夷を使嗾(そう)し、大に北部に戦う。南部勢長駆侵入蛎崎城を陥る。蔵人舟に乗りて津軽湾に浮び是を防ぐ。政経津軽七党(八戸南部の重臣)を率い、大に海上に戦う。蔵人敗走、遁れて渡島国松前に至り、其の挽回の策なきを知り、殊に妻子等は既に生擒の上殺害せられるや、蔵人遂に其の往く所を知らざるに至れり。これ実に康正三年(1457年)にして、帝其の功を賞し、政経は田名部の 地三千石邑を賜ひ、其の臣二十余名に補任状を賜ふ。」とある。

(六) 徳川二代将軍のころ、将軍意を馬種の改良に注がれ、便船に托して、続々海外の馬匹を輸入せしめたことがあった。その当時、南部家に波斯(ぺるしや)牝牡二頚を下賜せられ、これを蟻渡野に放牧して好成績を収めた。

 なお、旧記によれば、蟻渡野に放牧したこの波斯馬の子を住谷野に移して種馬としたところが、その血液を受けた仔馬は、馬格成育共に不良であって、住谷野固有の南部馬よりも遥かに劣等であったという。

(七) 享保年間(1716―36年)徳川将軍から時の南部藩主三十三世利視に波斯牡馬一頭を下賜せられたので、これを住谷野に放牧して種馬に供した。その名を「春砂」と称し名馬として後世に伝わるものであるが、この子をさらに住谷野に種用せし結果は余りかんばしいものがなく、宝暦七年(1757年)の御野鳥別当一戸五右ェ門の上書の一節に曰く「住谷野父御馬は春砂と申す唐馬の子に御座候。前御馬御野放成され侯間、宜敷御馬相出来申さず候故、前御馬の子は御除き成され候様仕り度く存じ奉り候間、父御馬御取替遊され、尤も前の類母馬二三疋御座候。是又御除き候様仕り度く存し奉り侯。兎角唐馬の子御立て置き成され侯ては、住谷野御馬血脈薄く罷り成り候故申し上げ侯」云々。由ってこれを見れば、波斯馬春砂号の子孫は住谷野において成績可良ならざりしことを察し得らるべし。

(八) 慶長十七年(1612年)仙台領主伊達政宗がひそかに人を波斯に遣わして購馬せしめた。ところが使臣帰来の当時、丁度天草島原の内乱の際であって、海内さわがしく、船舶の検査もすこぶる厳重を極めた。のみならず、仙台はこの乱に関して多少幕府の疑を受けていたときであったので、容易に馬を上陸することが出来なく、且つ、これを仙台地内に留めおくことを嫌って、これを南部領の七戸地方に移牧せしめた。この内の一頭を江戸本郷の御厩におき、藩士の斎藤某に命じて調教せしめたが、その馬はすこぶる高幹であって、二段鐙を要したという。爾後これを有戸野に放牧して種馬とし、その仔をさらに木崎野に放牧して種馬となし、馬種改良上大に好果ありたる由なり。

 以上記述した滝沢小学校編村史中の『南部馬考』に依って見るに、南部馬の起原は、元この地方土産の野馬に始まり、以後この地の領主の累代産馬改良に熱心焦慮した結果、漸次に良馬を産出して、その間微弱ながらもこれに外国馬種を交配して、その血液を混入し、改良繁殖多年の苦心の結果、遂に特殊のいわゆる南部馬を成すに至ったものと推測する。

三 馬の育成

 馬の育成について、森博士は『岩手を作る人々』の中で次のように述べている。

 岩手の歴史において最大の能力を挙げた道具の利用は牛馬を役畜に使った事である。我国の古代人は既に犬を猟犬に利用し、牛馬を家畜としていた。しかし牛馬は本来我国の原産ではなくして共に朝鮮地方からの輸入であった。従って牛馬共倭小なものであった。

 これが何時の頃から奥羽に入って来たかは余りはっきりしないが、養老二年(718年)に出羽並びに渡島の蝦夷八十七人が千疋の馬を進献して褒賞されているから、相当の馬産のあったことが推定される。

 しかし奈良朝期に全国に官営牧場を設置し、軍馬・駅馬の養飼を行わしめた時も、奥羽には設置されていない。もちろんこれはまだ奥羽の治安が充分でなかった為でもある。しかし延喜(901―23年)の頃には陸奥産の上馬は価六百束の最高価格であり、中央から注目され、権門・貴族等が使を派遣して盛んに奥羽の産馬を買求めるので軍用・駅用に不足するようになった。そこで勅諭を発してこれを禁止し、保護育成に努めた。開拓が進んでからも関東中部地方のような組織的な牧場は末だ設置されなかったが、田村麻呂の如きは関東の良馬を奥羽に移し、改良に当ったので一層良馬の改良が進んだ。

 延喜ころには甲斐・武蔵・信濃・上野の四ヵ国に三十二牧の官営牧場が設置されており、一ヵ年に二百四十頭の貢馬が上進されていたが、奥羽からどの程度の貢馬が上進されたかははっきりしない。唯駅用として陸奥は二十四駅に駅馬百六十九頭、伝馬三十頭が課されて居り、出羽は駅馬百頭、伝馬十八頭が課せられていた。この中岩手県関係は磐井・白鳥・磐基(いわもと)の三駅で二十頭を出している。これが良馬であったことは、前九年・後三年の役に於ける安倍・清原氏の活躍によっても充分推定出来ることである。しかし源平争覇期に入ると、戦術は騎馬隊戦となったから、奥羽産馬は一層重要となり、名ある部将は種々の方法で良馬の入手に腐心している。殊に源氏は関東を中心としていたゞけ、関東産馬はもちろん、奥羽産馬の入手に腐心した。例の一の谷合戦で名を売った熊谷次郎直実は、わざわざ郎党権太に上品の絹二百疋を持たして奥羽に送り、三戸産太夫黒を購入し戦功を立てたと言われている。実際この時の源平争覇戦を見ると戦争の山はほとんど騎馬戦で決した観がある。富士川戦、宇治川戦、一ノ谷戦、檀浦戦等の勝負は何れも馬で表象されている。その新戦術を華々しく活用して戦機を支配したのが義経であり、その名馬の多くは奥羽産であった。義経の鵯越作戦に用いた馬は秀衡から送られた三戸産の青海波であり、宇治川先陣競いで有名な生月は七戸産、暦墨(するすみ)は三戸産といわれる。

 平安朝期の関西地方は牛を主としており、乗物はもちろん、農耕にも酪農にも利用していた。宮中の薬園は牛耕であり、その厩糞を肥料として利用し、牛乳を飲料とし、更に練乳・バター等まで作っていたから高度の酪農経営だった。そしてまた軍用にも利用していた。だから関西地方は牛の文化であり、関東地方は馬の文化だとも言える。それは平安文化と鎌倉文化の性格を表象している。だから比喩的に言えば源平争覇は馬の文化的源氏が、牛の文化的平氏を被って馬の文化的武家社会を作ったとも言える。平安朝的中央文化に倣って奥羽を治定していた藤原氏が頼朝に滅されたということは、奥羽が牛の文化的政治から馬の文化的政治に替えられたことを意味する。

 泰衡討伐後、如何に奥羽を統治するかゞ問題となったとき、頼朝は最初畠山重忠を奥羽探題として統括させようとした。すると例の梶原景李が

「第二の藤原氏たらん事を恐る」
と独言ともつかず、嫉妬ともつかず、忠告ともつかないようなことを呟いた。私はこういういゝ方を時々聞く。話をしている最中に、
「あの時は面白かったなあ」

 相手を無視した独言のような、そして決して相手を無視したのでもなければ、独言でもない意味を呟く語法がある。こういう語法を使う者は大抵エチケットを解しない輩に多い。

 所が頼朝も「成程」という訳で、今度は極端に奥羽を細分してしまった。それぞれの勲功によって御家人に土地を配分し、幕府直轄の牧場を設定させ、軍馬の育成に当らしめた。従って奥羽に土地を貰った御家人の大部分は牧場経営に経験の深い練達の士であった。

 此の時赴任して来た御家人中岩手県に関係のある者を見ると
南部次郎光行-糠部五郡
工藤小二郎行光-岩手郡
葛西三郎清重-伊沢・磐井・牡鹿郡の外数ヶ所
閉伊十郎頼基-閉伊郡
阿曽沼次郎広綱-閉伊郡
伊沢左近将監家景(後の水沢留守家の先祖)-岩切
千葉介常胤-伊沢郡

 奥羽地方のような寒冷地帯に、亜熱帯種の水稲を経営することは、それ自体大きな冒険である。しかし米を食べていることを日本人であることの表現に使い「月夜と米の飯さえあれば」とまで米を熱愛する日本人は、たとえ三度に一度は凶作でもいとわない悲愴な覚悟で米作りに専念した。だから日本人にとっては米の生産力を安定し、上昇させる技術の発見は大黒恵比須以上の福音である。だから大黒恵比須は宝槌をもち、海産の玉鯛をつり上げても、どちらも米俵にのって御座るのだ。

 ところが馬産の増大につれて、馬が単に軍用ばかりでなく、農耕にも利用されるようになると、奥羽地方の農業に大きな進歩を齎すことゝなった。未だ適正品種も発見されず、関東・北陸地方の品種を輸入し、試作中であった時代に発酵性の強い即効的な厩肥を利用したことは、水稲生産の安定率を高め、生産力を増加することゝなった。

 平安朝の中頃に既に「まんが」を利用しており、関東地方の農兵たる家人が多く奥羽に入って来て優れた奥羽馬を利用し、進歩した関東農業を行なったことは、奥羽の農業に革命的な進歩を与えた。厩肥の利用に依って土地生産力を高め、畜力の利用に依って、労働生産力を高めることとなったことは、奥羽農業にとって劃期的な進歩である。これは大正時代に陸羽一三二号の発見利用によって土地生産力に革命的な影響を与えたことと共に奥羽における水稲経営の二大革新である。

 馬を飼育することに依って運搬能率・耕耘能率を高めて労働生産力を高めたばかりでなく、その厩肥を利用することによって土地生産力を高めることが出来たのである。しかも一旦緩急あれば軍用にも供することが出来る。これほどの利用範囲の多い高能率の道具を利用することの出来たことは、今石油発動機による耕耘機・脱穀機を利用した効果の比ではなかったのである。とにかく奥羽の農民は馬を愛すること子のごとく、これを食用とすることを禁じ、曲家(まがりや)まで考案してこれを大事に飼育したのである。爾来六百年の今日猶牛馬を役畜とする農業を行い、近代科学の所産たる色々の農機具が考案されたにも拘らず衰える所かいよいよ盛んである。

 奥羽の農業が我国の農業の発展と共に明治以来急速に発達を遂げたことは認めなければならない。しかし、その発展は主として品種の改良・肥料の改善・農薬の進歩等によるものであって、言葉をかえていうならば土地生産力の増大によるものであって、労働能率・労働生産性の増大によるものではない。だから反当生産力は世界最高であっても、労働生産性は― 一人の農民が農業することによって僅かに二人分の農業生産しか挙げ得ないということは、明治以来の農業の進歩が労働生産の増加によるものでなくて、土地生産力の増大によるものである事を示している。これはもちろん我国の農業が零細農業のため、近代的な高能率の農具を利用することが出来ない為でもある。しかし牛馬を農業に利用したということは、この土地生産力と労働生産力との両方を同時に進歩改良したのである。この意味で牛馬の役畜利用以上の改革を近代の科学は未だなし得ないということが出来るのではないか。だから近代人はあまり封建制といって罵倒は出来ないのである。

四 牧場馬

 近世南部藩の所領は、天正十九年(1591年)の秋三郡を加え十郡となり、十万石の大名に確立した。その領内には山野が多く、牛馬の飼育に適しているので良馬を産し、南部駒の名が全国的に知られるようになった。太閤秀吉を始め、豊臣秀次・徳川家康・同秀忠の将軍家・浅野長政・大久保忠隣・酒井右京大夫等が南部領に馬を求めた。南部領の糠部郡には、一戸・二戸・三戸・四戸・五戸・六戸・七戸・八戸・九戸の「九ヶ之部四門の制」が鎌倉時代から開設されてあり、それが牧場制から来たものとされている。また牧場飼育の馬を野馬と称した。

 近世南部藩でも牧場を経営し、南部重直の代には十ヵ所に牧場があった。しかし創設や沿革について詳しいことは分っていない。

 牧場に飼育されている馬は、冬期には、積雪や寒凍を避けて各村の農家に預け保護している。正徳三年(1713年)に実施された三戸郡相内野牧場・住谷野牧場の例によると、馬毎に毛色・身長・年齢・性別を記し、諸士の知行地や御蔵領の農家に預り、係りの役人が精細な記録を調整上司に報告している。また牧場により積雪の少ないところは、四季を通じて放牧のままであった。

 馬の身長は四尺を基準として、これを「尺」と称し、五尺を「十寸(とき)」と呼ぶ言葉があり、四尺未満は、これを「反り尺何寸」と称したという。その毛色も鹿毛(かげ)・くろ鹿毛・栗毛・栃栗毛・黒毛(あおげ)・芦毛(あしげ)・唐(から)鹿毛・つき毛など多種多様であっ

1 幕府・大名の産馬購入

 南部馬の声価をたかめ、領内産馬の意欲を旺んならしめたものに、幕府ならびに各大名の馬匹購入がある。その購入役人は、慶長年間(1600年―)から年々盛岡入りをする例であり、これを御馬買役人と称して藩では歓迎した。

 藩では、領内産の良馬を城下にあつめ、これを自由に購入せしめた。この御馬買役人は盛岡城下以外は雫石通に出張している。良馬の産地たるゆえんであろう。御馬買役人のくることは、送迎が煩瑣で村方からは人気がなかったが奥州街道の宿駅が整備され、雫石街道もそれに準じて改修されたので道筋はよくなったことは事実である。

 たとえば、寛永廿一年(1644年)には越前宰相(福井城主松本忠昌)御馬買衆がきており、正(しょう)保三年(1646年)には尾張大納言(名古屋城主徳川義直)等の役人がきており、乗馬三十二頭、駄馬二頭、小荷駄二頭を買っている。この年幕府方の購買官荒木十郎左衛門・中山勘兵衛の二人は鹿の皮を所望している。青山大膳亮(幸成の子幸利)の家来小川庄右衛門が、乗馬二十八頭、駄馬と小荷駄三頭を購入、稲葉美濃守(小田原城主稲葉正則)の家来、佐藤主水乗馬十八頭、小荷駄四頭を購入、丹波左京大夫(二本松藩主丹羽光重)の家来猿川庄右衛門が乗馬三十八頭、小荷駄三頭を購入、松平大和守(姫路城主松平直基)の家来掘伝左衛門が乗馬十頭、小荷駄二頭を買い、一日間隔程度に盛岡を出立している。幕府買入の馬数は不明であるが百数十頭に上っていよう。慶安二年(1649年)十一月、幕府の御馬買役人は二人来ている中に、また中山勘兵衛が来ており、同月十一日の条に「十一日、御馬買衆御両人ニて、馬七十四頭御買いなされ候。但し高価八両(藩日記)」とあるから、平均八両程度の馬は当時としては高価であったことになる。(慶長小判一両重量四匁七二の内含有金八六二・八銀含有一三二・一一なり)。

 同十一月中牧野佐渡守(京都所司代牧野親成)の家来、土屋伝兵衛・佐藤善右衛門が二十五頭、青山大膳の家来小河庄右衛門が廿頭、松平陸奥守(仙台城主伊達忠宗)の家来布坂五右衛門が三十四頭、本田能登守(白河城主本田忠義)の家来瀬嶋六右衛門が十七頭、松平下総守(山形城主松平忠弘)の家来川田儀右衛門が三十頭、佐藤外記(不詳)の家来中橋十郎右衛門が八頭合計弐百八頭が買われ、幕府の購入馬に続いて隔日おき程度に出立している。この時、十一月二十日を期し、盛岡城の北、上田郷の長坂山に大袈裟な鹿狩を開催し、南部山城守重直自ら出動し、鹿四百四十五頭、猪五頭を狩猟しているのは、これら遠来の軍馬購買官への慰労であろう。藩では重臣八戸弥六郎直義(一万三千石)、中野吉兵衛元康(三千石)、北左衛門佐(すけ)直愛(二千百石)、七戸隼人正重政(二千石)の四人を勢子頭とし、福岡から花巻までの地区百石五人宛の勢子人夫を動員している。

 このような馬買役人の来藩は、南部領産馬を推進せしめたのであるが、藩民には迷惑であり、元禄七年(1694年)で打切りとなった。

2 諸士の所有馬と郷村の馬

 藩政初期のころ、藩の諸士で百五十石以上のものは騎馬出陣の義務があり、軍馬飼養が常例であった。その後百石以上の士が軍馬飼養を命ぜられていたが、元禄八年(1695年)の大凶作による飢饉のため、その制度を緩和し、それ以後は、三百石以上のものか、物頭などの高級武士のみが軍馬を飼養することとした。

 藩が官営する牧場の飼育馬の外に、民間に育成された牡(ぼ)馬の優秀馬は、上馬(じょうめ)と称して藩有していたのであるが、諸士の平侍以上のもので、軍馬を飼養すること、あるいは乗馬として良馬を買入れたこと等は、これまた領内の産馬熱を昂揚させたものであろう。

 郷村の農家に飼養されている駒については、藩から係り役人が廻村して検査を実施している。下掲の文書はその一例で沼宮内以南を検査している。御馬責とは乗馬調馬師のことである。郷村の駒改めは代官に委任せず、藩直接で厳格な調査をやっている。

 所々駒改に御馬責弥平次・与伝次・御徒之欠端金丞此三人達し侯間、隠密なく馬共改めさせ申すべく候。一疋成り共隠密の由脇より申し出でる者侯はば隠密の者は申すに及ぼす其処の肝煎迄も曲事(くせごと)仰せ付けらるべきものなり。

 慶安三年(1650年)七月廿三日
                     漆戸勘左衛門 印
                     八戸 弥六郎 印
 盛岡中・沼宮内・上下岩手中・滴石中・紫波・和賀・稗貫中・所々御蔵御給所肝煎中・大迫西東根中
 (二戸郡福岡町下斗米家文書西村トミ所蔵)

3 産馬掫市

 盛岡城下における馬市は城下都市の建設と共に開催されたものと知られるが、詳しいことは知られていない。『藩日誌』正保四年(1647年)十月十四日の条に、 (旧文書→) とあり、明暦四年(一六五八年)七月の条に (旧文書→) などがある。

 馬喰町は、幕府の馬買役人及び諸大名から派遣された軍馬購入役人が、ここで馬を検べる慣例であった。せり馬はそれの進展であろう。『国統大年譜』にも、万治元年(1658年)七月朔日、新馬町にてせり駒初ると伝えているのは、同じ事柄を伝えたものである。馬口労町と新馬町は同一で、永らくせり馬市となるのである。またここの街路には、道路の中心を用水堰が流れ、その用水は馬の用水になっていたという。また郷村飼育の馬の凡称を里馬と称した。

 また地方における掫市の状況は詳しくわからないが、貞亨元年(1684年)七月廿四日には、御掫駒奉行は九組二十人が発令されており、盛岡の二歳駒掫奉行四人を例外とすると、領内に八組の奉行が派遣されたらしい。この八組の奉行人が代官所ごとに掫駒市を開催したとすれば、領内三十ヵ所近い馬市が開かれたことになる。

 藩政後期の牧場数は、宝暦五年(1755年)に九牧とされているから、元禄十二年(1699年)と変化がない。また同年の調査によると九牧の総馬数は七百十一頭であり、内訳は父馬(牡馬)は各牧場に一頭宛飼養されている。繁殖用の母駄(牝馬)五百二十一頭、その他は仔馬や駄馬であった。

4 牧馬飼育慣行

 藩政後期の牧場については、寛政十一年(1799年)米沢藩上杉家より、牧場馬の飼育取扱一般に関して質問があった。盛岡藩では、野馬別当松尾紋左衛門をして応答書を作成させ、これを報じている。この質問応答書は、当時の牧場慣行の大要を知る上に極めて要を得ているので、次に掲出する。附札とあるのは南部家の回答書である(南部史要参取)。

一、其御許様御領内に而て牧馬之事は、御地も雪国之由ニ候得ハ、冬分ハ放牧の馬共皆以て民家の厩牽き入れ候事の由、何月頃牧相放し、何月頃厩牽き入れ侯事ニ御座候哉。

 (附札)当地牧馬の事海辺の内雪吹払い、枯草冬も相見得侯程の場所ハ、四季押し通置き附ニいたし候。放牧もこれあり候。雪多く降り積り、冬置き附き相成りがたき場所ハ、三四月草萠え候頃見合せ、牧馬共相放し、九十月頃厩牽き入れ侯。

一、牧の広狭に依て放馬多少これあるべく、又草生(くさふ)の多寡にも依と申すべく尤も凡そ積り四月より九月迄日数百八十日馬一疋一日一坪ニして百八十坪十二丁位の地、弐百疋位も相放し申すべき哉、草ハ一箇年四度ハ萠え申すべく候得共、雪国三度と見、馬一疋一日三坪位の積りにこれあるべきや。

 (附札)馬一疋一日の喰草苅り取り与へ侯と違い、牧にては場広に差し積り申さず候てハ宜しからず候。大凡そ三四丁四方一疋の積りにして、竪二里積り横一里積りの牧馬二百疋程放し侯積りに御座候。右牧之内風雨の節駆け入り凌き候為、木立又ハ谷合にてもこれなく候てハ宜しからず侯。且水これなき地ハ放牧に成りがたく侯。

一、一日切に野放等致し侯と違い、四月より九月迄牧に放ち置き候ては馬荒く容易に繋ぎ留めがたき事にはこれある間敷哉。箇様の手当は如何いたす事に候哉。

 (附札)放牧の馬は仰せの如く荒く相成り候故、馬留土手柵の内見合せ、追て廻し宜しき場所土手か柵を以て、十間或は弐三十間四方の牧袋、一方口ニ補理、其口より左右追々向箕の手形に土手柵を構え、野取り候節に至り、土手陰に伏勢子備え置き、牧中散乱いたし居る馬共、人数ヲ以て狩出シ、右牧袋段段追入り、惣追込ミの上、袋の内小牧袋ヲ仮柵ニて仕切、一間程の口ヲ開ケ、壮夫数人ヲ選ミ、袋の内より小牧袋へ五三疋ツツ引き分け追出シ、捕り押え繋留ル。

一、牝牡の数ハ、牝馬何程に牡馬何程の割合二放シ生育宜敷候哉

 (附札)弐歳以上牝馬五七十疋より百疋程の牧牡馬一匹の割合ヲ以て放し来り候。

一、冬分厩入れ候節、厩ヲ大き目ニして牡馬ハ合同ニ入れ置き候事の由、何問位の厩何疋程入れ置き、飼料船等も大きくして合同に喰い候様いたし候哉。是亦何疋位何程之船ニ致し候哉。

 (附札)冬中村里預り候ニハ、民一軒一弐疋宛預ヶ置き候。厩別段ニ大ニ致し候ニも申すに及ばす候。舟ハ一疋ニ付き一斗程入れ候。掘舟或ハ釣桶相用い候。民間にて一日限の野放馬ハ十疋二十疋も合同に厩入れ置き候もこれあり候。大概一疋に付き一坪半程の積りニもこれあるべく候。船合同ニ致し候てハ母子の外ハ争ひの気味これあり宜しからずの様相聞え候。勿論牡牝合同ニハ入り置き申さず。

一、懐胎の牝馬ハ放申さず厩ニ繋ぎ置き候故ニ候哉。若し亦其儘放し置き野ニて出産いたし候事ニ御座候哉。出産の御母馬子馬共ニ飼料各別の手当もこれあるものに候哉。

 (附札)懐胎の牝馬も其儘放し置き野にて出産いたし候。難産にもこれなく候得バ母子共別段手当ニも申すに及ばず候。村里に預り置き候馬ハ冬飼い中出産候えバ、母馬ハ干菜汁并に煮候大豆糠取り交せ七日中一日六七度宛相用させ、七八尺四方杭垣仕切いたし、母子七日程入れ置き申し候。尤も産前辛ミのもの忌み申し候。且水飼宜しからず候得バ子を荒シ候事これあり候。

一、野にて出産致し子馬共秋厩入れ候上合同の内母馬相添え入れ置き候事ニ候哉。亦子付の母馬ハ別厩入れ置き候哉。

 (附札)野取の上母子相揃え厩入れ候。冬ハ別馬共ニ合同も苦しからず候。

一、弐歳の夏是も牧放し置き候哉。母馬ハ出産より何月位置き候事ニ候哉。

 (附札)弐歳の夏共々牧放ち置き候母馬は弐歳の土用後迄付け置き、秋ニ至り野取の上弐歳牽き放し候。

一、乗馬仕り候事ハ心懸各別の事ニもこれある哉、二歳末秋より厩繋ぎ置き、三歳より乗り立て申すべしと存じ候。

 (附札)乗馬仕り候事ハ二歳の節惣馬の内選ひ候て用い候迄、当方二歳迄別段の仕込と申もこれなく合同ニ致し置き候。弐歳末秋より厩繋き置き、三歳より乗り立て候。

一、御地ニて右牧場所持の民、一軒何疋位立て置き、右牧場前後常の通り遣ひ候事に候哉。

 (附札)牧馬所持の民一軒何疋と定め難く候。田畑所持の多少ニ依り、馬数持ち立て不同ニ御座候。稗大豆等多く作り出し候民ハ其から糠等を飼料ニ用ひ候故馬も多く持ち立て候。大凡そ田畑打ち交し三四反も耕し候民ハ一軒ニ付き馬一弐疋も持ち立て候。併し野辺の場所ハ馬数ニ応シ原野ニて末秋ニ至り、草苅干ニて囲い置き飼料足シニ用い候故、右差し積りの外馬数所持の者も間々これあり候。稲過ぎニ耕し候場所ニ至りては馬不足ニ御座候。主用の牧場ハ専ら公用ニ付け申し付け置き候間、厩へ牽き入れ置き候節も堅く遣い申さず候様申し付け置き候。尤も民間自分の野放馬前後軽荷ニいたし、労(いたわり)遣ひ候趣ニ御座候。

一、牧之前後馬留之柵は、何れにしても補理置き候事ニ候哉。

 (附札)馬留之柵ハ一間程弐本送り高サ五六尺根入二三尺或ハ三本送り貫三通、尤野取の節追込袋柵ハ如何ニも丈夫ニいたし高サ七八尺貫四通ニも致し候。土手ニて便利の場所ハ高サ七尺幅八尺程築き立て候。袋土手ハ右より一二尺も高い致さず候てハ馬共荒れ立ち防ぎがたく御座候。且生来の垣ニて根通り四五尺ツツ掘り廻し候て、馬留め致し候場所も間々これあり候。

一、牧の場ハ見渡しの処へ馬番の者附け置き候迄ニ候哉。又は牧士様の者時々牧へ入れ、馬共取り扱い候事等もこれあるものに候哉。

 (附札)牧場近辺見渡しの処馬番の者一両人宛申し付け、日々の様牧中見廻させ見守り候。右の外牧馬別当并に馬責馬医等申し付け置き野放し野取の節万端吟味下知致させ候。馬生死等も見守りの者より其向々訴え出でさせ、時々馬数吟味致させ候。

一、牧狼入り牧馬ヲ痛め候事これあるものの由、か様の防ぎ方如何仕り候事二御座候哉。

 (附札)牧狼入り候て馬を痛め候事間々これあり候。其節ハ鉄砲ニて威シ或は討留の牛馬の死骸毒薬を仕込ミ、餌ヲ以て刀裂鹿料圧(ししりょうおし)落穴等ニて防ぎ候。

上の御答書此度出府に付き持参御馬掛御用人中村左中方へ差し出し候処書取思召其儘一ヶ条限り御附札成され末に至り別段御附札には放牧の場所其所山野地理の様子に寄り書面の通りに致しがたき義もこれある趣一ヶ条御書加へ早速表へ御立遣され候旨これを承る
  寛政十一年(1799年)十一月     松尾紋左衛門
                    (岩手県馬産誌書載文書)

 牧場は牧馬別当によって管理され馬責(うまぜ)め(乗馬調練士)馬医(伯楽)が附属されていた。積雪で、冬期の野放し困難な牧場は、晩秋に民家に預り、春草の生えたころ放牧すること、秋季捕縛には、特設の牧袋(まきぶくろ)に追い入れて野取とすること、乗馬訓練には三歳馬よりすること、狼害を防止する施設をやり、牧場に番人を常置していた。

五 民間馬

1 宝永の布令

 藩では、宝永三年(1706年)春、領内飼育の馬について八ヵ条にわたる布告を出している。それによると母駄(牝馬)を上中下の三等級に区分し、本帳(馬籍帳)に登録すること、その区別を何人も判別するために、髪を切りおくこと、父馬も髪を切り一般牡馬と区別すること、記帳もれのないようにすること、記帳もれの場合は、馬主・五人組・肝入まで責任を問われること、許可なくして他領に馬を出すことを禁止すること、他領に売払いの馬は、老馬・十歳以上の小荷駄・下駄等であるが、それも代官の許可を得ること、小荷駄販売の馬市は、盛岡・郡山・花巻の三ヵ所に限られ、上馬・中馬・上駄・中駄の他領出は禁じていた。この宝永布令は、南部藩の民間産馬に対する馬政制度を知るに、極めて好資料であるが、その多くは旧来からの制度の強化であった。

一、総馬員数改め人今度遣され候間、立合急度(きっと)相改め、帳面にて差上申すべき事。

一、上中下の母駄本帳にて吟味をとげ、本帳の外に上中加え、然るべき駄これあり候は、尤も帳面に加え申すべく候。上中下共に向後母駄の分髪を切り置き申すべく候。并に父馬其外能く馬の髪をきり申すべき事。

一、今度の改に若し帳はずれの馬これあり候はば、百姓共気遣いこれなく、政に合本帳加え候様に申し付くべく候。来年より帳はずれに仕置脇より相知れ候はば、馬主は申すに及ばず、肝煎五人組まで急度仰せつけらるべき事。

一、他領隠遁これあり、馬通し候様に相聞え候。通候道筋、近所の百姓共其の外何ものなり共右の馬押え、訴人に罷り出で候は、押へ候馬は申すに及ばず、其上品により宜しく御ほうび下さるべく候間、此旨相心得隠遁これあり近所の百姓共所々申し付くべく候。尤も惣百姓も申し渡すべき事。

一、近年上駒上駄段々少く成り候様相聞こえ候。因て向後其所の御代官吟味をとげ候様ニ仰せ出され候間、左様相心得申すべき事。

一、預り置く父馬并に持ち来り候馬、老馬死又ハ悪敷成り払い度しと申すもの候はば、先年仰せ出され候通り、所々御代官吟味の上払せ申すべく候。従ひ小長(こたけ)にても無疵三歳は他領に堅く払せ申す間数候。拾歳以上の小荷駄尻旋、桑門(毛疵)おさへこれある馬、其外下駄の分を他領へ出させ申すべき事。

一、他領出の小荷駄、御役銭向後盛岡惣馬別当吟味致し、前々御定めの通り取り立て通り判り相遣し候様こと先年より仰せ出され候間、所々御代官所より馬数歳毛性書付添状、印判にて両御馬別当差し遣し申すべき事。

一、御代官所へ地遣し払い候小荷駄、其所の御代官吟味をとげ、御役銭前々御定めの通り壱歩に付き六拾五文宛取り上げ申すべく候。尤も歳毛性書き付け他御代官へ遣し手前印判にて差し添え申し越すべき事。

一、他領のもの奥筋其外所々通り小荷駄猥に調候様相聞え候。右他領のもの入り込み候へば、自然まぎれ馬もこれあるべく候間、向後他領ものに売り申す間敷候。併他領のもの小荷駄調候事盛岡、郡山、花巻三箇所にて売買仕るべき事。

一、上中下の駄、髪かり申す儀今度仰せ出され候。自今自然髪かり申さず駄馬見当り次第何方によらず、其所の肝煎御町にては検断、早速所々御代官へ牽き参り、御帳面に加え、早速髪からせ申すべき事。自然髪かり申さず駄馬これある由、脇より相知り候はば、其所の検断肝煎迄後日に急度御詮議仰せ付けらるべく候。此旨申し渡すべく候 以上。
 二月             『宝永三年牛馬定日留書』

 宝永七年(1710年)三月、駒は小荷駄のうち、尻旋・桑門のあるものを他領へ売ることを許可し、下駄(牝馬)の場合は五歳以上の他領販売を許している。また盛岡の馬町の業者に次の指令を下した。

    小荷駄商売望に付き馬宿へ申し付け候事

 一、尻旋、桑門これありその他下駄の分、駄は五歳以上下駄の分他領へ出すべき事(牡馬を駒といひ牝馬を駄といふ)

 一、駒二歳掫駒の刻筆墨代として前々の通り一匹に付十五文宛雙方より三十文取り申すべき事。

 一、判役(鑑札料)の儀は馬代金一歩に付銭六十五文宛取り上ぐべく候馬主方より直に他領出払申し度しと申す小荷駄は直段高下によらず一匹に付き二朱宛取り上げ申すべき事。

 一、小荷駄他払は前々の通り二歳以上駄馬迄商売仕るべく候買入より二十文、売人より二十文雙方より四十文右の通り筆代取り申すべく候。此外礼物等堅く取り申す間敷事。

 一、小荷駄来り候時分少も支えおかず当番御馬別当へ牽き参り改を請ひ滞らざる様仕るべく候事。

 一、馬宿仕り候者過分の馬屋賃堅く取り申す間敷事。

    覚
 一、前々御馬買御下成され候に付き、小荷駄商売馬町にて仰せ付置かれ候所、寺町困窮に付て御救のため両町にて商売仰せ付置かれ候所、馬町にて責馬等別て諸商売もこれなく困窮に及び馬見所修覆その外門番二箇所板橋二箇所水道一箇所櫓両所破損并に鐘つき日用代提灯小旗等其方手前にて仕るべく、其上馬町中一箇年銭三十貫文づつ取らせ申すべく先規(以前からのおきて)の如く仰せ付けられ下され度き旨疎い上げ候に付き馬町ばかりにて小荷駄商売仰せ付けられ候間、前々の通り急度相勤むべき事。
 前述の通り相守るべく候、若し私曲仕り馬商売人難儀仕り候由、相聞るにおいては、急度申し付くべきものなり。
                       『南部史要』

 このように、民間の産馬地には、藩有の父馬を郷村に預け、無償で貸付けてあった。父馬老衰となると、そこの代官が吟味をとげ、これを売払っていた。また繁殖や、保護育成、他領払には、五人組合・肝入・検断にも責任が負わされていた。この時、まだ馬肝入は設置されていないらしく、馬肝入の任命は宝永(1704―11年)以降であろうか?

 南部領の農家では、同一の家屋内の一部を仕切って、そこを厩舎に代用し、馬屋(まや)と称し、そこに馬を飼育している。後年、上杉藩の質問に答えたとき、「大概一匹に付一坪半程の積りにもこれあるべく候」(寛政十一)とある。盛岡馬検場の貸厩舎は三坪制(奥行二間・間口一間半)であった。一坪半という標準は、牧場馬の民間委託の場合であろう。北上川沿いの曲り家の馬屋でも、馬一頭に三坪程度が普通で、曲り家の馬屋の坪数は十坪以上十五坪前後のものが多かった。

2 農家の飼育状況

 領内の総馬数については寛政九年(1797年)の調査を集計すると八万七千二百十五頭と計算される。藩営牧場の飼育馬は、この集計以外であろうから八万八千頭を越したであろう。

 これを郡別にみると、稗貫郡は一戸当り一・二頭、志和・和賀二郡は一・四頭で、さすがに米産地で牧野の少ない様相を呈している。さらに岩手郡の上田・粟谷川・向中野等の代官区も飼馬が少ない。閉伊那の大槌・宮古の代官区も飼馬が少ない。これは海浜の漁村が多いので、馬を飼育しない漁民がいることを示している。

 産馬地帯としては、野田代官区は一戸当り三・六頭、沼宮内・雫石・遠野・大迫・福岡の各代官区は、いずれも一戸当り二頭、またはそれ以上である。

 採草地について、盛岡仁王外二十六ヵ町村中、滝沢村は大石渡、柳沢、分れの狼森、鵜飼村は中道、盗森、ありこ平、岩洞堤上、長森、春谷地、夜蚊平、荷替坂、花平、逢の沢、沼森、大沢村の狼森、篠木村の春谷地、夜蚊平、大釜村は花平、逢の沢の入会にそれぞれ遠出したのであるが、後鵜飼は各人に配分し、大沢は共有となし、滝沢・篠木・大釜は入会権を放棄したので国有になったのであると大坊直治氏はいう。

 沢村一助氏談によれば、大沢の入会は、新林と称する外山野で昭和十年ごろ堰合鶴松、佐藤初蔵、三上孫太郎、藤倉左右治各氏の先導になり、九十七名が署名して払下げ請願をした。青森大林区では不用存置の告示をまって申請するように附箋をつけてもどされた。代表者は調査をなし一切終了したので、大林区へ調査を要請、大林区では柏木技手を派遣、場所の立木を調査して帰区、その後柏木技手より請願するようにとの連絡があったので、沢村亀之助氏の言によって鈴木岩代議士を依頼して価格を決定する。当時部落民一人の出資高は百二十円(四斗俵入の米十五俵位)、登記完了までかれこれ三、四斗かかっている。

 なお、大釜、篠木は鬼越平、矢取森その他であり、鵜飼は沼森、中道であり、滝沢は種馬所、巣子であったという。

 入会については、前者と後者とが相違しているが、不明のためここでは並記することとした。

南部藩馬所有比較表→

3 凶作と産馬

 南部領は良馬を産し、その飼育頭数も多かったが、凶作飢饉の発生によって、これまた多くの馬を失った。たとえば、宝暦五年(1755年)の大凶作により、翌六年の夏には「この夏、領内疫病大いに流行して死するもの、餓死者と合せて六万余人馬の葬るるもの二万余頭に達すといふ」(『南部史要』)というごとき例であった。翌宝暦六年の斃馬は二万頭を越したであろう。天明三年(1783年)また大凶作で、その翌年、餓死・病者合せて六万四千七百人、他領に去るもの三千三百三十人、合せて六万八千の人口が減じ、明家(あきや)一万五百四十軒に達したという。

 その結果、寛政二年(1790年)には、八戸藩との間にさえ牛馬の売買が停止になった。「八戸御領の者に牛馬売買仕り間敷儀、寛政二年御停止仰せ付けられ候処、此頃に至り自然と相弛み候云々」(橋野和田家文書・文政八年答書)として、保護育成に努め文政八年(1825年)に至っても、その政策を堅持している。

4 馬の等級と競売

 領内産馬の等級については、前に述べたごとく、上中下の三等級とし、上中の馬は他領移出を禁じ、下駄のみが代官などの承認を得て領外にも売ることができた。小荷駄は十歳以上のものが自由販売を認められていた。しかし五戸・七戸から産する馬は優秀で、この地方の下等級の駄馬でも、他地方の上級中級に準ずるとして制限を加えた。また等級区別については、次のように髪を切っていた。

 上駒并に上中駄は前々の通り、他領払い御留め成され候。下駄斗(ばかり)は是迄の通り、他領払い御免成され候え共、五・七戸は前々より他郷払いともに容易には御免成さらず、なかんずく七戸は御野引き続き候御場所故、厳敷(きびしく)御差し留め成され候得共、先年(註、天保九年の大飢饉の時か)御百姓共困窮に付き、願筋もこれあり御免成され候。然る処去る巳年(天保四年)己釆(いらい)右御場所の馬は追年相減じ候事故、駄駁出生も右に準じ、不足にこれあり候。殊に五・七戸の下駄は、他御代官所の上中にも準じ候えば、己後(いご)他領払いは勿論他郷払いに暫の内御差し留め成され候。尤も十歳以上の下駄は御吟味の上他郷御払い御免成さるべく候。牛房小丈背たるみ駄等の類差し置き候ては、後々の為めにも相成ず、分て是又御吟味の上他郷払い他領払い共に御免成され候。(後略)

 村々の農家で馬が生れると、二歳の秋、藩が一定の場所に集めてこれを検査し、上中下の等級を付して帳簿を調整、その上級の牡馬は、藩有の乗馬にもなったが、駒市で競売され、飼育者に歩合金が下附された。駒掫りの発生はそのためである。

 藩用馬の場合は 競買最高価に一両を付し御用馬として買上げたという。たとえば後年の例であるが、大迫・三閉伊・福岡・沼宮内の二歳駒一千六百四十一頭の掫駒乗金取上高は三千三百七十八両(文久元年―1861年)、大更、鹿角・三戸・五戸・七戸・野辺地・田名部の二歳駒二千五百三十八頭の同上金は六千五十両余(文久元年)、雫石・沢内・徳田伝法寺・日詰・長岡の二歳駒一千四十八頭の同上金は、八百十両余であった。また藩用馬(種馬と乗馬用)として、文久元年(1861年)は二十六頭、この代価百七両余、文久二年八十六頭、この代価四百三十両余、元治元年(1864年)十頭、この代価百五両で、最高価は十二両のものもあった。
           (大正四年岩手県刊『岩手県産馬誌』より)

5 斃馬届出

 南部領は、制度として馬籍簿を完備していたことは前述の通りである。従って斃馬の場合は、その事由を附記して司直のものに届出ている。下掲の例は牧場の場合と民間の場合であるが、北野牧場は冬期も野外放牧であったらしく事故死が多い。民間の場合は、有司検査の上、証拠として耳と尾毛を添え届出している。

   死馬御訴
 一、水青毛駒弐歳。死馬罷り成り候。一昨三日ふきたまり入死馬成され候。
 一、くり毛十五、昨三日に浜崖より落ち、死馬罷り成り候。
 一、くり毛駄四歳、去二日夜狼に喰れ来り耳尾共御座候。骸斗見付け申し候。切浜と申所にて
 一、くり毛駄十五、昨四日に浜がけより落ち死馬罷り成り申し候。
  〆駄駒四疋二月五日御訴、松之助御訴。
  一筆啓上仕り候。先ず以て御堅固罷り成り、珍重の御事と存じ奉り候。随て私共相替ず罷り有り申し候。
 一、駄駒四疋此度死馬罷り成り申し候。依て別紙に書き付け申し上げ候。山田長太夫様下され候。尤も御見分御扣遊され候はば私共其御地罷り上り逗留仕り居り、迷惑と存じ奉り候間、殊に狼あれ出て大雪御野見廻り差し支にも罷り成り、御用御差し支にも御座なく候はば、今日死馬御訴え明日罷り上り手形相認め差し上げ申し度願い上げ奉り候。其段仰せ上げ此者に御返事仰せ付られ下され度存じ奉り候。以上。
   二月五日           北佐野守  覚右衛門
                  同     孫右衛門
    肝入利右衛門様
                (安永三年御野御用状書留帳)

 差し上げ申す死馬手形の事
             折茂村似鳥隣知行処
 一、黒鹿毛駄二十五             五郎左衛門 印

 上の馬、肉罹(ないら)相煩い居り十七日死馬罷り成り候に付き早速御訴え申し上げ候処、御検夫として馬肝入佐左衛門仰せ付けられ遣され、死馬相違これなく、肝入五人組立合いの上、尾耳差し上げ御改をえ候処、実正に御座候。後日のため手形件の如し
   天保六年(1835年)十一月二十六日
            同村同五人組  五郎助   印
                    仁八    印
            同村同肝入   清左衛門  印
            五戸通馬肝入  富之助   印
                    太左衛門  印
                    佐左衛門  印
 鳥谷部 直江様
 江渡茂左衛門様
              (田中喜多美氏所蔵文書)

第四節 石材

一 建築材料

 甘石(凝灰岩)は大字篠木外山の石倉山にある。発見年代不詳。昭和十五年々間産出額約五百円。

 大字鵜飼鬼越の黒ヵ沢にもある。昭和十五年々間約四百円。

二 磨聾材料

 燧(ひうち)石 鵜飼鬼越山

 大妨直治氏は『鵜飼野史』のなかで下記のように述べている。

 燧掘(かどほり)山は全山石英より成り立っていれども、丸味ありて、其形整ひ、四六六・九米に過ぎざるも、西山村・太田村・盛岡市・渋民・玉山の諸村より能く見ゆ。されども仙北町停車場よりの遠景を最も佳なりとする。維新以後マッチの発明ありて、全く廃れたるも、其以前は、鵜飼村の人等によって坑を穿たれ、深く其内に入り、枯れたニガダケ一本に火を点じ、之を頼りに、手捜りに鉱石を掘出し、石英の部分丈を手頃に打砕き、茅町は菱徳、材木町は紫屋、八日町は誰、鍛冶町、十三日町、馬町、河原町と売扱ふ。蒲の火(ほ)口をあてがひ、鋼鉄にて強く打てば、火を発し、火口に附くを硫黄附木に移して火を焚き附く。人間の生活上かく事の出来ぬものなり。現今其古坑に穴熊(俗称マミ)、狸(俗称クサイ)冬籠しつつあるを猟師は猟犬をかりて捕獲せり。
 明治七年(1874年)十一月廿日許可。借区六十五坪。一ヶ年高凡そ二千五百貫目。
 この燧石は、盛岡附近のみの使用にとどまらず、盛岡新山河岸船場から、石巻を経由して、遠く江戸まで移出されたという。

 〇寛保二年(1742年)四月廿九日
                      (『南部藩事務日記』)
 厨川通御代官所の内、鬼古里御山火口御請負願い上げ、尤も中の年八月より戊の年七月迄、三ヵ年中御礼銭十貫文差し上げ、御証文頂戴仕り相勤め罷り在り候処、恐れながら今度御増し願い上げ候由、伝承仕り候。私儀只今迄相働き居り候山人用語道具其外小足等相懸け指し置申し候処、今度脇方へ仰せ付けられ候ては至極迷惑仕り候。これに依て恐れ多き御儀に奉り候へども、私に仰せ付けられ下し置かれ候はば御礼銭三十貫差し上げ申すべく御証文引替云々
 願人馬町留兵衛、請合長町検断弥作
 願の通り仰付けられ漆戸主膳織助へこれを申し渡す

 〇寛政二年(1790年)十二月四日
                      (『南部藩事務日記』)
 栗谷川通り御代官所鬼越山より出で候「火口」掘り方請け負い、明年より五ヶ年中御礼銭、一ヶ年十二貫上納仕るべき旨六日町作兵工と申す老申し出で候処、願の通り御町奉行へそれを申し渡す。

三 厨川通産物

 寛政年度(1789-1801年)大巻秀詮著『邦内郷村志』に下の記事あり。

  厨川通産物
一、じゅん菜下厨川村
上は機織沼と申す所より出づ
一、芹滝沢村
上は角掛大井手より出づ
一、火石鵜飼村
上は鬼越御山より出づ
一、甘石滝沢村
上は滝沢御山より出づ