第五章 明治以前の本村の教育

 大釜の東林寺、篠木の清雲院両寺は、それぞれ慶長年間(1596-1615年)と慶長二年(1597年)の開山にして古寺であるが、寺子屋についての記録が残存せず、調査のしようがない。幸い明治二十五年(1892年)文部大臣官房報告課出版の岩手県教育史資料・南部叢書第十冊・岩手郡誌・滝沢村誌資料からまとめてみると、篠木の武田三右ェ門・同亀が森影正・鵜飼の小笠原政新の三人(以上後述)の外篠木に飯岡某・村上与次郎兵衛・照井一宅・山崎氏、星忠周、鵜飼に戸長をつとめた上田常明、滝沢に牧田・大坊・四戸武虎・下田文右街門等が散見している。

 家塾・寺子屋の設置については、藩政が関与しなかったので、何人も随意に開設することが出来たし、その教師は往々世襲の家であったから、村民の子弟はその師家を尊敬する風習があった。名称については特別に命名したものはなかったらしい。

 数は現在の大字に一、二ヵ所設けられている。

 生徒教については区々であって、大体八、九歳から十四、五歳までの男子であるが、女子で学ぶものも稀にはあった。一ヵ所七、八人から多くは百人位であった。

 修業年限については、短きは数ヵ月、長きは四、五年に亘るものもあり、全く個人の自由であった。特に限定はしなかったのであるが、家を継ぐ長子のみが、一、二年から四、五年就学し、二、三男のいわゆるオジキレは冬季二、三ヵ月位で、一般の多くは通わなかったから、地域全体の教育程度は甚しく低かった。

 科目については、主として読書算の三科目で、読方としては源平藤橘・商売往来・百姓往来・庭訓往来・実語教・童子教・貞永天下御成敗式目・四書五経・十八史略等。書方は伊呂波・苗字尽・百姓往来・商売往来・国尽・千字文等。算術は専ら珠算で加減乗除を授けた。中には高等数学にまで及んだものもある。しかし部落、または師匠によって、前科目の一部の教授にのみ止った所もあったがまた御談義と称して特別な修身を訓話せるもあった。特に謡曲を教えたところもあったという。

 教授は多く師匠の余暇に行なったから個人教育であって、教材はそれぞれの生徒に応じ、また読方等は朝の内に優等生徒数名に教師より授けおいて、これに初学者を教えしめ、習字は手本を書き与えこれによって習わしめた。

 束脩・謝儀については、学習者の随意で一定していなかったのである。家庭の貧富に応じ、その額を異にしたが、普通入門の際若干の持参物をなし、謝儀は、月に白米一升、銭一本とせるもあった。

 以上のようであったが、師匠のなす教授振りはすこぶる厳格で、処罰をするときには、机を高く積み重ねて、その上に坐せしめ、あるいは線香を持たしめてその燃え尽くるまで直立せしめるごときもあった。されど子弟の情誼に至っては実に濃やかなものがあった。

第一節 武田三右衛門

 武田三右街門は篠木の人で明(みょう)眼或は明賀という家に育ち、文才に長け、俳句をよくし、また書にも達した。氏の編める字書並辞書等も数多く、遺族にはいまなおその蔵書が伝えられている。曽て手習師匠となって自宅において子弟を訓育したが、氏は郷党子弟の教育に直接当ったばかりでなく、その著書に依りて近郷教育の普及に貢献したことは少くない。地方稀に見る篤学の士で『俗言集』の著者としてまたいわゆる普通教育家として後世にその名をなしている。

 国に南部叢書に俗言集の著者を村上与次郎兵術とされているのは誤りである。村上は西山の人で、三右衛門の女婿であった村上氏は俗言集を書写したのである。それは、大釜に仁左街門といえる家があるが、三右衛門とは、その祖先を同じくし、各々代々仁左衛門及び三右衛門を襲名していた。仁左衛門方に安政(1854-60年)のころ与惣なるものがあって三右衛門の門弟であったが、その遺族武田彩吉氏にも俗言集が伝わっている。それに (旧文書→) とある。なお、明賀は細屋から分家になり、三右衛門以来、或は肝煎役、その他村の公職を勤めた名門である。祖中三太郎・理惣治・三右衛門は学者であったが、三右衛門が特に傑出していた。天保十四年(1843年)卯七月死亡した。法名萬安全清居士。家宅傍の墓地に葬る。

系図→

 『俗言葉』は耕作・普請・伝馬・上納・検地・訴訟等に関し・生活上の常規を郷民に教えたもので、当時の農村経済教育民俗資料として唯一のものとされている。

第二節 俗言集

   俗言集目次

 百姓用達俗言集
 百姓春始之祝
 田畑之入付
 農打立
 田植仕附
 所々御普請夫伝馬
 諸上納物
 御検地御検見
 家普請
 公事訴訟
 御尋人相当

   俗言集(以下原文に即して現代文に訳す)

 この俗言集は、百姓が平生使用する言葉で、年中田畑を耕す詞を俗用文字で表現しているから完全なものではない。たゞ篠木村に限るのであって、他見成らぬと申す処、無理に御願いをして書いたのである。
           村上与次郎兵衛書記

 わざと五文字に綴り、同じことを重ねたり、いらぬ詞をも入れたり、日常使用する文字は分けてきたなく、そのようにしている間に十二月末になってしまった。

   篠木村三右ェ門御断申上候事

 下郎百姓の子供らの手習を教える人を師匠といわぬのである。その理由は下原の子は筆墨紙を持たず、山折(お)敷(白木の粗末な膳)の中へ灰を入れてならし、箸を筆にして聞書するものであるから灰書というのである。篠木村において、大人達が子供や孫の名前位を学ばせたいと灰書師に無理にお願をする故、十四五人を預り世話をして見たのであるが、半年や一年で止めてしまう者が多い。その中に二、三年習う真似をする者がある。母親から書物というものを教えて下さいと頼れたから、村尽し、野山尽し、更に百姓往来・農夫耕作状・商売往来など、百姓の専ら取扱う文字を教え、更に無覚語状・手習状・太閣三十ヵ条、更に義経含状・腰越状・楠状・江戸往来・富士の往来・牢人状・大阪状・熊谷状・今川状・実語教・童子教・弁慶状・庭訓の往来・御成敗式目等、古状も国風様々あって、その子供により教えよませ、三日に三十人の中、漸く二、三人もよみ究め、大略学び、成人して自由に読み書きが出来るかと思えばさにあらず。かく申す灰書師でさえ古状の文を解せず、いわんや一年や半年習う子供らに一生懸命教えても、余り効果がないと灰書師に限って思っている。であるから教育するということは、禁苑より将軍家・諸大名・旗本、専ら武家方の用向のみであって、下賤の用向ではない。しかし、子供賤なりといえども心あれば、書を読んで仁義礼智信・五戒五逆の道を覚え求める事であるから、たとえ下郎の子にしても、四書・五経・詩記・左伝・文撰を深く読むべきである。これは父母の心がけ如何によるものである。かく申す灰書師が預る子供らへ何程一生懸命教えても、努力して復習しなかったならば、皆忘れてしまい、理解しなかったならば、牛馬に鼓をならし、又は琴三味線などを曳き鳴らして聞かせる事と同じである。どれ程世話して教えても、あとから皆忘れ、又改めて教えても、馬放しに野原へ行くとか、又は父母が働きに出れば、留守居等といって出席をしない。父母は馬追い・薪切り・鍬鎌の取扱いに精を出し、手習の方には見向きもしない。従って、書く事もよむ事も埒あかず、一ヵ年に百五十日も習う子供等は稀である。三十日も四十日も机に向う事がなく秋仕舞して雪が積れば、灰書をして勉強致しましようと、毎日のように顔は出すけれども、穀はかりの高返しに参るとか、母が里へ行く供をするとか、鍬餅・秋酒・嫁取・聟取等で三晩泊ったとか又裸になって身体を洗い、虱の虫の子を殺したとか、仲々読み習う事にほど遠いのである。いとゞいやがる子供らに、父母が様々仕事をいいつければ、手習よりよい事に思い、いよいよ怠り多くして、行届かないのである。扨又無筆の父母等は、手習にさえ出しておけば、二年か三年には大丈夫読み書きが達者になるものと思いこみ、灰書師様は手前の子供には、書物というものを教えて下さらないと見えて、何読ませても知らないとばかりいう。灰書師様が一生懸命にならないと見えて、今年で三年習せたのであるが、一向埒あかず不思議であるとして、灰書師を替えて見たい等という者が多い。只其の年数ばかりを気にとめ、子供本人の手習学問に対する態度には気をとめず、一ヵ年間に百日以上学ぶべきなのに、二百四十日学ぶ子供は一、二人位なものである。はや十三だの、十四、五歳ともなれば、割課(わっぱか)を打せたい等とばかり思い、手習に出す事を外の事と思い、我が子の不精をばいわず、灰書師ばかりを恨み、無筆下郎とて拠なきものである。何としても、灰書師の教え方ばかりでなく、父母の世話にもあるのである。生より育ちは大切なれば、子供らの馬鹿も父母の育て方が悪いから馬鹿ものに成りやすいし、馬鹿な子を預り、余り政道折檻を加る事が出来ないものである。強く政道すれば胸に悪心を起し、成人してから恩を仇で報ずる事もあるのである。政道もたしかに大事である。本当の師匠であるならば、教え方も格別であり、政道も格別ではあるけれども、親子共師への礼勤が最も大事ではないかと思うのである。私は篠木村一ヵ村に限る灰書師であるから威(おどし)もないためか、父母の短方、愚智なる父母などは、子ぶせをして立腹し、馬鹿な子を持ちながら我が子をかなしみ、子供同様灰書師を悪口し、子供にまゝをさせ、年ふけきて後悔すべきに、そうでなくてさえ教方が悪い為であるといわれ、さてさて気の毒千万なことである。数年子供の世話をして見るのに、三十人の内二十八、九人迄は漸く高の覚え書き位迄である。小ざかしぎ子供は二十冊三十冊と読み、庭訓の往来迄も読み究める子供が一、二人はあるのだけれども、只読めたというばかりである。年十六、七歳で灰書から去り、女房を迎え、一人前になった積りで、灰書師とは元から無関係であったように知らぬ顔をなす。灰書する間は正月の御年始、暮れの歳暮は持参するものの、教えられたる恩をば忘れ、途中に於ては馬上のまゝ冠りも脱かず、颯と礼をする真似をして通るもの三十人の内二十人余あるのである。このような事は師匠とは全くない事であって、私一存で灰書師と名付けた為であろうか。幼少の時から手習中に親への孝・君への忠・神仏への信心・三世の契り重きものは師匠であるといい含め教えているけれども、女房を持てば師恩を忘れてしまう、誠に下郎百姓共は困ったものである。子供の灰書を止めれば、灰書師には用かないと思う父母が三十人の内四、五人ある。まして血気さかんになれば、灰書師の恩等は勿論、手習学問の道等は夢にも見ない事である。読み書きはいらないもの、只力さえ人に勝っておればよいと思っている田夫野人であるから、博打には殊の外精を入れて父母に心配させ、又色にふけ酒に長ずるはこの道に入り易いためである。三十人の中二十人迄はこの道に落入っている。兎に角数年子供等を預ってみるのに、理解出来ない学問を一生懸命教えても用にならず、普通の子供には口上で、時々、善と悪との二つをよくいい含め、成長するにしたがい、家業を相続する事は何といっても第一で、神の教えや聖人の教えを朝夕の隙によくよく納得するように口達で云い含めて教える事は、不解の書物を教えるよりはかどり、三十人の内十人迄は納得しているのである。半年や一年の短期間学ぶ子供に、今川状だとか庭訓の往来等は無理であると私は心得でいる。この口達云い含めでさえ役立っていない。子供が成人するのを見ていると、はや二十になれば大酒を飲み悪口をはき、浄法寺の飯椀を庭訓の往来として五盃も十盃も飲み喰うて庭訓の往来をよみ、又大酒をし乍、心は酔うておらぬといって、富士の往来をよみ、目繰(めくり)を引き乍、これは商売往来だと度々読み復す。父母が叱れば目繰りの親ほろきといって、父母に向い返答悪口をはき、又、源兵工をはって五六を当て、高声に実語教を読み復す。親肥たるが故に貴からず、我知有るを以て五六を当てた等と、読んだ書物を尊ぶ心がなく、只悪口雑言を吐き出す馬鹿者三十人中二十二、三人もあるように見うけている。私は十八九歳の頃から灰書指南をなし、今六十余歳になり篤と思うことは、俗輩の子供らに、早くのみ込み易いことを教え度いし、又人の笑いになる事を編出しても余り恥とも思わぬし、師匠という者でないから気遣いはない。親の代から子供らを多く預り灰書の指南をなし、百姓下賤の子には名付・銭高・御役銭割付・御用廻紙位よめれば上々で、外に文通の文言もいらぬ事なればと心づき、百姓の手取早い用達文字ばかり捜し集め、童子教のようにわざと五文字に続けて書き記し、学び易くして、一まずこれを読ませておけば、百姓の文筆はどうやらこれで間に合うと、朝夕心がけて編出してのお笑い、学問道も知らない灰書師であるから、文字の前後も弁えず、文言というのでもなく、道理非もわからず、唯用向きの文字に重点をおく世間字、いたらず事として並べ書にて、民・百姓の用向所作を書き続けおき、お笑い草かしこ。

一 百姓用達俗言(ぞくごん)集

旧文書→

 大日本国は神国なり、奥州南部岩手郡厨川篠木村庶民の童の一、二年の手習は盲目の往来よりなお覚束ないのは、農子の手習なり。漸く米高・銭高・名付・留(とゞめ)ばかり覚ゆる老稀なるべし。理解しない学問は師弟辛苦をくだいても忘れ易くして甲斐なし。百姓の用向文字ばかり、わざと五文字を続け、読み易く学び易くして、これを読ましむるものなり。此の俗言を習う輩は、土民用事をわきまえる事遅滞なく、このようなわけで、此の書物を灰書俗言集と書き記し題号となす。

二 百姓春始之祝

 それ青陽の春の始め、十一日の早旦、前田の雪の上に、厩のこえを背負い始め、取粉餅で祝う。小正月には、農作の祝いといって御鏡を備え、餅を丸めて稲穂をつくり、菜種の形に拵え、新穂稲はせと同様にするのである。十五日の夜は、近所隣りの子供ら大勢集り、今晩田植の集りを約束して祝う。前田の田表に出て、祝いごとの田植をし、田植の唄を歌い、家毎にこれを祝う。正月二十日は、若い男幣打(ぬさうち)初めで、明きの方に山の神を祭る事は、毎年の吉例である。明け春が長閑であれば、その年は吉相であるという。早く雪が消えて、田畑仕付を迎え祝うので里の百姓が集り、社日の農神をお祭りする事は、五穀の実りを守らせ給う御神であるから、御酒を備えて参拝をし、女童に至るまで、我も我もと群集し、五穀成就を祈る。酒を飲み餅を食べて心まかせの唄を歌い、酔を催し踊り始めて喜ぶ。歌ったり、踊ったりする事は、一年中の農作のかせぎ働きが無事であるようにと祝う事である。百姓が産土神を祭る事と、国主領主を尊ぶ事とが同じ事を意味する。であるから、尊敬をし奉る。かたじけなくも、家業相続は国主領主の恵み深き故にその所に住み田畑仕付をする事の出来るのは、誠に有難き次第である。百姓は昼夜油断してはならないし、朝夕邪欲なく、春の祝いとして山の神を祭ることを遊び酒となずけて集りを持つのであるが、これは昔からめでたい事になっている。酒肴を調え日を選んで、山野の神を祭る。まず大提へ酒を移し、神殿へこれを捧げ奉る。立鉈・鉞(まさかり)・鎌をとぎ、金光をあらわして灯明をする、全員明きの方に向い、身体の息災を祈り、やがて、遊び酒が始る。酒は諸白(もろはく)(上等酒)色をまし、三升樽は一人あてで、まず料理献立、なますは柿あい山もりに、汁は大根をおろし、たつくりの辛煮、五寸はざっこ煮、皮かけの丸煮、小かぶに鯨の吸物と雑卉の吸物である。三種の肴は、赤魚の片まいやき、ほっけの味噌あい、あわび・ふなの田楽、軽塩梅の吸物、牛蒡のささがき、どじょうの竿煮、壷は岩茸、山いも、平は竹輪に葛かけである。外に濁酒の肴であるといって、納豆まじりの摺りなます、奴豆腐に香の物、鱈と鮪(しび)の芥あい、これが濁酒の肴である。片飲(かたき)み(片腕分の杯を並べる)、尋飲(ひろき)み(一ひろ分の杯)と争い、もろみ飲みの達者なものが進み出て提げ飲み、このように争うことは、山野の神を祭る事に外ならない。清濁の飲み合せ、酔がまわって騒しく、しどろになって喜ぶ。春の始めに歌う山唄、春来れば、四方の山並面白きかな。山野の草は年々新しく生え出るが、我身の若さ唯一度である。君が代は末代迄も繁栄すれば、岩おとなる。末ぞ目出たいと歌う山歌は吉例である。それから田植の寿、五月女が揃い、仲踊りの功者、太鼓・笛の上手な者が調っており、仕付の口上、弁舌の達者もの舞台の表に進み出て、そもそも田植の根元は、神代の昔に始り、末世の今に至るまで仕付に違う事なく、尊きこと天地なるべし。導き土これ米なり。尊き空これ命なり。百姓が土を粗略にすれば、自作必ず不作となり、尊ぶべきは田地である。これで仕付の根元の事が終了する。田植最中老若男女の見物はさざめき渡り、あっぱれ興ある見物である。男伊達の力ある者は腕押などに面白き勇力を出し、首引き、すわり角力、これ一入の見物である。最早たそがれ時、祝いごとの唄が始まる。神国の宇賀の神へ何を捧げ参らせん。古米をはかるとて、黄金の枡を捧げたり。黄金の枡はつくるとも、古米はつきまじ。秋は豊年、御蔵に納むる米は万才楽。千秋楽には俵にひようし米をおさむる御百姓。と歌で納めるこの唄は、毎年若者共の春の始めの吉例である。

三 田畑之入付

 田畑の耕作は毎年変化するのであるが、各自耕作する田はよい田であると思うて仕付けなければならない。地主百姓はその年の年貢と、その他の税を完納しなければならないから、旧臘より譜人百姓を招き耕作地を決定し、名子借屋の小百姓は早く田畑にありつかなければならないし、下々の百姓まで銘々油断することなく、その身分に応じ、自分の責任耕作区域を大切に取扱わねばならない。譜人百姓は水旱により、又畑の乾熟、湿田堅田等によって、定め米の高下諸税の軽減と免除、稲の作柄により御年貢が定まるのである。郷役の上納は御本役と同じである。税の高は土地の善悪と、過去の実積とによって一定の年数で固定されるが、その年数があければ、御米定めの地面、寺領社領地、御蔵給所の境を改めなければならない。洪水の為に破損した土地と、そこの産出高を調査しなければならない。古荒地や荒所の開墾経費については、代官の指図によるべきである。日負け水負けの地、虫食い青立ちの田畑は、毎年手おくれせぬようにし、川や堰沿いは水破の難を凌ぐように注意をし、道路の並木や山道の境、屋敷の樹木沿い、田畑通いの道沿い、堤端の田地、御よけはたの田地、細地の凹田、御鷹野道沿い、地尻地頭は昔からあり来りのことである。堅田、泥田、高田、凹田、空地の山畑、神木添いの地面、寺院側の用地、山ほとりの下畑、日受けの上田、日陰前の地、山田の堅田、深田の下田、石砂利砂地こやし利くと雖も五穀の実りいたって軽きものである。四通発達したる人馬通いの多い処は実り熟して重りがある。淀いかりの米は重りありと雖も赤米甚だ多く、実りの多い平地と雖も、大洪水や旱魃を防ぐ手段なく、村郷の田表や裏田、片田舎の小田、田舎の上畑、広郊の田のり、浜辺の入りこみ上作である。一里塚のほとりは必ず青作である。深田泥田の地、町裏垣沿いの地、湧気泥田の実らぬ田は、これ必ず作人嫌うのである。上・中・下・下々の土地をよく見知るべきであって、これは田畑のある場所によるものである。まず田畑が南よりよく日を受ける場所は上田畑の地であるし、又北高く南低き田畑も亦上作である。東高く西低き処は、早稲満作であるし、西高く東低き地は、晩稲満作である。この事は土地によりその年に依るべきは勿論のことである。土のよしあしに付いてであるが、砂真土・白土・山入は上作であり、黒真土田郡(たこうり)、川内(がわだい)多く、赤土赤星のある土、小石が適当に交っている真土は上田である。砂があり過ぎ、灰のように軽い土は下の下であるが、大根は上作である。泥土を干しても重いのは上であり、真土に小石が交り、こやしのよく利く泥土は粘りけがあり日に負けないから上田である。小石が交り粘りけがないのは日に負け易いから下田である。総じて重く柔かい土を上々とする。赤石多くあるのは田畑共下の下であり、何程よい真土も昔川原で一、二尺底は石多くて土の浅い処は下田であって下の下である。このような田地は必ず水が引き易く、こやしをやり過ぎると稲が枯れ、少ければ不作、よって雇い土を時々引入れて耕すべきである。草木成長の様子をよく観察し土地の陰陽を見分ねばならない。それには土の軽重、深浅、日当りのよしあしをよく考うべきである。湿地は陰で乾地は陽である。乾地の草の色が赤くなり雨が降ることによって勢がつき、湿地の草の色は雨が降り続くと色がわるくなる。土に粘りがあって日に負けない土は上である。このような土地の草木の色はよく、五穀の味もよいのであるから、大概土の色によるべきである事を農民は心得ていなければならない。それにしても田作りには水のかけひきが一大事である。まず堰・堤・池の用水は温水であるからよいのであるが、清水・沢水・濁気の冷水等は強水であり、荒水故作人が難儀をする。高根に降った俄か雨が洪水となって水口を淀め、用水堰樋口の高さを加減せねばならぬし、横留・竪留の水口大小をよく改めねばならぬし、小堰の呼び水、水門口の方法、留上げ場所の水分は毎年吟味を致すべきである。塗畔(くろ)、谷地畔の鼠穴はよく繕っておかねばならない。膳柵落しの田地は水の差引が面倒で、水口の切り方が専ら大事である。粗末な新水口は切り立ててはならないし、早水で不足をする処は夜水を引いておくべきであり、引水やり水の喧嘩、盗水水かけの争いは決してなすべきではない。堰守や堤守は捨り水のないように昼夜通して見廻りをなすべし。かけ樋底樋はよく念を入れて用うべし、溝の通り水の順水道水のやりくり、隙のないのは庶民万民の随一の稼である。溝や畷(あぜ)のほとりは平生よく繕うて大事にしておくべきである。大体右のように田畑の場所によって作子匹夫は軽々しく請合うべきでなく、耕作地の預り地は余儀なきも、高の高安田畑の上中下丸指紙分地飛地収穫高は、検地帳の元になる土地台帳・反別記載の名簿・田租の記帳簿・高の類分け・郡分けは年々書き改められる。反別の延び詰りは土地の善悪によるのであるが、反戻地については土地の番人が難渋する。遺恨があっていい争いとなり、それが世間の噂となり、嫉妬怨恨が益々深くなる。田畑を耕作させている地主地頭は、欲道に落入り、作子から莫大な理不尽の取立てをなせば、終には田畑を放し、家を失い、住居をもなくする事は明らかなことである。礼米等は憐憫に取扱うことである。飢饉凶作の年不出来不作は、その年の作柄によって用捨しなければならない。すべて耕夫は地主地頭を侮り、上を蔑にし、私欲を働き、郷村の掟に背き、近隣朋友をたぶらかし、人とはかって徒に宝を奪い、悪道に落入る者共は、忽ち家を亡し、身を失い、身のおき処をなくして、終に身を滅すこととなる。地主と小作する者とが双方和合して田畑を耕す時は、作物よく実り、邪気邪欲なく、丁度大川の水の流るゝように精魂を尽して働くべきである。総じて庶民は住居が第一である。山野に近く、山林も宜しく、牛馬の秣が自由に得られる里郷は上々の村であるとする。開田開畑は後日改められるのであるから、仮初めにも隠田の所持があってはならないし、新田はあからさまに開作すべきである。既に正月下旬、村年寄・老名・古人・肝入は検地記載帳を紛れのないように整備完了し、当年の世中を待ち、酒会を始めとして祝う。収穫高の付替えは重要であるから疎にされないのである。

四 農打立

 旧冬霜月より師走正二月は、雪が沢山積って、野畑の働きが出来ず、よって寒気を凌ぎ、翌年の農打立の支度が第一と心がくべきである。先ず、若い者共は雪を押分けて山に入り、毎日毎日薪取り溜め、柴・長柄(ながら)・枯木・根っこ・朽木等懸命に切取り、炊料を樵り、朝夕隙なく、橇(そり)を以って引きくばり積みおくべきである。禁止されている御制木には決して触れてはならない。鏡・鉞(まさかり)・荷縄(にな)・けら・かんじきに至る迄、準備万端整えておかなければならない。寒気短日故働きに少しの弛みがない様に働くべきである。割木丸木の長短や枝葉の廃(すた)れ等で御山元を取り乱し、後日の御糺(ただし)・御叱(しかり)・御咎(とが)等誤(あやまり)詑(わび)言を決して受けないようにしなければならない。御山洞越え・峯越え等の山守の争論、薪刃物取押え、始末取遣の取捌の沙汰は、古人・山肝入に於て吟味すべきである。御留山(禁伐林)は勿論、御札(ふだ)山(要入山許可証)等の御林山破り、盗み木のいたずら、新道切り踏み分け、自他の区別なく山の掟を用いず、鉄火非道の働き、御山制相破り、御山守が迷惑するような時は、早く御奉行所まで訴え出ずべきものである。樵・樵夫・山人(やまびと)・樵子(し)迄もよくいい含めて切り運ばねばならない。垣柴・雑木柴・菜園手柴等心がくべき事である。小垣杭(ぐい)・長柄は毎年用意しておくべきである。

 扨、女わらし旧冬より白麻(そ)・ただ麻(そ)をおみへそに巻き、紡(つ)む絲搓(いとより)最中、緯(ぬき)糸縦糸相揃え、太機(ふとはた)・細布(ほそぬの)・筬(おさ)改め、枠・綛(かせ)・框(かまち)・杼管(ひくだ)・綜方(へかた)の上手、その上地(じ)布を艶(つや)よく織る。それより小女等子(こめらし)共は、近所の嫁こを招き集めて結をなし、地布の煮加減、搗曝の忙しさ、雨曝し、日曝しは、女共精魂を尽すべきである。染め色のよしあしは織り方晒し方にある。押入染・渋染・浅黄地・小紋・荒目・中型染豆輪違・朱明散(あけぼちらし)・指入(さしいれ)の染・大型小型の藍付・麻布総散・差入染、女・わらべの好み模様を紺屋に頼むべきである。

 扨、正二月は雪も凍って堅雪であるから、東西の田表に厩のこえを引溜め、田に応じてなみよくこえ盛りを取ることは、仕事をはかどらせることになる。

 家の年寄りは莚・叺(かます)を織りため乍、自然と心を落着け、俵菰(こも)・苫(とば)を編み、俵ばせを踏み溜めおくべきである。

 収穫が終り、漸次雪溜りが消え、取付の時節が近づく頃になれば家主は洗い洗濯(せんだく)しに隙をやれば、小嫁や下女はその日を待ち、夫や子供の袰綿をときほぐし、蚤虱の虫の子煮殺して、洗い濯ぎに懸命となる。古手粗服鞍・股引・風呂敷・地布・腰振の綻(ほころ)びを、針目正しく、針細に、手早く縫い仕立る。

 若者共は、役縄((にな、はせ繩等))・中縄を夜仕事になし、女共は夜毎に糸をおみ溜め、より糸にし、一年中の袰綻びの縫い緘絨じの用意とする。男共は夜毎履物・馬沓(くつ)・草鞋(わらじ)を作り、前掛・脛巾(はばき)を編むのである。

 又、雨の日風の日は、馬具の繕いをするのである。即ち、前輪・尻輪・結木(ゆうき)(尾の下に入れる木)・駟駐(しと)(菅で俵を作り裏返して肌触をよくし中に小麦殻を入れる)・鼻革(がわ)・おもつら・口籠(くずし)・大紐小紐・絆(はずな)・むなかい・腹帯・鞦(しりかい)等丈夫にしておかねばならない。

 総じて、四季共牛馬を飼育するように秣飼料に心がけ、牛馬を肥す者は田畑を肥し、作物もよく実るのである。牛馬に荒く当る者は必ず田畑がやせ、何程の上田も不作粗田になる。馬を荒く扱い、飼料を十分に与えないと、必ず馬に蝨(だに)や虱がつき、又は内羅(ないら)を煩い、何程歯口若き馬も用にただず、田畑は馬の飼い方に準ずるものである。非道に馬を責め倒し、声高く叫んで馬を叱り、馬面(つら)を打擲(ちょうちゃく)する人は必ず天罰を蒙る。牛馬や田畑はやせたといってはならない。其身心掛によって、田も馬も肥満するのである。

 扨、彼岸の季節になると、塵籾を除いてよい種を選び、種池(たなげ)の水をかき干し、泥をさらい上げて、清水に種籾を漬けおくのである。

 女共は毎日毎日の飯米貯いが第一で、粳(うるち)搗きは朝夕手杵で精白し上白きたえ米は、寒中唐臼にて搗く覚悟をすべきである。春味噌は穀高不足なく煮、玉に円めて干し乾すをよしとする。天気を見合せ大根を干瓢に切り、飯糧(かて)に用うべきである。

 農具の鍬・鎌・鋤鍬の大先・中先とは刃金つけて繕い、馬鍬・唐鍬の刃焼き、小鎌・なた鎌・杓子・かっつあびの手入、たご・負持籠・下水桶の修理をし、付持籠・下水柄杓・張持籠・二人持龍は細目に編み、垂持籠・して木(馬の左側に固定した柴)・沖釣(してつる)縄・鼻竿・苗背負持籠・いぶり板迄念を入れ、前がねて支度すべきである。

 くるみ舟(人糞を入れた舟に苗を入れる)・引き舟(苗運搬する舟)は、水の漏りをよく繕っておくべきである。

 こえ鉤(かぎ)・木鉤の類(たぐい)迄農具を揃えておけば、農打立の日限がくれば時を移さず、男女わらべ勇み進んで厩のこえを背負いはじめ、こえを馬につける女童共は、じきを運び、田打男は、えいやさの唄で、割課(わっぱか)を打ち返す勢は恐しい程で、今は田打の最中である。

 時節が到来すれば、結いを約束して男女は区別なく、広い田表に雲霞のように表れ出て、堅田・泥田をこなし、男女わらべにも隙だれさせず、風雨嵐といえども隙なく働くのが農人である。

 最早梅の花が脹み出たので、種池から種俵をあげ日向に並べて之を乾す、苗代を拵え、土用の長閑な日和を待って種を改め、苗代の畔(くろ)をぬり、荒くれをかき、水路その他の諸塵をさらい上げ、浮凹みがないように水平にし、中代(しろ)は特に吟味をし、田をかき廻して肥しをし、大ならしをなし、家の鍬頭(がしら)は小ならし・大ならしをして、土を水平にする事が大切である。

 それは大鳥・小鳥・川うそ・犬・猫・狐・狸除けを四方に結い廻し、越年誌連(しめ)縄で囲い、案山子で鴨・こうの鳥・鴇(とき)を防ぎ、所々に鳴子を立てて雀・ひわ・こがら・ひすい等の小鳥を追い払うようにしなければならない。

 暖気が来て、風が穏やかになれば、種籾によって日取りを決めねばならない。大釜や大鍋に湯を沢山に沸す時、女共は思いきり薪を焼き、焔をあげて湯を沸すのである。男共は盥・半切に湯を移し、壷笊・平笊等を用意しておき、湯水の加減は家の年寄りが温冷うめ合せて種籾を暖めて俵に入れ、藁や草殻等で風除けをし、一昼夜の中にはや芽が萠え始めるその美しさ、三夜四夜の萠え方を上々とする。余り早くともおそくとも悪いのである。種が萠え揃うたならば苗代の濁水を抜き、水を澄し、塵屑を去り、朝か晩方に種を蒔くのである。これは稲作の最も大切なことである。

 畑に出ては、麦のきっかけ、草の根拾いは念入りにしなければならない、畦(うね)をからむには空(うつろ)のないように、ねんばりとからみ、麦の間作の豆・小豆・粟の蒔付を曲り畦にならぬよう綺麗になすべきである。下種(げす)振りの達者、しやくりの畦めをまてに目平に種をおろすようにしなければならない。又野畑の蕎麦・大根地をからまねばならない。新墾(あらき)を起して、麻・苧麻(からむし)・高菜を蒔き、葎(むくら)を刈って稗や秣を蒔くのである。畑の岸ほとりは鋤鍬でたて切りにし、絡み打ちしておかねばならない。小堰を掘り廻らして、馬よけの垣を結うべきである。

 田の仕事は小堰をさらい、水(みな)口から田に水を入れ、田並(なみ)平に水を入れ、田を切り返して細(こまか)に土くれ砕き、それから荒くれかきこなして、畔(くろ)ぬり、しろこえをかけ二番じきをするのである。かっちきを刈り入れ三番じきとする。谷地畔のねをよく切り放し、水を一体にかけ、塗畔の田へ畦物を植え、畑作の補足となす。凹み、低み、高みの田を大平に水平にしなければならない。苗の育ちがよく、いよいよ緑を増して苗印(苗のびの目標に立てた葦)をかくし、田植が近ずいて来る。そうなるといや増し忙しく、堅田踏み合せて土を和げ、水保ち易く、中代草の根を切放させ、把も至極よく、植代のこなしもよく、攪(かい)田(水を入れて田を打返す田)打の男女千町田表に出て、朝から唄を歌い乍攪田を打っている。今漸く田植最中である。

五 田植仕付

 それ田植は百姓随一の仕付である。苗育ちも一束半・二束苗になったから、日取吉日を選んで、隣り近所の手間取り・日雇を頼み集め、銘々心祝いの早稲を植え終れば、田植仲間の人々が寄り集って結(ゆい)を定め人数を揃えるのである。

 定日の前日苗取老爺が苗を束ねる藁を算え改め、これを抱えて苗代におり強(こわ)水立てゝ苗取をし溜めおく。

 代(しろ)かき馬添いは、あたりの小(こ)野郎伯父と相婿が先立ちで尻鍬押、指教(させこ)は小娘小童(わらし)で、鼻竿を馬の小紐に結びつけ、はや東雲が明け渡ると、田の代かきをする。堅田・ぬかり田の嫌いなく荒馬を使いこなし、尻鍬押で真平にかきならさせ、家の長者(おとな)はカツチャビで水(みな)口の植代水を調節する。

 それから村役を除いて、ツヅレ奴・ぶらぶら者・せっこきの道楽者迄も頼み集めて、苗取りをさせる。

 苗配りは力のある若者を見抜いて、苗待ち等のひまだれ無き様見計うべきである。

 馬鍬糞(まがくそ)散らしは、手こまに念を入れ粗末なき男にさせ、いぶり摺りも力のある達者ものに、淀み高み見渡して真平に摺りならさせねばならない。

 遠苗打ちは目端(はし)のよくきく若者が植手の多少と遠近を考えて渡し五月女につまずきがないよう目配りが大事である。小苗主張(こなつばり)(苗分配人)は器量人(ひと)に勝れ、力量よく、才智明敏、女共の機嫌を取り乍埒(らち)あかざる女共に上手に植えさせ、植手の多少と苗分け加減がむずかしい。扨、小苗主張は朝日の始めた合図拍子木を打鳴し、五月女共千町の畷(なわて)をさざめき渡って歩み来る。先ず大嫁・小嫁・伯父嫁・兄嫁・小姑(こじゅうとめ)・家小娘姉妹(あねいもと)・あによめ・あいよめ・従弟姪(いとこめい)・叔母と姑(しゅうとめ)・嫗(おとなおなご)(老母)・下女・奴婢(ぬい)・はしたもののめのと(乳母)・下婢(げひ)・床あげ・夫持ざる寡婦女(やもめおなご)・檀那の乳持・飯炊き女のはて迄我も我も衣裳を飾り、綺羅をみがき気配こぼしてなまめき渡り、早々と植代の田に行き、小苗主張は下知をし、植苗・植付・植終りの子細を正して、尻廻しと植方遠苗と苗草改め紛れなく数多の五月女隙なく埒合の長短、畔ぎわの植え留めの上手下手、植続き植つぎの見計い、苗草の残り、別の田への植え移り、五月女は廻って上り下りの見届け引廻しをする功者才智のきく若い男を選び出して小苗主張と定め、檀那の兄は、下知差図に任せ、その日の割課(わっぱか)のはかどりが肝要である。

 今は五月女笠を揃え、田植唄をうたい乍勢を出し、植える有様はあっぱれ興ある見物である。植えるところの苗草は、早稲、雀知らず、小早稲・中稲・大白稲・赤餅・渋早稲・細葉・ささ糯・白餅・白黒稲(しね)・小白・林徳稲・三助・岩手白・小吉・成子餅・安庭・萬吉・稲岩河(か)・弘法・三百生(なり)・青殻稲・髭(ひげ)白・荒水・立熊稲・晩稲・白豊後(ぶんご)・紫和三助等これ皆田に依って稲草の植終りをよく心得ておくべき事である。小苗主張は田の様子をよく見分け、堰沿い・垣根沿い・丸い田・角田・長い田・三角田・膳柵落しの田・瓢箪曲り・口曲り・尖り田・細川田・塗畔・谷地畔それぞれの田によって見計いが大事である。廻り尻植え方は格別混雑するし、五月女に隙のないように天馬舟・引舟によって引きくばりする小野郎の苗増しの上手を見抜いて隙なく骨折り気働きするのが小苗主張である。

 朝田・昼田・夕田の取付に油断なく、堅田・ひどろぬかり田を注意し、田の遠近に依って、時間と、苗積り人数の手合せに間違行違等仕事師共の不揃によって手後れ甚だしいものである。これについては家の鍬頭よく分別工夫してはかどらせねばならない。田植一刻も後れをとらぬように五月女員数割課積りを考え、煙草呑み致させ、小昼飯持ちの小娘飯びつおろしホガイ開けば、五月女大なわて、高畔等に腰をかけ、一面に並び小昼飯を食べる。苗取の老爺も一緒に濁り酒を飲んで咽(のど)を潤し、気味よしと早速苗代におりれば、五月女共銘々植果(はか)にむかい手早く植える忙しく、稍真昼に至れば、家の鍬頭は溝をさくり水を注いで植葉枯を補い、直ちに案山子を立てて大鳥をさけるのである。

 それから昼あがりになる。五月女俄にさざめき渡り、手足・頬(つら)顔・腿(もも)・膝・股(また)・腓(こぶら)・足首の泥土を洗い落し、又、顔形・顔ばせ・顔よし、姿形柔和な小娘共、両膚(はだ)脱ぎ、肩臂腕(ひじかいな)の垢脇の下迄もひらめく程洗い磨いて、嬰児(みどりこ)を懐に抱き取り、昼宿に至り、見苦しき女脛(すね)がらの垢も落さず、蛭に食われて血を流し、人に指さされ見苦き次第である。

 扨、家内賄方煮炊(かし)ぎ、今朝より襷も外さずして煮たり焼いたり飲み食わせ、その忙しさいうばかりなし。まず萱箸用意して、植えた苗の美しさを改めて見、小豆飯を結ばせて、苗梢(うら)押し分け、膳部を作り、田の神に之を備え奉り、その後、五月女賄取込み混雑をする。汁は磯の若菜と名づける若布汁である。

 植田の畦道に代かき馬を放して草を食わせ、指数(させこ)は植田へ入らないように番をし、小昼飯を投捨てた包みへ鳥が来て嘴をのべつゝけば、傍の野郎之を見るなり礫を投けて追いまくり、犬をけしかけ大鳥を避ける。

 最早昼、田植え、代かき均し、苗取さわざ昼田が終り、夕田植えさせ、その中に、岸田はしたはもちろん、新田の小田、外田(ほった)の畔つけは、兄と伯父とによって、さっぱりと滞りなく皆終了してしまう。

 植え直しは一大事の業(わざ)で、散苗(ちらし)・風淀(かざよど)の畳苗悉く念入に植え直すべきものである。それから再び苗代補い耕やして畔を塗り、莫大な刈敷を入れ、水を保たせおくは、これ来年のこやしである。

 耕作一通り相済み、馬医伯楽は馬の悪血を去り、これを馬早苗振(さなぶ)りと名付けて、酒肴を用意し、各々ヨイサラホイと終日酒盛りをして疲れをとり去った。

六 所々御普請夫伝馬

 用水堰普請堤の芥凌(ごみさら)い草払いを始め、近くの小堰には、橋かけ、土俵・釣木・押木で川欠の準備、土手の修理をなし、古川・新川の水口をよけて、柵(しがらみ)・乱杭・柴で柵立てをし、長木・枠木・穴つぶし・蔓物・貫木等を準備して往来筋の橋を繕い、自分の掃除区域にある並木松植つけの人足告げふれは、進んで役立てねばならない。すべて往来の旅人牛馬の通いに心配のないように致すべきであるし、一里塚・駅場もこれ又道橋の破損は一刻も早く修理せねばならない。総じて、責任場所は平生綺麗にしておくべきである。

 用水堰は古来より堰代の破損があってはならない。毎年の春の普請には、そこに住む土民百姓が、官所奉行所に必要な人員を内見(ないけん)に入れ、指図により入用材料を御山より川下げをするか筏を雇うかによるのであるが、普請肝入はその揚場を見届け木材を改めねばならない。乱杭・石突き・四つ枠を一丈二丈と立て、大渕の埋方は石集め石盛の場所を見計う事が大事である。渕の深さを改め沢山の石を必要とする時は、大渕ぎわにさしかけ廻し橋を結わせるのである。石盛りがあり道路さへよければ、千万人の人足に背負い持籠を持たせ石大方を分け一寸の隙もなく埋させる事が出来る。何程の大渕も忽ち平地川原のようになる。これ古からの普請の仕方である。

 扨又鹿妻穴口の御用水堰は岩地石地であるから、磐石を以て留め大石を積み四つ枠・三木枠を卸して石突きを立て、蛇籠石結めを堅め、大川を止める事によって用水堰が出来るのである。

 御城・御堀・石垣・御川よけ等は出人足を以てし、北上川雫石川中津川の落合・上田堤・斎藤・赤袰・大喰堤・矢幅通り御堤・御献上の場所・御鷹野場所・沼・古川の草払い、鳥見の監視、餌差(鷹餌の小鳥とり)・御鷹匠の御宿の賄、先立ちに支障のないように道や橋の破損箇所を修理し、悪(わる)道ぬかる道を普請致すべきである。

 作場通いの山道・小堰・小橋の類はもちろんのこと、御巡見の通行、御領・私領の宿駅・御本所・川渡し場・他村入会の境を綺麗に掃除をなすべし。

 御駕籠先立・検断・諸肝入・村古人・年寄つゞいて御持送り人足。持物には、御長持・両掛・竹馬御沓(くつ)箱・御具足箱等の外、御合羽等様々で、御伝馬口取り、本駄賃・軽尻(からしり)(荷なし馬に旅人がのる)馬の人足頭と取締りが添い、話合いによる駄賃ではあるが、理不尽の高賃には厳しい御沙汰があり、賃銭の割合は御条目によるのではあるけれども、道のり、遠近によって決っている。先ず本駄賃は百文であれば、二つ合せて弐百文である。これを三つに割れば、六拾六文となる。これが軽尻の賃銭である。しかしこれは場所によって違うのである。御荷物一駄は三拾六貫目で、乗りかけ下の荷物は十貫目から十八貫目迄とし、軽尻は三貴目六貫目迄と定め、人足背負荷は五貫目と定められている。

 通行人には、諸大名・御役人・飛脚・寺社の拝礼・修験の行者・参宮人・商人・出家沙門の名僧・六十六部の廻国巡礼・二十四輩(しはい)の虚無僧・乞食川原者(もの)・諸勧進権化(げ)・相撲・芝居操り・薬売り・村継等であるから、昼夜の通行馬つぎ宿場は苧殻(おがら)・松明(たいまつ)の用意心がくべきである。

 人馬割所(わりどころ)の世話役は人足伝馬の者をよく指図すべきであり、往還筋は特に目明しがよく往来宿を油断なく注意すべきである。

 扨又木伏の落合・上田・中(なか)米内・下太田・跨田・向中野・道明(どうめい)・大崩(くずれ)からは水を入れ、上(うわ)堰・仁沢瀬・広宮沢御堤・三本柳は川除(よけ)・一本木は水をあげ、竹鼻・塩の森・上田三御堤・前川原は沼払い、湯沢・煙山堤・手代森・栃内・高根・持籠森・平賀新田は小堰の普請・鹿妻は留あげ、田中留破損・新土手川除(よ)け・新小路は新堰・乙部・黒川の川除け土手はぎ、下(した)堰・狐長根・俵の木沢は水をあげ、中津川・簗川・諸葛川・赤川・聖寿(しゅうじゅ)寺縄手(なで)・三家浦川除け・仙北野も川除け、崩れる事のない様、よくよく吟味し、弱木・朽木は決して用いないようにし、大石大木は修羅で運ばせ徹底的に固めさせる。

 乱杭尖らせ、杭の頭を焼灼(こが)し、一面に打たせ、杭打人足は喚(おめ)き叫んで唄をかけ、我れ劣らずと勢を出し、代り代らせ交々に大槌あやかり、使い方は大事である。

 石詰めの人足を平た舟数艘に乗せ、舟こぎのうまい者を選び、竿や櫓櫂(ろかい)の使い方・柁取・纜(ともずる)・艫(とも)・舳(へ)先のやりくりうまく、石のくばり方や石の結め方が最中である。

 土手修理の人足が場番に向って雲霞のように群ってからみ、くれ切り・くれ背負い・亀の子・土築(どづき)搗き・縄張り・間数場番の境目・世話人・肝入立合いのもとにまざれのないように致すべきである。

 砂利つけ・石つけ・馬引き・馬の荷のくり合せ遅滞のない様に改めるべきである。

 貯えておいた石籠(じやかご)の据方・石の埋方・枠木のおろし方・柵を立てて石結めの大均しをなし、清め鍛えは御雇御人足・御普請小屋の御役人様方御詰め合・歴々は御奉行様方・御勘定頭衆・御代官衆中・御山奉行衆・御山林方(がた)衆・御勘定方衆・御鳥見衆中で、下(した)役は、御帳付・諸肝入・検断・組頭・警備の定番役・御給仕小使役・ふれ小走者・手間取・日雇・賄頭・廝養(しよう)(雑役)・津守(舟場の番人)・場番によってなされる。見届役は名札が証拠札によって、人数に相違なく、吟味せんさく紛れのないように気がくばられる。合図の貝吹役は、未明の明六つ時に東雲が明るくなる巽(たつみ)の刻限に人足が群集してくるのである。

 群集には、混雑取込みに乗じて騒ぐ愚人・家の子郎党・とるに足らぬ雑輩・奴原(やつばら)・やっこの類・我儘雑言をはき、ねまって寝転び、粗忽高声うなずき、小声で挙って物いいささやき、凡ての仕事にもみ合い口論をし、せっこきして動かず、笑止も知らず、人に見られて立腹し、顔色周章てて不届千万、中には、素直で賢しい人足は騒がず、その日の仕事を後れて取りつき、穏便頻に働くのもある。ところが大概割り当てられた仕事に対して、役人の目を盗んでなまけ見られてうろたえ廻ってさ迷う人足が多い。威(い)勢おどしを忍び、過言・悪口をいわず、兄に従って人に馴れそめ、弟をなつけて勤め、手道具のかっつあび・杓子・山刀(なた)鎌・荷縄・けら・飯櫃・背負持籠等よく物を大切に取扱っている。兎に角物を大事に取扱い艱難辛苦を凌いで勤め働くべきである。檀那衆へ慮外・不作法の行動はつゝしむべきである。

 今漸く枠がきまり、土手も出来あがり、片わく〆めも全部出来、御見分が相済み、雇銭相払い、総仕まいの差引勘定付合せ等とどこうりなく相済み、目出度あなかしこ。

七 諸上納物

 多くの諸役の中で第一は御年貢御納米である。これは御条目によって決っているのであるが、その年の作柄に依って租税がきまるのである。しかも租税の増減は検見後になされる。

 篠木村の斗代(税率)は、上田一反は三百坪で壱石弐斗五升である。上畑一反は九百坪で九斗。中・下・下々と一反について弐斗べりであって、上田は七つ壱分(七割壱分)であり、中田は四つ五分下田は弐つ四分、下々は壱つ弐分である。上畑は四つ壱分、中畑は二つ七分、下畑は壱つ四分、下々畑は七分である(第四編第二章第十節納税参照)。

 扨又、田の一町というは六拾間四方で、一間は六尺五寸である。一反は三百坪、一畝は三十歩である。三十歩というは三十坪をいうのである。一歩というは一坪のことである。一坪は六尺五寸四方である。尚一間の十分の一を一分といい、一分の十分の一を厘、更にその十分の一を毫・糸・忽・微という。これをよく百姓は心得べきものである。

 斗代は郡、村官所の土地に上・中・下があるが一様ではないのである。三御役料米は御高百石あたり八斗が本役料で、壱斗二升八合は一里米で、弐斗は橋料米で、〆めて壱石壱斗弐升八合が御条目であってみな正(しょう)米納めである。七斗四升を俵して壱駄とし、之を御倉に納め奉るのである。御駄替(だんかい)は大豆弐駄が米壱駄で、餅米片馬が往古より上納する事に決っているのである。

 百姓は昼夜風雨を気にとめず、寒暑苦をよく凌ぎ、相働き年中の御貢をするのである。米銭金子三両は春あげ御定役、弐両は夏あげ三歩半は暮あげ、秋御役銭納めと四季の御役金銭に郷役上物油断なく、上納皆済致すべきである。

 御餌鷹鳥代・御鷹匠賄代・青引代・水漆(うるし)代・江戸詰夫(つめぶ)銭・鶏黒尾の代・御普請御用の割付・御献上御鳥討・雑事として宿の畳・鶴(つる)形彩色代・松前庶人銭・柳沢夫伝馬小屋がけ雇い代・沢田(太田)舟渡しと破損繕代・伊勢御初穂と熊野御初穂・風祭御祈祷・御湯立神楽(岩手山の噴火)代・藩や代官所に於いて使用する筆墨紙・ろうそく・炭薪・油代・御蔵の莚・菰代・御厩荒糠代・蝦夷地御用御会所の代・朝鮮人来聘(へい)御入用の金子御金銭まで遅滞なく上納皆済に及ぶべきである。

 郷役の上納は土俵・釣木・長木・柵立・柴・乱杭・莚・菰・縄・青引・藁・稗殻更に、端午御用のよもぎ・菖蒲あげ小走・御節季御用の野老(ところ)の掘り小走り・御年縄・御門松迎えの御人足・御飾・御門松たては大晦日未明に相詰させねばならない。

 年中の諸役滞りなく上納に及び、銘々水のみ百姓まで越年祝が出来、又来春に向って田畑仕付の出来ることは目出度いことである。

八 御検地(けんち)御検見(けみ)

 それ土地は万物の根元である。それ故に田畑貢の御取扱は、なお更御大切である。百姓がその土地を耕して御国法・御掟・御政治の道を重く相守り、勤め働く事が肝要である。

 此度田畑の御検地の御沙汰があり、村里・片田舎・深在(ふかざい)・深(み)山はとり・山沿の新田、あき屋敷の坪数、沢辺(ほとり)、御蔵御側の御新田、地主百姓は郷村の仰せにしたがい、新規開田は隠田する事なく、あからさまに御検地検見に従うべきである。御検地を終えて開田した田が自分の名前で記帳される事は何よりの誉である。最早御検地御改めの御役人・御代官衆が御立合のもとで、御竿入(測量)を受け、年貢の税率がかかる土地に上中下町反畝歩を決定するのであるから痩地熟田、木陰日向、広狭長短、甲乙多少、変地威衰をよく考えべきである。測量の始めと終り、その仕方と記帳を改め、畑形の浮沈御境目のへだたり、縄張りによる見通し、地主の先立甲乙紛れなき様、方角と土地の善悪に依って、上・中・下・下下、町反畝歩分厘毛糸忽微御改め、斗代(とだい)(税率)の御決定、御検見衆の御仕方の方法、作柄の合算と平均の御算法、穂並(なみ)・実りの厚薄、風雨日照りの見方、土地の上り下りと浮き沈みの御見分けが大切で、飛び地・免税地・給与の土地の境い、稲草の成長振り、肥(こやし)の有無、田の水持ちの安難、これ皆御検見が心得ていなければならないことである。

 御検見の御宿宿所は前ぶれ告げ来るに任せて、その用意に油断があってはならない。御伝馬(運送用の馬)・緋毛氈・御道具・弁当・御用書・箪笥・御夜具・屏風・御つゞら・提灯・行灯・油・灯心・ろうそく・大小御燭台・御手燭・御硯箱・算盤・御銚子・御盃・煙草盆・キセル・御櫛・御剃刀・京都油・元結い・御茶道具まで宿元宰領人(にん)(人夫取締)立合の上確かに受取り、預め別の帳面に手控、亭主が預けあつらい見届け、それに相違があってはならない。

 御検見が当村へ御越しになったら、老名・古人・肝入・組頭は無礼粗末なく、ねんごろ丁寧を尽し、鄭重に招待すべし。万事粗忽なく、疑い紛らわしいこと之(これ)なきように致すべし。

 御宿の混雑支度専ら忙しく、村小走り役・御用ふれ役・掃き掃除・水汲み・薪割り・水(すい)風呂汲み役はせ廻り気をつけべし。雪隠(せっちん)(便所)の建方であるが、俗輩除けのため、小垣・柴垣・埒(らち)(低い垣)・矢来(粗い垣)・透(すい)垣・石垣・桧(ひ)垣等、又背戸門口(かどぐち)の仮垣は「よしず」をもって綺麗に結いからぐべし。

 勝手庭廻りの小走りは支障なく、天晴(あっぱれ)支度すべし。御賄方は勿論であるが、月例のように一汁一菜御検見が手弁当である。上下御賄代、草鞋の代確かに受取、差引相済み、御検見御用首尾よく事すみたる次第。

 総百姓は田畑の秋仕舞いが終り。世中は世並の熟作、実のりよく豊年豊作である。五穀成就。入草(厩へ)・干草の秣飼料、萩刈り、葛引き、蓬刈、萩の小薬引き、青引きを刈り取り、粟・稗・大豆・小豆・蕎麦・さゝげ・きび・餅きび・青釣豆・もろこしきび・から豆・のぎは辺(ほとり)の蒔もの、畔物の引き集め、陽気日和見合せて、打物支度の打槌・ふり打・まどり(Y字型の打ち木)・「白からみ」の上手者、もみ落し、打ちこき落し、粟殻・稗殻・豆殻・豆のさやを吹き去り、荏(えごま)油の粒もみこなし、殻取終り、枡目を改め、とかきをかけ、俵叺で計り納め、豊凶の年により、出来不熟があり、枡目の多少甚だなり。畑物残らずこきこなし、打ちこなして終るのである。それより稲刈りの用意である。豊年の稲たけはのび、刈り取った後からも亦実のり、収穫を増し、世の中繁昌。早稲の刈初め糯粳(もちうる)、晩稲(しねおくて)の「たば立て」美しく、黄米(きこめ)で甘酒を造り、農神・田の神へ備え秋酒・秋餅の祝にも、流行(はやり)唄や踊りではね、酒盛りを思うままに祝って、首尾よくすんだのである。

 それより稲を背負い集めて、夜「はせ」かけ渡し、新(にい)穂取揃え、稲よく干し乾(かわか)して、藁すごき集めて端を結び合せ、六把一束(まるき)まるき束(たば)ねて、何万何千百拾何束と、稲数かぞえ改めて、稲を小屋に取入れ、又新穂を積みおき、段々年穀(ねんご)の支度米の拵え、唐はし千把扱き籾打こなし、摺臼・土摺?