滝沢市指定史跡 餓死供養塔
江戸時代に米が財政の基礎となり、水稲栽培がおし進められると、冷涼な気候の南部藩ではたびたび凶作・飢饉にみまわれた。なかでも元禄8年(1695)、宝暦5年(1755)、天明3年(1783)、天保4年(1833)の飢饉は悲惨で、これらを南部四大飢饉と称している。
宝暦5年には19万9700石の減作となって収穫皆無の所が多く、藩内全人口の17%にあたる54,227人が餓死した。天保の飢饉は3年から9年までの7年間にわたる大規模なもので、毎年80%から90%以上の減収という未曾有の大飢餓であった。藩の救済は全くなすすべもなく、農民は飢えに苦しみ、村を捨てて離散するものも多かった。
農民の餓死者の数は不明であるが、この碑は打ち続く凶作の犠牲になった人々の供養のために建てられたものであり、祖先の苦難の歴史を物語る史跡である。
(3)と(4)は鵜飼村第24地割字笹森(一本柳)の柳の大木のそばに建てられていたものを道路改良のために昭和54年10月3日に柳の一部とともに現在の地に移されたものであり、(1)は滝沢第3地割字高屋敷72番地2にあったものを昭和54年12月歩道整備工事のために移転したものである。
建立:安政2年(1855)7月16日 |
建立:文化12年(1815)4月16日 |
建立:寛政12年(1800)4月18日 |
建立:天保3年(1832)4月28日 |
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所在地
滝沢市鵜飼狐洞96番地 -
所有者
滝沢市