第十章 人口流動の地域構造

第一節 人口の動態

 本村の面積を周辺市町村に比較するとせまい。すなわち、岩手町の約半分、西根町の百六十六、五七平方キロメートルより少し広く百八十一・〇二平方キロメートルである。人口は昭和三十年に九千五百、盛岡市は十四万二千八百七十五、玉山村一万四千九百四十五、岩手町二万二千六百十八、西根町一万九千九百二十三、松尾村二万四百四十、雫石町一万九千八百二十、都南村一万四千三百七十九、矢巾一万四千二百二十九であり、周辺市町村に比較して非常にすくない。

 本村の人口は、昭和三十一年より、年ごとに百八十、四百五十九、一千三百三、四百七十七と増加していたが、昭和三十五年には、同三十四年よりも七百三十一人減少している。このとき、減少したのは当村だけでなく、前年に比して岩手町は一千四百九十二、松尾村は八百二十一、矢巾は百四少なくなっており、本県々央経済圏内は皆減少している。本村は四百九十人少なくなっている。

 その後、昭和三十六年には八百五十三人増加、同三十七年にはまた三十一人減、このときも岩手町は八百二十八、西根町が一千九十二松尾村は七百七十八、矢巾は二百九十人減少している。昭和三十八年には本村において前年よりも二百八十四人増加しているが、西根町は四百十八人、松尾村は二千九百二十二人、雫石町は百六十六人、矢巾は百六十人減少している。かくのごとく、昭和三十五年以来、県央経済圏内では減少している町村が多い。これは、全国的傾向で向都離村現象であるが、全国的には、それが昭和三十年ごろからで、本県の県南部では同三十二年ごろで、水田反当粗収入は、増加はしているが反当稲作所得は停滞している。これが人口流動の一因になっている。すなわち、反当収量は増収しているが、営農は機械化され、その上雇傭労賃、肥料代、薬剤費、農業技術の高度化により、農機具の償却費、修理費の上昇、さらに土地改良費の出資により、それらを差引くと、結局は水田稲作反当所得は、停滞というよりも、むしろ減少という結果になる。これでは、農家経済を支えることが出来ないので、近郊の場合は通勤に出るが、遠郊や工業化の後進地域では、出稼ぎすることによって、人口が減少したものと考えられる。

 昭和三十年と同三十八年を比較すると、本村の場合は二千七百九十四人の増で、官古市とやゝ同じ位。盛岡市を除いて、本村の周辺町村は、総人口が本村よりも多いのに、増加ぶりは極めて低調である。玉山村一千四百九、岩手町一千九百九十三、西根町一千八十二、雫石四百六四、都南は九百六の増加であるが、松尾は三千六百八十、矢巾は百八十四の減少である。これを年平均にすると玉山村百七十六、岩手町二百四十九、西根町百三十五、雫石町五十八、都南村百十三、本村は三百四十九という増加で、本村の増加は総人口の割に大きい。盛岡市は年平均二千六百三十五人の増加、宮古市は年平均三百十五の増加で、本村よりも少ない。これらと反対に松尾村は四百六十、矢巾は二十三の年間平均の減少である。

 そこで疑問に思うのは、村の面積が広大でないのに、盛岡市を除いて周辺市町村に比較し、何故人口が大きく増加しているのかということである。本村の増加は自然増加でなく、社会増加であり、昭和三十二年八月十五日に自衛隊が駐屯してから人口数が多くなった。なお転入転出をみると、転入数が多い。これは盛岡市に隣接するために、同市の住宅地化が急激な進み方によるものと考えられる。

 この増加を転出入からみると、昭和三十三年には転出八十九、転入四百四十七、同三十四年には転出二百二、転入四百六十三、同三十五年には三百三十九が出て、四百三がはいり、同三十六年には出が三百十四人で入が六百九十六人、同三十七年には転出三百七、転入五百四十六、同三十八年には転出二百七十九に対して転入が九百四十六と大きな差がある。同三十二年に自衛隊が駐屯してから転入が多いのであるが、昭和三十八年の内訳をみると、転出のうち県内八百六十四、県外へ百十五、転入は県内他市町村から四百九十五、県外から四百五十三という状態で、県外からの転入の多くは隊員ではないかと思われる。

 さらに内訳を詳細にみると、その転出百六十四の中百人が盛岡市へ、玉山村へ十人、紫波町へ十人、その他各市町村へ一人から数人の転出である。転入をみると、その数四百九十五人のうち、盛岡市から百八十五人、西根町から六十四人、玉山村から三十九人、雫石町から二十二人、松尾村から十八人、遠野市から十七人、矢巾から十三人、その他市町村から十数人の転入である。盛岡市からの転入が多いということは前述したように郊村住宅地として変貌しつゝあるので、宅地化による転入と思われる。

 本村周辺町村の転入数の多いという町村は、少ないように思われる。玉山村、岩手町、都南村は未集計であるが、西根町の転出は、県内五百四十三、県外五百八十、転入は県内から四百三十二、県外から二百四十二人、松尾の転出は県内九百十七、県外七百二十八、転入は県内から二百三十七、県外三百九十五。雫石の転出は県内四百八、県外四百三十三、転入は県内二百八十九、県外二百三十九、矢巾の転出は県内三百三十三、県外百八十一、転入、県内から三百六十、県外から百で、転出数が転入数より非常に多く、また、本村の転出数よりも遥かに多い。

 次に、中学生の就職流動についてみよう。

 本村の高校進学率は低い。昭和三十八年の中卒者二百八十一人の中進学したのはわずかに百十一人のみ、その比率は三九・五%である。そのときの進学率、盛岡市では七〇・四%であるが、周辺部は低い。玉山村三四・三%、岩手町三四・〇%、西根町三六・〇%、松尾村四一・〇%、雫石三三・八%、都南五五・四%、矢巾六八・二%で郊村部における水田稲作農村の進学率は高い。

 本村の昭和三十八年の就職率は四三・四%で、その他一六・七%は家業につくものと無業である。自家農業に残るのは二十四人、就職九六人、この中県外就職三十八人、同三十七年度の自家農業についたのは四十四人、県外就職三十五人、県内就職六十八人。同三十六年度は自家農業に残った者が四十人、県外就職二十九人、県内就職五十六人。同三十五年はそれぞれ三十三人、二十八人、二十七人である。同三十六年以降県内就職が多くなっている。

第二節 第三次産業就業人口の構造

 滝沢村の産業別人口構成についてみると、昭和二十五年には就業者総数四千六百六十二人中、第一次のそれが八八・四二%、第二次が三・七一%、第三次が七・七五%、同三十年の就業者総数は四千八百二十九人、第一次の比率は八六・八九%、第二次が三・四八%、第三次が九・六三%で、昭和二十五年よりも第三次の比率は伸展している。同三十五年は就業者総数六千百二十人中第一次が六八・七一%、第二次が四・〇二%、第三次が二七・二七%で、第三次の構成比率が著しく上昇している。

 何故このように第三次産業の構成比率が上昇したか。それは前述のごとく、同三十二年八月に本村に自衛隊が駐屯し、隊員数が第三次産業者の公務員に加算されたからである。

 因みに、大分類の産業種別就業者数を、昭和三十年を先に、同三十五年を後に掲げれば、農業四千百八十人、四千百七十四人、林業狩猟業十六人、三十人、漁業・水産業〇人、一人、鉱業一人、十三人、建設業百五人、百四十四人、製造業六十二人、八十九人、卸売小売業百四人、百七十七人、金融・保険・不動産業八人、九人、運輸通信・電気・ガス・水道業百六十一人、百五十四人、サービス業百三十五人、二百三十一人、公務員五十七人、一千九十八人であり、同三十年と三十五年と対比して、大きく増加しているのは公務員である。これは自衛隊による増加である。

 本村周辺市町村の全就業者数に対する第三次就業者数の構成比を同三十年と同三十五年の比較を%で年次順に並べ、その伸長率をその後に記述する。すなわち、盛岡市は六三・〇%、六五・九%で、その伸長率は一二四・六%、玉山村一二・八%、一四・九%、一三三・九%、岩手町一九・七%、二二・四%、一一七・五%、西根町一三・八%、一八・五%、一四〇・五%、松尾一二・八、一八・一%一四九・〇%、雫石一三・九%、一六・五%、一三〇・七%、本村は九・六%、二七・三%、三五八・九%、都南一一・三%、一六・三%、一四三・五%、矢巾一三・六%、一六・一%、一一九・三%で、本村の伸長率は周辺市町村にみられぬほど大である。しかし、本村自体の第三次産業が成長しているのではない。

 以上のごとく、本村や本村周辺の第三次産業の活動は静かである。

第三節 昼間と夜間の就業人口

 普通人口調査は居住地で行われるので、就業人口の場合も、居住地における就業人口である。つまり夜間人口である。しかし就業人口ということになると、就業地における人口数が、実際の機能を発揮する人口であるから、通勤者数を加えなければならない。これを昼間就業人口という。

 本村における夜間就業者総数六千百二十の中、村外への通勤者は四百七十、玉山村は八千五百十の中四百二十八、岩手町は一万九百十の中三百九十六、西根は一万二百六十の中四百六十七、松尾は八千四百九十の中八十、雫石は一万一千四百一の中二百八十、都南は七千八百三十九の中一千九十八、矢巾は七千七百五十二の中七百三十八である。滝沢村は村外通勤者を比率にすると多い方であるが、やはり都南や矢巾の村外通勤者の比率は高い。これは盛岡市の近傍で、都市化の影響を受けることが大きく、住宅地や事務所敷地のため農地が潰減しているので通勤者がふえていることや、前述したように水田稲作所得が停滞しているから、農家生計を支えるためにも通勤者が増加し、さらに農業の機械化により、労働力の余剰が現れ、通勤者が多くなったのではないかと考えられる。

 本村は村外への通勤者とは逆に、村外からの通勤者数が四百二十人もある。その中第三次産業者が三百三十人、盛岡市を除いて、本村周辺町村をみても、こんなに多く村外から通勤してくるのはない。これは本村の村域内に東北北部における農林業関係の試験研究機関が多く集中していることや、自衛隊があるので、村外からの通勤者が多いのである。滝沢村の第一二次産業夜間就業人口に対するその昼間就業人口の比率は一〇二・六%となり、数値上からは、本村の第三次産業は周辺部からの通勤の流入を必要とするということになる。このことは、本村の第三次産業が隆盛だということにはならない。

 試みに、昭和三十五年の盛岡市から本村への通勤者数をみると二百五十人も来ている。また岩手へは五十八人、玉山へ百七十六人、雫石へ百七人、西根〇人、松尾へ二十人、都南へ百三十五人、矢巾へ五十六人、紫波町へは七十四人という状態である。このように盛岡市から本村への通勤者の多いのは、前述のためなのである。こんどは、逆に盛岡市への流出をみると、昭和三十五年の通勤通学合せた数は、本村から五百九十二人、岩手町から三百八十人、玉山から四百四十七人、西根町から二百三十九人、松尾から七十六人ヽ雫石から四百十八人、都南から一千三百五十四人、矢巾から九百三十三人、紫波町から一千百十二人である。このように盛岡市との相互依存関係が密接であることが理解される。

 以上、第十章も『滝沢村の実態とその基本的開発構想』によった。