第五章 維新後の林業

第一節 林業の行政

 明治四年設置された本県は、その林制においても、従前の藩県以来の諸制度を暫定的に踏聾せざるを得なかった。藩の御用山及び官からの伐木払下げは川原町の外川又蔵氏に委任し、売却分の十分の一を取扱料として給与したごとく、庶民の必要とした林産物その他の用材の需給は旧藩時代にひきつゞいて伐採され、生産されていたとみるより外はない。

 明治五年二月(太陰暦)太政官令によって何人といえども、土地を持ち、あるいは売却してもよいという基本が示され、明治三年発行した新券を郡長、村長等は奥書や裏書を添え捺印して所有を確認している。

 明治五年四月、県では、管下郡長に命じ、下記要項に基づき、一山ごとに五月三十一日限り書上げせしめた。

  記
管内村々山林書上方、旧県ニ於テ布告ニ及ビ置キ候処、今以テ差出サザル村々多分ニコレアリ差シ支エ候条、左ノ通。
一、村持林ニテ高請地并ニ山税相納メ候場処ハ、木数ヲ除キ反別絵図差シ出スベキ事。
一、無税ニテモ村々ニテ苗木植付ケ、進退人コレアル場処ハ同断ノ事。
一、営林ノ分ハ木品并ニ木数目通リ寸尺反別絵図面共差シ出スべク、尤モ手広ノ官林ニテ至急調ベ方行キ届カズ候ハヾ、木品木数共凡ノ処相改メ日限通リ書キ上グべキ事。
上ノ通地元村々申シ合セ一山限リ取調ベ、当五月三十日迄相違ナク差シ出スべク、若シ差シ支エ候儀モコレアリ侯ハヾ、其段申立テ差図ヲ受クべク、請ナク等閑罷リ在リ候ハヾ急度沙汰ニ及ビ候条其意ヲ得ベキモノナリ。
  壬申四月十二日           岩手県
                            郡長

 村持林とは、村の共有山と解されるし、高請地とは、年貢高地になっている高(たか)ノ目(め)林(従来からの有税地で、つまりその山林は、何石何斗何升何合というように米に換算して「石盛制」年貢を納めていた林)であろう。山税を納めてきた山林、以上の種類の山林はやがて民有林に属するものと知られる。それに対して御留山・御札山は官林であった。その外に植林地がある。藩政時代、土地は原則的に藩主のものであるから、植林の場合は藩の許可を必要とした。それが明治維新後、官私区分に至って、官有であるか、植林者であるかの面倒な問題に発展したのである。とにかく、上記の如く、県下の郡長に布令し、その管内の山林書上を督促したのは、土地の所有権を区別する準備のものであろう。当時郡長は、土地の所有権を確忍する重大な責任者となっていた。

 明治五年六月、岩手県より大蔵省に陸中国(岩手・紫波・稗貫・和賀・閉伊・九戸の六郡)の林制慣行について書上げている。このときの書上によると、次の七種類に区別されるとしてある。

 一、留山のこと。
 一、歩合取分山のこと。
 一、札山のこと。
 一、水の目山のこと。
 一、持山のこと。
 一、村預り山のこと。
 一、炊薪山のこと。

これを要約すると次のようである。

 県下山林中、第一は、従来御留山と称するもの、これは全く官林に見做すべき山林で、地所或は樹木払下の際は課税百分の一たること。第二の歩合山は、前記御留山中に許可を受けてそこに植林し、その後成木後に歩合を植林者が取得するもので、当局と植林者との間に契約書が交換されるを原則とするが、場所により五分五分、あるいは八分二分等となっている。第三の札山は、関係町村において共同植林し、その取得は当局、または村方の建築用材に充てるも官山たる御留山とは異なり、山林用材の取得は概ね村方にあって、藩は制札、または券状を下附せるのみにて監守人制度のないもの。第四は、水の目山にて水源地保護の必要上存置設定した保安林で、当局の管理下にあったもの。第五は、持山で個人の自由になし得る立林であった。第六は、村預り山で入会たる共有山林。第七は炊(たき)料山で最寄の村々に随時解放し得る範囲に設定されるものであった。以上旧藩以来の大体の山林制度であった。

 従来、炊料薪を伐出し、それを営業とする者を槙木問屋として許可していたが、明治六年二月に至ってこれを禁止し、山林伐木は総て払下げを受けてから、これを伐出すことを原則とするように明示した。

 明治六年六月八日には地租改正条例が公布され、土地の所有者が地目の種別を明瞭にし、反別や等級を定め地価に応じて一定の課税を納めるということになった。

 明治六年十一月、県では、大蔵省の指令に基づき十一月三十日限り、官山反別及び木品名所等の調査書上げをなさしめた。

 藩有の官山に植林して、歩合山としていたが、県では明治六年十二月、区長・戸長に布達し、従来歩合山として許可して来た植立山林の書上げを、来る七年一月三十日限り、一村ごとに差出す可しと指令し、且つ試植の分は二分八分に心得べしと布告した。この場合の八分は八〇%のことで植林者に取得させる意であり、材木ばかりでなく、林地を含む意味なのであろう。

 明治七年五月には官公私有の山林原野に関し、総て標杭を建設させ、各境界が、一見して明らかになるよう指示し、混乱を防止した。

 旧盛岡藩以来の山林監守役たる御山守、山林取締事務役たる山肝入は、一応盛岡県治時代これを廃止したが、幾分旧慣がなお停止しない向きもあったので、県では七年三月布達を出し、旧慣停止のことを官林監守は区長及戸長の職掌たるべきを厳命した。

 県では歩合植林の慣行は、山林新制度施行の上に不都合があるとして、同七年五月には処分することに決し、指令を公布している。

 明治七年七月には、肥料として刈数を取ること、飼料として秣を採取することは、官山に入るも妨げなしと布告した。

 明治八年二月には庁中に山林官私区別調査掛りがおかれた。その後右掛りは調査局となり、同局は三月に至って租税課に配属され、山林官私区分を専務するの一局となった。

 山林の調査は、地租制度改正の一環として実施され、同じく民有山林、官有山林と区分されたが、明治八年四月になって、内務省から布達があり、官林は一等官林・三等官林の名称が出現し、岩手県においては明治七年八月に制定された存置官林は、いわゆる一等官林に指定をみることとなった。存置林とは保護を加えて保存し続ける山林のことで、山林の名称ではない。また民間に払下げてもよい官林はすべて三等官林と称すると布達している。水源保安林や洪水防止のための存置林、魚類保護の魚付林、材質保護のための山林等、すべて一等官林と呼ばれることになった。一等官林と三等官林とを区別したが、二等官林については未決定である。

 置県当初には、山林に関する調書が不備であったので、官私林の区分も、反別等も不詳な箇所が多かった。それがため人民の不便はもちろん、官においても不都合が少なくなかったが、明治七年ごろよりこれが全般的調査を行うこととなった。先ず明治八年中には旧帳に拠り席上調査を遂げることとし、同九年に至り、実測に着手することにした。

 よって県では、明治八年二月二十七日管内に官私区分調査を下達し、五月三十日限り差出しを指令するも、実際は同年初頭の行政区改革によって、戸長役の入替があり、他の事務の錯綜等があり、県においてはその実情を汲み、各村よりの調書は六月三十日限。と延期し、この旨を内務省に願い出た。この三月二十日の上申書に対して四月十三日付書面之趣聞置候事なる指令に接した。そこで重ねて六月十一日に至り、官私山の錯綜、旧山帳の粗漏、人民の愚鈍等調査困難の事由をあげて、県状を仔細に陳弁、さらにまた本年中の延期を懇願した。内務省においても事情余儀なしと認め、同年七月十三日を以て、「上申之趣聞届候事」と指令した。すでに管下各村に対しては、同年六月三十日期限として調査書上を指令してあったが、九万五千筆(官有一万一千七百九十筆、民有八万二千百五十六筆、区分未定千五十七筆、論地三件)に亘る莫大なるもので、しかもこの数量は明治七年一等官林に制定を見たものは算入せざる計算であった。内務省ではその調査期限を九月末日としている。

 県では明治八年、田畑等の調査の大事業にとり組み、民有の耕地調査に追われ、山林調査は、典拠すべき資料も整っておらず、その調査は困難であった。

 県においては、明治九年五月に至り、一応旧管内の山林・原野・荒蕪・池沼等の官私区分の席上調査を完了した。従って明治十年ごろまで本県の林野は民有と官有を区分するのに精一杯であり、実際の測量は伴わなかった。

 一方林産については、官庁使用の用材や薪炭は従来通り消費されたことがわかるが、産業としては如何であったかは拠るべき資料が見当らない。

 民有に属する山林地租は全国一般明治九年をもって実施になったが、岩手県においては、官私区分の調査が、明治十年五月結了し、五月九日に民有林野の実測並びに地価調査に関する心得書二十五ヵ条を布告し、同年七月三十日をもって管下に布令し、今後二十五日を限り、山林原野に関し、民有に帰属すべきものあらば調査提出するようにと布達した。もし期間内に調査方を申請しない者は如何なる確証ありとも後日に至っては一切採用せずと布告した。よって上記に基づき、同年十一月には大量検査を結了したが、実際はその後といえども民有地編入の証拠をあげて請願する向きがあった。中には民有林野の指定を嫌って返上願いを申請するものもあった。(納税のため)。同年十二月末実測報告をしたが、地価はなお未調査に終り翌年に持越されている。

 明治十一年八月山林原野の地価査定が終り、地租改正事務局に進達したので、民有林野の地租が決定され、課税することとなった。

 かくのごとき土地変動期にあたり、ともすれば、森林の樹木が濫伐される傾向にあったので、明治十四年春諭達を発し戒めている。それによると自今、官有林・民有林の区別なく森林を愛護すること。野焼きの悪弊を改めること、濫伐を防ぐこと等を注意している。旧藩時代には、たとえ自分の私林であっても勝手に伐ることが出来なかったが、維新後になって、新法未だ制定しないことをもって濫伐を極めているが、それではならぬと警告している。

 その後、明治十五年ごろになると官有林民有林の反別も大方定まり、官有林野は一先ず本省の指示によって県が事務を分掌し、明治二十一年には専門の林務官が発生して、大小林区制が施行されるようになり、官有林野の事務は一般行政から分岐することになった。それまでは、始めは地方庁で事務を扱い、次いで、ある事務は内務省に、ある事務は大蔵省で扱ったが、明治三十年末には、国有林野関係のものは全く地方庁より分離され、農商務省所管に移された。

 民有林野はその反別や地価が決定するに及んで、その地租が定まり、一定の税金を納入すること、売買も自由になったこと等があげられると共に、山林の濫伐や荒廃を防止するために人工造林、天然造林が奨励されている。

 官有民有を問わず、林産物は県内の需要を満たす外は、県外に移出されているが、その詳細な数字は明らかでない。

 明治三十二年、本県における岩手地方森林会議員は、岩手県内務部長・中央の出先機関の責任者・県会議員・大地主・事業家らの官民十四名から成立している。これは明治三十年十二月に発布された地方森林会規則によって出現したものであった。地方森林会を各県に設立し、主として森林一般の愛護育成の最高機関となった。岩手県では明治三十四年に初めて岩手地方森林会の会議を開いている。

 明治三十七年制定された市町村小学校樹栽規程が公布になり、大正二年改正される。このころ篠木小学校の学校林が設定される。

 本県林産物のうち、本県産木炭の品質向上、販売先の声価の高揚を主目的として、大正十年八月、岩手県木炭検査所が開設された。

 昭和十年十月二十日、岩手県林産物検査所が開設された。この林産物検査所の開設に伴って、従来の木炭検査所は廃止されたから、木炭検査所が組織を改めて林産物全般にわたる検査にあたり、市場声価の高揚につとめたのである。昭和六・七年ごろの経済界の不況、同八年の大津波、翌九年の大凶作の襲来、その度に現金収入に林産物は重視されたのである。そのため林産物の移出には、市場価格の維持のためにも品質を吟味し、県で統制を加える必要があって、県の林産物検査が強化され、検査所が一役を果すことになった。

第二節 保安林の設定

 明治三十年四月、はじめて森林法が公布され、翌年の一月からその施行をみることになった。

 県では、それによって「本年ヨリ森林法施行セラレタルニヨリ、森林開墾ノ許可ヲ決スルノ取扱ヲナス」としてある。

 森林法は、総則・営林ノ監督・保安林・森林警察・罰則・雑則等の六章五十八条から成っている。その第一章において「此ノ法律ニ於テ森林ト称スルハ、御料林・国有林・部分林・公有林・社寺林及私有林ヲ謂フ」として森林の種類およそ六種に規定している。従来区々であった森林の種類をここで統一し区分したことである。

 第二章の営林の監督においては、私有林についても荒廃のおそれあるものは、主務大臣から、その営林方法を指定することができるとしてある。いかに個人有であっても、濫伐して荒廃するようなことはあってはならぬとの見地から、夙に要望されていた法令である。国土保全の上からも、森林育成上からも、このような森林一般の行政上からも、公法上の制裁を伴う取締法規となって施行された。

 第三章の保安林については、保安を必要とする各種の項目を列記し、保安林の編入解除など、府県知事は地方森林会の会議にはかること、その決定は主務大臣が決定することなどを規定している。従って、官有・公有・私有をとわず、その必要があれば、地方森林会の会議で保安林編入を可とすると、そこが保安林に編入され、伐木は禁じられることになった。公益優先のためである。そのため地方森林会の会議の可否は、県内の最高権威となる仕組みとなってきた。

 森林法に規定された第三章保安林のうち、第八条に保安林とすべき種目があげてあるからそれを抄記する。

   第八条 森林ニシテ下ニ列記スル箇所ニ在ルモノハ保安林ニ編入スルコトヲ得
 一、土砂壊崩流出ノ防備ニ必要ナル箇所
 二、飛砂の防備ニ必要ナル箇所
 三、水害・風害・潮害ノ防備ニ必要ナル箇所
 四、頽雪・墜石ノ危険ヲ防止スルニ必要ナル箇所
 五、水源ノ涵養に必要ナル箇所
 六、魚附ニ必要ナル箇所
 七、航行の目標ニ必要ナル箇所
 八、公衆ノ衛生ニ必要ナル箇所
 九、社寺、名所又ハ旧跡ノ風致ニ必要ナル箇所

 森林法の施行によって、個人所有の森林でも、樹木の伐採後、造林することが必然の義務となったこと、個人の林でも許可なくして開墾はできなくなった。開墾とは田畑・宅地・焼畑・切替畑を含み、地目変換の許可を必要とすることになった。

 このように森林法の公布によって、保安林が設定され、国有・公有・私有をとわず、国土保全と国民生活を直接間接に保護する立場からとられた措置は確かに近代化したこと。一つの進歩であったことを知らされるのである。明治元年からすでに三十年の歳月を経たのである。

 国有林中の保安林の種別は、土砂捍止林・水害防止林・防風林・潮害防備林・頽雪防備林・水源涵養林・風致林の七種であった。

第三節 国有林野の村方解放

 明治五年に、土地の所持や売買が公認されたので、地租改正と併行して、土地の官私区分という大事業が展開された。まず民地の面積を測定し、等級を定めて税額を決定した。民有地以外は国有地であり、この区分は官私区分と呼ばれた。

 この官私区分に際して、簡単に是非を決定することの出来ない多くの問題を包蔵していた。永い慣習からくるもので、官地(藩有)に個人で造林したり、個人の植林を官林に定められたりする例があり、ことに土地は藩主のものというのが原則であった。そのうちでも村方の共有林野である入会地があり、村方の生活取得の林野として、村方の共有地に編入さるべきものであった。たとえば、次のような林野が指摘される。

 炊料山(たきりょうやま) 幾つかの部落申合、藩の公認を経て、自家用薪を採るため平素保護に任じて来ている山林

 札下山(ふださげやま) 幾つかの部落申合、造林植林に任じ、平素保護に任じて、藩より入山禁止の札を下げられている山林、民用の家作、藩用に伐木す

 村預山(むらあずかりやま) 幾つかの部落の入会山、草苅山などの立林、採草と造林を兼ねることになり村方の共有

 萩刈山 同上、冬季の馬の飼料に供するため秋二百十日過ぎにのみ入山し、冬季用の草を刈採る山林、従って造林は目的でない

 立野(たての) 同上、草刈りが主目的で、一定の採草期間以外は入らず、草を立てておく、樹木があっても草を保護するのが主目的

 官私区分に際し、従来の入会林野が、正しく入会者側に共有として処理されたものは別として、入会地を主張せず、または確証なしとして官没になるものも生じた。また山肝入、山守、その他、当時村方で権勢のある者の名義に書き替えられ、入会受益者が、新しい法律下では所有を主張し得ない破目にもなる例があった。地価百分の三の課税を忌避して土地返上を強く主張する者も生ずる当時であるから、共有土地主張は積極的でない点もあった。

 官有林野が決定するに及んで、その入山はまことに窮屈になり、山林依存で生活する山村農民に取って、多大の不便を感ずるようになった。山林依存の山村民は、往年の旧慣によって入山し、物資を取得すると、たちまち盗人として扱われ、一村のもの家毎違犯に問われたりした。国有管理は、ますます警察行政を強化し、林警官は制服制帽帯剣で巡視し、現行犯の逮捕や、盗伐捜査にも従事したが、山林盗伐は一向に止まなかった。刈敷の採取、秣草の刈取り、山菜の採取、皮の剥ぎとり、果実や、きのこ取り、木工の素材とりは依然として行われていた。山林依存の生活群であったからに外ならぬ。

 このような不自由さも原因して、不要存置の国有林野の払下げや、下げ戻し問題の台頭したのは当然である。

 明治三十二年四月に至り、法律第九九号をもって、国有土地森林原野払い下げ戻し法が公布され、同時に農商務省令第八号でその下げ戻し等に関する申請手続が定められた。その結果、官私区分の際、誤って国有地に編入されている土地や、支証不足で国有地になっていた林野など、それぞれ立証をそえて下げ戻しを申請するものが、にわかに多くなった。

 下げ戻し申請は、明治三十三年六月三十日限りですべて打切りと告示された。その後は、申請を受理されぬばかりか期限内に申請をしておかぬと、行政裁判所への提訴もできぬ定めであった。

 本県でも、下げ戻し申請が多く出されたが、その多くは支証不足で却下され、受理されて行政裁判所に持ち込まれても官私区分の措置が正しいものとされるものが多かった。

第四節 わが国の林業政策と本村の林業開発

 『滝沢村の実態とその基本的開発構想』によると、

 近年のわが国経済のめざましい発展は、林業に対しても大きな変化をもたらした。その第一は、国内における木材需要量の増加である。すなわち、過去十年間の年伸び率は五・八%を示し、今後も増大の傾向を示している。第二に、開放経済体制下における外材輸入量の増加である。需給の調整と価格安定策として外材の輸入は特に昭和三十六年以降急激に増加し、現在国内総供給量の二割をこえるに至っている。さらに、従来の建築材を基幹とした需要はパルプ原木にその中心が移り、樹種的にはスギ、ヒノキ、カラマツ、広葉樹材へと質的下方移動の顕著な需要構造の変化をもたらし、特に近年は、農山村からの労働力のはげしい流出の現象をもたらしたのである。昭和二十六年に、森林法の改正を行い、戦後の涸渇した森林資源の維持培養と、造林を主とする生産力増強政策を打ち出した林野庁は、さらにこうした情勢の変化に対応すべく、わが国林業の新しい施策の方向づけに努力した結果、同三十九年六月、漸く林業基本法の制定を見るに至った。本法は「国民経済の成長発展と社会生活の進歩向上に即応して、林業の自然的経済的制約による不利を補正し、林業総生産の増大を期すると共に、他産業との格差が是正されるように、林業の生産性を向上することを目途として、林業の安定的な発展を図り、合せて林業従事者の所得を増大して、その経済的社会的地位の向上に資する」ことを政策の目標としている。

 林業には、一般に林業、または森林経営とよばれる育林生産部門と、別に木材業あるいは伐出業とよばれる採取生産部門の大きな二つの経営構造がある。従来施策の重点は育林生産部門に偏重される傾きがあったが、基本法は、これら両部門を一括した全生産過程の高度化、すなわち、総生産の増大と生産性の向上、それによる人間社会の発達をめざす積極的な経済政策である。

 さらに、基本法には、国が行うべき具体的な施策と、地方公共団体は、これら国の施策に準じて施策を構ずるようつとめねばならないと規定されている。

 一般に林業基本法の指向するものは、従来の林業の掠奪産業的性格を反省し、新たなる培養産業的林業への脱皮向上にあるということが出来る。その大前提として、国家は長期にわたる見通しのもとに、森林資源基本計画の樹立公表が義務づけられ、この国家計画に基づいて、林道の開設、林業基盤の整備開発、優良苗の確保と造林の推進、あるいは機械導入などの必要施策を総合的に喉り上げ、いわゆる生産基盤の拡充をはかろうとするものであるが、その生産政策の方向は、明らかに慢性的不足物資である用材の増産と生産性の向上、すなわち、用材林業の拡大集約化に指向されているのである。さらに本法を大きく特徴づけるものとして、林業構造改善政策を打ち出したことをあげなければならない。これを大別すれば、大規模経営の計画化、小規模林業の経営育成、森林組合の強化改善の三つとなるが、第一の大規模経営者に対しては、経営と家計を分離して法人化をすゝめ、所有森林について林地の適切高度の利用がはかられるような経営計画を立てさせ、造林その他の作業を機械化させるに必要な施策を講ぜんどするものであり、第二の小規模経営者に対しては林地取得の円滑化、分収造林の促進、国有林野についての部分林の設定推進、入会権に係る林野の権利関係の近代化などに必要な施策を講じて、規模の拡大を助長すると共に、農業構造改善と総合統一された形で、いわゆる家族経営的林業の確立を期待するものである。また、第三の森林組合組織の強化改善については、林業の生産行程についての協業化の促進を森林組合組織を通じて行おうとするものであって、森林の施業のみならず、素材生産部門までを含めた共同事業の発達改善に必要な施策を講じようとするものである。

 林業基本法はさらに、以上のべたような林業生産の発展路線に対応するものとして、木材の流通、加工合理化政策及び林業労働者の福祉向上や労務の安定政策まで規定しているが、やはりその基幹となるものは、経営基盤の整備拡充と、林業労働者の福祉向上や労務の安定政策まで規定しているが、やはりその基幹となるものは、経営基盤の整備拡充と林業経営の計画化対策にあるということができよう。今後の林業の改善策は、これら基本法の示す道標に従って樹立される必要があるわけであり、岩手県においても、昭和四十一年三月森林審議会の答申を得て林業基本対策の樹立を急いでいる。しかしながら、林業特に森林生産を対象とする森林経営においては、その生産技術の面で、自然力に対する依存度が極めて強く、放任しておいてもある程度の生産が期待できるという特質をもっている。またその生産が長期にわたるため、資金、労働力は当面必要のない余剰的なものでなければ、振り向けが困難である。癖に中小規模の森林経営では、労働の過程が時間的に極めて分散されるために、一代間に技術的熟練と知識の習得を期待するのが困難であることが多い。これらの特性は、森林経営の計画化、あるいは集約化に対して、内部的に駆動力を弱める結果をもたらし、ともすれば、規模の大小を問わず、資産保持的、地代追求的経営に陥りがちとなるのである。従って、林業経営の近代化の道はけわしく、森林所有者あるいは経営者の資本主義的社会の一員としての自覚と、横極的な協力意欲にまつ処が多いといわなければならない。

 さて、滝沢村は岩手県の中央部に位し、北西部に岩手山を包含して総面積百八十一平方キロメートルの広大な地域を占めている。村の中央部を奥羽山系の支脈が南北を走り、この地帯が本村の森林資源の中心となっているのであるが、その南東部は北上川、雫石川流域の平地帯につながり、水田、果樹、畑作地帯を構成しており、直接盛岡市に隣接して交通は極めて至便の地である。すなわち、本村は都市近郊農村として性格づけられ、農業及び畜産業をその主たる産業基盤として発展を続けたものであり、近年特に盛岡市経済の影響を強く受けてその都市化の僚向に激しいものが見られるのである。

 昭和三十五年センサス (土地利用現況表→) によれば、本村の耕地率二一%、林野六四%をしめているが、同三十八年調製の役場資料 (土地利用別面積→) に従えば、農業用地三〇%、林業用地三八%となっている。農業用地にふくまれる放牧採草地面積を林業用地に加算して、仮りに林野率を試算すれば、五三%となるが、これら数値は周辺市町村にくらべても明らかに低率を示しているのであって、本村は山村的性格からほど遠く、一応村民経済の山林に対する依存度の低さを示すものだということが出来よう。しかしながら、およそ八千haに及ぶ森林面積は極めて広大であり、これを基盤として林産生産の増強をはかり、経営の近代化を策して村民所得の向上安定を画することは、本村経済興隆のために、やはり緊要な課題であろうと思われる。

第五節 本村の林業

一 林野の構成

 本村の土地利用区分についての統計に二、三の資料があるが、林野面積について集計方法の相違があり確認しがたい。いずれにせよ、本村面積のおよそ半分に及ぶ面積は、林業用地として利用されているものと推定されるが、構成比を近隣市町村と比較すれば、盛岡六七%、松尾七七%、西根八一%、玉山八一%となっており、本村の林野率は低率をしめていることがわかる。これは本村においては公共用地として使用されている土地がおよそ三〇%あること、及び近年馬産から酪農への移行がはげしく、広大な面積を占めていた放牧採草地が、岩洞ダム給水路の完成に伴う開田事業と、開拓入植による開畑事業の対象用地として、林野利用から離れて行ったものと考えられる。

二 林野所有の構造

 本村の林野の保有形態について、昭和三十五年のセンサス統計を示せば次の表のようである。

保有形態別林野面積・森林面積・人工林率→

 本表に従えば、国有林一六%、公有林一五%、私有林六九%となり、私有林の占める割合が極めて大きい。また、前述の土地利用現況表によれば、国有林二千五十五haで一二%、公有林一千五百三十七haで三二%、私有林四千五百七十八haで五八%となっており、昭和三十八年の役場資料によれば、国有林二、三七七haで三四・二八%、公有林一千百十三haで一五・九五%、私有林三千四百四十四haで四九・六六%となっており、統計のちがいはあるが、本村における国有林の占める面積は少なく、民有林特に私有林面積が大きいことが知られる。国有林の占める面積の少ないのは歴代村長の努力により払下げた結果である。なお県資料に従えば、林野庁所管の国有林一千七百三十九haは主として岩手山にあり、沼森、平蔵沢、川前地区に散在する六百三十八・七二haは全部滝沢村と部分林契約済みであり、昭和四十年現在二百八十四・五七haのカラマツを主とする造林がなされている。すなわち本村の国有林は岩手山中腹以上の第一種地が主体をなすものであって、すでに地元農業構造改善や、その他の振興のために今後活用すべき余地が殆どないものと考えられる。今本村における国有林解放の沿革をかえりみるならば、昭和九年二月、第十五代村長柳村兼吉氏が、演習用地として、百八・七七町を陸軍省に管理換をしたのを初めとし、昭和十五年四月には、第十七代村長田沼甚八郎氏が、三百五十・二六町歩を農林省種馬育成用地として管理換している。昭和二十二年、農地改革に伴う未墾地所属替事業をもって幕をあけ、以下に示すような過程をたどって、同三十七年までおよそ二千二百三十七町歩に及ぶ処分がなされたのである。

〇未墾地所属替

 下記林野庁所管の国有林の外に、文部省所管岩手大学演習林三百十二haがある。また、公有林一千五百三十七haの内訳は、私有林に対して行われた県行造林六十haと、村有林一千四百七十七haとに別けられるが、村有林は昭和十四年から同十六年にわたり、大蔵省より払い下げを受けた山林原野にはじまり、昭和二十八年、同三十年の林野整備臨時措置法による払い下げ国有林、昭和三十一年農林省払い下げの放牧原野、同三十二年買入れの共有山林とによって構成されたものである。

未墾地所属替→

農地所属替→

林野整備→

牧野所属替→

 さらに、民有林について、面積階層別に所有構造を見たものを次の表 (面積階層別所有形態(民有林)→) に示す。これによれば、本村民有林は六百二十五名によって分割所有されていることになっているが、一~五ha階層の所有者は二百六十三名で最も多く、十ha未満の階層を小規模所有者とみなせば、全所有者の八三%に当る五百十九名がこれに集中し、その所有面積一千九百二十一haは全面積の三一%に相当するに過ぎない。また二十ha以上を大規模所有者と見なすと、わずか七%にあたる四十三名が全面積の五三%にあたる三千二百二十九haを所有していることがわかる。このように大規模所有と分散的零細所有の両極に分解し、中規模階層の厚味に乏しい林野所有の構造は、岩手県に見られる普通のもので常に問題とされるところである。

 次に本村においては、村外居住者の所有が多いことを指摘しなければならない。これらの実数については明らかにすることは出来なかったが、センサス調査によって五十ha以上の森林所有者十名の内訳を見ると、村外居住の個人、または会社事業体は九名であって、村内者はわずかに一名となっている。同じセンサスに従って、村内居住の一反歩以上の森林保有者数をみると、次の表 (保有山林のある林家数→) のようで、総数五百九戸、一千七百六十九町歩となっている。また別に林業事業体に関する調べでは、総数十六で保有面積は一千八百二十五町歩となっている。これらに従えば、村内に居住する者の保有する総面積は三千六百四十七haとなり、およそ二千五百haが百名程の村外者の保有にかかるものと推定されるのである。すなわち、本村民有林の約四割は村外者の保有経営にかかるものであって、直接村民の経営対象となる森林は、およそ三千六百haであり、これが村有と個人有に分割され、個人有については、五百九戸に細分保有されていることになる。さらに、前表上段は五百九戸のうち五百六戸が農家となっており、一千七百四十haを保有するもののようであるが、昭和四十年農業センサス (保有山林階層別農家数及び面積→) によれば、表の下段に示すように、保有山林のある農家数は三百五十八戸、面積一千三百九十六町四反二畝となってさらに少なくなっている。

三 森林資源の構成

ヒバ

 本村の森林資源は殆ど民有林によって構成されるものと見ることができる。民有林の針広別資源構成を次の表 (民有森林資源構成表→) に、また樹種別齢級別面積を次の表 (民有林樹種別齢級別面積蓄積表→) に示した。

 これらは昭和三十五年調製の岩手県森林計画の資源構成表によったもので多少古いが、一応これに従って総括的な資源の状況を分析してみよう。

 本村民有林の総畜積量は三百八十六・八五一立法メートルであり、これをha当り平均蓄積量として把握すれば六十三立法メートルとなり必ずしも高くない。その九割は普通林内蓄積であって直接経済生産の対象となるものであるが、その内容を針広別に検討すると凡そ六五%が針葉樹で構成され、また人工林、天然林別には面積・蓄積ともに三五・六五の構成比をしめし、天然林が多いことが指摘される。人工林率三五・三%を示すことは本村の造林が比較的進んでいるということができるが、その大部分が最近の造林にかかるものであって、資源構成力からすればまだ弱い。すなわち、人工林はカラマツ、スギを主とし、一部アカマツを含むものであるが、民有森林資源構成表で明らかなように、その七割近い面積をしめるカラマツは、大部分一~二齢級の幼齢林分で構成され、ha当り平均蓄積は二十八・一立法メートルに過ぎない。スギについても同様に約半数に近い面積が近年の造林にかかる一齢級以下の林分であるが、従来平均した造林実績があったために齢級配置も整っており、平均畜積も百十七・五立法メートルを示し、人工林資源の主要なものとなっている。天然林蓄積の約半数は針葉樹が示しているが、これはアカマツ林と見てよく、十齢級以上の林分面積が多いために、平均蓄積は百五十三・一立方メートルとなり、本村用材資源として最も重要なものということができよう。広葉樹林は三~五齢級の林分が多くなっていて、薪炭資源として一般に良好な資源構成をなすものといえるが、平均蓄積は四十三・三立法メートルであり、生産性の見地からすれば、極めて低いといわねばならない。従って、本村民有林総体の森林資源の上では、ここ当分は天然生林、特にアカマツ用材資源が重要な機能を持つものであり、合せて、広葉樹資源の中で有用樹種の用材資源化を考慮することが必要であるといえるであろう。

ナンブアカマツ

 さらに民有林を公、私有別に分析してみよう。次の表は村有林の資源構成をまとめたものである。

村有林資源構成表→

 公有林の大部分を占める一千四百七十七haをおおう資源量は四万三百四十六立法メートルで、針広それぞれ半々で構成されているが、総体の平均蓄積二十七立法メートルをしめる人工林がカラマツを主とする近年の植栽にかかるもので構成されているからである。天然林中アカマツを主体とする針葉樹蓄横も散生または幼齢のために少なく、その八割近くを構成する広葉樹も適伐以上の占める蓄境が多くはなっているが、ha当り四十九立法メートルであってその資源構成力は全般に低い。しかしながら、部分林契約をすませた六百三十八・七二haの国有林を含め、村有林の造林は昭和二十六年以降着実に伸展しており、公有林経営計画によれば、昭和四十一年度人工林比率は五四%、最終目標年次である昭和五十年では八〇%を見込んでおり、将来本村振興の有力な財源となる明るい希望がある。

 次に私有林の資源構成を示す。

私有林資源構成表→

 一般に、私有林の資源構成力は公有林にまさり、特にアカマツ林が重要な資源機能を受持っていることがわかる。すなわち平均蓄積を見れば、アカマツ二百九立法メートル、スギ百二十一立法メートル、カラマツ三十九立法メートルとなるがカラマツ面積は四六%をしめ、将来資源の中心となるであろう。又針葉樹林蓄積は小岩井農場林を始め会社有林に集中的に存在するから個人有林としては、やはり広葉樹薪炭林資源が重要な地位をしめることになり、この活用を造林による針葉樹用材林化の促進が当面の課題として提起されることになろう。

 なお昭和四十年臨時農業センサス資料によれば、本村農家の保有山林の人工林面積比率は、二八%と平均よりやや下廻り、八割近い低位生産の天然林が保有されているのである。

四 林業生産の現況

 まず林業生産の投資面として、本村民有林の植栽の状況を次の表 (滝沢村造林実績→) で昭和三十一年から同三十九年までの造林画境の推移を示したものである。なおこの表の針葉樹にはヒバ、ドイツトウヒ等、また広葉樹にはキリ、コパハソノキ、ポプラ等が含まれていす。昭和三十四年までは補助事業のみの集計であるが、同三十五年以降は補助造林、自力造林、融資造林の合計値を示している。また各年度の実行面積を見ると、同三十一年度の四百二十一haが最高で、同三十四年度に一つの山があるが、次第に減少の傾向をたどっており、最近三ヵ年の実績は同三十一年度にくらべて、およそ四分の一程度に減っている。この原因としては、労働貸金の高騰による造林資金の枯渇、農村労働力の都市への移動による労力不足等が影響したものと考えられるが、カラマツ先枯病の発生による造林意欲の減退が大きな要因となっていることをあげねばならない。すなわちカラマツ造林は同三十一年度において面積の八四%を占める三百五十二haの実績を示したが、同三十六年以降は急激に減少し、近年はわずか十ha余りの実績を示すに過ぎない。スギは造林適地が限定されるので面積は少ないが、変動の少ない実績が持続されている。アカマツは最近カラマツに代る造林樹種として著しいのびを示し、最近三ヵ年は本村造林樹種中第一位をしめるであろう。すなわち最近三ヵ年の樹種別構成ではアカマツ四一%、スギ二七%、カラマツ二三%その他の順になっている。次の表 (経営規模別造林実績→) は最近三ヵ年について民有林の経営規模別に造林の状況を調査したものである。補助事業のみの集計であるがおおよそその傾向を知ることができよう。これによれば、概して経営規模が大きいほど植林実績が高くなるといえるが、各階戸別の保有者数に対する造林者の比率を見ると、五十ha以上では殆ど全員が造林し、五十~五ha階層では、およそ半数の人が造林している。これに対し五haの階層においては一割程度の造林実行者しかない。昭和三十九年度において二十ha以上の階層の実行者が激減しているのは融資造林にまわったためであることは、前の表の滝沢村造林実績と、次表 (再拡別年度別民有林造林面積推移→) から推定できるが、前表について、これら造林の再造林、拡大造林別を検討すれば、一般に天然林伐跡地や原野地に対する拡大造林が主体をなしていることがわかる。これは林地の拡大と低生産性の薪炭林地の用材林化に通ずるものであって好ましい傾向であり、さらに同三十九年度において融資造林が急激に増加したのは村有林、会社有林の実績によるものであり、今後、補助金利用の枠を小規模階層者に拡げる意味では歓迎される傾向というべきである。

 次の表は村有林及び部分林契約をした国有林に対する造林実績を示したものである。

滝沢村村有林及び部分林造林実績→

 昭和三十一年-同三十六年にわたる間はカラマツを主とする造林がさかんに行われたが、同三十七年以降はカラマツ造林が消滅し、これにかわるアカマツ造林が部分林に対して行われた。しかしながらその規模は漸次縮小される傾向を示している。また、昭和三十九年度における山林保有農家の造林実績 (保有山林階層別農家造林実績→) をみるに、造林を行なった農家は三百五十八戸中四十九戸に過ぎず、その内訳をみると、保有規模が大きくなるに従い、造林戸数の割合いも造林規模も増大するが一般に低調であるといえよう。

 次に本村の林産額について、最近五ヵ年間の (木材生産量→) を検討してみるに、これは、木材引取税申告書による集計であるから、実際はこの数値を上廻る生産があるものと見なければならない。

 これによれば、本村の木材生産は天然生アカマツが主体であり、ついでスギ、広葉樹となっている。概して年生産量は増加の傾向が見られるが、最も多い昭和三十七年度について、県林産課の別資料によれは、素材生産量は一万六千四百六十五立方メートルで、その内訳は、針葉樹一万四千一立方メートル、広葉樹二千四百六十四立方メートルとなっており、このうち民有林の生産量は針葉樹六千五百三十五立方メートル、広葉樹一千百九十四立方メートルで計七千七百二十九立方メートルとなっているが、岩手郡内町村では最低の生産量であり、県内六十三市町村中四十一位に相当する。また同年の製材生産量は総数二千五百三立方メートルで極めて低く、その内訳は、一般製材一千八百二立方メートル、仕組板四百七十一立方メートル、その他二百三十立方メートルである。これらは村内二軒の製材業者によって生産されたものであるが、機械装備は帯鋸二、円鋸二、製函機六だけであって、生産能力の低い企業体である。この業者は同時に木材業を兼ねているが、装備としてはトラック一台、雇傭労務者十九名という零細性である。これは上述のように本村の素材生産量がない上に隣接する盛岡市、雫石町などに大規模経営者が多いことによるものと考えられる。すなわち生産素材の二割は自家消費され、残り販売量の二割が村内業者によって加工再生産されるが、他はすべて村外業者の手に渡るのである。なお薪材については昭和三十七年度におよそ三千七百二十九立方メートル生産されているが、すべて自家消費に向けられ、製炭については自営世帯二戸によって年間三百俵程度の生産があるのみで殆ど問題にならない。

 以上昭和三十七年度実績に基づいて、本村の林業生産額を推定すれば、針葉樹七千五百六十万五千円、広葉樹二百九十五万七千円で計七千八百五十六万二千円となり、民有林生産分のみにては、針葉樹三千五百二十八万九千円、広葉樹百四十三万三千円で計三千六百七十二万二千円程度となる。また同年行われた村民所得推計調査によれば、林業生産額七千三百七十万六千円、所得七九・四九%、所得額五千八百五十八万七千円であって、所得構成比は、わずかに五%を占めるに過ぎない。さらに、昭和四十年農業センサス資料によれば、昭和三十九年度において林産物販売による収入のあった農家はわずかに十七戸、およそ三百五十万円程度であり、農家の兼業従事者一千三百三十五人中林業出稼者十名、賃労務者八十二名があるに過ぎないという事実は、本村農家の林業に対する依存度の低さを例証するものであろう。

 (以上、本村の林業については『滝沢村の実態とその基本的開発構想』によった。)

第六節 森林組合

 明治四十年十二月廿六日勅令第三四八号森林組合令が発布され、同四十四年四月荒廃地復旧補助規則、標柱建設規則、森林組合設置奨励規則等が発布された。この年の五月、郡市長会議が開会され、森林の諸法規の実施につき十三項目にわたって会議をやっている。その中に「造林組合ニ関スル件」があり、翌四十五年五月の郡市長会議では森林に関する七項目についての会議をしているが、その中に「森林保護組合設置ニ関スル件」がある。旧森林法では、取締に重きをおく警察的行政に傾いていたが、改正森林法と共に、森林が保育行政に一歩を進めたとして注目されている。すなわち、造林・施業・土木・保護を絞り入れるようになった。本県の郡市長会議で審議した造林組合森林保護組合のことなどはそのためであった。

 本村においては、昭和三十二年山林所有者が合理的山林経営を目的として組織され、組合員は三百名ほどあったが、三反歩以上所有する未加入者が三百五六十名もあり、滝沢村全面積の三割六分を占めている山林があるにもかかわらず、昭和四十五年の組合員は百七十一名(内村外三十四名)で、約半数の加入者であった。翌四十六年に盛岡の森林組合に併合されることとなった。

歴代組合長

第1代 武田 文四郎 昭33・1-同35・ 8
第2代 大坪 松太郎 〃35・9-〃44・ 9
第3代 田沼 恒吉  昭44・9-同45・12

第七節 林業試験場

一 農林省林業試験場東北支場

 大正十一年に仙台市に創設され、その後機構等に曲折はあるが、昭和三十五年現在地に移転し、農林省林業試験場が全国に五箇所ある支場の中の一つとして、東北地方の林業振興のために、必要な林業技術の試験研究がすすめられている。

 総面積は六十三haで、主要研究は健苗育成、苗畑土壌調査、寒害調査、広葉樹の育林技術、森林の更新、森林の保育、林野土壌と林木の生育、国有林土壌調査指導、林地肥培、林分の構造と成長、薪炭林の作業法、用材林の作業法についての農家林業、混牧林経営の基礎、寒冷地帯の林地の破壊ならびにせき悪化防止法、寒冷地帯の森林気象、寒冷地帯の山腹工における植生導入技術、多雪地帯と寒冷地帯との経済的治山工法、病害鑑定防除指導、森林及び苗畑病害、カラマツ先枯病、虫害鑑定診断と防除指導、ヴイルス等天敵利用による防除技術確立、森林及び苗畑害虫の生態と防除、松類の穿孔虫の生態と防除、鳥類標識試験である。

二 農林省東北林木育種場

 農林省林野庁の一機関として東北地方の林業、生産性向上のために必要な品種改良された種苗の養成配布と、長期を要すを林木育種事業実行に伴う種々の問題点を解明しながら、林木育種事業を推進する中枢体としての国立の機関である。

 生産された種苗は、民用としてはそれぞれの県に、官用としてはそれぞれの営林局に調整配布され、県及び営林局においては、さらに大量増産を行なって民官の造林地に植栽されることとなる。総面積は八十九haである。

三 岩手県立林業試験場

 岩手県の面積の過半を占めている林地の利用は、産業の振興にとって重要な分野であり、短期育成技術の確立や、機械化省力技術の確立等の要請にこたえて、森林生産力及び労働生産性向上、林産物の利用改善等の研究が主目標として進められている。なお民有林についても専門調査を併せて実施されている。

 昭和二十二年胆沢郡金ヶ崎町の県立六原農場内に設立されたが、試験研究機関の整備拡充により、同三十九年に現在地に移転をする。総面積は十・九ha、本館、温室、林産加工作業室、製材技術者養成所等があって、主要なる研究や試験は次の通りである。

 すなわち、早成樹種の増殖、主要造林樹種の育苗育林、林業経営の改善、森林保護、寒害防除基礎、実用技術開発、製材の合理化、製炭の生産性向上の各試験である。

   製材技術者養成所

 木材資源の集約利用と、県内製材業の技術の向上をはかるため、製材工場技術者の養成が行われている。
 定員及び養成期間
  普通科 十五名 六ヵ月
  研究科 十五名 一ヵ月以内
  補修料 十五名 十日以内
教科内容   目立技術 製材機械 挽材技術 木材利用 木材工業林業技術