第六章 明治以後の畜産

第一節 はじめに

 明治五年より同三十年までは畜産奨励期であったが、その種類も殆ど牛馬によって占められ、内国産が圧倒的に多かった。明治九年五月県の所管も増大したが、明治十一年まではまとまった集計もなく、その生産状況も不明確である。同十二年以降になって、産業としてみるべきものがあり、牛馬とも殖え飼養農家の不時収益金となり農業経営を補助し、一方軍用馬の買上げも手伝い、洋種が輸入され、内国種と交配され本県畜産界の発展を促した。また、県の畜産奨励の外に事業団体として県の産馬組合が活動しており、県営牧場が解消したが、御料牧場や小岩井農場、岩手種馬所、陸軍の補充支部等が出現して本県の畜産界に裨益している。

 明治三十一年より大正十五年までは本県畜産業も最盛期であった。牛馬にしても洋種の交配によって雑種が一層増殖し、牛馬骼を変革し、長大ならしめ、内国種は少なくなっていった。官営施設や日清、日露の戦役で陸軍の軍用馬買上げが畜産の発展を促進したことはいうまでもない。盛岡高等農林学校、盛岡農学校の開校も本県畜産界の発展に寄与するところが大きかった。この期になると豚・緬羊・山羊・兎・鶏・鶩の飼養も益々旺盛になっている。本県の持つ良好な自然的条件である広大な放牧地や草刈地と曲家で同一の屋根の下で家畜を愛する良風が存続されていたのである。

 昭和初期には経済界の不況で農山村は困難に陥った。そのことが畜産界にも反映して牛馬の価額が低下し飼養馬の頭数もある程度減ったが、未だ隆盛であった。牛馬以外の畜産は次第に増殖の傾向にあったがその増減もまた顕著であった。昭和十年以降の生産額は、他産業と同様異常変態性というより外はない。

第二節 明治前期の馬産

 明治四年十二月本県で初めてアラビヤの芦毛の牡馬、オーストリヤの鹿毛を輸入している。本県初期の馬産に洋種がとり入れられた始めである。

 明治六年二月県下に牛馬取締規則十九条を布達し、従来の馬肝入を廃止し、牛馬締役を発令したのである。職掌は従前の馬肝入役の踏襲に過ぎなかった。この改正は二十一区制の実施に伴うもので、その区内の牛馬に関する諸種の事務を管掌する必要上の改革で、地区に跨らざる方針からなされたものである。

 明治六年八月、仙台鎮台の三好大佐から、岩手県産の馬匹中、軍用に適するものについて照会があったので、次のように回答している。新政治の軍用馬関係として注意される。

御台工追々騎兵御設ニ相成リ侯ニ付テハ東奥牧畜多キ所故牧馬ノ地生産ノ手順取調ベ差シ出シ倹様御達コレアリ当県管内出生馬並ニ牧馬ノ地取調ベ御廻シ仕リ候ヨツテ御回答ニ及ビ候也
 癸酉八月
  陸奥三好大佐殿
 記
一、管内馬出生平均一ヵ年幾頭
  是ハ駄駒共五千六冒頭程出生
一、騎兵軍用ニ相成ルベキ分何地ノ産ニシテ一ヵ年産生大凡幾個
  是ハ第一区田代村、砂子沢村、薮川村、第三区平館村、平笠村、第四区滝沢村、第六区片寄村、第七区山屋村、第八区内川目村、第十一区南畑村、御明神村、長山村、第十六区江繋村、小国村、第十八区刈屋村、和井内村、田代村、第二十区葛巻村、大野村、戸鎖村、第二十一区軽米村、小軽米村、第十九区岩泉村、沼袋村、浅内村ヨリ産出大凡三百頭程ハ出デ申スベク候
一、牧馬ノ地
  是ハ第二十区北野、三崎ノ両牧馬場旧盛岡藩ノ砌立テ置キ候所、旧藩益筋而巳ニテ囲柵ノ営繕ヲ始メ冬分飼立ノ秣等一切近傍村方ヨリ課役ニ致シ来リ候処ヨリ近村迷惑コレアル趣且即今囲柵大破致シ牧馬勝手ニ走出シ田畑ヲ損害致シ旁苦情申シ立テコレアリ伺済ノ上、牧馬不残払下ケ地所ハ牧畜見込コレアル者エ払下ゲノ儀取調ベ中ニ御座候。其外第一区田代村、第三区大更村ノ三所ハ牧馬場ニ然ルベキ地所ニ御座候
一、父馬並ニ母駄分配幼馬売買ニ及ビ良馬買上ゲ又ハ都テ資本金渡方等ノ手順
一、馬喰共売買ノ取扱イ
  此ヶ条ハ了解致シ難ク若ヤ従来仕来ノ掫駒ノ条ニモ御座アルベキ哉右ハ年々駒二歳掫払ノ節、良馬相見立テ掫金残ラズ官費ヲ以テ買上ゲ村方エ父馬ヲ下ケ置キ、出生ノ駒ニ限リ官ト馬主取分ケノ事、尤モ二歳迄馬主飼立テ置キ侯ニ付、掫金ノ内ヨリ壱疋ニ付キ金壱円ツツ馬主ヘ下サレ残金ハ半分ツツ駄ノ分ハ馬主勝手ニ任セ置キ候事
  父馬分ハ母駄廿五疋位エ壱疋見込ミノ事、資本渡方等ノ手順ハ如何様ノ御取行ヒカ、其御施行ニ依リ取リ調ベ方モ御座アルベク、猶御気附モ御座候ハバ御申越シコレアリ度御報ニ依リ取調ベ御回答ニ及ビ候事
   癸酉八月

 明治十二年以降県下二十三ヵ所において掫場があったが、本村は盛岡馬町において売却されている。

 明治十五年三月より岩手県の掫馬売買の方法「所得ノ価ハ四公六民ノ法ヲ以テコレヲ分チ」とあるごとく、これは南部藩政以来の旧慣であった。しかし、民有馬の売買に県で公税以外の費用を徴収する権限がないとして、これを民費に移すことになる。その機関が産馬会社である。これが産馬組合の祖形となり掫馬金はそこで扱うことになった。

 明治十二年外山牧場内に畜産奨励の基本教育施設として獣医学舎を開設し、英国人アンドリーマッキノンと東京の渡辺東洋等を教師とし獣医学生を募集して、これらを教育した。この学舎は後年内丸勧業場内に移され、産馬会社の下に経営されることになった。獣医教育は畜産上重要視されていることも近代化の象徴として注意されよう。

 明治十三年一月三十一日までに産馬議員を県会議員に準じて選挙せしめることとした。選挙は各郡役所において取りまとめこれを県に報告せしめた。しかし内務省は許可せず、明治十四年三月従来の慣行を中止し、産馬事業の官行を一切民業に移すことにしたので、ようやく明治二十三年二月産馬組合が組織され、昭和になって産馬畜産組合と改称し、産馬以外にもわたることになる。この外養豚組合、同連合会、家畜保険組合、養鶏組合が組織されており、時代の進運が知られる。その後、この種以外にも畜産関係組合が数多く発生し、畜産業界を賑わした。

 明治十九年二月産馬事務所において予ての計画通り、狼害駆除として立案せる「獲狼賞与規則」を県に提示し、施行許可の申請をするに至り、県はこれを認可する。

  申告第二十一号
別紙獲狼賞与規則三月一日ヨリ施行致シ候義許可候条、此旨告示候事
  明治十九年三月二日        岩手県令 石井省一郎
  獲狼賞与規則
第一条 本県管内ニ於テ狼獣ヲ捕獲シテ産馬事務所へ持参ノ者へハ、次ノ金額ヲ賞与ス
  但俗ニかせぎト称へ里犬ニ類スルモノヲ除ク
  一金五円 牝狼壱頭
  一金四円 牡狼壱頭
  一金壱円 児狼壱頭
  外ニ三里以外ノ地ヨリ持参スルモノハ狼一頭ニ付二人夫、児狼ハ五頭マテ一人夫、六頭以上ハ二人夫ノ運搬費ヲ一里一人夫三銭ツツノ割ヲ以支給ス
第二条 狼獣持参ノモノハ下ノ届書ヲ添差出スヘシ
  獲狼御届
  一、牝(牡)(児)狼何頭    何郡何村何番地 何 誰
  上ハ何月何日何郡何村地内字何々ト申ス所ニ於テ銃殺(并或ハ何々ヲ以テ捕獲)致シ候間此段御届ケ申シ候也
   年 月 日             前 何  某 印
            何郡何村何番地
                    証人 何  某 印
   産馬事務所御中
第三条 持参ノ狼獣ハ産馬事務所ニ於テ適宜処分スルモノトス
第四条 季節ニヨリ腐敗ノ恐レアルトキハ臓腑ヲ除キ去リ持参スヘシ
  上之通相定メ本年三月一日ヨリ施行候也
   明治十九年二月
                      産馬事務所

 狼の人畜にあたえた被害は、第四編第二章第七節狼害のごとく、旧藩時代の旧記に多く、盛岡南部藩の日誌にも、地方代官所からの注進がしばしは見えている。しかし、明治になって狼獲りを奨励した結果、全く絶滅に至らしめたのである。

第三節 馬産より牛産へ

 軍馬需要としての産馬は畜産の主役ではあったが、農業からみれば役畜糞畜としての存在であった。すなわち水田面積の広さと頭数が比例しておった。明治二十九年には実に十一万頭を越している。第二次大戦後の急速な馬から牛への乗りかえが行われるまで、八万頭から十一万頭までの頭数が維持されていた。馬の飼育頭数を維持するために草刈場は絶対に必要であった。山草がそのまま水田の肥料源として投入された時代もあった。水田の耕起やら代かきに使用され、また、収穫物の運搬に用いられた外は専ら糞畜としての役割であった。青々とした水田風景の中に大きな曲り家があり、その中には農家の家族と共に馬が曲り家に飼養され、家族の一員として愛育された農家風景はこの十数年の間に失われてしまった。

 大正十一年六月、岩手県内務部が刊行した本県技手山田喜平氏が『岩手県の産牛』で、南部牛の起原をシベリヤと蒙古韃たんからの渡来であるという。藩政時代の産牛の中心が岩泉・小川両村であるが、南部牛、その体尺牝牛にあっては三尺七寸より三尺九寸、牡牛は三尺九寸より四尺一-二寸、その毛色ほすこぶる雑多で、黒または黒駮最も多きも、赤、赤駮鹿毛などもあり、頭頸部の発達よく中躯比較的長く後躯はやゝ柔軟、四肢短く関節堅牢、当時関西、中国地方の和牛とは一見してその趣をことにしていたという。

 ホルスタイン種の本県に入ったのは、明治二十五年に盛岡の小泉伊兵衛氏がホルスタイン種牝牡二歳各一頭を買入れたのが初めである。

 明治三十五年以降小岩井農場がエーアシャー、ホルスタイン、ブラウンスイスの三種類を原産地から輸入し、蕃殖したことは本県の乳牛改良に大きな貢献をしている。

 昭和期に入っての本県の牛は、乳用としてホルスタイン種、肉用(役用)として短角種が代表とされていた。

 昭和二十年以降酪農が本格化されたのである。

 次に本村における「馬産より牛産へ」の推移についてふれることにする。

 本編産業の変遷、第一章近世の南部藩、第三節馬の飼育、五民間馬、2農家の飼育状況の中で述べたごとく、寛政九年(1797年)には、四百一戸で、八百八十頭の馬を飼育していたのが、明治四年(1871年)には、五百三十一戸で一千三十六頭の馬を飼育していた。

 次の統計 (滝沢村の家畜農家数と飼養農家数→) によれば、終戦後、昭和三十六年までの十四年間は七・八百台であったが、同三十七年から三十九年までの三ヵ年間に、五・六百台に下がり、同三十九年以降、年々下降の一途をたどり、同四十四年は百六十四頭になり、有名なチャグチャグ馬コの参加頭数が減少し、将来は消滅するのではないかと心配される。

 これと反対に、昭和十五年八頭の牛を飼育していたものが、約三十年後の同四十四年には、乳牛、役肉牛合せて三千頭と、馬の飼育の最高一千頭の約三倍となり、実に驚くべき転換ぶりを示している。

第四節 本村の畜産

 本村の畜産について『滝沢村の実態とその基本的開発構想』の中から次掲をする。

 農地の拡大とその利用形態の変化と一体をなす本村家畜飼養の推移を次表 (家畜農家数と飼養農家数→) にみると、最も顕著な点は乳用牛の着実な増加と馬の減少である。昭和二十五年と同三十年を比較すると乳用牛はもちろん、役肉用牛、豚、めん羊、鶏共に顕著な増加を示している。しかし、同三十五年以降の増加の足どりをみると役肉牛は増加速度が緩慢であり、豚は昭和三十八年以降横ばい、めん羊は三十五年を、鶏は三十八年を頂点にして減少している。これに対して乳用牛は着実に増加し、馬と山羊は減少の一途をたどる。すなわち、本村畜産は古くからの馬産地帯としての馬と、戦後の食料自給に一役をなした山羊とが減少し、同三十五年以降は乳用牛、役肉牛、豚、鶏という動物性蛋白質供給を主体とする商品的畜産に転換したことによるからである。昭和二十五年から三十五年に至る十ヵ年に質的転換をとげた本村畜産は四十年に至る五ヵ年の間に乳用牛飼養、すなわち酪農化の方向を明確に示している。もちろん役肉牛、豚、鶏も一戸当りの飼養頭羽数の増加はみられるが本村畜産を代表するものに至るほどの動向を示してはいない。

 今日、本村畜産の主要方向とみられる酪農が本村北部及び西部の畑地帯であり、戦後開拓地域たる柳沢、一本木、姥屋敷、川前に集中することは土地利用形態の検討の際にふれた通りである。

部落別家畜別飼養頭数及び飼養農家数→

 次に飼養形態と飼養頭数規模別農家数でみると次表 (乳用牛飼養規模別農家数→) のごとくなる。一・二頭飼養農家が減じ飼養頭数の多頭化傾向は明確にみられるもなお半数以上の飼養農家は二頭以下である。

 かくて本村家畜飼養は馬産から近代的畜産に質的転換をなし、開拓による入植、増反の畑作地帯を中心に酪農化が進展し、今日多頭飼養への方向を進みつつありと認められる。この様なあり方は家畜飼養基盤たる家畜飼料生産の面にもとらえられる。一言にしていうなら家畜飼料生産のための土地の集約的利用の進展である。次の表 (草地面積及び利用農家数→) の草地の家畜飼料生産利用をみると昭和二十五年は馬産が残り、今日的畜産の導入されなかった時期に対し、三十五年以降では採草放牧地及び山林のうち採草放牧するものの面積が減じて、永年牧草地利用が増加している。そして昭和三十五年以降酪農の進展が確立してからは永年牧草地利用すら減じている。これら採草放牧地や、永年牧草地等の草地利用の減少はその草地自体が利用されないで放置されていることを表の数字が示しているのではなくて、自然草地であった採草放牧地も、多少の人工が加えられて改良草地と移されるに至れば、永年牧草地として分類され、永年牧草地も管理よろしきを得て牧草生産力の高いものは、飼料畑として調査上分類されるごとく、かゝる減少傾向はむしろ土地の集約的飼料生産の進展の現れと理解すべきであろう。採草放牧に供した山林を開墾、牧草播種をなせば牧草畑となることまた同様である。これを裏付けるごとく飼料用作物作付面債は顕著に増加している。次の表 (家畜飼料用作物作付面積及び作付農家数→) はこれを示している。作付面積の増加のみならず、作付作物の種類も本村畜産の変化に対応している。家畜飼料作としては青刈大豆、なたね一辺倒の昭和三十五年に対し、三十五年以降減少の一途をたどり、それに代り青刈デントコーン、牧草類、育刈えん麦、飼料用かぶが作付され、特に前二者は三十八年、四十年と遂年増加を示している。サイロ、乾草材料として乳牛用自給飼料の中心であり、酪農化傾向に一致した現象が理解出来よう。

第五節 村営相の沢牧野

相の沢牧野

 相の沢牧野(鵜飼第一地割字姥屋敷一〇八番地)は奥羽山脈支系鞍掛山のふもと滝沢村の北北西に位置し、滝沢村役場から約十五km、標高約六百m東南に延びる緩かな起伏と点在する豊富な湧水は放牧地としての諸条件を備えている。

 かつて、馬産意気盛んなころ本村は岩手山麓に三千六百haの放牧地を有し、年間一千三百頭の馬を放牧し馬産地として名を高めたが、その後、一本木に自衛隊が創設され、約二千三百haが自衛隊に利用され、残りを馬の放牧地として経営することとなった。

 そして、岩手山麓集約酪農地域として乳牛が導入されるや、農業の機械化と共に馬の頭数が激減し、乳牛の頭数が大きな地位を占めるに至ったが、村としては粗飼料、育成牛の飼育、労働力の減少等に対処し、また乳牛の育成期の費用軽減のため、昭和三十九年から同四十二年までの四ヵ年間小規模草地改良補地百ha利用により、肉用牛も放牧され良質な草生と近代的施設をとり入れた見事な相の沢牧野の完成をみた。

  運営管理状況
 管理   村営
 管理者  村長-産業土木課長-畜産係-看視人
 看視人  三名 五月-十月 住込み
 獣医師  委託により毎日見廻りをする
 人夫   延二百人 雑用人夫
 機械作業 委託で掃除刈等を行う
 放牧方法 寄託による輪換放牧、群編成牧区

年度別放牧期間及び頭数→

第六節 岩手県肉牛生産公社

肉牛生産公社

 岩手県は古くから牛の生産に適しており、明治初年にホルスタインを導入した酪農発祥の地であると同時に日本短角種という独特の肉牛を産出した地でもある。

 しかも、未開発の広大な山野を有し、その開発に大きな期待がかけられている。

 牛肉の需要が年々増しているにもかかわらず、肉牛の生産は伸び悩んでいる。それは、農家の飼育規模が極めて零細であり、その上、繁殖用、肥育用の素牛が不足して、たやすく規模拡大ができないでいるからである。

 この素牛を急速に増やすために、昭和四十三年五月、県と農業団体それに東北開発株式会社が出資し合って社団法人を設立して大規模な牧場をつくり、肉牛の素牛を大量に生産して、市町村、農協の経営する牧場に供給し、さらにもっとたくさん増やして農家に安定的な素牛の供給をつづけることとして設立されたのである。

 事業の内容は、県内十ヵ所に基幹牧場を設置することとして目下五つの牧場を建設しているが、昭和四十五年三ヵ所、同四十六年に二ヵ所、同四十九年には全部完成の予定である。一牧場あたりの大きさは、面積約五百ha、繁殖用素牛常時五百頭で、牧場建設五年目以降の繁殖用素牛は、一基幹牧場あたりの年間供給用百三十頭、更新用として保留する繁殖用は八十三頭で、肥育用には生産された雄仔牛及び廃用牛をあてる。一牧場当り二百九十五頭である。

 岩手県肉牛生産公社は、県畜産試験場と緊密な連繋のもとに、基幹牧場において、大規模肉牛生産飼養技術の研究を行うとともに、衛星牧場の経営指導及び技術者の養成をなし、農業経営の安定と所得の向上をめざし、山村地域はもちろん平場水田地域でも肉牛飼育が大きな役割を果すことになる。

第七節 小岩井農場

小岩井農場

 明治二十四年八月、岩手山の南麓の地雫石・西山・滝沢に跨がる所に小岩井農場が創設され、小野義信、岩崎弥之助、井上勝三人の共同事業によるもので、反別一百町歩、はじめ田畑の開発に力を注いだが、明治三十二年より岩崎久弥の個人経営に移り、従来の農場から漸次牧場経営を主とし、育馬・育牛・育羊・耕耘・樹林の六部制となり、育馬・育牛で名声を高くし、全国的に有名になった。

 小岩井農場は昭和十三年四月、小岩井農牧株式会社の設立となり、これまでの岩崎家直営から脱皮して純然たる会社企業として経営されることとなった。その後、太平洋戦争の終了後、経済の民主化は財閥の解体、農地制度の改革及び労働組合の助長となり、一時は、農場の存立を脅かすほどであった。しかし、財閥の株式を職員と従業員に分譲されることになって、漸く落着いたのは昭和二十五年の夏である。それから十三年後の同三十八年に再び岩崎家に戻って今日に至る。

 明治以来継続された職制を昭和三十二年二月に大改革をし、同三十九年二月改正され職制は八部十四課になる。すなわち、総務部に総務課・営膳課、経理部に経理課・飼料課、種牛部に種牛課、種鶏部に種鶏課、乳業部に製造課・酪農課・観光課、市乳販売部に市乳販売課・農産部に耕作課・畜産課・山林部に山林課・車輌課となった。

 この農牧場は当初時価相場の二倍で近郊の原野を買込み、三千六百町という広大な面積を有していたが、終戦後約八百町歩に減じている。

 付属施設として、郵便局・小学校(後公立となる)・托児所・医局・陳列館・共済会・倶楽部等を有し、その施設の完備した事、本邦における牧場中他に比を見ないところである。

 最近は観光に意を用い、夏季はもちろん、冬季も全国各地から来訪する者有料道路と相まち年々増加している。

第八節 農林省岩手種畜牧場

岩手種畜牧場

 明治二十九年六月、滝沢村に馬政局所有の岩手種馬所が開設された。この種馬所は農商務省の告示によって設置されたもので、反別二千五百十町歩余、同三十年より種付を開始し、産馬奨励や馬骼改良の政府施設として大きな意義を持った。後岩手種馬育成所となり、本邦唯一の国有種馬候補馬の育成所で、国立牧場生産の二歳牡馬及び民間より購入した二・三歳の牡馬をここに集めて飼育し調教して各種馬所に配布をした。その後、東北種馬育成所となり、我国の産馬機関として、日本の近世産馬史に重要な意義を有し、本県産馬界にも源泉となったが、昭和二十五年度種馬育成業務が廃止となる。同年からめん羊(日本コリデール)、山羊(日本ザーネン種)豚(ヨークシャー種)、同三十五年から輸入したアバデイン、アンガス種の肉用牛等の飼養管理、改良増殖、種畜の配布、精液の払下げ、家畜の能力検定、家畜衛生、草地改良と飼養作物の栽培・調製・貯蔵及び飼料作物種子・原種圃の経営、飼料作物の種子及び種苗の配布等、と共に調査試験、研究技術指導及び畜産技術練習生の養成等を行なっている。

 総面積は九百三十八・五haの広大な面積を有している。

第九節 岩手県立畜産試験場

馬の飼育のさかんな頃の相ノ沢放牧地

 岩手県では明治三十一年盛岡に種馬厩を開設し、同三十四年岩手県種畜場と改称し、同三十五年滝沢村加賀内に移転した。場地百十一町六反歩余、国有原野を借用し、初代場長に一条牧夫氏が任命され、初めは洋種の種馬の牡牝や、牡牝の種牛を飼養したが、後、牝牛馬を廃し、大正四年春、使用土地五百四十九町四反の内、耕作地六十町歩、牧草地三十三町歩余、放牧地及び草刈地四百四十三町歩余、建物その他敷地十二町歩、種牡馬二十四頭、種牡牛七頭、耕馬十一頭で、県内の産馬界、産牛界に大きく貢献した。すなわち、当場で洋種と交配された和種の改良種は馬骼がひとまわり大きくなり、ここに優良馬としての南部馬が急速に出現して空前の賑展を見たのであった。

 終戦後、種畜場・種鶏場・農業試験場の畜産部等が合併したのが昭和三十七年であった。

 本県における農業成長部門である畜産の技術的基礎を急速に固めるために家畜全般にわたる試験研究と人工受精をはじめとする家畜改良事業等に努力がつづけられている。

 総面積は二百三十四ha、建物としては鶏舎・厩舎・公舎等がある。

第十節 馬産功労者田沼甚八郎氏

田沼甚八郎氏

 明治十八年十一月十一日大釜の沼袋に生れる。盛岡中学校卒業後、大正四年八月に盛岡産馬畜産組合の組合長に大矢馬太郎氏、副組合長に田沼甚八郎氏が推され、このコンビは同十二年八月まで八年間続いたのである。

 大矢氏は馬の組合長としてより終生政治家として活躍され組合長在任中、大正四年には、県会議員に同議長、同五年には、貴族院多額議員、同六年には市会議員に同議長、同八年には県会議員に議長、同十年には市会議員に議長、さらに衆議院議員と政治生活は多端を極め、文字通り東奔西走、組合長は名のみで、一切は田沼副組合長にまかせきりであった。それだけに田沼氏の苦労はなみなみならぬものであったらしい。

 田沼氏が県会議員当時同じ議員であった三浦栄五郎氏は、「日露戦争を契機として、騎兵の重要性が認識され、軍馬を活兵器と称し、陸軍ではことの外重要視し、丹下馬政局長の権力は大臣以上であった。この丹下長官と対等に田沼氏が懇談をなす間柄なので、岩手種馬育成所に良馬を導入するよう長官に運動をなし、二歳から四歳までを同育成所で飼育し、後、全国各府県の種馬所に配布する等、良馬改良に努力をした人である」という。

 ところが、大正十年から同十一年のワシントン会議で、米英日仏伊の五ヵ国の海軍々備の主力艦と航空母艦の縮小条約が成立すると、これが産馬界にも影響し、軍馬の購買が低下し、馬の値段が下がる一方で、馬の不景気が全国的に及んだ。これを乗切るためには種馬確保にあるとなし、県内産の優良種馬の育成、北海道産優秀二歳馬など購入につとめた。当時組合で購入する場合は、県の阿部喜左ェ門氏が立合い、県の承認を得なければならなかった。また、他県産馬の購入には小原正吉氏が鑑定をした。こうした時に前述のように、軍縮の余波が組合に押し寄せて来、馬の不景気時代がきたのである。しかも、組合経営費がかさむばかり。優良種馬購入の計画も金がなくて頓挫し、理想の達成はいつのことやらわからぬ有様であった。これを突破するため種馬購入の国費補助運動が猛然と起り、北海道、東北、九州を中心として日本産馬会が組織され、明治四十一年以来禁止されていた競馬復活を政府に呼びかけた。それは、馬の体質向上と、大衆レクリエーションとしての競馬復活がその理由であったが、実は競馬からあがる政府納入金を種馬購入費として全国産馬関係に補助してもらうためであった。

 日本産馬会では、北海道一名、東北四名、九州二名の実行委員をあげて運動を展開した。本県からは田沼副会長が選ばれた。やがて競馬復活が全国的な世論となって、政府もついに腰をあげ、大正十一年三月二十五日九州小倉を振り出しに、十三年間途絶えていた競馬が華々しく息を吹き返し、全国のファンの歓呼を浴びたのである。かくして念願が達成し、施設補助、衛生補助、牧野施設助成と競馬納付金による政府補助金が実現し、岩手の馬産界もやっと息をついた。盛岡組合では、直ちに種馬確保に乗り出し、十余年間は苦難時代で組合の種馬が老衰化したので、ここにおいて新古馬の取り換えが行われ、優秀馬が産出したのである。当時の組合は一市三十ヵ町村の大きな団体であったが、その機構は極めて民主的に行われ円滑に運営されたという。

 田沼氏の馬事振興に貢献したその功績が顕著なので、農林大臣をはじめ、帝国馬匹協会、日本競馬会等から感謝状が授与されている。

 田沼氏は本村の村長として大正十四年から昭和七年まで二期、同十年から同二十一年一月まで四期をつとめ、その外農会長、青年団長、農業協同組合、土地改良区、農業共済等多方面に活躍、昭和三十四年二月十日に死去された。

第十一節 国分翁夜話

一 家畜の話

 家畜を飼うには先ずその飼料の計画を立てなければならない。その計画なくして家畜をおくと、大低は骨と皮はかりの家畜にしてしまうものだ。そして家畜を飼う目的を達することが出来ない。

 そこで知らなければならないことは、田畑一反歩から生ずる自給飼料によって飼育出来る家畜の体量は五貫目である。従って他に適当な草地等のない限り、一町歩程度の田畑の自給飼料によって、例えばホルスタイン種の様な重量の乳牛を飼うことは無理である。そこでジャージー種等と和牛の一代雑種の如きものが適当となって来るのだ。私がこの説を出すと、随分とホルスタイン派の反撃を受けたものであるが、今では多くの人から認められ、又政府当局も之を認め此の方向に進んで来ているわけである。

 国有林地帯は一体に農産物は少なく、従って供米成績が悪いのを例とする。これは牧草地が得られないので有畜農業が営まれないから、農家経営が充分に行かないためである。そう云う地帯の振興発展をはかるためには是非ともこの国有林を解放して貰い、有畜農業の出来る方向に持って行かなければならないのだ。我が岩手県では国有林の解放が着々進行しているのはこの意味に於て嬉しいことである。

 農家で「釜をかえす」と云う言葉がある。これは、釜で家畜の飼料を煮るのであるが、その釜が不要になってその錆を防ぐためにその釜を裏返しておくわけで、これは家畜を飼わなくなったからである。即ち「釜をかえす」、「かまどをかえす」ということは、農家経営がうまく行かなくなったことを意味するところから来たものである。

 わが岩手県には最近まで集団的な牡牛の闘牛の慣習が残っている。まことに勇壮壮観なものであるが、これはその優勝者を種付牛とする制度であって品種の向上のため意味のあることである。

 秋のことを天高く馬肥ゆる候といって、普通秋は気候がよいので牛馬が食が進み肥えるものと思われているが、これは単に気候が涼しくなるというばかりではない。所謂、秋には霜が下りて牧草も萎れて来るのであるが同時に夏中、蚊虻に攻められていたのが、その蚊虻が死ぬので落付いて草を食べることが出来るから肥えることをいうのである。

二 酪農

 牛は日本に何時、何処から伝来したのか記録に明かでない。古代語には牛という言葉はなくて、角のけものとか、耳のけものとかいうのがあるが、この角のけものというのは牛で、耳のけものというのは馬のことだと思われる。

 日本には野牛や日本本来の牛はなくて、後に至って大陸から移住した者の携帯品にちがいない。日本の牛には大体二種類ある。つまり牛とべことがそれである。

 牛とは現在の和牛で、純黒の牛で支那大陸から移住者に伴われて来たものである。べこは韃靼靺鞨(だったんまつかつ)から移住して来た者が携えて来たのである。つまり、コーカサス山脈地方から伝来したわけであるが、現在のヨーロッパに分布されている牛と全く同じ系統のものである。そこで牛は東洋種、べこは西洋種ということが出来る。

 牛は体格が小さく、殆ど皆純黒毛で雑色はない。これに反し、べこは黒白斑、赤黒斑或はその他種々の雑多な毛色をしている。所謂和牛に比して体格は大きく骨が太くて、和牛の歩度に比して極めて遅鈍である。

 両者何れも主として役用に供された。当時乳肉の需要は全くないので、純然たる農耕と嶮阻な道路の駄送用に用いられたものである。明治初年までは、斃死すれば河に投棄され、極く稀に皮を剥ぐことがあったにすぎない。これも当時は皮の需要が極く少かったためにさ程珍重されなかったのだ。乳については、奈良時代に社会施設として各種の医療施設が出来た時、乳牛院という官制を設けて病人に対する薬用方面に用いられた。それが王朝の衰微と共に自然に廃され、それ以後殆ど牛乳を用いることがなかったらしく、それ以後については全く何の文献も残っていない。

 嘉永六年に米国の使節ハリスが下田に領事館をおいた時、幕府の役人に牛乳の供給を命じたところ、役人共は非常に苦心惨胆して少量宛の牛乳を集めて来て提供した。更に牛肉を要求されるに及んで全く周章狼狽、殆ど為すところを知らなかったということである。漸く一頭の肉牛を見付け出し、ハリスの領事館にあてられていた。寺院の庭の仏手柑(ぶしゅかん)樹につないで屠殺したと語り伝えられている。

 日本人としては、戊辰の役に軍隊が糧食に供した当時から、特殊な人が味わった程度で一般民間には殆ど需要がなかった。主として外国の大使館、領事館にいる外国人の要求に応ずるための、屠殺場や牛肉店が現われる様になった。明治二十年頃までは、地方に於ては現在の県庁所在地たる都市にも、牛肉店は殆どなく、日清戦争後各種の経済上の変化に伴い、牛肉屋は漸次ぼっ興し、それ以来逐次殖えて来て今日の盛況を見る様になっている。

 牛肉の如きも肉の用途に比例して、所謂牛肉屋が出来、都市の郊外には牛乳の販売者が各地に現われる様になった。昭和の中頃から農乳という問題が発生し、市の郊外の牛乳屋に対抗すべく端緒を開いた。そして当局の奨励も酪農として出発し、戦時中から戦後にかけて盛んに奨励した結果、各地にぼっ興し、急激に産乳量も増加して来たのである。もっとも、欧米の需給に比べれば、まだまだ雲泥の相違があり、その使用も薬用の観を呈しているので一般人は常食の域に達していないことは遺憾である。

 そもそも世界の殆ど凡ての国は開国の当時は先ず狩猟時代に始まり、次いで遊牧時代に入り、而かもその遊牧時代が皆相当に長かったものである。そのため肉乳は常食の主要な部分を占めていた。東洋では釈迦の経典に牛乳を飲用した記録が所々にある。

 それでは我が国には何故肉乳の需要がなかったのか?といえば、日本は大陸から農耕に熟練した民族が移住したため、遊牧時代がなくて、直ちに耕作農業、穀菽農業に入った結果である。そのため畜産物に関心がうすいだけでなく、日本では大豆が生産されたため、蛋白、脂肪の補給をこれに求めて味噌、醤油、豆腐、納豆等を次第次第に発明して行った。それと同時に日本は、めぐらすに海を以てし而かも魚族は豊富で、動物蛋白は水産物から摂取することが出来たため、その結果として肉や乳の発達がおくれたものと想像することが出来る。

 然し、食品はひとり栄養価のみでは律することが出来ないし、なお水産物も昔日の供給量ではなくなったので、勢い畜産物の供給が必要となって来たのである。しかも農業の集約性は益々同一面積から多収穫を上げなければならないため、どうしても地力の増進を考えなければならなくなる。そしてそれには輓近進歩の著しい化学肥料に頼るだけでは駄目だ。是非とも家畜の厩肥を施さなければならない。だから有畜農業の必要性は、単に乳肉皮毛を得るだけでなしに、むしろ時によると、糞尿の方がそれ以上に貴重な場合が少なくない。

 一体我が国に於ける従来の農業は不動産加工業だということが出来る。従ってその収入は不動産収入であるため、極めて単一性で機動性がない。不動産加工の範囲、つまり耕種栽培の範囲には一定限度があるが、これに比べて畜産の場合は加工の範囲が甚だ広く、集約性は更に高度なため、所謂、動産収入としては往々にして耕地よりの収入を凌駕する場合がある。即ち有畜農業は不動産収入と動産収入とを併せて取得する便益がある。

 東北寒冷地帯においては、直接耕作に要する稼動日数は百日以内で一年の三分の一にも達しない。従って労働報酬はその日数に比例するため極めて低位にある。これに対し九州、四国、中国の暖地では普通二百日を越える稼動日数であるため東北地方に比し経済力が充実しているのは当然だといえる。

 而して東北に於ても有畜式に改めれば、年中稼働の必要があり、その累積は色々の形となって収入を生み出すのである。東北寒冷地帯の農業は特にこの式をとる以外に、農家収入を増加する方法は見当らない。

 現在の酪農は一種の流行性を帯びて、恰かも明治中期の養蚕ぼっ興時代と酷似している。即ち一本の桑樹を所持せずに蚕児を掃き立てて一切を他に求めて経営する者のあったことは、丁度今日何等、飼料の準備なくして、凡てを購買に依って酪農を始めるのと全くその軌を一にする。幸にして飼料が安く、乳価が安定している場合は経営も可能であるが、一朝飼料の騰貴、或は乳価の下落に会えば、多大の損害を受け事業中絶の悲運を招来する。蚕児飼育のために、耕地に集約的に桑を栽培する様に、家畜飼育のためには、畑に飼料作物を栽培することが必要になって来る。

 今後酪農者は食糧作物の耕地の一部を割いて、集約的な牧草栽培の必要な時代が次第に迫りつつある。然しながら一面、我が国の食糧作物は国内全体より見れば少しも好転せず、従って穀作の領域を侵して飼料作物を栽培することは、その可能性に乏しい。

 然るに一面、従来の放牧採草地は殆ど、荒廃の極に達し、酪農用の飼料供給の資格を失いつつある。ここに於て傾斜地利用をする所謂草地農業を提唱する必要が痛感されるわけだ。草地農業の目的達成には種々の末梢的な技術があるが、根本問題は肥料の供給である。然し現在の肥料価格は草地に施用するには高価に過ぎ頗る実現性がうすい。

 繰り返していうが、酪農の基本は草地農業の完成であり、草地農業完成の基本は廉価なる肥料の供給にある。然して廉価な肥料の供給のためには、どうしても低廉な電力の供給が必要だということになる。酪農を盛んにすることは、食糧問題解決の根本であり、その酪農振興のためには、廉価な肥料の提供、従って低廉な電力の供給が必要条件をなすということが結論になるわけだ。