第三章 盛岡県の勧業

第一節 士族帰農と拓植

 盛岡県は新盛岡藩の後をうけて、九ヵ月目の明治三年(1870年)七月十日成立した県であるが、勧業面においては、特に農業開拓に力をつくしている。所管四郡百六十二村は、いずれも北上川水系沿岸の村々であるから、米穀生産を中心としての農産物である。

 盛岡県の存続は、明治四年十一月までの期間に過ぎないが、明治元年戊辰合戦のあと、明治二年大凶作のあとをうけており、それに加えて旧南部藩から解放された大量の失職者をかかえていた。それに対して、明治三年五月元藩兵一千六百戸の帰農を計画し、同三年より以降三ヵ年で十三万六千両をもって、一戸当り五石程度の農耕地八千石前後の開拓地を得ようというものであった。この開拓資金は民部省より貸下げの交渉がまとまったのである。明治三年五月この新開拓事業に着手し新開墾地に入植移住したものは八十軒人口四百五十余人であった。その外同年十一月岩手郡繋村の台欠の岩壁を掘って雫石川の水を引き紫波郡赤石村に達する水路を計画して畑地野形合せて一万八十三石の増石をみこみ、明治四年春になって駒木野・寄木平・外山などの開拓入植更に県下十六ヵ所の適地を選定しそこに五百五十軒の入植移民を募集している。

 一、              五石内外被下 帰農之者へ
開拓場所駒木野寄木平外山等へ引越シ侯処猶此度別紙ノ通リ開墾地御調相成リ候条、願イ出デ候ハバ建家御貸渡シ、開墾入費トシテ高壱石金五両積ヲ以テ下サルベク候間、見込コレアル者ハ早々願ヒ出ズべク候事。
  但シ建家ノ儀ハ当秋迄ニ御取立テ追々御引移ナサレ候事。
   別紙
 前略
 一、建家 弐拾軒
  元厨川通鵜飼村外山
 一、同   拾五軒
  同通滝沢村川上
 後略
 都合五百五十軒

 開拓地への入植希望者は明治四年五月期限としていたが、期限後の出願者には滝沢村の茨嶋野(観武ガ原)続き地に入植させることとしている。

 開拓事業は一面農業上の大土木工事である。水田化のためには用水路が先決であり、用水の配分や、水田耕作には土地の平坦化がぜひ必要であり、そのため各地に農業上の土木工事が実施されている。そして明治四年秋には、帰農者二千百余戸、開墾面積一千町歩余、開拓に関する規則も制定され、現地に開拓出張所が四ヵ所出現するようになる。

第二節 畜産

 明治三年(1870年)七月盛岡藩十三万石は廃され、盛岡県がおかれた。新県産馬制度は、管内は概して旧慣によっている。同年八月盛岡庁下の馬町に民部省養馬県出張所が開設され、旧南部領の産馬事務を担当している。前述のごとく、明治元年十二月、南部氏は官軍に抗戦した罪科によって全領が新政府に没収された。旧南部領は新政府によって分轄統治されたので産馬政策に大きな支障をきたした。新盛岡藩が創設されて、旧南部藩士であった産馬の事情を知悉している有志は、産馬政策の支障を慨歎し、藩を通じて新政府にその対策を種々建白したのであった。民部省ではその建白を採用し、明治三年八月民部省養馬懸をおき産馬指導に当らしめた。

 明治三年九月、県では産馬に関する規定書十二条を布告している。その内容は旧南部領時代の慣例を多く取り入れているのは、旧藩政時代の産馬制度の復活を意味している。暮の総馬改めは基本調査であって、馬籍帳であること、春の総馬検査を糶駒(馬市)には、民部省養馬県出張所から官吏が出張し、立会することを布達している。

 旧南部藩の産馬制度は、藩直轄の牧場といい、民間飼育生産といい、全国的に模範とするに足るものがあった。しかし維新の際の政争兵乱によって、旧南部領は四分五裂に分割された。馬政に精通した旧藩士等は、産馬の衰退を憂慮して、新政府に建白し、その建言が容れられて、民部省養馬県出張所の出現をみたのである。ところが折角出現した民部省の出張所も、その機能を十分発揮できなかった。その理由は産馬制度の復活に専念しようとしても、実情と事情は全く変っていたことである。たとえば一度廃された制度を実現しようとしても、所管違いの斗南藩の地であったり、七戸藩の地であったり、江刺県の地であったりして事情は異なっていた。斗南藩との間に取り交わされている馬市の開催のこと、税金のことについてみても、両者に不便があり、斗南藩・盛岡県・按察府(白石)・民部省の間の打合せの不十分さが察し得られる。従ってこの小藩県群立は、産馬制度を一本にまとめる障壁になっていた。新政府の方針も、国内与論も、速かに群小の藩県を解体し、地域本位の郡県制度を施行しない限り、政策の遂行が容易に進展しがたかったことは、産馬制度の一端を探っただけでも察し得られる。

 明治三年十月には白石按察府が廃止され、翌年七月には民部省も廃されたので盛岡に開設された民部省養馬県出張所も一年足らずで閉鎖解消することになる。県では明治四年正月、米国産の牝午牡牛三疋(壱疋弐百ドル)を購入、県内の繁殖用に致したいと請願している。旧南部領の地域では、北郡・九戸郡・閉伊郡は往昔より牛を飼育する地方であったが、新県の範囲では和賀郡の西部、沢内地方が産牛地帯であった。これも旧南部領全域の産牛に資するための企画であろう。

 明治四年四月十八日には斃馬牛の処置に関し、従来の穢多(えた)渡しを禁止し、以後持主の勝手たるべしと布告した。すでに穢多非人の称は同年二月三日太政官達に基づき県下に布告済であったので斃牛馬の所置を所有主へ処理させたのである。

 牛馬関係の諸役銭や伯楽の営業税について述べるならば、馬喰の冥加(みょうが)銭は、一ヵ年七百五十文馬市で購入した駒については、購入した額の永銭一貫文について三十文、すなわち百分の三を課税されたものであろう。伯楽の冥加銭も全く同一であり、納期を毎年五月を規定された。移出牛馬についての課税もそれぞれ規定されている。

第三節 養蚕

 勧業に関する施設経営は、当時の為政者の最も苦心した一面であった。維新の当初における士族卒の失職、藩扶養者の夥しい帰趨は大なる国家の社会問題であった。従ってその多くは開拓帰農へと向い、行政庁もまた殊に勧農政策に力を入れている。

 盛岡県においても特に勧農に関する諸令諸布告を出している。

 明治三年(1870年)八月四日、良田とならざる空地を利用し桑楮(こうぞ)等を植立べきこと、養蚕のこと、探桑のこと、桑種のこと、蚕種のこと等をそれぞれ布告を発し、行政庁の方針を明示している。

 県では福島県に蚕種の斡旋方を依頼し、先進地の蚕種を購入し管内斯業の普及発達に尽すところがあった。

 当地方において伊達桑の樹種の名称の残存するのも、先進地福島県伊達地方の養蚕業並びに改良樹種の一段勝れていたことを明示するものであり、これに対して地元山桑と唱えることもすでに維新当初においても慣用した通語であった。