第二章 近代盛岡藩の勧業

第一節 勧業諸策

 明治維新となり、明治二年(1869年)五月三日、松代藩による盛岡県が開庁され、わずか五ヵ月間で終り、盛岡藩は同年十月十日、藩庁事務を開始したが、その管内は前年兵乱の御用金下命や、人馬の徴用などで痛めつけられていたところへ、同年秋は稀有の凶作で、平年作の八割減という有様であり、米価は沸騰したのであった。さらに解放した士族卒職人の授産問題をかかえていた。従って藩の勧業政策は、農業を平常化すること、解職した旧家臣に職業を授け補導すること、拓殖移民の事業を起すこと等であった。駒木・籬野・山後谷地の開拓事業はかくして開始されることになる。明治二年の大凶作により、翌三年の春は種籾の不足を来すの現状であったが、これが田植えの時期に至り苗の不足を来すに至ったので、藩では不足の土地へ補給する指令を出したほどであった。

 此度苗三千御用に付き、村々へ申し付けられ候条用意致し置き、賦方の者立ち遣され候て不都合之なき様上納取り斗申すべく、尤も相当の御手当下し置かれ候事。
  (明治三年=1870年)五月十二日
                  上田民事出張所
                  厨川通村々村長共
一、苗三千把ノ内七百弐把  下厨川村
  〃 三百七十五把    上厨川村
  〃 三百八十九把    大釜村
  〃 弐首九十把     篠木村
  〃 弐百拾九把     大沢村
  〃 四百九把      土渕村
  〃 三百五拾把     鵜飼村
  〃 弐百六拾六把    滝沢村
   五月十三日

 勧業方面における施設は、政府の指示に基づいて着々実践に移しつゝあったが、養蚕の保護奨励もその一つであった。

此度厚キ思召ヲ以テ養蚕御世詰成シ下サル見込コレアル向へ蚕種御貸付ケ御布告ニ付、田町元質屋ニテ養蚕仕立居リ候。極窮差至リ候様ノ者ハ勿論、其外誰ニテモ桑取リ致サセ、時相場ヲ以テ買取り、今日ノ凌ギニ相成り候様致サセ申シ度ク候間、桑取り見込コレアル者共、御精致シ相働キ養蚕所へ差シ出シ、相応ノ値段ニテ取申スべキ事。
 五月(三年)
                     上田民事出張所
                     大釜村
                     篠木村
                     大沢村
                     鵜飼村
                     滝沢村
                     一本木村
                     上六ヶ村へ

第二節 産馬関係

 明治三年(1870年)二月、藩では布告を発し、伯楽(獣医)や馬喰(ばくろう)(牛馬商人)が所持している職札を納めさせ、新しく書き替えて渡すことにした。旧鑑札を新しい鑑札に換えたことは、その職業を公認したことになる。同三月には、従来慣用してきた馬肝入の称を廃し、厩長と改称している。町検断を市長と改称し、村肝入を村長と改称しているから、改められたらしい。その後また馬肝入に復した。

 同年五月、馬政に関し、藩の少属久慈円兵政知(南部馬飼育掛りを家業とする名門で藩営牧場の管理を委ねられていた)から、民部省に建白があった。その趣旨は、旧南部落領の産馬は、天下に名声を博し、軍馬補充源であったこと、その産馬奨励の施策としては、藩営牧場が七ヵ所もあり種々の慣行が実施されていたが、一朝にして所管地が変り、産馬の上に重大な支障を来していること、ついては旧藩の産馬事務は、古来から経験のある旧南部藩の者を使用ありたきこと等であった。

 同三年五月晦日には、馬市について六ヵ条の布告を出しており、同六月には、出生馬の夏改めを布告し、一村宛調査することを明示している。またこの月、旧藩時代調馬役であった下斗米一郎・似鳥泰助の二人から、このまゝ推移するなら、南部馬の産出が絶えるであろうから、産馬制度を新政府で採用するよう執達を願いたいとの嘆願が藩に提出されている。「黙シテ日ヲ送ラバ、良馬将ニ尽ントス」「迅速、其筋エ御執達歎願奉り候」と極言している。この二人もまた藩の調査師として馬術に精通であると共に、産馬に多大の関心を持っていた証である。

 同三年七月には、農家において使用する駄馬に限り、職業鑑札がなくとも、馬市で売買することを許可すると布告した。馬匹売買上の緩和特例であろう。また同七月、上田管内の馬市(二歳駒ゼリ)の日取りを布命し、従来の例によって盛岡の馬町で行うことを布告している。

例年ノ通、駄駒並ニ出生夏改メサセ、牛馬肝入壱人へ尺立馬喰両人差添へ来ル十五日ヨリ相廻シ候条、此旨相心得、一村限り日割ノ通り銘々馬相違コレナキ様寄セ置キ、御改メ申スべク、若シ等閑ニ相心得不都合ノ取リハカリコレアリ候ハヾ、御吟味ノ上急度御沙汰ニ及バルべク候条、此旨馬主共へ洩ザル様申達スべキナリ。
  六月七日              上田部民事出張所
             厨川通村々村長共
   覚
一、八月朔日 元上田通 同飯岡通 同厨川通
一、八月三日 同見前通 同中野通
一、八月三日 同雫石通
 上ハ当駒二歳糶八月朔日ヨリ御始メ成サレ候条、此旨相心得、従前ノ御掛リ合イヲ以テ日取ノ通リ、朝五ツ時(八時)前馬持ノ者共召シ連レ、馬町弥作前へ相詰メ、馬取揃置キ滞ナク御改メヲエ候様取リハカリ申スべキナリ。
   七月二十日             上田部民事出張所
牛馬売買渡世ノ者今ヨリ無鑑札ニテ渡世ノ儀、決テ相成ラザル旨先達朝廷ヨリ仰セ出サレ候処、御百姓其外トモ銘々遣シ馬等売買モ窮屈ニ心得居リ候哉ニ相聞得、就テハ在々雑駒御場并ニ馬町日市場江派遣馬売買ノ儀ハ苦シカラズ候事。
 七月
上ノ通リ御達シ候条、村々洩ザル様通達申スべキナリ。
 七月晦日              上田部民事出張所
             厨川通村々村長共