第九章 観光

第一節 観光資源と活用

 本村の観光資源は自然景観そのものである。本村の北西に岩手山が聳え、錐状火山として名高い。広大な山麓の景観は、外観を単純に見せているが、山岳全体は単純でなく、火山地形の変化に富んでいる。西岩手外輪山火口原に二つの湖、すなわち火口湖と火口原湖を持ち、その外輪山東端部で、山頂火口内に御室火口を有する二重火山の東岩手山と結合している。従って、この火山は本邦では珍しい重複火山地形を示している。

 岩手山の噴火成生は、西岩手と東岩手とはその時を異にしており、植物景観も複雑な様相を呈している。東岩手山北東腹に特別天然記念物である虎形と称する焼走り溶岩流が火山地形の妙を見せ、合せて植生の美は忘れられない。

 岩手山西南には秀峯として名高い駒ガ岳をはじめとして、烏帽子岳、それに高燥湿原の千沼ガ原が位置し、さらに、清流で有名な葛根田川の上流には、千畳敷と称せられている天然記念物玄武洞がある。

 また、岩手山西南の山腹海抜八百m付近に網張温泉がある。これは国民休暇村に指定され脚光を浴びている。網張温泉の歴史は古く、和銅年間にはじまるといわれるが、それはともかくとして、以前から帝(たい)釈温泉の名で親しまれ、近くの農民の湯治温泉であった。泉質は単純酸性硫化水素泉及び明礬緑礬泉で、泉温は六十四度C~七十九度C、水素イオン三・〇であるが、湧出量は多いとはいえない。

 その網張温泉の東南麓に、全国的に名高い小岩井農場がある。この農場は明治二十四年創設、海抜二百m~六百mの火山灰土の高原に二千六百haにわたって展開する農林省指定民間農場第一号の指定をうけ、わが国最大の規模を持つ農場である。かつては名馬シャンモア号を生んだが、今日では雄牛・乳牛・緬羊・七面鳥を飼育し、乳製品の製造も盛んである。牧歌的農場としてその名は高い。

 最近、南八幡平と岩手山を結ぶ各種の観光施設が着々実施され、さらに、全国的大観光地として計画が進められている。

 なお、全国的に有名なのは、つなぎ温泉である。泉質は単純硫化水素泉で、皮膚病に効果があるらしい。盛岡からバスで四十分(大釜バス停留所から二十分)という位置にあるだけでなく、口碑伝説に富み、山狭静寂を漂わす温泉郷として訪れる客も多い。この温泉はその昔康平年間に源頼義と義家が安倍貞任・宗任を攻めたときに発見され、義家がかたわらの石に馬をつないで入浴したから、つなぎ温泉の名がつけられたといわれる。この温泉の背後には鶯宿温泉、ゴルフ場を控え、近くには、前述した小岩井農場があり、少しの距離はあるが、網張国民休暇村もあるので、これらを系統的に整備して観光ルートを計画しつつあるし、近く御所ダムの完成によって一層花を添えることになる。

 特に、本村の岩手山麓は、集約牧野、草地開発の外に、山麓の景観美を盛岡市のみならず全国的な保養地として紹介すべく、小岩井有料道路が滝沢村を経由するよう柳村兼見村長が強く働きかけ、去る四十四年着手し、全長十八粁の内三・三粁姥屋敷地区を通ることになり、岩手山のたゞ一つの前山である鞍掛山の南側に接し、網張にぬけることとなって四十六年完成をした。このことによって、姥屋敷地区の住民はもちろんのこと、鞍掛山、相の沢牧野、県の肉牛生産公社牧野等自然美を紹介することになった。そのため、相の沢に昭和四十六年の秋園地を造成した。この施設は百八十五台を収容する駐車場に便所は県で、遊歩道、ベンチ、休憩舎兼売店等は村で整備をした。

 現在の岩手山の観光的利用については、表登山口の柳沢の近くに湧口がある。この湧水源から一日約一万六千tの湧水があり、これを自衛隊が利用し、また、この付近をキャンプ場として解放している。柳沢までは、夏期間盛岡。バスセンターから登山バスが運行され、昭和三十九年に柳沢から馬返しまで三千五百mの区間を、自衛隊の部外工事によって幅員五・五mに拡幅され、ドライブウェーに仕上げた。この柳沢に昭和四十五年より岩手温泉が開発され、その付近一帯は、家族向きのハイキング・キャンプ場として好適である。

 なお、観光資源として、四十四田ダム人工湖がある。これは北上川洪水調節計画五大ダムの一つとして建設されており、昭和三十五年に実地調査、同三十七年に着工、同四十二年に完成している。このダムは直線重力式コンクリートアースダムで、総工費五十四億総貯水量四万七千一百立法キロメートル、計画高水量一千三百五十立法メートル/secを七百立法メートル/secに調節し合せて最大出力一万五千百kwの県営発電が行われている。このダムの人工湖は盛岡市の中央部より三km余りの位置にあるので、交通の便はよく、家族向き、子供向きのハイキングや憩いの場所となりうるであろう。なお、このダムの近く、滝沢駅前に北上川流域の特定地域総合開発事業の一環として、岩洞ダムから導いている潅漑用水の南北分水口も付近の自然と合せて観光コースの一部になりうる。

 また、観光資源として珍しいのはチャグチャグ馬コの行事である。これは本村の鵜飼にある駒形神社の祭典で、旧暦端午の節句であったが、現在では六月十五日に実施している。この行事は遠く慶長のころからはじまる由緒のあるもので、無病息災、五穀豊穣を祈願している。今日の行事は駒形神社より盛岡市八幡宮まで、五十~六十頭の馬に装飾具をつけ鈴を鳴らしながら行列し、八幡宮に祈願するのである。この行列は他に類例がなく壮観を呈するのである。現在では全国的にその名が知られるようになり、みちのくの風物詩として人気を集めている。

第二節 観光客の動向

 最近、生活の安定、労働条件の改善向上、婦人層の社会的進出、交通機関の発達により観光客は全国的に急増している。

 本村の場合八幡平・十和田に岩手山一帯を加えて、自然博物館的観光公園の積極的開発が必要であろう。

 一体、現在の観光動向はどうであろうか。

 岩手県下の観光地への観光客数はやはり三陸海岸が最高で、次は花巻温泉、平泉という順序で、四番目がつなぎ温泉である。つなぎ温泉への観光客数は昭和三十六年度三十五万余(県内二十五万、県外十万)、同三十八年度は五十三万余(県内三十五万、県外十八万)に上昇、小岩井農場へは同三十六年度に十四万(県内九万、県外五万)、同三十八年度は十七万(県内八万、県外九万)、八幡平へは同三十六年度二十八万(県内十八万、県外十万)から同三十八年度には六十五万(県内二十五万、県外四十万)といずれも増加はしているが、特に八幡平は全国的観光地としての地位を占めるようになってきている。そのうち岩手山には昭和三十六年度二万四千で、県内から一万六千、県外から八千余が登山しており、同三十八年度には五万七千に増加し、県内から二万三千、県外から三万四千が登山している。これも県外の登山客が多い。岩手山・八幡平は観光資源内容からしても充分に全国的観光として意義があるが故に、徐々にではあるが県外からの観光客がふえている。県内の小観光圏としての形成も大切であるが、全国的にみて、特異な自然景観を有する岩手山・八幡平は、広域的観光圏形成を目指して行くことが重要である。

 このように県外からの観光客が増加しているが、これが岩手県の傾向であるということには躊躇したくなる。因みに全県下観光客数の内訳をみると、昭和三十六年度には、県内から二百五十万、県外から百四十一万で、比率にして六三%と三六%である。昭和三十八年度の実数は甚しく増加していて、県内から三百五十万、県外から百九十七万である。しかし、前回との比率は殆ど変化していない。

 さて、一般的に観光地の実態を分析すると、ある目的のために観光地に滞留する場合と、その途中に立寄る場合とがある。前者を「滞留性観光地」と仮称すれば、後者は「通過性観光地」といえる。本村の観光資源からいえば、設備の点を充実すれば、充分に滞留性観光地となりうるであろう。

 観光に真の目的が二つあると思う。その一つは心身労働の再生産のためであり、他は風土の比較から地理観の養成並びに地域的特性把握の教育的意義である。そしてこの二つの柱が基盤となって観光産業を起立し、それが地域産業の振興を荷担することとなるのである。

 本村の場合、岩手山とその周辺は余り類例をみない典型的な火山地形の自然景観であり、特異な植物景観は理科観察教育上自然博物館的である。さらに盛岡市という都市の近傍にありながら俗化していない上に、交通が比較的便利であるから「思考の場」となりうる。なお一方保健保養のためには温泉があり、スポーツではスキー・登山に好適である。

 しかし、そのような条件を生かすには、観光施設を如何に配置するかということが重大な課題になる。この際大切なことは、観光だけのことを考えるのではなく、他産業と総合化しなければならないことである。例えば、岩手山麓の観光開発には道路整備が必要であるが、この観光道路が同時に集約酪農振興のためになり、観光施設が隣接盛岡市の都市整備のためであらねばならない。都市と農村とが共存し、相互依存関係を深めるように計画すべきである。このように各産業、各事業の資本の総合化、設備の総合化、効果とタイミング、地域の総合化を考えることが開発の基本原理である。

 以上は『滝沢村の実態とその基本的開発構想』によった。

 しかし、自然を開発することと、自然を擁護することとは、全く相反することであって、今後、自然を擁護しながら開発をしていくことが為政者の課題となるであろう。

第三節 観光協会

 昭和四十三年六月十二日滝沢村役場において、行政側及び観光に関係深い代表が発起人となり、村内の旅館経営者並びに酒・煙草の販売業者を会員として(二十五名)発足を見た。

第四節 温泉

一 湯舟択旧温泉

 場舟沢は寛文年間まで温泉であり、繋温泉のごとく猫石が沢の入口にある。重信・行信の入浴はいうまでもなく、宿泊もしていた。

旧文書→

 猫石を中心として六~七戸の部落をなしているが、その部落より山手の沢を辿り奥に入れば、ここは昔湯湧出のカ所だという。明治初年ころ掘り返したところ水の湧出をみ、湯槽の片板が出たと大坊直治氏はいう。

二 新盛岡温泉

 西山の網張元湯より松材木管をもって五里半の道程を紫土堤に誘導し、金五万円の会社を大正三年六月に組織し、社長に三田俊次郎氏をおし、一万一千余円の工事費を投じ、大正五年八月竣工し、盛大に開場式をあげたのであった。この温泉誘致は、篠木小学校々長第四代松尾吉哉氏が大正三年二月に発行した滝沢村振興講話にはじまっている。これに共鳴したのは大沢の沢村亀之助氏であった。彼は全国の温泉や旅館を視察し、盛岡の財界人と協議し、前記の会社をつくったのである。彼が記した文章から、当時いかに盛況であったかがうかがい知ることが出来る。「鵜飼小字細谷地にあり。地域拾万坪。道路を井字形に区画して旅館七戸、雑貨商其他四十三、軒を連ね、あたかも一の小市街をなす。而して内湯は七か所、滝の湯二か所、外湯三か所にして温度四十八度位、盛岡より僅か一里半、自動車・馬車・人力車等の便も備わり、電話・電灯も設備されて一も間然するところなし。その効能においては諸医の賞する処、皮膚病・神経痛・貧血症・婦人病等万病に奇験あり。……」とある。

 ところが大正六年秋、木管破裂し、湯がストップしてしまった。このときすでに資本金の全部を使用し尽していたので施すに術なく、元湯の権利を雫石の酒造家大久保千代松氏へ売渡し、温泉地は、当時の盛岡銀行頭取金田一国士氏の所有となり、見るかげもなく潰滅をしたのであった。

三 昭和に出来た温泉

 昭和四十年以降に、沼袋に栃内医院の保養地、湯舟沢にマウンテンハウス(西山の綱張より引湯)、一本木に啄木荘、柳沢に白合百荘と四ヵ所出現している。