第十二章 物価の動向

第一節 近代諸物価の動向

 明治三十一年(1898年)から同四十四年までの農産物とその他の主なる産物の物価であるが、米は一石十円から十八円近くになっているが、十四・五円が普通であった。麦・大豆は米価の半値である。食塩は三円前後で、米一升に対して塩三升というようになり、藩政時代米の量と同値であったのは遠い昔語りとなり、明治三十八年専売制度へ移行したのである。清酒は明治三十一年から見ると、同四十四年には二倍になっている。米価からみて当然であろう。林産物中、松板・杉板も五割方の値上がりであるのに対し、薪は三倍になっている。木炭は明治四十年まで余り変化がなく、四十一年から高くなっている。

 大正期の諸物価は、明治後期に比較すると、極めて高騰した時代であった。すなわち、米価は大正二年(1913年)米一石は二十円を超している。これは明治時代に例のない高価であった。この年凶作であったことにも起因するであろう。その後少し下落したが、大正六年秋にはまた米一石が二十円以上となり、同八年から九年にかけて一石五十円以上となって最高を示している。その後四十円以下に下がったが、同十三年、十四年にはまた五十円近くまでに上がっている。

 清酒もまた大正八年ごろから騰貴して百円以上となり、同十三年からは百三十円を下がらなかった。このような物価騰貴の要因は、大正期になって日本の海外輸出が好転増大して国内の景気をよくし、物価を吊り上げたものであった。このことは労働賃銀を吊り上げ、俸給をも吊り上げ、嗜好品である酒も上げるに至ったのである。一旦上がった俸給は低下さすことが困難であり、酒類の価額も下がらないのはそのためであった。

 昭和に入っての諸物価は特殊のもの以外は下落をみせている。ことに農産物・林産物・水産物のような原産物は低落している。これは昭和四年ごろから経済不況がつゞき同五年七年に至って益々甚しくなっているので、商品の取引が不活発となり、農山漁村とも購買力は低下した。米価は昭和元年一石四十円であったが、同六年には一石二十円という二分の一に下落している。課税も肥料代も低下しないのに、換金にする農産物は従前の半額であるのは半作と同じことであった。しかも酒類は一向に下落していない。大正の後期消費経済調整の上から俸給生活者が増俸されたが、経済不況で諸物価は低落しても、消費は大きく変化がなかったから、煙草・酒とも値下がりを示さぬものであろう。

 昭和九年、岩手県の米作は大凶作であり、同十年も凶作であった。それを反映した同九年から米・麦・豆とも価額が上がっている。昭和十一年ごろを境として諸物価が騰貴するので、それを押える措置として統制経済が実現されることになる。

 石油は年ごとに下落する傾向を示している。石油資源の多くは輸入品であったが、日本の海運力が大きく伸展して容易に輸入が出来たからであった。少なくとも昭和十一年までは順調であった。

 薪は土地産であるので、昭和四年から経済不況を反映して低落している。

 木炭もまた同様であった。

第二節 米価の変遷

一 明治以前=盛岡城下二百七十年間に於ける米価相場

明治以前=盛岡城下二百七十年間に於ける米価相場→

二 明治以降

 明治六・七年ごろ、盛岡で上米一石の相場は四円五十銭程度で、未だ五円未満であった。盛岡の『鍵屋日記』によると、明治十年一月八日の条に白米一升に付き三銭二厘、上々白餅四銭三厘、精粟三銭とある。しかるに明治十年は不作・洪水があり、同十一年も不作・大風・洪水があり、二年連続の不作によって米価が騰貴し、交通途絶などによって輸送が効かず、物価を吊り上げている。米穀の輸送には人の肩と背に負うか、牛馬による駄送か、冬季なら橇で搬出するかより方法がなかったころであるから、不作・洪水等によって物価は各地まちまちであったろう。明治十二年、盛岡で米一石の値段は十一円となっている。これは不作によることと、交通支障がもたらした異常相場であったのが、翌十三年から徐々に低下している。

 明治二十一年以降、同三十年ごろまでの諸物価の動きをみると、同二十一年あたりに漸く安定したかの様相を見せている。同二十年は盛岡で精米一石の相場は四円三十銭であったのが、同二十二年には五円三十二銭となっている。明治二十年の相場を指数一〇〇とすると、その後累年上昇して、同二十九年には八円五十三銭となり指数一六〇となっている。大麦・小麦・大豆など、いずれも米に準じて上昇している。明治二十四年には、鉄道東北本線が青森まで貫通したので、その沿線の米穀相場は大きな差をみせなくなったことが考えられる。換言すれば、明治二十四年以降の盛岡の米相場は、東北本線の沿線並の米価であろうということである。白米一石は七円前後、一升七銭から八銭程度で、十銭未満というところであろう。米の収穫は明治二十七年まで順調に伸びている。酒の相場は米の相場の倍以上の値段が普通のようである。食塩の相場は同二十二年を一〇〇とすると、同二十五年以降は著しく低下している。これは東北本線による移入塩のあったことを示すものであろう。

  盛岡を中心とした諸物価表は次のごとくである。

       明治廿二年   明治廿五年   明治廿九年
米  石    五円三二    六円二四    八円五三
大麦 〃    二〃一二    一〃八五    三〃三五
小麦 〃    三〃三八    三〃〇二    五〃九五
大豆 〃    三〃六二    三〃四三    五〃五三
清酒 〃   一二〃五一   一二〃六六   一五〃七九
食塩 〃    三〃四〇    二〃一七    三〃二五
茶 百斤   三六〃九一   四二〃三〇   三〇〃〇〇

 本県の主要産業の生産額は農業生産が第一であり、その筆頭は米穀であること、かつては明治前期までの県財政は、未だ石盛制で米穀本位であったことに因るのである。たとえば米一石十円であった場合の五十万円の計理と、米一石五十円のとき制定した五十万円の計理では、同じ金額を表示している数字ながら、内容の上では五と一の価値となっている。

 明治末期から大正五年ごろまで、米一升の平均相場は凶作の場合を除いて十二銭前後である。それが大正三年から同七年に終了した欧州大戦によって、日本の経済界は好景気となり、各種産業は好況を呈した。その反面諸物価は高騰して、鉱山労働者は労賃値上げの争議を起し、出兵騒ぎさえ発生、米価も白米一升は五十銭を越すに至っている。それに対応して、諸給料も増俸され、諸事業も増額された。それでも岩手県の財政は、昭和六年あたりまでは六百万円台であり、国費による県経費も二百万円台であった。

 昭和六年は不作であったことと、県財政は不如意であるため、歳入に百四十余万円の県債を起しており、同八年は本県東海岸は地震によって大津浪に襲われ、翌九年は稀有の大凶作に遭遇するという岩手県にとって最悪事態の頻発となり、同十年もまた凶作という悲運の連続で、非常事態がつゞいた。それにもかかわらず相次いで昭和十二年には支那大陸に出兵ということになり、県財政は激流奔流に桿す小舟のごとくであり、まさに異常期の県財政の姿態を呈するに至っている。従って、明治末期の県財政と、昭和八年あたりから以降のそれとでは、物価も変り、賃銀も変り、産業構造も変り、経済が変質しているので、その解明が至難である。

大正・昭和前期の県内米産と生産額→

米価と物価その他の対照表→

天明以来の米価表(一俵の価格)(1)→  (2)→  (3)→