第十三章 労働賃金

第一節 藩政時代

 『岩手を作る人々』中巻に次のようにある。

 奉公人は身売から質奉公、それから居消質奉公へ、更に年季奉公と変るに従って、契約期間は縮まり給料は高くなっていった。その高くなり方は、県南地方では宝暦三年(1753年)に二・六両のものが寛政の初(1789年)頃には三倍半になり藩政の末(1860年)頃には六倍位十五両位になっている。

 ところが米価の方は一歩に四斗五升七合の米が寛政ごろでも四斗六升位で、藩政末期でも二斗五升で倍に上がっている程度である。だから奉行人を使う経営は次第に困難になり、手作するよりは寧ろ小作に出した方が有利だというので、大規模の手作をしている地主は手作り地を縮めて小作に出す風があった。

 然しこれは藩政も終りころになって、封建社会が著しく変ったころの事で、藩政の中頃(1700年)には農民の労働力が耕地と大体均衡のとれたころに新田開発が行われ労働の需要が増加したのに、凶作だ飢饉だと連統して人口が減っていったから、労賃は物価に先行して高くなっていったのである。

 然し労賃や、物価が高くなっていったのは封建経済が発展し、景気がよくなったからではなくて、労働力が少なくなり、物が凶作や飢饉のために少なくなったから高くなったのである。閉ざされた社会においては景気の変動は貨幣の側から起るよりは、生産力の増減によって起る場合が多かった。封建社会に於ては農業が大部分であるから、景気の変動は農業生産物の出来不出来に左右されたのである。

第二節 明治以降

 明治十二年の村方の労働賃金を見ると、養蚕に雇用される男性は十五銭、女性は十二銭とある。もちろん養蚕家が繁忙の際の十二日前後臨時雇が多かったと想像されるが、白米一升十一銭か十二銭であることに対比して、一日の労賃は白米一升以下でないことが判明する。しかし、その労務者に食事を給したか否か明瞭でない。ところが専門職になると、材木を角材にする杣職は一日二十銭、木挽職は一日二十三銭、茅屋根職は二十七銭であった。白米二升から二升五合にあたる賃金である。農作に雇われる男性の年間賃金は二十円八十八銭で、つまり白米二石程度、女性の場合は十二円六十八銭であるから、男一〇〇%に対して女七〇%位であろうか。

 しかるに明治十七年になると、村方の労賃は低落し、同十八年、同十九年と低落をつゞけている。労賃は、労務者を雇用する職場が多くなり、労務者の少ないときは高騰し、世の中は不況で労務者を雇用する雇主が少ないと労賃が下落するのは常道である。また諸物価は明治十五年よりすでに下落の傾向にあったが、労賃の低下は諸物価の低落期より時期的に少し後れている点が注意される。

 市街職人の労賃についてみると、大工職は明治十五年より下落し、その他の職人も大方同年代より下落に向っている。市街といっても農業県のことであるから、農産物の下落は、労働賃金の下落を来たす誘因となり、二者平行して不況であったことが判明する。市街とは都市のことであるが、その都市は農産物の集散地であり、農村の市場でもあったから、農産物の相場下落は、労賃下落を併発し、農村の不況は経済界の不況となっていることを示している。

 農産物の価額下落、殊に米穀相場の低下は、種々の原因はあろうが、次のことも理由の一つに算えられよう。明治六・七年までは、年貢制度がつゞいており、同九・十年ごろから地租税金納入が確立し、この変革によって、農産物たる米穀は官の統制外におかれ、自由販売に任ねられる結果となった。税金はいかなる種類のものでも、すべて金銭納入になったので、農民は換金手段として米穀を商人に売りつけるに至った。従って米穀は商人の土蔵にあふれ、市価は低落することになった。それに加えて交通が不便で、米穀輸送は従来の牛馬によるか北上川の川舟で下流に運ぶか、それより外なかったのである。明治二十三・四年以降なら鉄道東北本線も開通するが、それまでは未開通である。あるところには需要以上に集中するので米価を低落させることとなり、米穀生産が年々増加の傾向をたどっているのに米価が低迷しているのはそのためであろう。

 明治二十三年の郡村職人及雇人の賃銭農作男年十七円十四銭二厘、同女年九円八十三銭二厘、養蚕男日十四銭九厘、同女日十銭七厘、製茶人日十七銭八厘、杣職日十八銭八厘、木挽職日十九銭一厘、茅屋根職人十六銭八厘、酒造日三円九十一銭五厘となっている。また市街職人及雇人の賃銭大工日二十四銭三厘、左官日二十五銭四厘、石工日二十五銭四厘、瓦屋根職日二十六銭五厘、板屋根職日二十一銭九厘、畳刺日二十四銭、鍜治日二十二銭五厘、塗物職日十八銭、僕日一円六十六銭三厘、婢月九十二銭九厘となっている。

 昭和十二年以降、県財政は、県費国費とも異常に延び、同十六年の十二月には日本は、米英等諸大国と開戦するに至ったが、すでにあらゆる物は統制され、経済統治下に入っていた。県経済部の中にも昭和十五年二月一日経済統制課が設置されたのも、その異常性を象徴しているといえよう。物資はそうであるごとく、労働賃金にも統制が加えられ、県警察部の中に労務行政を扱う労政課が昭和十五年七月六日に開設されるようになった。従って下記の労賃は、すでに規制された範囲内のものであろう。農作の日雇は、一円三十銭から一円五十銭程度であり、技術職の大工左官のような職人は、およそ倍額である。このような比率は、旧藩時代から戦前までの姿であった。米価は一升四十五・六銭であった。

 昭和十六年岩手県の賃金調は下記の通りである。

 農作年雇男二円六十二銭女一円四十二銭、農作日雇男一円四十九銭女一円二十四銭、植木職二円七十二銭、養蚕日雇男一円六十三銭女一円六十九銭、瓦製造工二円四十六銭、機械鍜治工二円六十五銭、鋳物工二円二十五銭、製糸女工一円一銭、製材工二円二十一銭、畳工二円二十五銭、精米及製粉工一円八十五銭、菓子製造工一円八十八銭、清酒醸造工二円五銭、醤油醸造工一円八十二銭、洋服仕上工二円二十五銭、靴工二円二十四銭、建築大工二円四十三銭、杣夫二円五十六銭、左官二円六十五銭煉瓦積工二円八十八銭、石工三円十三銭、土工二円二十六銭、ペンキ職二円五十八銭、屋根葺二円四十一銭、日雇人夫男一円六十九銭女一円十四銭、下男年給二円五十三銭下女年給一円五十五銭。