第三章 屋敷

屋敷構

 新しく家を設定する場合の苦心の第一は水で、日当り防風等はその次である。水は日常生活に欠くことが出来ないから、用水に対する信仰儀礼があるのは当然である。元旦の若水汲みが各家で行われ、主人または若者が年男になって締め縄をつけた桶に水を汲み、その水で雑煮を炊いたのであった。

 古い集落は平地と山地の接触地帯に多い。ここには湧水があり、前面に農耕適地をひかえ、山を背に防風の備えがあり、山野から木材薪木の採集の便があり、水害を避けて山裾を通る街道にも近いところとなると、平地と山地の接触地帯がえらばれるのが当然であって、これは全国共通の原則である。

 律令制下の敷地内には、畑地と宅地があり、私有権が認められていて、免祖地で自由に永代売買が許されていた。中世の武士屋敷は、一町から二町にも及ぶ広さで、隷属農民があり、年貢の免除があって、一つの小規模な生活単位であった。江戸時代に多くの土豪等の屋敷は除地となっていたが、後代になって百姓身分に下げられると課税されることになった。

 南部藩においては検地の場合、屋敷地に関して規制が加えられていたことが『郷村古実見聞記』にみえている。これによれば、元文二年(1737年)の検地に際し、従来は十石以上を耕作するものには五畝乃至三畝の屋敷を認容していたが、以後は畑形の場合は三畝までを認め、田形の場合は五畝までとし、その他は検地高に編入すること、五石以上の農家に対しては、別途に勘案して屋敷地を認めること、名子百姓に対しては原則として屋敷を遣わさぬが、地頭の高に応じて家代ばかりは認めることもあると規制している。

 宅地を旧南部藩においても屋敷といったことは、文化三年(1806年)に脱稿した『旧蹟遺聞』に「土人はおほく尊卑にかかわらず家地をば屋敷といへり」とみえている。屋敷とは屋敷構えの意味で、家屋を構える一区城の土地のことである。明治初年の地租改正で宅地と改称されるようになった。宅地租は一般に田畑税より高いので、従来の屋敷の一部を宅地とし、他は畑等の耕作地として残しておくようになった。現在も小屋敷は四反歩位の正方形を垣根で屋敷内を区別している。

 本村の屋敷名は屋号と小字名にみえている。すなわち、大釜には荒屋敷・小屋敷、大沢には篭屋敷・古屋敷・下屋敷、鵜飼には姥屋敷、滝沢には祢宜屋敷・中屋敷・松屋敷とがある。何々屋敷といわれる家を訪ねてみても、二・三回の火災にあって記録がなく、言い伝えも不明瞭であるが、祢宜屋敷や中屋敷・下屋敷のように成立事情や立地・地形等によって屋敷名が出来た旧家であるといえよう。

第四章 滝沢村の主なる氏の系図

 氏の調査にあたっては、二・三の同族の人のみのきき込みであるから正確さを欠いている。

 記録していない家の人々に接すると大体三・四代位前までしか記憶されていないのが常であった。

 同族同志の婚姻、養子縁組等錯綜していて困難な氏もあった。

 いずれこれをもとに正確な系図作製を顧う次第である。

 なお、点線は顧われ分家である。

第五章 本家と分家

 現行法で分家ということは、単に戸籍を分けることで、財産分与ということは考えられない。しかし、農村においては、部落内に分家させ、耕地・宅地・家屋を本家が分与する慣習となっていた。

 分家することを「カマド」を分けるといい、分家をカマドといっている。カマドを多くもつことは、本家として農事経営にも役立つし、繁栄の象徴でもあった。そうはいうものの、無制限に分家ができるというのではなかった。耕地の細分化をおそれる領主は、分家を制したことは各藩共通である。南部藩においても正徳五年(1715年)に分家制限令を出し、「高の目」(既耕地)に屋敷どりすることを禁じ、「明屋敷」あるいは野際(のぎわ)・御山裾道への分家は許可している(第四編、第二章第十四節一の「藩政時代の民家建築規制」参照)。さらに、文政四年(1821年)四月には、この藩令に違反した分家屋敷の移転、とりこわしが行われ、また、安永五年(1776年)にも厳重な制限令が出ている。

 また、藩政時代は二十石を単位とする五人組制度の重圧下において、分家するということは許されなかった。従って、五組・六組の夫婦を抱える大家族が成立した。これは五人組への責任が重く、同じ五人組へ貢租の重荷を負担させて、近隣への迷惑や、負担をかけさせないという美しい心情から、止むを得ず大家族にならざるを得なかったとも考えられる。しかし余りにも惨めであった。

 分家を出すということは、耕地があって独立生計が営み得ることを前提とするが、新しく耕地を造成するということは容易なことではなかった。紫波郡においては、分家慣行として、古くから分家に対して一町歩の耕地を与えることが最高適正面積とされ、母屋・厩・雪隠三棟一カマドとして、分家に与えるのを最低限としていた。本家分家共に働き手以外の人口の殖えることを危惧し、なるべく家族の員数を増加しまいと努力し、堕胎・圧殺・遺棄が行われた。これを間引きと称し、育てることを取り上げとよんだ。

 姉体の歴史に、当時は他の藩でも捨子が大流行で、「もしもしこの子が女子(おなご)であれば莚に包み縄にかけ、前の小川へスッポンポン。下から雑魚がつゝくやら、上から烏がつゝくやら」……こんな捨鉢的な非人情極まる流行歌が残っている。とある。

 阿部真氏は本家と分家の関係を『研究紀要』第五集で次のように述べている。

 「本家分家の成立は、封建時代以前の、上代・中世に発生した氏族、一家一門の思想と通じる集団観念である。同族の結合には、血統的血縁的要素が重要性を帯びてはいるけれども、これをもって絶対とすることが出来なかった。非血縁分家を多く含むことすらあった。しかし、血縁関係が同族結合の基本的契機の一つになっていたことには間違いない事実である。親方子方関係が、血縁結合を重視する過程において、近世の同族観念が構成されたのではあるまいか。従って現在の同族集団を、他の集団より区別するには、主として血縁的関係の有無、または濃淡によって決定するものである。

 一般的に結合の状況は、本家を中心として、直接分家や孫分家の結合によって集団を構成している。本家は政治的・経済的・宗教的・社会的な生活の中心になっていて、生活面の諸慣行において、権威的統制をもって諸分家にのぞむと共に、分家はこれに対して、従属的な役割を果すことに立場を求めていた。このことは、広義の主従関係をなしているともいえるものである。同族団はこのような、本家分家間の上下の身分関係の体制であり、それは、本質的には従属関係をもつものであると解釈されている。

 同族団結合の本質の第二は系譜関係である。系譜は家の出目に関係するもので、本源となるものと、それから分岐するものとの関係は、上下の関係に発展して行く。本家は分家に対して本家であるという認識と、本家としての機能を自覚するであろうし、分家はまた分家でそのなすべき生活の具体を認める時にこそ、本家の関係が成立するし、同族としての意識が構成される。つまり、相互認知の上に立って、本家と分家の関係が成立するのでなければならぬ。分家が独立することによって、家父長的な権威をもった家長が、新に本源であるべき家父長より承認されると共に、同族間に新たなる位置を決定してもらうことになる。ここにその位置から来る制約を認めないわけには行かぬ。ここに氏族的であり、且統制的である具体的な姿を見るのである。」

 また、同氏は『研究紀要』第一集農村における社会構造の一例の一節で、次のごとく述べている。

 「本家と分家の関係は、我が国の直系家族制度の長子優先にある。各家庭において、長男を“あに”と呼び、家庭においては大事にされ、社会的にも相続人として認めさせ、同時に訓練も受けさせるのである。次三男以下は区別なく、全部を“おんず”といっている。どこまでも長男優先で、次男以下は長男を乗り越えるわけには行かなかった。次に、家を相続する長男を考慮した上で、耕作地が分与可能の場合は、長女をあげている。この長女を“あね”といい、次女以下をば“びった”と呼び、“びった”を“おんず”以下の扱いをした。この関係がそのまま本家分家の関係になる。中には独立して農耕を営み得る分家もある。しかし、多くの分家は、耕作地だけの労働力では余るので、余剰労働力を本家の農耕に従事させる仕組になっている。中には、若干の土地分与のみの分家もある。どこまでも本家に隷属しているのが分家である。これが、大正には酒と餅を持参して本家を訪問し、小正月と盆には本家の仏壇に礼拝、冠婚葬祭はもちろんのこと、大事な出来事には、かならず本家が立合いでなされる。本家は権威を維持する為に、分家が困窮すれば、相談・物品貸与・証人となる。従って、権利のみを主張せず、義務履行も伴っている。この結びつきが物質的のみならず、子弟の教育・選挙にも及ぼしている。(しかしながら、本家分家間において相互に協力仕合うという温い感情の交流が濃厚で、自ずと柔和で温厚な気風が漲ったものであろう。その反面、同族以外に対しては、反目し叛背にまで進展する恐れがあった)。

 よそから移住した場合は、依頼して、その地域の本家の分家になる家が殆どであった。このことが益々本家の優越性を保持することになり、本家争いに発展をする。

 家を存続させる為に、家長の役目は重大である。家長によって、家庭内の一切の生活が規定されるし、対外的には、一家を代表して処理するのである。襲名することは内的には、家長権の一切を譲与することであり、対外的には、社会生活上の行為は今まで通り継承されることを意味し、また村民はこれを承認することであった。(本村における襲名の続いたのは大沼の甚右工門で明瞭なのが九代である。)

 かくのごとく、幾多の問題を内包した家族制度が、戦中、戦後を通じて変化しながらも、その反面基本的な性格が変動していないように思われる。」

 民主主義が叫ばれてから可成りの年数がたち、昭和に生を受けた村びとが多く活躍し、基本的人権を相互に尊重仕合いながらも、今後協業化が農村の大きな問題になっているとき、本家分家の関係はどうあればよいのであろうか。

 なお、本家と分家の成立機構について、第五編社寺の変遷第二章氏子を参照せられたい。

 三重県志摩郡阿児(ご)町国府(こう)の郷土史研究家鍋島梅太郎氏は、昔から伝わる家族制度を次のように述べている。

 ここは真珠養殖で有名な志摩半島のほゞ中央にあって、人口千六百人、戸数三百三十戸。このうち半分は隠居制度を守っている。その中に明治生れの大隠居、大正の隠居、昭和の本家の三家族が揃っている処が十八もある。このような処は全国でここだけだといわれていて、独特の家族制度を昭和の今日まで引き継ぎ、長生の村、嫁天国と呼ばれている。

 ここ国府で子供が一人前になると親が隠居をし、財産から家の管理まで一切の権利を息子夫婦に渡してあっさり別居をしている。一般に老夫婦と若夫婦が同居すれば新旧思想の相違家計の事等からよくトラブルが発生する。ここではそんな事がおこらず明るく平和であるという。

 この国府で長男が嫁を迎えれば、おそくとも四、五年以内に親は隠居をする。子供は二十四、五歳が最も多く、親は五十五歳の働き盛りであるから、長男以外の残りの子供らを連れて屋敷内の別棟に隠居をし、本家をあけ渡す。この時は秋の収穫後の十二月か一月が普通である。息子夫婦に一年分の米と、僅少の小遣を渡す簡単な儀式のみである。二十代で家を相続するのであるから若者の張りきりが違うという。

 その上、若夫婦と老夫婦の生活は完全な独立採算制である。別会計といっても、若夫婦は表向きの責任を負い、交際・税金・電気代・ガス・水道料金の負担はする。

 本家の子供が成人して結婚をすると、親が隠居をし、前の隠居は大隠居となって別棟に移る。従って農家はどれも同じような構造である。屋敷は平均して二百坪で、本家は三・四十坪、その西南に隠居と大隠居の家が各二十坪位、本家の西北には蔵、東南には納屋と牛舎に便所、東北には井戸。間取りはどの家も似たり寄ったりで、みな槙(まき)の生がきで囲まれている。

 農家の場合、耕地は若夫婦が三分の二、隠居は三分の一の割合で分けあう。隠居の分は耕作しやすい土地、あるいは道路に近い所にあって、昔から「隠居田」として大体決まっている。

 以上は国府の農家の伝統であるが、医者も商店も、多少相違しているが農家と大同小異である。

 このような家族制度を存続させたのは、長男以外の次男以下をば自立出来うるよう幼少の時から配慮し、生地より他郷に移住せしめたことにあるという。

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