第一章 陸上交通

第一節 往古の道路

松並木の街道を旅する人々

 往古は道路がなくわずかに狐狸の跡を追って往来し、次第に道路らしくなったものと思われる。それらの道路は、峠に多く、山の峰伝いに峻険なところを通うたから、必ずしも便利ではなかった。ことに、物資の運搬は、もっぱら人の肩や背による外途がなく、想像以上に困難なものがあったと考えられる。われわれの祖先は、こうした山岳重畳たるところに住んでいたので、他地方の人々との交通のためには少なからぬ苦労をしたにちがいない。これらの先達(せんだち)(案内者)は山伏達であり、本村でも田村麻呂のころから、岩手山を中心に、これら修験者登山道をはじめ、その他の道路が開かれていった。平地や河川に沿った道路が開設されるようになったのは近世以降のことで、今でも山の峰沿いに歩かれるのもこうした往古の交通路の面影であろう。

第二節 陸上交通

一 南部藩以降

1 街道の基点
あ 奥州街道の基点

南部家定紋付乗物

 盛岡の治城は慶長四年(1599年)に一応出来上がり、太主信直は、ここに移り、不来方の名を停止して盛岡と名付けている。同九年には、将軍徳川家康の命で、江戸から奥州街道筋に一里塚が築かれ、盛岡城との間にも一里ごとに里程標が出来上がった。江戸の日本橋から盛岡まで百三十九里と計測されている。

 日本橋から計測した里程標の一里塚は、盛岡市仁王小路西南角にあって、塚(ちょう)上に槻(つき)の木の大木があったという。多分榎(え)の木であろう。地方では榎の木をも槻の木ということがある。それが安永七年(1778年)四月十日の盛岡大火に焼け、枯死したと伝えている。

い 南部領内街道の基点

 南部領内の里程は、盛岡城下鍜治丁の一里塚を元標とし、それを起点として測定されていた。従って、秋田街道もそこが起点で、中の橋・日影門・夕顔瀬を通るのである。

2 奥州街道

江戸時代の街道風景

 徳川幕府は慶長九年の春、大久保長安に命じて、東海道・北陸道・東山道に一里塚の築造を奉行せしめた。この東山道は奥州街道のことである。これは江戸日本橋を起点として、奥州街道を整備させたのは参勤交代のためであった。三十六丁一里の里程標設置がそれである。

 徳川家康は関東にきて、江戸城を治めたのは天正十八年(1590年)である。その後慶長八年には、宿望であった征夷大将軍になって、兵馬の権と、日本の国内行政権をその手に掌握したのである。間もなく将軍職を秀忠にゆずり、一族や譜代の臣を大名にとり立て盤石の基礎を固めた。やがて、大阪城の豊臣氏を亡ぼし、江戸城府を日本の中央治府につくりあげた。よって全国の大名は、一年は江戸に在府し、一年は自領に帰るという体制を強いられ、名実ともその従属を迫られた。南部の参覲交代は十一泊十二日で江戸へつく。若し大暴風雨等で日数がかかると始末書をかかせられた。従って徳川政権下の交通政策は、将軍家の治城のある江戸が中心であり、江戸日本橋が全路線の基点となったのである。

 江戸五街道の一路線である奥州街道も、この日本橋を基点とし、盛岡城下までを百三十九里と計測されている。これは伊達領胆沢郡金が崎を経て、黒沢尻→花巻→郡山の諸駅を辿り、仙北町から北上川の東部に渡り、盛岡→渋民→沼宮内→一戸→福岡→金田一の諸駅を経て、三戸から野辺地を通り、津軽の外が浜に通じていた。

 慶長九年この奥州術道に、里程標としての一里塚が、三十六丁ごとに道の両側に築造され、その塚上には榎の木が植えつけられた。河、沼には渡し舟が整備され、渡渉の場所には架橋がなされ、休憩宿駅の場所には、伝馬や人夫が配置され、大名の立寄る本陣・脇本陣・御仮屋・旅籠屋が出現し、駅家制度(宿駅で人馬の継立を取扱った家)・駅馬制度(幕府・領主の公用に供した馬)が完成されていった。同時に宿駅の地が、地方都市の形態に化し、その地方の商市に化していった。

 この距離標の構築によって、江戸と地方大名の居城との問の里程が決定し、大名の江戸詰に要する旅行の日程が定ってくる。さらにほゞ定った距離、半日行程のところに、宿駅伝馬所が設定されて、旅行者が中食をとったり、宿泊したり、伝馬を受け継いだり、諸荷物を中継したり、集配したりする制度が、次第に整えられることになった。

 盛岡城下と日本橋間は百三十九里、一日十二里では途中十一泊十二日目、一日十里の場合は途中十三泊十四日目で到着できた。徒歩飛脚は九日旅程であり、一日十五六里歩いている。

参覲交代

 寛永十二年(1635年)諸国大名の参覲交代の制が確立し、奥州大名も隔年ごとに江戸登りするに至って、奥州街道は次第に整備された。

旧文書→

 陸羽街道と津軽街道の整備されなかった理由は、北の二万石の八戸藩、北海道の松前藩があとで二万石になったから、松前侯は六年に一度の参覲交代、よって道路は立派でなかった。ところが国際関係で北海道が重要になるにつれ幕府の直轄にされたのである。実際は奥羽の大名が分割して治めることになり、南部は十万石から二十万石に格上げされて北海道の東海岸、室蘭から函館迄警備しなければならなくなる。常備軍一万人という。室蘭に南部氏の陣屋がある。南部は北海道のみならず、岩手県の海岸をも警備しなければならなかった。

 津軽藩はもともと南部の家来であったものが、謀叛して独立した藩であるから、参覲交代には南部領を通過せず、日本海を通り、仙台藩の水沢から江戸へのぼったので、盛岡から北の方の道路は良好とはいえなかった。

 領内諸道には、その外に秋田街道、鹿角街道、三戸鹿角街道、大槌街道と浜街道、宮古街道、八戸街道がある。

3 秋田街道
あ 盛岡築城前

 盛岡築城前の路線は、天昌寺所在地の台地から耳取を経て鬼越坂を経由する鬼越線と、前潟→下村→土渕→四つ屋→谷地道→篠木→篠木坂→外山→丸谷地→沼返の原野を過ぎて、晴山から雫石の丘陵に通じるいわゆる谷地道線が古い通路であった。

 生保内の草剪家にある『甚内申伝覚』によると、前九年の役(1054―62年)に、安倍族討伐のため、金沢の柵を出発して東に駒を進めた源義家が角館・神代を経て生保内に至り、敵を不意討ちしようと生保内の住人小太郎を案内人にたて国見峠を切り開き、繋付近を通り攻め入ったとある。現在残っている地名から推察すれば、おそらく鬼越坂と篠木外山を経由せず、繋から大釜を経て安倍館に攻め入ったものと推察される。従って、後代の頼朝が泰衝を進撃した文治五年(1189年)七月十九日三手の左翼軍北陸出羽経由が、谷地道線か大釜経由か、いずかたの道を通うたのであろう。

い 盛岡築城後

 寛永八年(1631年)幕府の巡見使が雫石地区を廻ったときは未だ新道が出来ていない。二年後の同十年八月幕府の巡見使が、国見峠まで巡視しているから、このときは既に里程標としての一里塚があったものと考えられる。おそらく、秋田街道は寛永八―十年までの間に出来あがったものであろう。すなわち、前潟より、雫石川の北岸に沿い、柳原→大畑→竹鼻→日向→仁佐瀬→尾入野→板橋→生森下→黒沢川→雫石長根と路線が移る。

 徳川幕府はもちろんのこと、芸州・雲州あたりの遠方の大名までが盛岡に馬買い役人を出張させており、御馬買衆とよばれていた。この軍馬購買官が毎年、晩秋にやってきている。おかげで奥州街道すじの宿駅と、伝馬(でんま)制度と街道は立派になっていった。その御馬買役人は、秋田街道をも利用したので、秋田街道は、盛岡以南の奥州街道と同じように整備された。

 秋田街道の大改修の第一回目は、寛永十八年(1641年)のころで、一里塚を造り、つゞいて松の並木を植えつけている。

 承応二年(1653年)の春、煙山七郎兵衛は、盛岡から奥州街道の野辺地駅まで、盛岡から七時雨街道の寺田まで、盛岡から雫石街道の一里塚修理や道路修理、並木松の補植をしている。

 明暦三年(1657年)には工藤右馬之介、町野弥右エ門、奥伊助を奉行に命じて雫石街道に並木を植え、翌四年にも赤前治右衛門が藩命により雫石街道の左右に松を植付けている。万治四年(1661年)九月十一日に雫石街道を道作り奉行奥寺八左エ門に申付けて修理をし、延宝元年(1673年)には並木松の下枝刈りを特定人に許可すると共に、松並木の補植を厳守せしめる遣証文さえ発行している。元禄四年(1691年)幕府の御馬買衆下向停止が布達になっても、秋田街道の手入れは従来通り続けられている。享保八年(1723年)八月にも秋田街道の松並木の補植が行われている。仮りに寛永十年植栽した松樹があったとすると、すでに九十年を経た並木があり、延宝元年の植付にしても五十年樹に成長していたはずである。

 享保九年六月にも重ねて秋田街道の並木植立が指示され、本宿弥兵衛新田の近傍が、大釜村の分担すべき区域であるとして、大釜村の植栽を怠っていると雫石方から非難している。

 厨川代官所の管内大釜村と、雫石代官所の雫石村とは、仁佐瀬の谷を境とし、それより東方は厨川郷の受持丁場であり、それより西部は国見峠まで雫石郷の受持丁場であった。このことは、南部氏の盛岡築城以来藩政の末まで変らない。

 本村と雫石町境の国道四十六号線ぞいに立っている高さ一メートル、幅五メートルの安山岩の石塔がある。

右長山道、左沢内往来

 この石塔は、本県で判明している指導標約十塔の中の一つであるといわれている。田中喜多莫氏は、明和六年(1769年)現在の国道四十六号線の滝沢村境にある仁沢瀬橋と小岩井、繋方面に通じる十字路に、当時の長山村の小林又右衛門という人が七月のお盆を期して立てたものといわれ、一里塚と並んで当時の指導標として貴重な遺史跡であるという。

 この塔は宝暦五年(1755年)の大凶作のとき、雫石十ヵ村の人達が飢えをしのぐため、盛岡城下の非人小屋にはいって食を得ようとしたが、この指導標の立てられたあたりまで来て力尽きて倒れた多数の死者を弔うため立てたもので、秋田往来から右に行くのは長山道、左に折れると沢内往来、真っ直ぐ行くと雫石に至ると指示しており、以後旅人の貴重な道しるべであった。

 大改修の第二回目は、橋場の坂本川べりに通路をつくり、屈折五十余の坂道と、山中湖のわきから、秋田側にぬける近道をつくった。それが明治八年(1857年)のことで、翌九年新道に、仙岩峠という名称がつけられた。

 第三回目は今度のもので、元橋場から新道をつけ、国見温泉のわきを経てゆく舗装路ということになった。十億円を費して改修された一等国道、これが国見峠を突っ走ることになった。昭和三十九年のこの一等国道は、東の国と、西の国を結ばせた年であり、県都、盛岡と秋田が結ばれた年であった。長い間の夢が実現したのである。

う 御馬買衆

 盛岡より秋田県に通じる一級国道四十六号線の基盤は、盛岡築城後の開通と考えられ、おそくも寛永十年(1633年)ごろには、現在の道筋である雫石川北岸沿いの路線に定められたものであろう。御馬買役人・御巡見使の入来することによって、この路線の整備がなされた。

 お馬買衆とは、年々幕府・関東・中部・近畿・中国・山陽・東山地方の大名衆から盛岡に入来する軍馬購買役人のことで、それを御馬買様とも、馬買衆とも当時の記録に書いてある。

 南部領から、馬を買って帰る近世大名は、南部藩の記録によると天正十八年(1590年)の浅野長政以来のことで、南部藩では、自国から他へひき出して売ることをせず、他国から来て馬を買って帰るのが常例であった。文禄(1592―96年)、慶長(1596―1615年)年間にも、幕府や大名に馬が買取られているが『南部史要』の寛永七年(1630年)のところに、「この年秋、幕府馬買役人初めて領内に来たる。これより世々の例となる」とある。このことは、この年から恒例になったとか、制度がとられたとの意味であろう。

 寛永二十一年(1644年)秋の場合、お馬買様が、生保内から峠ごしでくるというので、藩では到着六日前の十月二十四日、盛岡から秋田忠兵衛(五百石)、中嶋万兵衛(百石)の二人を、雫石郷の橋場村に出張させている。国見峠や、同山中、山下での接待準備のためである。臨時のお茶屋を建設したことも考えられよう。

 同じ十月二十四日、藩の重臣一方井刑部(七百石)、大釜彦右衛門(五百石)、戸米又左衛門(八百石)、宮田瀬兵衛(二百石)の四人が、盛岡から雫石町に派遣されている。一方井・大釜の二人は、秋山弥左衛門の宿舎係り、戸米・宮田の二人は、黒沢木工助の宿舎係を分担している。宿舎内外の調度品の整備、飲食などの御馳走、荷物の配送のための伝馬や、人足の調達のためであった。このとき雫石代官は、荒木田五郎作、瀬川助左衛門の二人で、歓送迎の仕事に奔走していた。

 黒沢・秋山の二使は、十月二十四日、横手を出立、角舘(白岩)経由で、生保内にきて、十月二十九日生保内から国見峠を東に越し同月雫石町の宿舎についている。一行の人員は六十人前後でもあろうか。

 十月三十日、黒沢・秋山二使の一行が雫石町の宿舎を立ち、午後申の刻に黒沢氏一行、同酉の刻秋山氏の一行が、盛岡城下の馬苦労町に到着し、城下の町奉行、望月長兵衛(二百石)、三ヶ尻弥兵衛(三百石)の二人が、到着見舞の音物(いんもつ)を持参して、宿舎に挨拶に出向いている。

 盛岡藩では、将軍家御馬買一行のため、歓待に手ぬかりのないように、秋田街道筋の近郷や、国見峠に関係ある武士・地頭を動員して、ここを往来する賓客応待に当らせている。

 諸大名家の、南部産馬買入については、九州を除くと、殆ど全国に購入されている。たとえば、慶安二年(1649年)秋には、井伊掃部頭(近江彦根藩十三頭)、青山大膳助(摂州尼ヵ崎藩二十頭)松平陸奥守(奥州仙台藩三十四頭)、牧野佐渡守(京都所司代二十五頭)、本田能登守(奥州白河藩十七頭)、松平下総守(羽州山形藩三十頭)、佐藤外記(旗本、幕府御小姓八頭)、松平出羽守(雲州松江藩)など将軍家の軍馬購入官入来に伍してきて、南部馬を購入して帰還している。この外、紀州の紀伊中納言家、尾張大納言家、芸州の浅野家なども、南部馬の購入のため、随時家臣を盛岡に派遣している。

 一、御馬買衆御用雪ふみ人足、竝助伝馬、手振之員数伝馬五十疋手振五十雪路人足三百人。御同心二人遣、雫石町に而相改、坂本参る筈。
   上は例年、盛岡五代官より出る。
   天和三年(1683年)四月、沢田一郎左衛門被申越相積「邦内貢賦記」

 幕府の馬買役人が、毎年のように南部領に来ており、盛岡城下から雫石町に往来する事を常とした。雫踏人足は秋田街道筋であろう。五代官は上田、厨川・雫石・向中野・見前の五代官であり、助(すけ)伝馬とは担任郷村でない村からの協力援助のこと、手振とは無道具空身(からみ)で出仕する人足であろう。

 寛永七年(1630年)の秋、幕府の馬買役人初めて領内に入り、下向が停止になった元禄四年(1691年)の六十一年間、秋田街道は精を出して整備されたものと考えられる。

え 御巡見使

 徳川将軍家は、諸国に巡見使派遣を公示したのは、寛永九年十二月一日とされている。南部領への指達もこのときであろう。御巡見使とは、将軍家から、諸国の行政・民情を査察して廻る特使で、将軍家と政府を代行するような威権のあるものである。このときは三代将軍家光の代で、徳川幕府の権力が充実統一されたころであり、六組の巡見使が全国に出されている。関東から出羽・奥州の巡見使としては、分部(わけべ)左京亮・大河内平十郎・松田善右衛門の三使が起用されている。この三使一行は、関東から奥州に入り、伊達領の南方から出羽を越し、漸次北進して津軽にいたり、同年八月南部領に入り、北の方から巡見して盛岡に入来、盛岡から雫石町を経て国見峠の国境線を検閲して帰り、その後郡山・大迫・遠野を巡視して花巻に出で、黒沢尻から伊達領に抜けている。

 寛永十年八月、巡見使は、盛岡から雫石郷を往復、国見峠の藩境を査察して帰っている。このときの歓送準備について、鬼柳蔵人宛の家老文書で推測すると、伝馬の割付は、石高百石あたり三疋とあるので、雫石郷は三千二百石程度であるから、九十六頭は下らぬはずである。馬の口取りも、伝馬と同数のはずである。外に人足も百石あたり三人とあるから、これも百人近い人足が割付になったに相違ない。三使のうち、主席の分部左京亮光信は、近江大溝郷など二万石を領地する幕府直参の顕臣である。一行の人員は不明であるが後年の例から、仮りに分部(わけべ)主席を上下二十人、大河内・松田を十五人宛としても一行の人員が五十人であり、おそらくもっと多かったであろう。

 宝永十年七月、国の巡見使が、雫石郷入りするということで、大量の人足が割りあてられ、出働している。その大要をみると、三月下旬から七月の終りまで、のべ一万七千百七十余人が出て働いている。それを大別すると、宿舎の営繕に五千九百三十二人、道橋の修理に三千三百人、物の運搬に一千九百五十三人、渡し舟の運びかたに六百七十九人、高割りで代官所詰が三千九百六十四人、伝馬扱いが一千三百五十人であった。

 この外にも、沢内代官所管内から一千三百五十人、太田飯岡や厨川から一千三百人(自六月六日・至七月二日)の来援を得ている。これは当時の言葉で助郷(すけごう)と称し、となりの村だけで負担しきれない組合の助け合いを意味していた。これら助郷人足を加算すると、凡そ二万人近い人足が消費されたことが分る。

 このときの巡見使の県北における南部領入りの様子をみると、まさに大名行列を思わせるものがあった。『繁村館市記録』に (旧文書→) などとある。長持四挺に一人の割合で護送責任者が盛岡藩から迎えに派遣されている。長持担ぎを一挺二人としても九十六人の担ぎ手が必要であり、交代する予備人を長持一挺につき一人宛としても四十八人、都合一挺三人宛の百四十四人、護送責任者十二人、すなわち長持の持達びだけで百五十六人の人員が必要であった。巡見使三人の一行が七十六人、それに藩の先導者、救護者(医師)・調理人・人馬割付役・物産係り・火消役・不時の諸荷物避難係り、その他を加えると、三百人を越す人馬諸道具の行装が想像される。その後の巡見使入来は、寛文七年(1667年)、延宝五年(1677年)、天和元年(1681年)、宝永七年(1710年)となっている。

お 日向の一里塚

 秋田街道は鍛治町の元標を起点とし、紺屋丁から中津川を中の橋で渡り、内九・日影門・仁王小路・新山小路・材木町・茅町を通過、夕顔瀬橋・新出町・三ツ家・前潟を通るのは元標設定以来の通路である。それから土渕・大釜を通り、日向から山坂をのぼり、仁佐瀬長根に上がる途中道の北側に現在一基の一里塚が残っている。向い側には残っていない。明治以降に崩されたものであろう。場所は大釜第六地割字中道百三十一の四で、日向昌一氏の所有になっている。このあたりは悉皆畑地に耕されている。おそらく日向の一里塚は、盛岡からの二里標であろう。盛岡から大釜までの平坦地には一里塚は一つも残っていないし、その位置も判明しない。路線すら雫石川の洪水と氾濫で幾度変ったか知れず、大釜大畑の東部は、並木松も途切れてなかったことを明治・大正生れの人なら皆知っている。それ程雫石川が氾濫する川であり、川床の遷化する暴れる河川である。この日向の一里塚は昭和四十二年三月一日滝沢村有形文化財として指定され、翌四十三年二月二十日岩手県へ指定申請をなし、同四十四年六月六日付で、雫石町の七ツ森・同高前田と共に岩手県指定史跡に指定された。

 ここで、日向の茶屋についてふれておく。ここは藩政時代藩との関係が深い場所であった。すなわち、上田の茶屋は松前藩等に行く人々、簗川の茶室は東海岸に行く人々、仙北町の亀田屋は仙台藩内・江戸へ上る人々、日向の茶室は秋田へ行く人々の訣別場で、南部藩においては以上の四茶屋が使用されたのであった。ここで送別の宴を開いて訣別をしたのである。明治戊辰の役の際、九条公を総督とする東軍は秋田への往復にここで休息をしている。

か 雪の峠越え

 佐竹義厚が藩主の時代、久保田藩の町奉行、勘定奉行の要職を歴任した藩士に、橋本五郎左エ門という武士があった。彼の『世相の見聞録』巻七に国見峠越えの興味深い記録がある。

 天保元年(1830年)二月、江戸行きを命じられた五郎左エ門は国見峠越えを決意した。院内峠越えのコースは佐竹領内だけではなく、山形へ出ても長く雪道が続くのに、生保内経由では峠一つ越せば南部領から仙台と雪のない所へ早く出られることが決意の理由だった。

 二月二日朝、彼は親類、家族、町内の人々約二百人に見送られて秋田を出発した。この旅には商用で上京する大町三丁目の豪商桜場喜助が三百両の大金を持参して加わった。道中安全のためだろう。

 二ツ屋(秋田市郊外)に出ると、七島表(ござぼうし)をかぶった。大変格好は悪いのだが、寒さを防ぐためなのだと苦笑する。かごはそのまゝ雪車(そり)に移して角館に着いた。同地で知人吉成金右エ門の紹介で、江戸に商用で行く田口幸左エ門等五人も帯刀姿で一行に加わり総勢十人で峠に向かった。

 五日は生保内泊り、その夜は夜通し吹雪だったが朝は雪はおさまり風だけになっている。番所の役人は、この風は「ほったら風」といって、山へ上がってしまうと、吹いてはいないから大丈夫峠は越せるという。

 本道を通っての江戸往来なら、馬二匹、人足七人ですむのだが、峠越えの旅ではなんと三十八人かゝる。荷物は一人一個ずつ背負い、かごは棒、胴、戸とばらばらにしてかつぎ、槍もちの槍をもつ人夫まで必要なのだ。それに一行の手をひく手引き、腰をおす腰抱ぎが、一人ずつつく、また食物や山中で火をたくための薪や豆からを持つ者等で多くの人夫が必要なのだ。

 「しんべ」という膝まであるわら靴をはいて出発したのだが、半里も行くと風がはげしく一里も進むと、人夫達は立上がって生命が惜しいから、これから先へ進むなら荷物は谷底へ投げ捨てるという。彼は義経が四国渡海の故事を思い出す、かごを投げ出されては、体だけ山を越えてもいくさにはならないと、心にきめ、断念して生保内に引返した。ところが、今朝あれ程出発をすゝめた役人達は「この風雪ではとても峠は越せませぬ、よく引返えされました」というので、憎い奴だと思うけれども、おかしかった。

 翌七日朝は快晴、新雪が積っているので雪踏み人足二人を先行させて峠を登る。峠からは田沢湖が半分程見え、ふりかえると眼下には角館の大徳山から花館・大曲・角間川がひろがっており、遠くには鳥海山がそびえている。国見峠の頂上に達すると、西北に駒が岳、北によって岩わし山が峨々としてそびえている。聞きしにまさる険しさである。土地の人が馬の背骨と名付けた通りだ。

 前後についている、手引、腰抱きは役に立たないので、吹きさらして雪の少ないところは杖をつき登り、深い雪の下り坂は尻をついてすべり降りる。

 休憩時には、旅にもちなれている、もち米、男豆に、ごま、胡椒(こしょう)の粉、砂糖をまぶして作った菓子「香線」を食べ、従者や「鬼の如き」人夫達にもわけてやった昼ごろ、雪が降り出したが、風がないので豆殻をたいて冷えた焼飯を食べる。角館から持参した酒三升は、冷えたままだったが甘露の味だった。

 国境標のある的形峠を越えると南部領で下り坂である。多くの橋をわたって、七つ(午後四時)過ぎ橋場の宿についた。山を越えたうれしさに人夫達にも、にごり酒を与えた。

 奥羽街道の院内、及位と同じように、橋場と生保内の人々は相互に隔位なく深く信頼し合っているようで、商売用の荷物も、途中の小屋に値段をつけておいておき、向う側のものが自分のものをおいて、何等差支えなく交易が出来るという。

 一行の在所への便りを預って、人夫達は生保内に引返し、五郎左エ門一行は雫石へ向かった。

 以上が五郎左エ門の峠越えの記録であるが、この旅は筆者にはよほどこたえたらしく、「嶮難子孫に伝えても、君命の外行く所にあらじ」と言っている。また、回り道をしたため江戸まで二十三日を要し、予定外に費用がかゝったことをくやんでいる。後年、友人に冬国見峠を越してはどうかとたずねられたとき、この難行を話してやめさせている。冬の国見峠越えは命がけの旅であった。

 これは最上源之助著盛岡と大曲の交流によった。

4 津軽街道
あ 南部藩以前

 大宝令〔文武天皇の大宝年間(701―4年)に出来た法典〕の定めでは三十里(六丁一里)に一駅を設けることになっているが、陸奥の様な所は例外であったようである。しかも栗原―磐井―白鳥―胆沢―磐基などの駅家(宿場で人馬の継立をした家)が創設された。是等を連繁する官道は岩手郡方面へ関係を持つもの、史上に見える最初である。その後天慶二年(939年)に小野春風は大軍を率いて七時雨路を越して鹿角に進入している。すなわち官道は北上川の西部を走り、その上に鎮城や駅家が創設されているのである。往古の陸奥山道の三関と言われる白河―衣川―岩手の内の岩手の関の所在地は今判明しないが、矢張り此官道の道筋であったものと考えられる。その後六郡を管した安倍氏も此官道を扼して、衣川・白鳥・鳥海・黒沢尻・比与鳥・厨川・北浦という様にその一族を据えている。平泉藤原氏もまた北に桶爪・厨川の館を営んで六郡を管領している。「白河関より外が浜に至る二十余日の行程也、其路一町別に笠卒都婆を立て其の面に金色の阿弥陀の像を図す」(吾妻鏡)という。津軽路外が浜街道等は皆北上川の西部、大昔の官道をそのまゝ延長してあったと見て誤りがない。盛岡以北は仙岩街道・鹿角街道、鹿角から馬渕川沿いに海に出る街道、以上三筋は藤原時代の通路であるとされている。

い 南部藩以降

 秀吉が天下を統一するや、古制の六丁一里を改めて三十六丁を一里とし、諸国に一里塚を築造させた。

 承応二年(1653年)の春、盛岡南北の奥州街道野辺地まで、盛岡から七時雨街道の寺田まで、秋田街道橋場までの一里塚修理や道路修理、並木の補植をやっている。

 「朔日、滴石通・栗谷川・寺田迄、一里塚破損見調、又道中脇柳松候哉、見廻候様にと、煙山七郎兵衛、今日申付」(藩日誌承慶二年四月)。煙山七郎兵衛(知行高五五右)は四月一日より、秋田街道の一里塚や並木の現状を調査すると共に破損修理を下命されて出発し、盛岡より栗谷川を経て寺田に達する鹿角街道をも同様担任させられ奉行することになった。

 六月になって、田頭と寺田に一里塚を浄法寺と共に築いている。 (旧文書→) (藩日誌承慶二年六月)とある。田頭・寺田両所の一里塚築造は、このときの新築となる。田中館の故地は福岡であり、その地理に委しいものを起用し、道路改修に当らしめたものであろう。

 天和年中(1681―83年)「封内貢賦記」に記された地名はことごとく伝馬を扱う馬継所でないにしても、その多くは属継所であろう。奥州街道は鬼柳から田名部まで二十か所、黒沢尻と石鳥谷を加えると二十二か所であろう。鹿角街道は松山まで九か所、三戸から松山までの間四か所、花輪・大湯間二か所記されている。毛馬内から津軽街道坂梨峠までの間には荒谷・小坂・濁川などの馬継所が設置されてあったという。

 大坊善章氏は「貞享三年(1686年)岩手山噴火後、南部氏が温泉湯治のため、天昌寺―権現坂―馬頭―耳取橋―国分農場の後―中道―三国峠―大石渡の東―木賊川―一本杉―一本木―田頭―寺田―七時雨迄開通した」と述べている。

 渡沢小学校の滝沢村誌によれば、一本木は盛岡藩十駅の一にして、維新前は重要な宿場で、一里御用継立場であった。角掛宗次郎どは一本木駅々伝取締所で、三九郎ど外二軒は人馬継立所であった。鹿角には、小坂・尾去沢等金・銅の鉱山があり、また、花輪・毛馬内の二代官所があったから、御役人衆の御用状持を始め、金・銅等の運搬、旅人が昼夜をわかたず休泊通行したのであったが、維新の改革となるや、わずかに平館・田頭・大更の人々の盛岡行のみとなる。それが明治二十三年(1890年)東北本線開通と共に他村民の通行が途絶え、全く淋しい部落となった。

 明治三十二年、滝沢の出人夫で道路の改修をしたのであったが、大坊義章氏自ら出仕し改修をなしたと述べている。

5 陸羽街道

 大坊義章氏は、明治十四年(1881年)明治天皇東北御巡幸の際出来あがったものであろう。明治九年の御巡幸のときは上田の経由であったからとのべている。しかし、岩手県史によれば、盛岡・渋民間の路線を北上川の西部に移し、夕顔瀬橋を通過したのは、明治二十五年ごろであろうとある。ところが、盛岡城下に年貢を搬入するために夕顔瀬橋がかけられ、その夕顔瀬橋の橋料代を雫石通・沢内通・厨川通・沼宮内通と上田通の一部に賦課されている。いつのころ出来たのか不明であるが『南部史要』によれば、寛文十年(1670年)六月三日洪水あり、中津川三橋、及び夕顔瀬橋流失とあり、元禄十二年(1699年)橋梁米を免じとある。

 毎日新聞記事『母なる北上川』中に、明暦二年(1656年)とも寛文五年(1665年)ともいわれ、現在より上流山田線鉄橋近くの浅瀬を利用し、歩いて渡る通路であったとある。

 『盛岡砂子巻五』によると「萱町御門より新出町北上川南北渡。長五十四間。正徳四年(1714年)の御書上に北上川渡は夕顔瀬四十八間、深さ七尺、本丸より十五丁三十三間と有」と記されている。この橋もたびたびの洪水で流失、盛岡に大洪水があり、中津川三橋と夕顔瀬橋が流出し、六年後の延宝四年まで橋がなかった。元禄十年(1697年)にも一部橋がおちて通行止め渡し舟を使用。『国税年譜』には「正徳五年(1715年)九月夕顔瀬土橋渡初」とあるから、その間少なくとも一回の落橋していることになる。

 夕顔瀬橋が何とか橋らしく長持ちするようになったのは明和二年(1765年)からである。このときから川の中に島を築いて両岸からこの中島に橋渡しをしたからである。これは大向伊織の説で、中島架橋法は当時南部藩のみであった。古書にも「関東より此方に是に比する橋なし」と記されている。その後橋の流失も少なくなり、昭和十五年鋼鉄製の永久橋となる。

 明和二年中島橋ができると落着き「この橋の修理維持のため、盛岡西北部の十一の代官所から高五十石につき米一俵ずつの橋料米を徴収している。これが明治五年一旦廃止され、明治七年橋銭復活し、修理・維持・架橋費用として取立てた。また現在の定期券のような鑑札も発行された。二人乗り人力車三厘、一人乗り二厘。但し、十五歳以下免除、火事などの非常時はその限りにあらず。これが五、六年経続をする」とある。

6 街道に関する条目その他
あ 領内伝馬条目

 伝馬は『日本歴史辞典』によれば「近世宿場に常置され、公用の継立に当った馬である」という。江戸幕府による伝馬宿駅制度は、慶長以降(1596―1615年)整備されたが、南部領内では、利直の寛永四年(1627年)三月の定目が知られている。それによると、荷物一駄四十貫目としてあり、一里三十六文と規定してある。一町一文の計算であろう。人足賃は本駄賃の半分、宿泊は食事つき上中下があり、木賃には上下があった。馬宿は木賃の上と同額になっている。「夜中、雨風の嫌なく、人馬を相出す可き事」として、その違反者には、軽い過料・重い過料、死罪・籠舎を課するとしてある。

 天和年中(1681―84年)、江戸上下の駄賃は、「上りは長(永)銭五貫四十文(金カ崎より江戸迄)、下りは長(永)銭四貫八百九拾弐文、但江戸附出し此外なり」「盛岡より江戸迄壱駄の賃、長(永)銭五貫首四十四文、但三十八貫匁壱駄壱貫匁百三十五文宛」(「南部叢書」所蔵「封内貢賦記」計算不合)とある。江戸盛岡間は百三十九里と査定されている。一貫目百三十五文は一里一文程度の駄賃となろう。一貫目一里一文とすると、この計算は盛岡の土蔵でなく、花巻の御蔵以南であろうか。伊達領金が崎駅より以南では五貫四十文とある。

 寛永四年(1627年)の南部領内の規定では、四十貫目一駄の運賃を一里三十六文としてあった。この計算では江戸盛岡間百三十九里一駄の運賃五貫四文となり、一貫目の荷物、一里当り運賃は九度であるから、天和年中(1681―84年)の江戸運賃は一割強の高率となっていたことがわかる。

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 宿駅と伝馬についての基本定目は、藩政後期においては前期の踏襲であるが、文化元年(1804年)十二月、藩では家老連名で、領内の伝馬・荷物・人足・木賃・馬宿(うまやど)についての賃銭を規定布告すると共にまた夜中・風雨であっても、滞りなく人馬共に継ぎ立てることを指令している。諸荷物は四十貫一駄として駄賃を定め、夜分は荷物無し(手荷物五貫目迄荷物なしと見なす)として本駄賃とし、人足は本駄賃の半額とした。従って寛永四年(1627年)の規定からの伝馬条目は、大きな変化がないことがわかる。その違犯者は重罪に処するとして厳格に取締っている。

 岩鷲山見分時の伝馬について『南部城事務日記』に下記の記事がある。

 寛政十二年(1800年)三月二十一日
                      栃内瀬左衛門
                      沢田宇右衛門
 両名に御伝馬二匹御道具持二人差出す

                  御山林方 安宅平右エ門
                  御山奉行 小 向伴六
 両名に御伝馬二匹差出す
 両名ハ岩鷲山まで山御見分御用として御出。御代官両人、滝沢村肝入与兵衛方に泊。安宅、小向の御両人様ハ滝沢長右エ門方に御泊。御道具伝馬ハ柳沢より滝沢村迄来。御山林方は御宅へ御帰。其他は翌日昼時分滝沢村に戻り、未(ひつじ)ノ下刻御出立。

い 領内番所

 南部領十カ郡の決定は、天正十九年(1591年)九月である。従ってその以降は、南方は伊達領・西部は小野寺氏・戸沢氏・秋田氏・津軽氏と領界を接した。慶長五年(1600年)庚(かのえ)子役後、小野寺・戸沢・秋田の三氏は去り、代って佐竹氏が就封、南部氏と接した。御番所の設置は、こうした隣国との交通監視のため出現した監視場である。従ってその通路は両国間で協定された公認通路であり、他のわき路通行は禁じられていた。

 南部・伊達、両国間の交通路は、奥州街道の鬼柳口の外、胆沢郡・江刺郡・気仙郡に通ずる諸道があり、佐竹領への通路としては、平鹿郡・仙北郡・比内郡に通ずる諸道があり、津軽領への通路にも幾つかあった。領域確定と共に番所が設定され、交通が監視された。殊に西教禁止が強化されて、国内交通の監視が厳重化してから関所通過はいよいよ厳しくなった。天和二年(1682年)ごろの領内御番所は『封内貢賦記』によれば、御境番十六・七か所、物留番所九か所程度、合計二十六カ所が算えられる。

 藩政後期になっても、他領との交通交易を取締るための御境番所と、領内の要地に設置してその交通交易を監視する物留所の二種は変っていない。

う 武士の道中定目

 武士の旅行には、携行すべき荷物の重量と運賃を規定し、標準を示している。

   道中定目口寛(ママ)十二に定
 一、御歩行壱人荷物拾貫匁、上着替壱人三百匁、但し壱貫匁に付代百文之積り
 一、御持弓筒壱人荷物五貫匁上着替代八人に付金壱歩
 一、平御同心壱人荷物三貫匁上春代右同
 一、小道具壱人三貫匁上着替代十人に付金壱歩挾箱同
 一、御六尺壱人に付六貫匁、上着替代五人金壱歩
 一、御長柄小物壱人三貫匁、上着替代十人に付金壱歩
 一、御馬附小者壱人三貫匁、上着替代なし
 一、御料理之間小間壱人三貫匁、上着替代十人金壱歩
 一、御歩行水沢迄御伝馬拾二人、壱疋十四・五人分二十四人迄弐疋
 一、御駕籠附御歩行は両人壱疋
 一、御持弓筒は三十人四十人迄壱疋平御同心御六尺同
 一、御長柄小道具御挾箱同
 一、御餌差御犬飼本荷五貫匁
 一、木綿・単羽織・笠・脚絆中小姓御歩行目附笠・脚絆・御歩行・御六尺・御小具挟箱・御長柄・御馬附・御小者・御料理之間御小者但御召口取は上着相渡す
 一、合羽相渡分中小姓・御歩行御持弓箱・御馬力・御茶道右之外は不出、但冬道中には惣様相渡る
 一、御鉄砲御弓雨覆之駄賃代壱両宛
 一、御六尺上着手拭上下帯但上着十六人に十八端
 一、手拭上布十六人分に八丈八寸五分、下帯は十六人分に上布十二丈八尺、上帯は木綿にて十六人分二端と四尋
 一、御歩行中小姓・御歩行目付・御馬方・茶道・キヤハン・トロメンウラ付け・ササへり・ボタン・紐共に『邦内貢賦記』

え 幕府の馬買衆

 御馬買役人の盛岡入来は、期せずして江戸・盛岡間の道路整備を促進し、宿場や夫伝馬制度を発達させたことは前述の通りで、里程標の確実であること、道路は悪路であってはならぬこと、宿駅は宿泊に不自由であってはならぬこと、伝馬や人夫もそれに応ずるよう整備せねばならぬこと、等々の事柄は自ら求められて奥州街道が整備されたがそれがまた非常に煩わしいものであった。たとえば幕府の馬買衆を接待するため、延宝四年(1676年)十一月三日、盛岡城より花巻城の両御仮屋に、次の様な諸道具を運搬している。当時の接客用の炊事道具の一端である。

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 花巻城中にも、一通りの接客用具はあったであろうが、それでも且つこのような炊事道具やその他を送って接待につとめている。盛岡から花巻までは一日行程であり、馬買役人一行はここで宿泊して伊達領に入ったのである。南部領内では盛岡城下以北には行かず、雫石地方まで入るを例とした。

お 馬次宿定目

 諸人の交通や、物資の移出入については、国境での厳重な検査が必要であったので、その通行を認める証文が発行されていた。その重要なものについては、御老中御連判が六項目、老中御城有合之御判が十二項目、御町奉行より出る分が十二項目で、その中に大要が記されている。

 『封内貫賦記』天和年中の例

 上によると最も重要なものについては、家老連名で証文を発行していた。通例国外移出を禁じている品物の国外搬出を認める場合や、武士の国外旅行の場合もそれであった。次に重要な伝馬扶持証文は、当番家老が証文を出し、町奉行の権限で差支えないものは、町奉行の証文で処理した。

 境目番所では、その証文によって点検、通行を許可し、その規制に合わぬものは上司の指示によって通行を処理したのである。花巻郡代と郡山代官は、特に委任されてあった事項を単独で処理し、一カ月ごとにまとめて報告し、家老の検閲を得る定めとなっていた。同上。

 またこのころ、馬次宿御定目なるものがある。荷物の重量は三十八貫とあり、片馬は十九貫目となろう。乗駕籠一挺は人足六人が付属し、山駕籠は人足四人の計算で支払いが行われた。長持一棹は重量三十貫までを限度とし、重量五貫目をもって人足一人持としている。この人足賃は本駄賃の半分とある。

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か 市街と商人の出現

 南部氏の居城が盛岡に決定し、江戸と盛岡との交通が順調に発展してきたこと、治安が安定して鏡内十カ所の枢要地と盛岡との交通連絡も出来上がったこと等によって盛岡の市街地や、郡山・花巻・遠野・三戸・八戸、などの市街地は発展していった。とりわけ盛岡市街は盛岡治城の開創と共に全く新しい市街地として出現したのである。その市街は、諸士・職人などの住宅を中心とし、各地から集まって来た商人やその他の人々で町人街が出現したのである。藩治体制では、自給自足経済をたてまえとするが、治安の安定に伴って、その土地で余るものを他所売りに出し、土地で不足するものを他所から買入れる交換経済市場として市日(いちび)が発達し、その物資を巧みに保持し放出する商人が現れて定住するに至ったのである。

 南部領の初期には、地元出身者で大いに発展した例は知られていない。多くは他所(よそ)ものであった。たとえば村井新兵衛は近江より来住、前川善兵衛は相模より来住のごとき例である。村井は盛岡藩の財閥近江商人の先駆を代表するとすれば、前川は相州出身として海運界の先駆を代表すると言えよう。近江出身の村井新兵衛は、慶長十五年(1610年)南部遠野に来て三年おり、同十八年四月盛岡に転住した。村井姓近江商人は殆どこの家から分派しており、小野姓の商人もその分派である。前川は相州小田原北条氏の滅亡後、南部領の大槌に移り、子孫は吉里吉里浜に定住して船主となり、海運や漁業界に大いに活躍している。鉱山経営では丹波弥十郎・阿部小平治などあるが、この人々もいわゆる他領の他所ものであった。その他知られている商人群が、その祖先はいずれも他国からの来住者であることは商人発達史の上から、極めて注意される事柄であろう。

 たとえば酒屋を例にとってみれば、慶長(1596―1615年)、元和(1615―24年)年中、すでに酒の値段について指令しており、寛永(1624―44年)年間には、地方の宿駅(まち)にそれぞれ酒屋が定住して営業していたことがわかる。万治四年(1661年)になると九郡中二十三カ所に三十三軒だけ公認して統制を加えている。盛岡六軒・渋民一軒・沼宮内一軒・郡山二軒・花巻二軒等のごときである。この酒屋のあるところは、町と称せられ市日も開かれ、外来の商人も参集して、取引が行われていた。

き 商人鑑札

 藩政後期になると、領内に諸商人が入国するには、その人国許可証を必要とした。同時に領内の者でも、他領のものでも、仲買人のごときは、その商売上の承認証が交付されそれを使用している。

 たとえば、伊達領の者は、南部領に年々馬買に来ており、その通交証を交付されて使用し、国境の御番所を通過している。

 また、領内には、「無手形他領に出す事、堅く停止し、若し脇道通ものこれ在においては、捕え上べし」という統制品がある。武具類・鉄・紅花・紫根・黄連・蝋・漆・油・綿・麻・からむし・布・椀用木地・銅・鉛・硫黄・塩・男・女などそれである。そのため領内仲買商人でも藩の御側発行の焼印ある鑑札が交付され、それを常時所持して買付にあたっていた。

商人鑑札→

く 宿駅の整備

 盛岡以南の奥州街道は、前述のごとく整備されたが、盛岡以北のことは余りよく知られていない。たとえば、参覲大名の往来にしても、八戸南部藩(表高二万石)と松前藩(表高一万石)の二家が通過するだけであったから、その宿駅も領内の一般の宿駅と同程度であろう。宿駅に待機する人馬は、幕命の定めによると、東海道は一駅伝馬百匹・人夫百人、中仙道は五十疋・五十人、甲州・日光・奥州の三街道は二十五疋・二十五人とされていた。この規準は盛岡以南に適用されたとしても、盛岡以北には適用されない公算が強い。

 しかるに寛政年間(1789―1801年)以後になると、北海道の警備問題は日本の重大な関心事となった。

 ことに幕府は北海道・千島・樺太など、当時の蝦夷地を直轄し、奥羽の諸大名に分管を命ずるに及んで、人馬の往来、諸貨物の輸送は急激に増大したのである。たとえば盛岡藩にしても、北地警備のことから従来十万石であったものが、文化五年(1808年)二十万石の大名に指定され、その二十万石の資格をもって兵備を整え、箱館から室蘭の間を守備したのである。そのため盛岡以北、下北半島の大畑までの宿駅は、往昔の観があらたまり、その交通は一層増大した。

け 旅行の手続

 藩主の江戸参覲の場合、日次決定次第、その通過する宿駅に対して、日程と、伝馬の数・人夫の準備を申込み、その日程によって旅行した。

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 伝馬百疋・人足五十人は、南部藩が十万石として参覲する際の恒例の準備であったと思われる。各大名の江戸参覲に供奉する御供人数は、享保四年(1719年)十月、幕府をもって二十万石以上は、馬上二十騎以下十五騎まで、足軽百三十人、中間三百人以下二百五十人まで、十万石以上は馬上十騎、足軽八十人、人足百四十五人と限定された。南部氏は文化五年(1808年)までは十万石であり、その後は二十万石であったから、十万石の場合も二百五十人前後の行列で上下し、それに伝馬百疋と馬ひき百人、外に人足五十人を要したことになり、奥州街道に常置された伝馬二十五疋、人夫二十五人は南部氏参覲の場合は、伝馬四倍、人夫二倍が用意されたことを示している。また花巻城代からは寛政十一年(1799年)以後、藩主の胆沢川、和賀川の渡船用として、そのつど黒沢尻河岸より藩船を廻送して使用している。

 胆沢川は伊達領なので、その領内通過には上掲のような挨拶をして、その筋関係の了解を得る必要があった。

 藩政前期に定められた交通上の諸規定は、藩政後期においても大方踏襲されている。藩士等が、領外に旅行するときは、家老連印の手形、侍境目通御証文を交付して、出郷せしめている。たとえば寛延四年(1751年)四月、江戸留守詰に出張を命ぜられた小笠原武左衛門上下五人、医師小寺玄仲上下六人、船越権蔵上下二人、中原甚五兵衛上下三人、工藤市太夫上下三人、長嶺長大夫上下二人の一行二十一人が江戸行と決し、四月三日付で、家老奥瀬内蔵・奥瀬内記連印が、鬼柳御番所に宛、「御番所、御改め、御通し有る可き者也」との証文を出している。

 庶民旅行の場合は、出願者本人と村肝入連印の願書を代官所に提出し、その代官から、通過する御境番所宛の書類を送り、その用件を記し、「御改め御通し成さる可く候」と証明している。

 江戸へ参府の場合は、金が崎駅以南から江戸千住までを標準とし、江戸から帰国にも千住を基点としている。

 盛岡藩士が江戸屋敷を出発して帰国する際も、千住駅に伝馬人足を注文した。何の誰が、何月何日江戸を出発、何日行程で、どの道を通るから、本馬何匹、軽尻馬何匹、継夫で継立てて欲しいという依頼状を千住駅の問屋に提出するのである。この申込によって、宿駅の問屋から問屋へと伝達される。これを先触れと称した。庶民もこれに準じたものであろう。

 旅行の道筋は、白河を通る奥州街道の外に水戸路があり、この水戸路が海辺の通路で、伊達領に来てから仙台城下に通ずるものと、松烏を経るものとの二筋があった。

 旅行日程は、十二日振り、十三日振り、十四日振り、十五日振りなど、それによって宿泊地が異るが、それぞれ各駅には顧客によって定宿が出来ていた。

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こ 旅人の取締

 藩政後期も前期同様宗教関係者の廻国はよくあったことであるが、元文四年(1739年)以来その取締を強化し、六十六部や、勧進の者の廻国でも、宿泊(民家等へ泊る風あり)は一泊に限ること、領内に入国の場合は御境番人(関所役人)より入国許可証を持参すること、その許可証を所持しないものは、元通りの道順に人を添えて送り返すように指令しており、後年もたびたびそのことを布告し、旅人を取締っている。

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さ 運賃条目

 下掲指達書によると、享和三年(1803年)公儀から道中人馬継立定数について指令してあったが、その後、往来の御家中(かちゅう)書上の人数について、白川より千住までの駅々より、不都合があると上申があったので、文政五年(1822年)から駄賃帳に印鑑を捺し、それに照合して継ぎ立てることに改正された。また旅行する際、伝馬継立問屋に、何日振りの旅で何日泊りであるかを申込むこと、また荷物の貫目を調べて差出し、それによって人馬を継ぎたてることとなった。

 藩の諸士や組付の者の江戸往来は、従来一律十二日振りと規定されてあったが、文政五年(1822年)から道路の悪い九月から二月までの期間は、十三日振りと改められた。それによって一駄の夫貨・本馬賃・軽尻(からしり)分・小揚人夫賃・旅館賃などの額(旅費規定?)が規定され指示された。いま運賃条目の一例として次に掲げることにした。

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 南部領内陸上運輸賃銭について、本村に関係すると思われる事項を抜萃して下掲する。

  陸上運輸賃銭表(文政十三年=一八三〇年)

                    本荷   無荷
    街道名区間    距離    (本馬) (軽尻)  人足
奥州街道盛岡―郡山、下町 三里三四丁 一四八文 一〇〇文  七九文
 〃  〃 ―日詰    四〃一一〃 一六一〃 一〇九〃  七九〃
秋田街道〃 ―雫石    八〃〇八〃 一五七〃 一〇六〃  七七〃
 〃  雫石―橋場    二〃二〇〃 一〇八〃  六五〃  四九〃
 〃  橋場―小保内   五〃二五〃 二六二〃 一七三〃 一三一〃
津軽街道盛岡―田頭    六〃二五〃 二五一〃 一六六〃 一二六〃
 〃  田頭―寺田    二〃一一〃  八四〃  五六〃  四二〃

し 移入商品課税

 また他領より移入されてくる物品に対しては、それぞれ税金をとり立てていた。それを役立と称している。その移入商品全部に対して課税している。たとえば文化十年(1813年)正月、勘定所より御用達商人に示したところによると、「他領より、御領分中へ入来候諸荷物役、先達役(・)立(・)目(・)録(・)相(・)渡(・)置(・)候所、右目録ヶ条に相(・)洩(・)候(・)諸(・)品(・)、此度吟味之上、役立添目録ヲ相渡候定日」として八十一品目(県史第五巻一二六五頁)をあげ、その役立の額を示している。はじめに示した種目は不明であるが、追加目録以上の種目であろう。

 さらに「上の通り改め、取り立て申す可く候。この外にも入り来り候諸品、これあり候はゞ、上役立に准じ取り立て申す可く候」とあり、脱税防止のため、「尤船より船へ台移し五大力にて積廻候とも、他領より入り来り候はゞ、役銭取り立て申すべく候」と原則を示している。

す 橋場口の荷物

 日本海を利用する西廻り航路によって移入された交易物資は、藩政後期においても、多く秋田湊に陸掲げされていた。盛岡の近江商人等が、「木綿・古手・綿類・砂糖・小間物の類、三都より仕入下し商売仕り」、「大阪積荷物の儀、便利に付、先年羽州秋田湊に掲げ、それより御城下へ駄送商売罷り仕り候処、宝暦(1751-64年)の度、野辺地湊御開立遊ばされ候ニ付、同処へ相廻し候様、御沙汰御座候へとも、秋田湊よりは里数遠く、入用嵩み候」(文久二年<1862>、)(鍵屋外十二名歎願書)とあるごとく、宝暦年間までほ、秋田湊に陸揚げされた諸荷物は、仙北郡より国見峠を越し、橋場の御番所を通過して盛岡城下に入っていた。このことは、村井白扇の『勘定考弁記』(白扇宝暦十年<1760年>四三歳の著)にも、秋田湊より雫石まで雫石より盛岡までの諸駄賃を記してあることによって明瞭である。宝暦年中まで京阪の荷物は多く秋田街道を利用して盛岡に入り、その後は野辺地湊から奥州街道が利用されていた。

せ 街道の分担修理

 領内主要街道の修理は、破損した時はもちろん、平素関係ある郷村で、一定の持場を分担し、道路の修理、橋の繕い一里塚の保護、並木の補植をやっていた。

 盛岡より秋田久保田城下に至る秋田街道においては、代官所ごとに分担して保護に任じている。厨川通代官所内では、その代官所の郷界仁佐瀬以東、雫石通代官所内郷村ではその郷界仁佐瀬川以西を修理に任じている。

 さらに厨川代官所内では、その路線によって各村の受持区域を決め、その修理と保護を分担している。従って大釜・篠木両村は当然分担してその任に当ったことになる。

そ 街道の取締

 街道の取締について『太田村誌』に下の記述がある。

 次の数例は、街路取締令とも見るべきもので、これにふれた者は相当の処罰を受けている。今から考えると全く問題にならないことも、当時はまことに由々しい大事件であるかに取扱われ到る処に笑えぬナンセンスがかもし出されていた。

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二 明治以隆の陸上交通

1 道路

 明治初年ごろの国道(旧名奥州街道)は、和賀郡鬼柳村から、岩手郡御堂村までの間で、和賀・稗貫・紫波・岩手の四郡に跨がっていた。明治九年(1876年)春、明治天皇が、東北を御巡幸になり、岩手県の国道筋を御通りになって青森に行幸されることが決定発表になる。盛岡以北の奥州街道は藩政時代八戸侯のみの通過で、松前侯は六年に一度、従って、山路であった。藩政末期に北地警備に当ることになり、往来する人馬が増加するようになった。明治九年五月以降御巡幸により、国道が南北に延長され、道路橋梁の修理架設等多忙を極めたのであった。これが往時の奥州街道後年の陸奥街道(国道四号線)なのである。この路線が岩手県陸上交通の幹線となって今日に及んでいる。その後、今日まで幾回か改修が加えられ局部的には路線の変更があった。ことに一里塚の撤去・並木の伐採・道巾増大舗装と変って行くのである。

 盛岡より秋田久保田に通じる秋田街道は、旧盛岡藩の公道であったが、この路線の重要であることは、明治になっても変っていない。岩手秋田両県の交通交易路であったからに外ならない。従って盛岡より雫石を経て国見峠を越すこの路線は、県内県道中最も重視され、県内唯一の一等県道として扱われている。しかるにこの国見峠は、標高九百メートル近く、難所として名高いところである。そこで県では明治八年(1875年)より峠路の改修に着手し、橋場一の渡りより稜線を辿る路線を止め、坂本川に沿う路線にかえ、奥羽山脈の分水嶺の山中湖(ひえあ潟)より秋田側に下る路線に切り換えている。これが国見峠の大改修で、鉄道東北本線及び奥羽本線が開通して、交通交易の様相を変えるまで重視されることになる。国見峠は山中四里にまたがり、道路が峻嶮、且狭隘であったので、岩手県では秋田県とはかり、政府に改修開鑿のことを申請して認可を得、明治八年七月に工を起こし、同年十二月に落成した。その長さ二里三十二町、夫役二万七千六百五十四人、費用五千八百四十円十一銭、県費支弁であった。明治九年三月仙北郡と岩手郡の頭文字をとり、大久保利通によって仙岩峠と命名される。

 国道・県道・里道の分類は、岩手県においては明治十三年(1880年)ごろであろうか、同十四年の県記録に一等国道として一路線、三等国道として一路線、一等県道一路線、三等県道十七路線をあげている。従って分類はこのときすでに出来ていたものであろう。これより前、府県会規則の施行によって県道の修繕費は当然地方支弁となったものと考えられるから、そのためにも国県道の区別は必要なはずであり、それに次ぐ重要路線は里道(村道) となったものであろう。

 なお、明治十四年の県記録中より本村に関係する県道には、
一等県道 秋田街道 盛岡ヨリ雫石橋場ヲ経テ秋田県生保内ニ至ル途中二駅。
三等県道 津軽街道 盛岡ヨリ一本木・寺田等ヲ経て秋田県ニ至ル途中五駅、
となっている。

 県では、明治十四年三月、人馬車の継立営業規則を定め、五月二十日から施行している。維新後、交通事情が急速に変化しているが伝馬の外に、乗合馬車・人力車・荷車が新しい交通用具として胎頭してきたので、それが営業上の円滑のために、こうした規則が制定になったのである。明治初期のしかも鉄道のなかった当時としては極めて重要であり、人馬車の継立制度の確立をみたのである。その重要性については県達甲六十三号に詳しく示されている。その中に「ソモソモ、各駅・道路ノ儀ハ、スベテ官有ノ地ニシテ」と示達し公道に対する義務を懇論、営業者を保護育成する建前から、営業組合の結成を促している。このとき継立所設立を許可されたところは百十ヵ所に及んでいる。本村の一本木は南岩手郡に属する盛岡・雫石・橋場・梁川・繋・南畑・藪川と共に許可されている。一本木の宿駅等級は六級であった。

旧文書→

 諸街道の改修と関連して保護を加えられたものに並木及び一里塚があった。一里塚は里程の基準を示すものとして保護されて来たが、並木もまた往来人の暑熱を防ぎ、防風防雪のため発達し、近世鉄道の発達に至るまで保護育成が加えられた。旧南部領は概ね松並木を主とし、これに柳及び槻(つき)或は漆があった。県においては明治十四年五月、下の諭告を発し、並木の保護育成をなしている。しかして松杉の成育は長年月を要するとして梧桐を試植せしめている。

旧文書→

 岩手県の国道県道は明治九年の東北御巡幸により道路が顕著に補修、改修がなされ、明治十二年から県会が招集になり、諸制度も変って道路・橋梁についても、国費・県費の支弁区分が明かになり、明治三十年以降の県会は更に自治制が強化され地方費支弁の土木費も増加するようになる。里道路線の県道編入、新路線開鑿もあって次第に県道の延長距離を増し交通近代の方向を辿っている。

橋梁→

 明治二十五年十五路線の県道中県費支弁困難を理由に津軽街道は他の七街道と共に存置、二十六年の県会で秋田街道が県道に再編入される。

 鉄道開通と相俟ち交通運輸に大きな革新をもたらし県道・里道の延長は大正・昭和を経て交通が一層便利になり、舗装されてくると大正末年から昭和の初めにかけて並木・一里塚が次第に撤去されることになる。村道も改修され、作場通いや、林道の設置をみるようになる。汽車・自動車その他の諸事も増加し、旅客や貨物の交流が多くなってくる。山林、原野は時代の要請によって諸産業が発展し交通網が漸次整えられ、交通交易の速度化がなされる。

 明治二十四年十二月二十八日県告示第八十一号を以て岩手県里程元標を盛岡市内九に移転したことを公示した。この元標は従前盛岡市鍛冶丁に所在したと言う元標のことと推定される。国道が本町上田町方面より内丸に変更され、仁王より夕辣瀬方面に出ることになったのは当然の所置であった。右元標は盛岡治城の定まった寛永年中(1624-44年)の設置にかかるものであったが、王政維新に依る盛岡城の撤廃により、内丸に岩手県庁を開庁し、それを県内里程の算定基準にしたと思われる。市役所前の元標はこの時に鍛治丁より移された元標の位置と解される。

 大正九年(1920年)九月九日、県では告示をもって、県内一市二百四十か町村に道路元標の位置を定めたことを告示し、同時に各市町村ごとにその元標の位置の地番を告示している。本村における元標の位置は役場所在地である。

 明治初年の道路掃除と道路改修について『太田村誌』は次のように述べている。

 道路の掃除整理に関して旧幕時代から屡々達しが出ている。その内容は大体において大同小異であって、各戸受持区域を定めて路上を清掃し、溝を作って溜水を流し、立木の風折雪折等に適宜の処置をとれ、等の事項が記されているが、明治四年(1871年)十月には太政官から次のような布達が出ている。

旧文書→

 よって諸街道の改修には沿道各村においてその経費及び人夫等を負担している。その一例として、明治七年五月二十九日、岩手県庁の発した箱館街道修繕の規則がある。以て他を類推することができよう。

旧文書→

 明治初期の道路に因んだ出来事と、世相の片鱗を太田村誌にうかがってみよう。

 藩政時代の封建制度の通弊として屡々物資需給の円滑を欠き、従って些少の不作にも直ちに民衆が生活の脅威を感じたことは争われない。その結果乞食の横行や棄児の悪習となる。「赤子をツトコさ入(へ)で、雫石川に流すた」と古老はいう。現に、村(太田村)内旧家の邸隅に無縁と覚しい石碑の散在するのを屡々見受ける。これは当時行旅病者その他乞食等の死体を村民が丁重に葬った跡で、如何に当時の村民が純朴であり、隣愍の情に富んでいたかを物語るものであると共に、その仏の日には現在でも香華が手向けられているのを見ると、村民のやさしい心やりの程が窺い知られる。(以上のことは本村にも通ずる事柄である。)これが明治初期にもあった。

 明治二年(1869年)五月の太政官布達に

旧文書→

とあるが、村民は期せずしてこの趣意を昔から実行し来たっている。こえて明治四年には次のごとき布告が出ている。

旧文書→

なお変死人の処理については次のような布告がある。

旧文書→

さらに明治二年に出た

旧文書→

という布告を見ると、一切更始一新の当初にあって、如何にも物情騒然たる世相の一端を看取することが出来る。

 棄児について、太政官は明治四年六月次のような布告をしている。

旧文書→

越えて明治六年には

棄児養育米の儀、辛未八月中相達通り、十五歳まで年々米七斗宛下ヶ渡し来り候処、自今満十三歳を限り下され候条、生年月日見定めの儀は其所戸長等立会、身体骨格等篤と検査し本年第三十七号布告に照し、年齢相立候様致すべき事
但 従前の棄児にて今日に至り出生年月日検定し難き分は、一千支一年の割合を以って年齢通算致すべき事
  明治六年四月二十五日             太政官

の布達があったのみならず、当局はこれら乞食棄児等の社会的惨事の根絶を期し、抜本塞源的方策の一つとして

 一 歳老いて妻なき、歳老いて夫なき、幼にして親なき、又養ひ育つべき身よりどもなきもの、かたわにてなりわひの術なりかぬるもの、子供殊の外多く之あり、たつきなりかぬるもの

 上記等のもの之あり候は、常々親類組合などは申に及ばず、重立たるものより夫々助け方厚く申し合せべきは勿論に候得共、実に取続き難く難渋に至り候はゝ、其の次第吟味をとげ申し出べく候、取調の上御救助筋へ伺い出遣すべき事

という布告をなしているが、当時これがどの程度までその目的を達しえたかはともかくとして、これらの布達は如何に明治新政府が民心の懐柔に意を注いたかを知るに足る資料であると共に、政府の抱いていた社会政策の一端の表現であるとも見ることが出来、これによって当時の世相の片鱗を窺うことが出来るのである。

2 諸車

盛岡~黒沢尻間定期バス

 人類が車を使用するようになったということは、単に自己の食糧生産から貯蔵・交換を考えるに至った原始的な文化の誕生を示すこととして理解するならば、車と文化の関係ということは、今日でも文化をはかるための調査項目の一つとして、存在価値を持つであろう。

 車が発達しても、明治・大正年代は人や馬の背に依存していた。やゝ遠距離になると、「だんこ(駄馬)づけ」と称する馬の背に托したものであった。

 明治になって、新しく陸上交通の役割を果したものに人力車・荷車・荷馬車・自転車がある。

 『岩手県統計書』によれば、

 人力車については、明治十二年八百三十四台、同二十年六百六十五台同三十年七百台、同四十年六百四十三台、同四十五年五百八十三台と漸次減少して、大正十五年五百台、昭和六年には三百台。

 乗合馬車については、明治十二年一台、同二十年は十三台、同三十六台、昭和六年六台。

 人力車や乗合馬車の利用者は、資産のある人々の利用する高級車と見られていて、経済状態の悪い農民にとっては、病気以外、人力車も乗合馬車も利用することが不可能であった。

 何時のころから開通したかははっきりしないが、明治十四年以降と思われるトテ馬車と称する乗合馬車が、雫石の春木場大久保酒屋を出発し、肴町の赤坂旅館まで、一日に午前午後の二往復をし橋場線開通まで通じていた。現在、平泉駅から中尊寺まで乗合馬車が運行されているから昔をしのぶことが出来る。

 荷車については、明治十二年三百二十五台、同二十年七百八十八台、同三十年二千八十一台、同四十年二千九百四十七台、同四十五年三千八百十二台、大正十五年には二倍に近い六千八百八十七台、昭和六年には八千七百十三台に増加するも、リヤカーの出現により漸次減少することになる。

滝沢村諸車台数→

滝沢村の自動車登録台数→

 荷馬車については、明治二十年五十五台、同三十年一千百三十六台、同四十年二千九百四十七台、同四十五年三千八百十二台、大正十五年四千七百五十七台、昭和六年四千八百二十九台。

 自転車については、明治三十七年八十台、同四十年百六十五台、同四十五年五百四十八台、大正十五年一万八千台、昭和六年には二万八千台。

 以上のように荷車・荷馬車・自転車が著しく発達し、これが、人事・諸荷物の交流に速度を与え、汽車の運輸によって相互に相俟ち近代化し、明治の文化興隆となったのは、以上の諸機関の発達利用にあった。

 大正年代になると自動車がはいってくる。乗用自動車については大正三年二台、同十五年百十五台、昭和六年四百四台。トラックについては、大正五年二台、同十五年三十三台、昭和六年二百三十台となっている。自動自転車は大正四年の一台から同十五年には四十一台となる。諸車の合計数において大正元年を百とすると、同十五年には、四倍近くの三百九十五の記録を見る。従って大正時代は諸車の発展時代ともいえる。

 明治時代と大正年代とでは、大正年代が各産業とも著しく増加している。それがこのような諸車の増減数字にも表現され、より便宜な諸車が次第に増加している。このことは欧州大戦以後、日本の交通交易が躍進していることに一致しており、東北の本県もまた近代化を辿ったことになる。

3 鉄道

19世紀中期の蒸気機関車の模型図

 鉄道東北本線は、日本鉄道株式会社によって、明治十五年(1882年)六月、川口から工事がはじめられ、同二十三年四月には一ノ関まで開通、同十一月一日盛岡駅が開業した。

 日鉄では資本金二千万円で創立、東京・青森間四百五十四マイルを開通、建設費一千九百八十一万円を費消したという。このとき岩手県では四万一千四百四十四株、一株五十円で二百七万二千二百円を引受けて協力している。この東北本線建設中、横合から、福島県と山形を経て青森に達する奥羽本線を先に開通して欲しいという薩摩閥の動きがあり、石井知事が驚いて、県の財界の佐藤清右衛門、大矢清助、村井弥兵衛等と上京、既定通り東北本線の建設をすることに力をつくした話が伝わっている。

 鉄道の開通ということは、陸上の交通運輸の上に大きな革新をもたらした。たとえば東京・盛岡間の旅程は、歩行十二日間を要したことが汽車によると、明日は東京に到着するので、十日間を短縮する結果となった。書状通信にしても、諸荷物にしても、その到着速度は、従来に見られなかった未曽有の速度であった。盛岡は唯一の市制地で商業も盛んであり、県庁や官公衝学校病院があって、消費都市を形成していたから、旅客の乗降、荷物の出入は全県下の各駅を断然引き離していた。

 移出物は明治二十四年に米、雑穀、雑貨、木材及板類、酒、果物、薪炭等で、同四十年ごろは木材、木炭、米、薪、鉱石等であり、移入物は同二十四年に塩、甘藷、雑貨、干塩魚、米、綿布及麻布、砂糖、鮮魚で、同四十年ごろは木材・石炭・米・鮮魚・薪・塩・塩乾魚が主なるもので、鉱鋼・藁製品・木炭・小麦粉・砂糖がこれに次ぎ、砂利・石材・大豆・甘藷等があげられている。

 大正年代の中ごろになって、鉄道交通も著しく増大した。たとえば本線筋には停車駅が増設され、本線から分岐する支線もぞくぞく敷設されて行った。大正十年三月、横黒線が黒沢尻から横川目まで開通、同十一月仙人まで開通した。同年六月には盛曲線が盛岡・雫石間を開通、翌十一年四月橋場駅まで開通した。同年八月、花輪線が好摩と平館間を開通、同十二年十月、山田線が盛岡・上米内間を開通、同十三年十一月横黒線が全通している。また同十三年十一月久八線が八戸から種市まで開通、翌年十一月八木駅まで延長されている。同十四年七月、大船渡線が一ノ関駅から摺沢まで開通、同十五年十一月花輪線が平館・赤坂田間を開通した。このように大正の中ごろから各新線支線が計画実施されたのは、日本の産業経済が発達して貿易等が好調を呈したことによって、鉄道に投資されたためである。

 昭和年代になって、昭和元年に摺沢までだった大船渡線が、同九年に大船渡が開設され、翌十年には盛まで延びている。

 横黒線は昭和元年までに陸中川尻近開設され、橋場線も同年までに橋場開設を終えており、山田線は同年までに上米内までであったが、同九年までに宮古までのび、翌年山田、船越、大槌、釜石まで開通したのは昭和十四年である。

 花輪線は昭和八年に至り兄畑までのびている。

 東北本線の複線化電化工事が昭和三十一年より着手され、東京・青森間七百四十kmが同四十三年に全線完成をした。

 四十年十月に盛岡まで電気機関車が走り、複線化したので、盛岡-東京間が六時間五十二分と大巾に短縮され、同二十八年ごろの十時間十分から考えると隔世の感がある。

 複線化に伴って滝沢駅が勾配改良のため東方三百メートル下がって移転をしたのである。

 このほか国鉄バスの開通がある。

 最後に、橋場線から田沢湖線に至るまでの経過を、大曲市長最上源之助氏の『田沢湖線建設年表』を掲げる(昭和四十一年発行)。

田沢湖線建設年表→

4 陸運会社

 明治五年(1872年)七月一日郵便法が実施されたので、従来から存続していた駅伝制度は大きく変化すると共に、新しく転換せざるを得なくなった。すなわち官庁の公文書をはじめ、その他の書状信書は郵便に托さるるに至ったので、諸荷物や旅行往来などが取り残された。

 郵便以外の貨物の托送、人々の旅行は新たに組織された陸運会社によって運ばれることになったのはそのためである。かつて岩手県では、旧盛岡県時代の明治四年正月から、伝馬所の駅役人を改称して、元締役(もとじめやく)と称していたが、郵便の実施や陸運会社の組織に伴い、それが廃止されるに至った。明治五年十月二十二日大蔵省は「陸運社会ノ儀ハ相対継ノ稼業ニシテ物貨運輸ノ私会ナレハ、従前ノ伝馬所トハ全ク別種ノモノニ候云々」と説明している。郵便は官営となるに反して、陸運会社は民営となるので駅役人は不要になる。駅伝制度の変革であり、交通通信上の大転換の一つである。明治六年二月十三日、従来の駅役人たる元締役を廃止し、同年二月二十日に陸運会社が開設される。陸運会社は従来の駅伝制度の幾部を代行するものであるが、前者は公的機関であるのに対して、後者は後世の通運会社の性質を具備した私的法人であった。

三 本村の交通

1 はじめに

田沢湖線開通祝賀列車

 東北という立場から本村の位置をみると、岩手県中央部よりやゝ西北に位し、東は諸葛川を境にして盛岡市下厨川に接し、さらに北部東端を流れる北上川を介在して玉山村に隣接する。北は松森山付近で西根町に、三森山をはさんで田頭に接す。西は雫石町に続き、南は雫石川を境にして盛岡市太田に臨む。

 このように東北地方東斜面を南北に流れる長流北上川が本村の川前と松屋敷を流れ、雫石川が本村の大釜・篠木の南端を洗って北上川に注ぐ。これらの主要河川に沿うようにして南北に陸羽街道(国道四号線)が走り、東西に秋田街道(国道四十六号線)が走る。なお本村の俗称「分れ」で陸羽街道から分れた津軽街道が一本木、西根町を経て津軽に至る。この三本は東北の主要街道である。

 鉄道は東北本線が本村東端を通り、陸羽街道、津軽街道の分岐点「分れ」の近くに滝沢駅が設けられ、東北横断線としては今日脚光を浴びている田沢湖線が、本村の南部を通り大釜駅と小岩井駅を設けている。この線の小岩井駅の北部一帯は全国的に名高い観光牧場小岩井農場があり、全国から観光客が集っているが、将来相の沢・鞍掛に集中するものと思われる。

2 南部藩以前

東北本線

 人間に最も必要なものゝ一つに人体の七五%を占める水がある。この水は山と平地との境界線から多く泉が湧出している。従って、人間はこの境目に生息し、こゝを根拠地として動植物を求めて生活をしていたのである。

 目印になるのは目立つ山であったろうから、自然道路は山と平地の境から、谷間を経て峯を便りに通じたものであろう。これが道路となったのであろうが、必ずしも便利ではなかった。物資の運搬は人間の肩や背に寄るより外なく、他地方との交流には少なからぬ苦労をしたにちがいない。

 滝沢にある耳取、鬼古里、長者館の地名は、伝説によれば、大武丸にまつわるものであって、田村麻呂に攻めたてられた大武丸は、居館の長者館から鬼越峠(鬼が越えた)を越え現在の耳取の場所で耳をとられる。田村麻呂は征伐した証拠として大武丸の耳を取り、悪路王の耳と共に、腐敗しないように塩漬けにして、京都へ送り届けたということになっている。

 本村最古の道路中、最も繁昌した処は、姥屋敷の荷替坂(にがんざか)であるだろうと大坊善章氏はいう。

 元明天皇のとき、武蔵国秩父郡から天然の純銅、すなわち、和銅が出たので年号を和銅と改元されたが、この和銅年間(708-715年)に発見されたという尾去沢鉱山から、屋敷台-三ツ森-笹森-湧口-春子谷地-荷替坂-耳取-盛岡に通ずる道路、荷替坂から、外山(袖山)-篠木-大釜-渡し-猪去-志和に通ずる道路、湧ロから鞍掛-西根-御明神-山伏峠に通ずる道路、以上の三道であったらしいという。馬の背を利用して来た物資を交換した処がいわゆる荷替坂で、当時如何に繁昌していたかゞ想像されるし、また旅人にとって、飲料水は欠くことが出来ないのだが、酌んでも尽きることのない湧口も、当時如何ににぎわったか推察される。

 狩猟時代の遺跡をみると、東南で日当りがよく、しかも、かならず飲料水の得やすい場所が選定されている。その後を受けたわれら祖先の旧家は殆ど山麓に多い。このことは、田村麻呂が伝達したといわれる稲作にも関係するのである。すなわち、稲にはかならず水を必要とする。当時は水温よりも、水の得やすい場所を考慮したのであろう。

 宝暦十一年(1761年)九月二十八日付の『盛岡城事務日誌』の宗門改惣人数中に、厨川通り御村方旧家下の通りとして、大釜四軒、篠木二軒、大沢九軒、鵜飼七軒、元村七軒、〆めて二十九軒となっている。年代は不明であるが、この二十九軒は殆ど東南面の山麓近くにある。

 稲作の伝播は、おそらく、紫波から太田、太田から大釜日向の浅瀬を渡って伝ったものであろう。それは後の収穫高から考慮すると北進していることによって理解される。従って、この旧家間に道路があったものと推察される。

 この時代、自然の狼や熊等の動物の被害、天然現象の驚異、悪疫からの逃避は神仏を拝む以外に道がなく、屋敷神から氏神に進展し岩手山、湯殿山、伊勢参りになるのであるが、岩手山へのいわゆるお山かけの道路は、当然発達していたにちがいない。

 以上の道路は、自然の地形に従ったので、紆余曲折は免れなかった。

 最上源之助著『盛岡と大曲の交流』中、生保内の草剪家にある『甚内申伝覚』によると、秋田街道の項で述べた通り、前九年の役(1054-62年)に南部厨川に布陣した安倍族討伐のため金沢の柵を出発して東に駒を進めた源義家が角館・神代を経て生保内に至り、敵を不意討ちしようと、生保内の住人小太郎を案内人にたて国見峠を切り開き、南部に攻め入ったという。この秋田経由の軍と、太田の方八丁から進軍して雫石川の浅瀬を利用して大釜に渡った主力と力を合せて安倍館を攻めたのではないだろうか。いずれこの時には、すでに仙岩峠の交通が開けていたことになる。

 安倍の貞任と源義家にからむ残存せる地名が本村の南部に多い。たとえば、大釜の釜口から北東にかけて千が窪、参郷の森、鵜飼の鎧、旗曳山、旗曳谷地、滝沢の木戸口、松屋敷、諸葛川(籾屑川)等、これと交叉する、蛇の島対岸から北西にかけて、夕顔瀬、米が沢、諸葛川、笹森、鐙、胴が沢、姥屋敷のごときものである。これらを結ぶ道路が当然あったにちがいない。

 盛岡築城前の路線には、前述の通り、(1)天昌寺→篠木坂→雫石、(2)三つ森→荷替坂→猪去、(3)沼袋→上鵜飼→一本木、(4)天昌寺→耳取→鬼越→荷替坂、(5)夕顔瀬→上鵜飼→荷替坂、(6)岩手山道、少なくとも以上の六道があったであろう。

 現在の国道四号線、及び同四十六号線は、南部氏が三戸から南下した以後であって、ごく新しく近世になってからのことである。

3 南部藩時代

 南部藩時代については、前述の第二節、一の南部藩以降を参照せられたい。

4 近代

                     大森軍一氏 提供

あ 国道

 近代における交通は鉄道を主体として発達したが、滝沢村は東北本線と田沢湖線を有し、これら二線は本村の東側と南側に接しており、東北本線には滝沢駅を有し、また滝沢駅と厨川駅の中間に長根信号場があって、一時停車場として利用されていた。

 また田沢湖線は昭和四十一年秋田県へ開通したことにより、橋場線より田沢湖線と名を代え、本村に大釜駅と小岩井駅の二停車駅を有し、山田線と結び、太平洋側と日本海側を結ぶ最短線として利用されるに至った。

 しかし、交通の主体が長距離を除いて、自動車が主体を占めるようになり、昭和三十三年ごろから、次第に道路に対する認識が高まってきたが、国道、県道も当時は、未改良、未舗装であり、巾員もせまく雨期になると通交不能におちいるという状態がつづいた、村道についてはもちろん未整備の状態がつづいたことは言うまでもなく、地域開発上大きな障害となった。

国道・県道

 以下国、県道、村道と整備されるに至った経過については、後述の通りであるが、地域の発展に影響をあたえる道路については行政施策の最重点として多くの努力を傾注してきたが、村財政にとぼしく道路整備も思うにまかせず、まして道路改良舗装については手がつけられなかった。昭和二十六年初めてトラックを購入し道路の敷砂利を行なったが、年々ダンプカーを増し、三台まで増して整備をつづけた。昭和三十八年にはドーザーショベルを購入し、年賦払いをするなど苦しいため国、県の予算で道路を整備するよう努力がはらわれた。その間、国、県に対する請願、陳情がつづけられ、次に記述する通りである。

 この中でとくに本村における県道昇格において画期的なものは、昭和四十一年三月三十一日に本村中央部を横断し、大釜、篠木、大沢、元村、柳沢を通過する巣子大釜停車場線の県道、昇格である。この路線は当時、村道であったがカーブが多く、巾員がせまいため県道としては不適当な路線であった。それを村長が、開拓道に格下げをし、農林省の予算でこれら政策を行い、その後、国道46号線と国道4号線を結ぶ盛岡市のバイパス的要素が強いという理由で、県道昇格を強力に推進した。

 これら改良、舗装は普通数年間放置されるのであるが、昭和四十四年から四十五年二月までに全線の改良舗装が完了したこともまた例外であり、村一体となって努力したことの成果である。

 また小岩井有料道路は当初、小岩井から網張に至る、最短距離としては、本村内を通過することなく雫石町だけを通過しただけで綱張温泉に至ることができ、当初はそのような計画であったが、本村としては岩手山に近い姥屋敷部落にできるだけ近い路線を強く要望していた。

 岩手山麓の鞍掛山付近を通過させることによってこの付近の観光価値が高まるとともに姥屋敷部落の交通の利便、さらには柳沢部落にまで影響を与えることになるため村としてはどうしても本村の中を通過するよう強力に運動を展開した。県肉牛生産公社基幹牧場も村有地を県に貸付けており、これらとの関連を強調しながら路線の変更を運動した結果現在の有料道路の路線が決定した。昭和四十五年本村分が改良舗装を完了し、全線完了したのが昭和四十七年である。

 県道鵜飼線の県道昇格についても、盛岡市から役場に至る本村にとっては重要な路線であるが、この路線の県道昇格についても多くの努力がはらわれた。昭和四十三年当時盛岡市長であった、山本弥之助氏が新市街地である青山町を通り鵜飼に至るこの路線が、ことに盛岡市側の市道が毎年悪路のため補修に手をやいていた。

 そのため村道鵜飼線も含めて県道として昇格させようとして努力したが、なかなか昇格できないために市では青山町から境橋まで約一、〇〇〇メートルの改良舗装を行なった。本村としては当時、巣子、大釜停車場線の昇格を急務と考え、強力に運動を展開していたことから、県道巣子、大釜停車場線の昇格が実現の段階でこの路線について運動を展開したが用地取得のために職員を北海道まで派遣して取得するなど努力をかさね、昭和四十五年二月十五日、当時盛岡市長が努力して実現できなかった路線も含めて盛岡市より鵜飼に至る村道を県道に昇格した。昭和四十六年に一部舗装を行なったが、昭和四十七年から本格的改良舗装工事も着手し、翌年完成をみるに至った。

 その他県道の改艮舗装は、昭和四十五年をピークに殆ど改良舗装が完了したがこれら、国、県道の整備促進については、各市町村とも強い要望があり、県としても優先順位等もあるため、なかなか要望通り実施することができない。したがって本村におけるこれら整備促進に当っては、なみたいていの努力で実現できるものではなく、村長を中心として村一体となった努力の成果であろう。

 村道については防衛施設周辺障害防止事業としてとり上げた、岩手山登山道は昭和四十五年度、四十六年度の二ヵ年で改良工事を行なったが、補助額が八割であり高率であったが、これを県事業にとり上げてもらい県で一割負担し村から一割の負担だけで実施したことも異例の措置として残ることがらである。

 村道の舗装に着手したのは、昭和四十五年からであるが広域市町村圏の設定に伴い(盛岡市・岩手郡・二戸郡安代町・紫波郡を含む十二市町村)地方交付税の上積があり、村道の一、二級の舗装を初め、広域常備消防の設置、土木用機械整備、衛生処理施設など各市町村一体となった広域行政事務組合組織による事業が実施され、飛躍的に事業が推進している。

 村財政における普通建設事業費の伸びは、昭和四十四年から昭和四十五年の間に約四十%伸びており、これらは道路の整備に積極的に取り組んだことを示すものであり、村内各部落より部落に通ずる生活圏道路が殆ど舗装で結ばれるに至った。

い 県道

 滝沢村は盛岡市の西北部に隣接しているため西の秋田県へ、また北の青森県へ通ずる交通上の拠点をなしている。

 近年において交通機関の発達により、道路交通に対する需要の増大に伴い、従来の道路では交通量に対応できなくなって来た。したがって昭和二十年ごろから国道・県道の整備が重要な課題であった。

 本村を通る国道は三路線で、国道四号線は昭和二十七年十二月四日国道に認定され、国道四六号線は昭和三十七年五月一日認定、国道二八二号線は主要地方道盛岡毛馬内線から昭和四十五年四月一日国道に認定された。

 また県道においては昭和三十四年三月三十一日小岩井停車場線大釜停車場線・滝沢停車場岩手山線・赤坂滝沢停車場線が、本村内の小岩井・大釜・滝沢の三駅に通ずる道路として県道に認定された。

 その後昭和四十一年三月三十一日に本村の中央部を横断し大釜・篠木・大沢・元村・柳沢の各部落を通過する巣子大釜停車場線が県道に認定され、さらに昭和四十五年十二月十五日鵜飼より盛岡に通ずる鵜飼盛岡線が認定された。

 また小岩井停車場線より小岩井農場を通り、本村姥屋敷、鞍掛山のふもとを通過して雫石町網張温泉に至る小岩井有料道路が、昭和四十四年三月二十二日認定となった。

 県道は全部で七路線、国県道あわせて十路線が村内にあり、このような村は全国的にも珍しい。

 しかしこれら国・県道は認定されたが悪路のまま放置されていた。改良・舗装に着手したのはごく最近である。

 国道四号線は昭和三十六年四月改良舗装が完了、国道四六号線については昭和四十年十二月四日改良舗装が完了した。また国道二八二号線は、昭和三十九年から昭和四十一年にかけて改良舗装が完了したことにより、昭和三十六年から昭和四十八年までに全線改良舗装したことになる。

 県道については、巣子大釜停車場線が昭和四十四年七月五日より昭和四十五年二月二十日までに改良舗装が完了し、大釜停車場線は昭和四十三年三月三十一日改良舗装が完了、また赤坂滝沢停車場線は昭和四十一年に改良に着手、昭和四十四年十二月二十一日舗装が完了した。滝沢停車場岩手山線は昭和四十三年に改良に入り、昭和四十四年九月十三日から昭和四十五年までに一部舗装を行い、昭和四十八年以降にも改良舗装がつづいている。

 小岩井停車場線は、昭和四十二年三月二十五日改良舗装が完了した。鵜飼盛岡線は昭和四十七年改良舗装に着手、小岩井有料道路については昭和四十五年改良舗装が本村分完了、全線は昭和四十七年七月三十一日完了したことにより、昭和四十八年には鵜飼、盛岡線、滝沢駅岩手山線の二路線が一部改良舗装が残っている。

う 村道

村道

 村道においては昭和二十九年三月二十一日認定を行なったが、開拓道については、昭和四十三年十一月五日村道として認定された。これら村道は再三にわたって砂利敷整備をしたが、春になると悪路と化し交通上の阻害となった。昭和四十三年から昭和四十四年にかけて、村道においては初めて新道国分線の改良舗装を行なった。

え 村内道路延長表

村内道路延長表→

 昭和四十五年自治省の広域市町村圏設定に伴い、盛岡広域市町村圏計画を立て、その中で特に道路網の整備が重点となった。昭和四十五年から一級、二級の道路舗装に着手し、昭和四十五年新道国分線の改良舗装、沼袋線、綾織線、箸木平線、洞畑線、第二洞畑線この現道舗装を行なった。つづいて昭和四十六年には第一綾織線、第二中鵜飼外久保線、厨川駅滝沢元村線、風林線、一本木上郷線、滝沢駅柳沢線の六路線が現道舗装された。昭和四十七年には、御所ダム付替道、八幡前第二上釜線、鳥谷平線、黒畑線、谷地中線、外久保線、根久保工区第三号幹線、一本木松島線、滝沢駅柳沢線、柳沢岩井花線、外舘線、十一路線が完了した。この三ヵ年間の舗装延長は二六、八二〇メートルにおよび急速に道路が整備された。

 これら舗装のほかに国立青年の家取付道の新設、自衛隊障害工事として岩手山登山道の改良、第五柳原線の付替道の新設など交通網の整備が進んで来た。

 昭和四十四年十月二十八日格付決定によれば

 村道の一級
国・県道と同様で、集荷間(二十五戸以上)相互に相通じ、また、中心地と集落、公共施設にも通じる、集落の幹線で、しかも交通量が大なるものを一級村道としている。

 村道の二級
一級村道より交通量が少なく、一級村道に連絡し、さらに集落を相互に連結するものをいう。

村内の国道・県道・3メートル村道→