第一章 戦争と災害

第一節 軍備

 明治四年十一月に東北鎮台が仙台に開設され、本営は仙台に、分営は弘前におかれた。同五年二月廿八日兵部省が改められて、陸軍省と海軍省に分れた。同年十二月一日徴兵令が公布になり、それまで傭兵の観のあった軍隊は全国の壮丁より選定した徴兵によることになる。すなわち、武士の特権を廃して全国募兵の制度を設け、国民皆兵を原則として日本男子二十歳の者を悉く兵籍に編入し、兵役に服することであった。同六年正月(太陽暦となる)全国六鎮台となり、そのうちの一つは仙台鎮台で東北・新潟・北海道はその管下に入った。徴兵による軍隊がこゝに端を発することになった。同六年八月三十日の布達によると満十九歳になる壮健な男性を徴集することを原則としている。また免役規則には、官庁に奉職するもの、専門学校修学中のもの、各学科などの教官資格のあるもの、戸主たるもの、独子独孫あるいは嗣子承祖の孫、罪科ある者、父兄代行家庭を治める者、養子たるもの、徴兵在役中の兄弟をあげている。従って、当時は、長男は殆ど徴集されず、次男以下をとったのである。働き盛りの男子を長期間留守にすることは、農作業に甚大なる影響があったからである。かくのごとき徴兵制度を実施したが、厳しい国民の服役義務ではなかった。明治九年の徴兵検査場は、盛岡・花巻・宮古・久慈の四ヵ所でなされたが、官公衝の未発達なため寺院が充当されている。

 明治十年二月仙台鎮台兵として西南の役に出征した結果によると、士族軍人よりも、むしろ農村出身軍人が強兵であることが判明した。本県関係の西南の役殉難者で護国神社に合記された者が五十四名に達している。しかし本村分は不明である。

 明治十二年参謀本部が新設されて軍令を司り、監軍部が設けられて軍事教育を統監し、これが後の教育総監部となった。幹部養成として士官学校・戸山学校が整備され、下士官教育の教導団も強化され、同十三年には村田銃が出来て陸軍統一の銃となる。同十四年には常務・徴兵・戸籍の三系の兵事課が設置され、同二十三年までこれがつゞいている。

 明治十九年正月六鎮台改称に伴い、仙台鎮台は第二師団となり、本県徴兵はここに入営することになる。

 明治二十七年八月一日清国と国交を絶ち戦争になり、翌年四月十七日講話成立して日清戦争が終っている。この時の戦病死者は一千十九人中第二師団は七百三名で、岩手郡は八十名、本村は後述のように四名になっている。

 明治二十八年まで四百人未満であった徴兵が、翌二十九年三月三十一日には二倍の徴兵となる。政府は日本が国際情勢に対応するため従来の八個師団の外に四箇師団を増設して十二箇師団となり、軍管区改正により第八師団の管下に岩手県が入ったのである。

 明治三十五年一月二十三日八甲田山凍死事件がある。本村においては次の二名が凍死している。

凍死者→

 明治三十七年二月六日、日本はロシアと国交を断ち、戦争に入った。ロシア帝国の東亜進出は、徳川幕府の末期からであり、日本の北部に侵入して脅威を与えたのである。それが日清戦争を機会に関東州を押え、東亜への進出目覚しく、日本と対立することが多く、遂に戦争となる。日本軍は関東州を占領し、北進して奉天や黒溝台にロシア軍を破り、海軍は日本海においてバルチック艦隊を全滅させたのである。同三十八年九月、日本は米国の仲裁によってロシアと講和をし、関東州の租借権と南樺太割譲をうけたのである。本県の出身者一千二百五十二名が戦病死し靖国神社に合祀されている。本村においては後述の三名が戦病死している。

 日露戦争後の明治四十年九月には十二箇師団から十九箇師団に増加している。壮丁の数は人口増加に伴ったであろうが、明治後期は富国強兵を標語としていた時代であり、日本の経済力も伸びてはいたが、国民の軍事負担は軽いものでなかった。

 明治四十一年六月下厨川の後に観武ガ原と改称される茨島に第八師団に所属する工兵第八大隊の転営と同時に憲兵隊の分駐となり、同年十月十日創設されることになる。この憲兵は陸軍大臣の管下に属し、主として軍事警察を司るが、行政警察・司法警察をも掌るので強い権限を持っていた。明治四十二年騎兵第二十三連隊、翌四十三年には第二十四連隊、騎兵第三旅団司令部、その他盛岡衛戍病院軍馬補充部等の軍関係等があったから憲兵分隊が強化され、帝国主義思想以外の思想に厳重なる目を光らせた。

 騎兵旅団の設置に伴って、近郊農村から燕麦三千石の馬糧、稲藁六十万貫以上を確保し、納入することが要請された。外に牧草・米穀・蔬菜・鳥獣肉などの軍需用品の確保も要請され、消費産業の奨励・品質の改良増産を刺激し、盛岡市に軍人の姿を多く見受けるようになる。

 大正三年から欧州大戦が勃発し、同七年終了したが、日本でも連合国側に立ち、八月二十一二日ドイツと国交を断ち、合戦し、日本海軍は南洋諸島の独領を占領し、十一月七日にはドイツの東洋根拠地山東省の青島及びその付属地を占領する。これが日独戦争である。この戦争は海軍が主となった戦争であった。その結果、日本の南洋諸島の委任統治が開始され、後、日本海軍がここで合戦を交えることになる。

 日本の海運界は日独戦争のころから伸展をみ、県内産業も、このころから急に上昇したのである。

 大正十四年三月二十七日陸軍の軍備縮少に伴い、四箇師団を廃止することとなったが、この年から全国一斉に官公立の中等学校以上の男子校に現役の陸軍将校が配属になり、年に一度野外教練を実施し、制服・制帽・脚絆・短靴・背嚢に銃を担い行軍し発火演習をして野営をする。卒業後は幹部適任者とする制度があった。

 大正十五年には青年訓練所令が公布になり、国民皆兵の思想と鍛練の普及が図られた。

 昭和十年三月三十日勅令で青年学校令が定められ、次第に国防軍の一翼を担う訓練を義務づけられてきた。

 後、支那事変、太平洋戦争と発展したが、これについては次項にゆずり、ここでは省略をする。

 本村出身徴兵は青森第五連隊か弘前第三十一連隊に入隊したが、兵科によって他の連隊にもはいった。

 海軍は横須賀鎮守府の管轄であったが、戦時中は大湊海軍区に所属した者もあった。

第二節 戦争

一 秋田戦争

 江戸幕府に代わり明治新政府は、その日標を天皇中心として強力な国家をつくることにあった。そのため、明治二年(1869年)に版籍奉還を実施したのである。

 南部藩は東北諸藩と共に、奥羽同盟に加入して薩長の官軍に抵抗したのである。東北諸藩の大名の多くは、佐幕派として白眼視されるようになった。東北の諸藩も歴史の進行が開国であり、新しい統一政府の出現にあることを知っていたので、仙台藩も南部藩も、重臣を京都に出張させて新体制にならおうとしていた。このとき、京都に出張していた南部藩の代表は楢山佐渡であった。

 しかし薩長の官軍派は、幕府征討の軍をおこし、江戸城をくだし、会津を攻めることになり、その援兵を東北の諸藩に命じたのである。藩兵を京都に出して、新政府に協力しようとしていた東北の諸藩も会津征討を見て、新政府にうたがいを持ったのである。何のための会津征伐か、その理由をたずねても官軍派は答えず、ただ援兵だけを命ずるのであった。官軍派の態度にうたがいをもった東北の諸藩は、会津が陥落すれば次はわれわれかと疑ったのである。

 そこで東北の諸藩は白石会議を開き、奥羽諸藩が同盟して、会津藩の助命を嘆願した。九条総督は、これをいれたので奥羽同盟の人人も喜んだ。ところが官軍派の世良参謀ががんとして会津の降伏を認めない。理由を聞いても答えない。ついに奥羽同盟の幹部は世良参謀を暗殺し、総督府に反抗することになったのである。

 仙台藩は会津征討を逆に応援軍にきりかえた。総督府は、仙台から逃げて南部藩に援助を求めた。しかし南部藩はついに総督派とはならなかった。総督は秋田藩に援助を求めた。

 秋田藩も奥羽同盟に参加してはいたが、新政府には反抗すべきではないとして総督をかくまい、奥羽同盟から脱退することになった。

 南部藩も積極的に総督の味方ではなかったが、はっきりした反抗決意を固めたのでもなかった。そこへ藩を代表して京都に出張していた家老楢山佐渡が、京都で薩長のとった態度に不満をもち、反官軍派的な気特で帰国して来た。これを知った目時隆之進や中島源蔵達は、反官軍ではいけないと説いたが容れられず、中島は大阪の宿舎で自殺、目時も黒沢尻の宿舎で自殺し、最後まで楢山の気特をかえる様に勧めたが、楢山はあくまでも反官軍を主張したので、迷っていた藩論も反官軍派となり、奥羽同盟の約束に従って秋田を攻めることになった。

 南部藩は、その前から洋式の精鋭な武器をたくさん買い入れており、よく訓練されていたので鹿角(かずの)口から秋田を攻撃し、一挙に大館にせまった。仙台藩は横手口から秋田に侵入し、総督府軍を秋田から海に追い落す勢を示した。

 しかし海路から官軍が大挙上陸し、形勢が一変し、同盟軍は総退却となり、八月六日に戦争を始めてから四十日で無条件降伏となった。南部藩は十三万石に減俸され、宮城県白石に転封され、その後は、県南の仙台領と共に松本松代の諸藩に管理されることになった。

 この戦争に従軍した記録はないが、厨川通りからも、もちろん従軍したことと推察される。

 なお、第二編第五章維新の混乱期を参照せられたい。

二 日清戦争

 朝鮮半島を自国の勢力圏におこうとする日清両国の間にあって、朝鮮は親日的な独立党と親清国をとなえる事大党の二大政党が相対立し、抗争をつゞけていた。

 たまたま、東学党の内乱を期とし援兵と称して日清両国が朝鮮に軍隊を派遣し、遂に日本は明治二十七年(1894年)八月一日清国に対し宣戦するに至った。北進する日本軍は清国軍隊を朝鮮外に追い出し、勢いをかって旅順、威海衛、ついで主都北京に迫ろうとし、海軍もまた同二十八年二月、黄海に敵の北洋艦隊を破り大勢を決するに至った。

 この戦争で、本県出身の軍人が、戦死したり、戦病死したものは五百人、軍夫は五百十九人、合計一千十九人と計算されている。この戦争は日本にとっては、大清帝国という大国との交戦であり、未曽有の大戦であった。その当時、本県将兵の多くは第二師団に属して戦死をしており、軍夫の大半も同所管であった。兵士は赤い竪縞の入ったズボンをはき、肋骨入の服を着用し、手銃をもち背嚢を背負った。兵の内地給与は週給与十七銭五厘から三十銭程度となっており、もちろん病罰減給があった。

 このとき、日本全国にわたって祖国のため殉じょうとする義勇兵団組織の動きもあったが、天皇の詔勅によって禁止解散を命ぜられ、服部岩手県知事もその旨を体して県内に告諭を発し、本来の業に従事するように指示している。国難のために殉じた軍人・軍夫の出征はもちろん、県民に与えた衝激は一入大きかったのである。

本村戦病死者→

三 日霹戦争

 明治三十七年(1904年)二月十日、日本はロシヤ帝国と国交を断絶し、戦争状態に入った。戦争は翌年にわたり、日本海の海戦や、奉天合戦を経て終了し、両国間に講和が成立したのは、九月五日であった。この戦争は、これまでの戦争の最大級とされ、東亜民族に大きな衝動を与えた。東洋には西欧諸国の植民地や保護国が多く、自然科学などもその進歩がおくれていたので、人種的にも差別をうけ劣等民族扱いにされ、奴隷扱いにされる傾向にあったのであるが、極東の一列島の日本民族は、新興国ながら、ロシア大国と合戦して勝利を得たというので、東洋諸民族に勇気と自覚を促す結果となった。

 この戦争に際し、県人の多くが入隊している第八師団には、六月七日動員令があり、それぞれの任務について出征した。この中で、輜重輸卒の数が首位を占めていることは一つの特徴ともいえる。当時の歌謡に「輜重輸卒が兵隊ならば電信柱に花が咲く」と歌われたものである。日清戦争のときは、この兵科はなく、軍夫と称される人達によって弾薬・糧秣・死傷者等の運搬がなされたけれども、日露戦争に初めてこの兵科ができた。いくらつとめても階級は二等卒に止まり(日華事変中、昇進の道が開けた)一段と低い不平等な扱いを受けていた。

 岩手県人で戦死したもの戦病死したもの一千二百六十三名に及んだという。その多くは、国家の手で靖国神社に合祀され、県でも県社招魂社に合祀して、国家に殉じたものゝ英霊を弔い慰霊の場とした。本村の戦病死者は下のごとく三名であった。

戦病死者→

 銃後である岩手県では、県民挙って、軍費の供給(国庫債券の購入など)勤倹貯蓄、軍人家族の援護に力をつくしており、農村では、冬期の耐寒用として藁靴を作成して納入したりしている。

四 シベリア出兵

 ロシアでは大正六年(1917年)に革命が起こり、皇帝の専制政治をたおして、共和政府がたてられたが、ついで十一月に第二次革命によってレーニンの指導する政府がたてられた。プロレタリア革命の成功したのは世界でこれが初めてである。

 列国はロシア国内にあった連合国チェコスロバキア軍を救出することを理由に、大正七年シベリアに出兵したが、革命軍の勢いが強いので米、英の軍隊は間もなく撤兵した。日本軍だけは、七万の軍隊をもって四年間、シベリアにおいて革命軍と戦ったが扱害が大きく、大正十一年やむなく全軍を引きあげた。

 この間、日本国内に米騒動が起ったりして、この出兵は、あまりかんばしいものではなかった。

五 第一次世界大戦

 大正三年(1914年)七月、バルカン半島の一角から混乱が勃発し、ドイツ、オーストリア等の同盟国とロシア、イギリス、フランスなどの連合国との間に戦争が開かれ、のちにはイタリア、アメリカ合州国なども連合国に参加して前後五年間にわたる第一次世界大戦となった。我が国も日英同盟の誼を重んじ、大正三年八月、連合国に加わってドイツに宣戦し、まずドイツのアジアにおける根拠地チンタオを攻撃して十一月にこれを占領した。この年十月海軍はドイツ領の南洋諸島を占領、大正六年には地中海に出動して連合国を助けた。

 大正七年十一月ドイツ、オーストリアはついに屈服し大正八年六月、パリにおいて講和条約が調印され、大正十一年十二月にはワシントン会議が開かれ、日英米海軍力の保有率をきめ、中国における門戸開放、機会均等などの原則が確立し、太平洋における日英米仏の権益が相互に保証されるような協定が成立して第一次世界大戦は終末を告げた。

六 満洲事変・上海事変

 満洲事変は昭和六年九月十八日、柳条溝事変に端を発し世界注視の戦争になった。いわば日本の軍国主義が反対陣営に投じた最初の爆弾である。

 以後、日本の外交はすべて軍部の動かすところとなった。緒戦に奉天付近で張学良の軍を掃蕩し、十一月には黒龍江方面、翌七年一月より三月にわたり熱河方面に戦った。

 熱河戦当時の歌に

   何処まで続くぬかるみぞ
     三日二夜 食もなく
   雨降りつゞく てつかぶと

 満洲の野に戦が勃発すると抗日運動が全支にみなぎり、ついに昭和七年二月、上海事変が始まり同年五月の停戦まではげしい戦がくり返された。この事変の結果、満洲国が樹立されたが全支には抗日人民戦線の擡頭するところとなり、ついに支那事変への道を開くに至った。

七 満蒙開拓青少年義勇軍

 昭和九年、関東軍の東宮鉄夫大尉と茨城県友部国民高等学校長加藤寛治との間に青少年を大陸において訓育して、満洲開発の理想的先駆者とする目的から、三江省の東部国境ウスリー江岸の饒河を選定して、大和村建設に着手したのにはじまる。

 ついで昭和十二年九月、チチハル北方の伊拉哈(チャーハル)に三百名の青少年移民が入植した。これによって有望性を認識した政府は日本農家百万戸、清洲移植二十ヵ年計画を決定して、昭和十三年初めて全国的に十三年度義勇軍第一次募集を行い、二月から三月にかけて、約一万名の応募者を茨城県内原訓練所に入所後渡満させたのである。

 また拓務省は昭和十七年度より満洲開拓第二期五ヵ年計画を実施することにし、合計十三万人の青少年が渡満することになった。

 昭和十八年には満蒙開拓青少年義勇軍岩手中隊が組織され、本村からも志願して同年三月十八日出発をしている。

 昭和十二年以来、岩手県立六原青年道場から茨城県内原義勇軍訓練所、次いで満蒙開拓幹部訓練所に入所して教士となった矢幅正三郎氏は、岩手矢幅中隊の隊長として軍事・農耕に活躍した。

 終戦となるや、自然現地解散の形となり、現地で死亡した者もあるが、その他は抑留後殆ど引揚げている。

八 支那事変

 昭和十二年七月七日、北京郊外蘆溝橋事件に始まった支那事変は政府の不拡大方針にもかゝわらず戦線は全支に拡大していった。

 すなわち北支においては北京・天津・河北・山西を政略し、中支においては同年十二月首都南京を攻略、翌十三年十月漢口をついで徐州に大会戦を展開した。また南支においては、同年同月バイアス湾に上陸し、広東(かんとん)を始め要地を占領した。

 本村からも多数召集され、主として北支派遣軍に加わり、汗と泥にまみれつゝ幾多の武勲を上げていった。大事な息子・夫・兄弟を戦線に送った留守家族は、軍事郵便による戦線からの便りに、唯一の希望を託していたが、遺骨となって故山に帰る人もふえていった。

 国内においては軍国主義が益々大勢を支配し、国際的には列国の非難のうちに戦いは、ぬきさしならぬ泥沼のような様相を呈しつつ、太平洋戦争へと発展していった。

 本村における戦病死者は下記の通りである。

戦病死者→

九 太平洋戦争

1 戦争の動機と経過

 昭和十年九月盛岡の騎兵旅団は満洲派遣に決し、大陸方面のたゞならぬ気配を感ぜしめ、翌十一年六月一日には盛岡工兵隊は工兵第八連隊と改められ、軍備拡充がうかがわれる。

 昭和十四年春には、盛岡に陸軍予備士官学校が開校され、四月一日第一回入校式が行われるという事態となった。また国民の義務教育である小学校も昭和十六年四月には国民学校と改称になり、国家目的のため、あらゆる機関が新体制運動のもとに改編を余儀なくされた。このことは昭和十一・二年以後に拍車をかけて強化されている。

 県内の情勢でも、飛行機の献納や飛行場の物色、防空思想の普及となった。青年団から青年訓練所・青年学校と転換し、村の婦人会から愛国婦人会・国防婦人会と転向して行った。市町村消防団は警防団と改められ、招魂社は護国神社と改称された。

 第二次世界大戦における各国間の関係は大そう複雑であり、日本の立場もまた複雑であった。中華民国は米英等西欧諸国の援助を受けて、あくまでも戦いを続け、支那事変は長期化し何時終るとも知れぬ状態となり、戦争の継続が経済的に困難となって来たので、一つには南方の資源を確保して戦うための経済を立て直し、一つには支那事変長期化の原因をも一挙にたちきり、日本のアジア制覇の妨げになるすべてを排除しようとしたのである。

 はじめ戦局は日本の有利と見えたが、アメリカの生産力は間もなく戦線に反映され、日本国民は、この戦争の性格は過去の数次の戦争とは変っていることを感じはじめた。つまり、低い民度の国力や精神力だけでは、強力な米英を相手にして、この大規模戦争を続けることは出来ないことがわかってきた。要するに物量戦であるということである。

 昭和十六年十二月八日、日本はハワイのアメリカ海軍の根拠地を奇襲攻撃し開戦の狼火を上げた。これと同時に中華民国、シャム、マレー方面に大規模な作戦行動をおこし、十二月二十五日香港、同十七年一月二日マニラ、二月十五日イギリスのアジアにおける最大根拠地シンガポールを占領し緒戦をかざった。ついでジャワ、スマトラ、ビルマに進撃し、日本軍の向うところ敵なき感をあたえたが、米国の軍需生産の増加とともに戦いは次第に不利となっていった。すなわち、日本海軍のミッドウェイ、ソロモン、ガダルカナル島の戦いの失敗を転機に攻勢から守勢へと余儀なくされていった。

 応召される度ごとに各神社において武運長久の祈願祭が施行された。

 しかし、昭和十九年七月には、サイパン島を失い、軍需輸送路が断たれ、多くの船舶を失い補給は困難となった。

 昭和二十年二月、マニラが奪還され、三月に硫黄島が、六月には沖縄が占領されるに至った。連合軍の包囲環がちぢまるにつれ、本土に対する空襲ははげしくなり、大都市、軍需工場都市はほとんど壊滅した。

2 国内の状態

 東条内閣は初めから弾圧政策を行なったが、太平洋戦争が始まってから、ますます国民を制圧して労働者の動員、経済統制、政治活動や、言論の自由を一切封鎖していった。

 昭和十七年の選挙は、いわゆる大政翼賛会のさん下翼賛壮・青年団と官憲が干渉する選挙で、例えば村会議員にも翼賛議員と称して候補者を定員までしぼって推薦をした。

 また自由主義の言論行動や、少しでも反軍的な者はビシビシ投獄されたのである。

 昭和十九年、政府は決戦非常措置要綱を発表して国民動員を強化拡大し、徴兵適格検査を一年繰上げて実施をし、甲種合格以外の者は強制的に健民修練所へ入所させて訓練をした。

 また、個人の意志、職種の都合如何を問わず、軍需工場等への動員を強行した。男子の多くは兵隊として、あるいは徴用工として村を出て行き、村はひどい労働不足になやまされた。戦争が長びくにつれて戦死者も数を増し、村はかなしみのうちに数々の村葬を行なった。

 経済統制は益々強化され、食糧、衣料の配給割当、主要食料の供出制度をはじめ、ついには大豆、馬鈴薯、山菜類の供出まで要請された。軍需資材の欠乏から、各家庭に対し、金属類の回収、貴金属類の献納が強制され、伝承の重宝類をも泣いてこれに応ずる外はなかった。軍需燃料の不足から松根油の供出が命令され、その原料たる松の根を掘ったのである。

 衣料の不足から学童にはアカソ、藤皮の供出が割当てられた。極度な物資欠乏に「ほしがりません、勝つまでは」を標語として耐えぬいた。

 防空体制の強化と共に防空演習への協力が各家庭に強制され、婦人、子供も防空頭巾、モンペ姿で出動し、はては竹槍訓練をもなされるに至った。

 太平洋戦争中、国民の権利を抑圧し、また統制経済に関与した諸法令等を列記すれば

  大正十四年   治安維持法公布
  昭和十三年三月 国家総動員法成立
  〃 十四年七月 国民徴用令公布
  〃  〃 九月 価格等統制令(物価停止令)施行
  〃 十五年十月 大政翼賛会成立
  〃 十六年四月 六大都市に米穀通帳制実施、後全国にも施行
  〃 十七年一月 衣料の切符制実施
  〃 十八年六月 学徒戦時動員体制確立
  〃 十九年一月 防空法による疎開命令出る
  〃  〃 二月 決戦非常措置要綱実施
  〃  〃 八月 満十七歳以上を兵役に編入

3 終戦

 昭和十八年九月に、イタリア、同二十年五月にドイツがそれぞれ降伏してからも日本は戦いを続けていたが、日本の戦争指導者は最後的な国内総動員をはかり、本土決戦にそなえていた。これがため村内からたくさんの軍人が敵の上陸にそなえ、挺身隊として国内のそれぞれの要所に動員され、物資のない防禦作戦に苦しめられたのである。

 昭和二十年二月十六日米機動部隊が本土に来襲して以来、日本の空は完全に連合軍の制するところとなり、本土は焼土と化して行った。

 昭和二十年三月十四日には、グラマン機の編隊が盛岡を空襲し、七月には釜石も空襲と艦砲射撃のため見る影もなくなった。

 混乱と恐怖、生産の停止、外地戦線との連絡杜絶と国内は殆どマヒ状態となった。昭和二十年七月二十六日アメリカ、イギリス、中華民国が対日共同宣言(ポツダム宣言)を発表し、日本の降伏をうながした。

 政府はひそかに和平の斡旋方をソ連に申入れたが無視され、かえって宣戦を通告して来た。八月六日には広島に、九日には長崎に日本の夢想だにしなかった原子爆弾が投下され、一瞬のうちに両市は壊滅し幾十万の市民がそのいけにえとなった。十四日にはポツダム宣言の受諾が決定され、悪夢のような時間の経過後、昭和二十年八月十五日天皇は降伏の詔書を放送され、ここに日本は泣いて無条件降伏することになった。三十日連合軍司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着し、九月二日東京湾に進入した米艦ミズリー号上において降伏文書の調印式が行われた。こうして日本の帝国主義は完全にくずれていった。

 同九月占領要項が施行され、総司令部による諸改革がつぎつぎに断行されていった。すなわち、婦人参政権、労働組合の助成、教育の自由主義化、政治思想犯の出獄、財閥解体、農地改革、神道と国家の分離、戦犯容疑者逮捕命令、軍国主義指導者の公職追放等である。しかしながら総司令部にも有徳の士のみではなかった。従って行き過ぎや当局者との紛議も少なくなかった。

 岩手県には九月十二日米軍先発隊シシリー少佐以下七名が来県し、内丸の岩手県教育会館に駐屯した。巷には米軍の色々な風説が流布し、混沌のうちに当局者も国民も不必要なまでに卑屈になっていった。各官公署には政府からひそかに過去の重要文書の焼却命令が出て、あわてて焼却するなど貴重な数々の資料をうしなった。各学校においては軍国主義的な歴史をはじめ、幾多の図書を焼却したのである。

 この太平洋戦争にあたり、一般国民は終戦の最後の瞬間まで敗戦の日を迎えようとは夢想だにしなかったのであるが、全国の宗教家中には、事前にこのことを予言した人もあり、学者特に科学者は敗戦を知りながら口を開けることが出来なかった。

4 復員

 昭和二十年八月十四日、日本が受諾したポツダム宣言に「日本軍隊の完全な武装解除後、各自の家庭への従事」。すなわち「皇軍」の完全な解体を主要条件の一つにしている。

 当時内地・外地合わせて陸軍は五百五十万、海軍は百五十万の兵力を有していた。海軍の方はすでに壊滅的状態であり、航行可能な艦船は空母二、巡洋艦三、戦艦一隻という全くみじめな姿となっていたが、陸軍はいわゆる「本土決戦」をとなえて内地に二百五十六万の兵力を温存していた。これらの残存部隊の中には降伏を心よしとせず進駐軍と刺し違えるなどと過激な行動をたくらんでいたものもあったが、その多くは「一発の銃声も開かず一兵の血も流さず」、マッカーサー連合軍司令官も意外に思った程復員はスムーズに決行された。復員する兵士、疎開から帰る人、物資を運ぶ人等交通機関のゴッタ返す中に、九月一日海軍の百十万がまず復員し、ついで十月十五日内地陸軍部隊の復員が完了した。しかしながら在外部隊の復員は船舶並びに外地それぞれの国情等により非常におくれ、ソ連地区にいたっては強制労働に服させられる等幾多の困難が伴い、戦後十数年にして概ね完了を見るに至った。

 また遺骨となって故山に帰る人も多く、戦時中のごとく護国の英霊としてではなく、人間一人の死として迎えられ、ささやかな家庭葬をもって葬られていった。

5 戦歿者名簿

戦歿者名簿(1)→  (2)→  (3)→

第三節 在郷軍人会・郷友会

 義務兵役実施以来、日清・日露の両戦役に従軍した多くの在郷軍人が凱旋後戦歿者の慰霊戦友親睦をはかり、かつ軍の編成に在郷軍人の精鋭を要請することがますます切実となり、これにこたえる団結が必要となり、帝国在郷軍人団の創立をみるに至り、岩手県及び本村は日露戦争後の明治三十九年に在郷軍人団が組織されている。これが明治四十四年(1910年)三月帝国在郷軍人会組織の前身となった。ここに軍人団の名称が軍人会に改められ、分会を各町村におくことになり、本村にも、もと軍籍にあった予備兵役・後備兵役・補充兵役・国民兵役からなる分会組織が出来あがった。こえて大正三年(1914年)十月、時局に鑑み、陸海軍が提携することになり、大正十四年に至り規約の一大改正をみ、ますます活発となり、ことに満洲事変以来軍人の強化発展が切実となり、「軍人精神を鍛錬・軍事能力を増進するにあり」とすることを目的として、その事業内容がすべて軍事的要素を主とするものであった。

 在郷軍人にとって一つの年中行事ともいうべき「簡閲点呼」があった。分会長は毎年末、未教育者、既教育者や該当者を集めて点呼し、数ヵ月軍人教練を施し、連隊区から派遣される執行官の点呼を受ける制度であるが、当時としては何より厳正なもので、これに固くなりすぎて色々の珍談が残っている。

 支那事変から太平洋戦争中は、応召の準備、召集、徴兵検査の援助、戦歿者の慰霊、遺族の援護、青年学校への協力等、分会長をはじめ分会員の仕事は非常に多かった。終戦直前の在郷軍人はわずかに支那事変から帰還した会員が村にとどまる程度で殆ど従軍していた。

 昭和二十年八月十五日、終戦と共に明治以来幾多の変遷をたどった在郷軍人分会も、三十五年の歴史に終止符を打たねばならなくなった。日清日露をはじめ各戦役に従軍した老軍人と、わずかながら復員役人を含めた分会長の手によって、分会解散を行なってしまった。

 本村の軍人分会の初代会長は准尉工藤己太郎、第二代獣医少尉大坊克己、第三代軍曹岩井三之助、第四代軍曹土井尻喜四郎、第五代伍長佐藤初蔵、第六代獣医少尉角掛金助、第七代伍長佐藤初蔵、第八代上等兵中村良吉、第九代一等兵勝田久吉、第十代上等兵井上専次郎、第十一代伍長田沼三郎、第十二代曹長岩井清、第十三代中尉田沼義男、第十四代少尉鎌田他七、第十五代軍曹佐藤宏、第十六代軍曹日向昌一の各氏であった。

 昭和二十七年に「本会(郷友会)の目的は会員相互の親睦修養を図り、国民の精神的中堅となり国際平和に協力し、道義国家の再建に寄与し、併せて祖国防衛、英霊顕彰、遺家族傷病兵の援護・社会福祉・公益事業等に協力する事」を目的として郷友会を創立している。

 初代会長岩井清、第二代武田直弥、第三代国分征四郎、第四代武田直弥、第五代斎藤直一郎の各氏で、初代から現在までの理事長は鎌田他七氏である。

第四節 遺族会

 戦後敗戦の混乱と連合国側の徹底的な軍国主義の追放指令によって、いままで護国の英霊とされていた戦歿者の取り扱いは誠に冷淡であったので、遺族の傷心はきわめて悲痛なものがあった。政府もまた遺族の援護について何等手をうたなかった。こうしたなかで、早くも県下各地に遺族同志が相より相扶け合って共に生きて行くよりどころを求めるため、遺族会の結成をみるようになった。そして県にその連合会ができ未組織地区にその結成を呼びかけてきた。本村でもこれに呼応して昭和二十七年五月五日の駒形神社祭典に結成をみている。初代会長には田沼甚八郎氏がなり、同氏逝去の昭和三十四年から高橋正氏が第二代会長となっている。