第二章 水上交通の変遷

 岩手県においては、陸上交通以外、兼ねて旧藩以来の慣習に基づき、舟航をもって交通すると共に且つ物資の交易搬出に充当して来たが、さらにこれを上流に拡張するの方針を定め、明治五年(1872年)八月二十四日左の布告を発し、指定区域内にある簗簀留の撤去を命じている。

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 これらの区間は、従来から筏を流していたところであり、小型平田舟なら上下が可能であると考えられたものであろう。雫石川のごときも、川の中にあって邪魔になる大石の除去作業が実施され、爆薬で砕かれたり、石工によって割られたりして川瀬が整備された。大正の初期ごろまで雫石産の春木が筏によって運ばれている。

 しかるに、政府においては、明治五年度の地租貢米を金納に代替することを差許し、且つ金納を漸次強化するの方針をとり、地租条例の公布に伴い明治七年からは殆ど金納せしむるまでになった。従って河川の航路修理並びに使用船舶も逐次不用化するに至り、官営繋留の就航船舶は、民間に払下げとなり、舟航関係は民間事業に移行することとなった。

 煉瓦やセメントや鉄材等が不充分であったから架橋技術が進歩せず、従って川向うに通交する人馬、耕作に通う人馬、物資を対岸に運搬する作業、それらは悉く渡し舟に拠ったのである。人なら腰に達する深さ、牛馬なら腹部に達する深さ、それ以上の水深には、渡舟を必要としたのである。

 内陸部の渡舟には、普通の渡舟と馬舟があった。馬舟は巾が広く底の浅い舟、人だけ渡る舟は、細長く舳(へさき)が上っていた。通交する者は渡船場での渡船は有料、共同出資者は無料が原則であった。

 大釜と太田間には太田の佐々木重治氏所有にかかる渡舟が今日になっても利用され、これを重治どの渡しと称し、太田村の補助による渡舟であった。この場所は浅瀬なので、昔から太田の農民が岩手山麓の秣採集の必要上ここを経由していた。

 昭和四十年八月、御所ダムの必要上頑強な滝太橋が、重治どの渡しの上、すなわち日向に完成をした。

北上川を上下した「ひらた舟」

 北上川における本村と玉山村との交通は、岩姫橋の完成以前は、その上流に大崎-笹平の二ヵ所、また、下流に楢木沢-川又の一ヵ所、都合三ヵ所を縄越しと称するロープを頼りとして手繰る舟を利用して往復したという。

 滝沢村長柳村兼見氏の談によれば、東北線開通後、玉山村の村民ほ汽車利用の必要にせまられ、三ヵ所の縄越-舟が出来たものであろう。従って、舟の管理は玉山村のそれぞれの関係者によって維持されたものであろうという。

 昭和になって第十五代滝沢村長柳村兼吉氏は岩姫橋の建設に尽力をしたのであったが、完成までに場所の選定等で玉山村の反対があったとか。とにかく、昭和十年、全長五十五メートル、経費約五十五万円で完成したのであった。その後四十四田ダムの増水によって水没することになるので、同四十一年、全長百三十七メートル、約五億五千万円で現在の岩姫橋が出来あがったのである。

 以上に述べたごとく、重治どの渡し、川前の縄越によって、嫁婿のやりとりもあり、太田・玉山に姻戚が多くなっている。