第三章 通信の変遷

第一節 はじめに

 人々が社会生活を営むに当り、相互に連絡や相談や依頼等が必要になることは当然である。

 両者の媒介になるものには色々あるが、先ず第一にあげねばならないのはコトバである。コトバが届かなくなると、それ以外のものを利用しなければならない。

 昔、村役人が村人に会合させるのに板木(はんぎ)を用い、その叩き方によって、何時何処へ集まれということがわかったのであった。現在各部落の消防屯所の側に火の見櫓がある。鐘の叩き方によって火事の遠近がきめられている。この外火事の通知にはコトバによる伝達とサイレンと電話(一一九番)が利用されている。昔の戦争には鐘とか太鼓等の打ち方によって進退が決められていた。

 さらに遠くなるとコトバを文字に表現して、誰かに依頼せねばならない。日本人が手紙を書くようになったことについてははっきりしないが、中国から文字が輸入され、紙の発明と相俟って、上流社会に行われたのが七・八世紀のころからとされている。

 村と村との通信を村継といい、村内の通信には一定の順位があって、これを触流し継越(つぎこし)と称していた。この方法には口頭、若しくは書状(箱)廻しの二種があった。

 中央の役所から、地方の国々の役所に指令伝達したり、地方の情況を中央に知らせるようになったのは大化の改新以後で、中央集権体制が整うようになり、主な街道筋に宿駅が出来、駅ごとに馬が用意されてあったから、使者が馬を代えながら知らせを運んだのである。これが駅馬・伝馬の制度である。その後、幕府や諸大名間においては早馬とか公用飛脚によることになる。

 一般の通信物を飛脚に依託するようになったのは道路が一段と進歩した江戸時代になってからである。江戸・京都・大阪の間に町飛脚組合が正規に認められ、状箱の中に手紙を入れて東海道を走るようになる。毎月三度ずつ往復したのであるが、飛脚が江戸に着くと、宿屋の前に莚を敷いて手紙を並べ、名宛人の所在をはっきりさせるために通交人に見せたのである。江戸といっても今日のように密集していなかったから、これで配達先が見つかったことであろう。

第二節 飛脚

 鎌倉時代に飛脚と早馬がはじめて設けられ、鎌倉幕府の唯一の通信機関として「飛脚の如し」等とたたえられたと伝えられるが、私信送達をはじめたのは江戸時代に出来た三都町飛脚組合である。大阪・京都・江戸間を状箱をかついで街道を馳せ、宿屋につくと、その前にむしろを敷いて書状をならべる。それを一般の人々が見て自分のものを受取ったという。

 当時の本村の通信機関については、つまびらかでないが、飛脚便として記録にみえるものは文化年間(1804-18年)以降である。これは一般の利用できる飛脚便ではなく、肝入専用の飛脚のようである。すなわち、用務に応じて出立する、いわば請負制の飛脚であった。その賃銭はその都度支払わず、年四期に分けて、しかも高持百姓から徴収して支払ったのである。

 夜間通行させる場合はおおむね五割増であった。

 明治二年(1869年)になると、維新のため用務が忙しくなる。翌三年に飛脚の名称をなくして「わざ夫」と呼んだ。もっぱら公用専用人夫で「御用状」送達を業としたが、やがて明治八年三月、鳴県令による「公用逓送便」の施行によって飛脚はこれに変った。

第三節 布告板(上意下達)

 旧藩時代には、上からの布告は村役人が代官から伝えられ、さらにこれを一般民衆に告知する方法によった。しかるに明治六年(1873年)二月に左の布達によって、新たに高さ八尺位、横一間半上部にひさしをとりつけた掲示板のごとき布告板が出来上がった。しかもこの布達には

旧文書→

という但し書きがついている。すなわち

旧文書→

第四節 訴状箱(下意上達)

 凡そ藩政時代ほど民意が蹂躙され、理非曲直が時に情実によって左右された時代はあるまいと思われる。ここにおいて明治新政府はその弊を一掃するための一助として設けたのがこの訴状箱である。けだし司法警察制度の確立しなかった当時としては、それに至る暫定的方策の一つとして、極めて有意義なものであったに違いない。

旧文書→

第五節 郵便

 置県当初、駅逓制度は旧慣を踏襲し、旧来の宿駅がそのまま駅逓に襲用されていた。殊に旧県において明治四年正月駅役人の称を改め元締役としたが、岩手県がおかれるに至っても、従前通り元締役として駅逓事務に当っていた。

 明治四年四月二十日、東京・大阪間に初めて現在のような郵便制度が実施され、東京・大阪・京都の三都に郵便役所が設けられた。これがわが国郵便制度の始まりである。そのころの中央政府と府藩県庁との間に送達するものは「飛脚便」による以外になかったから、この新式郵便の出現は珍しく、時の人はこれを「駅逓司の飛脚便」と呼んだといわれている。これも長い間飛脚による通信のみになれた当時の人々としては無理のない話であった。このようにして明治開化の先端を切って発足した郵便事業は、始め民部省に駅逓司をおきその所管であったが、明治四年七月二十七日民部省の廃止とともに大蔵省に属し、同年八月十日駅逓司を改め駅逓寮となった。

 この年十一月郵便規制が制定され十二月五日から施行されたが、翌年三月一日改訂増補し、これを全国に発布するに至った。

 明治五年七月朔日には郵便法が実施され、ここに従来の駅伝制度が一大変革を来たすこととなった。諸官庁間の公文書はもちろん、その他の書信は郵便に托され、従前駅伝による各駅間の逓送物品は、新たに組織された陸運会社に移行する基となった。

 郵便物逓送に関し、水沢県より岩手県に通達があり、石巻より奥州街道金成に出て、金成駅より花巻駅に逓送されることとなった。すなわち石巻より金成を経由して花巻に到達する郵便物は毎月五日、十五日、二十五日の三日で石巻より二日で到達することとなっていた。石巻より花巻の間を一定時の速度を以て郵便物を逓送し石巻朝六ツ時(六時)発程されたものが翌朝五ツ時(八時)花巻に到達する予定であった。

 この外奥州街道筋にももちろん整備されたものと思われる。

 明治五年七月二十日太政官より布告が発せられ (旧文書→) 云々として、明治五年九月一日以降は官営の伝馬継立が廃止され、したがって、助郷制度も撤廃されることとなった。

 岩手県管下においては同年七月を以て郵便が実施になり、県庁本省間の公文書は右郵便に依り逓送されることになる。

 この年十二月三日をもって明治六年一月一日とし太陽暦採用となる。

 明治六年二月二十三日には郵便物逓送の際、その脚夫に鈴を携帯せしむることに決し、三月大蔵省に禀請して認可を受け、これを管内に実施するに至った。

 こうして郵便事業は益々発展し、明治七年から完全に政府の独占事業となった。これに伴って同年七月一日には北海道の一部を除く全国に郵便が通ずるようになった。各沿線要路に出来た郵便取扱所は、廃藩置県に伴う地方制度の変革によって廃された名主・肝入等の地方名望家が起用されて、郵便取扱役となる等漸次その数を増し、明治七年九月三日太政官布告第九十号を以て郵便為替規則が発布され、全国に為替を取扱う郵便役所が定められる。為替規則は明治八年一月二日より施行された。

 当時、為替証書一枚の金高は、三十円までに限り端数は一銭までとした。為替料は、里程の遠近あるいは、時の都合にかかわらず、五円まで三銭、十円まで五銭、二十円まで十銭、三十円まで十五銭であった。以上のごとく、郵便事業は信書の送達のみでなく、現金送達の方法も行われたことは、遠隔地の取引交換経済等の発展に大いに寄与したのである。

 同年一月、名称を郵便局と改める。二年後の明治十年一月、駅逓寮が廃止され、駅逓局に変ったが同十四年四月、農商務省が置かれてその所管に移った。

 明治二十年に岩手に七十三局あったが、同三十年に五局加えたのであったが、郵便物の発信着信を見れば、発信総数九十万通から四百万通弱となり、着信では百二十万通弱から五百十五万通強まで増加を見せた。従って一人当りの個人数も、発信一・四から五・六へ、着信で一・八から七・三と激増をした。

 郵便小包は、二十五年の三百八十五個から、三十五年の六万六千七百個まで実に百七十倍の激増ぶりであった。

 これらはいずれも年を追うて増加の一途をたどる。

第六節 電信

 わが国にはじめて電信機の渡来したのは安政元年(1854年)一月米国水師提督ペルリがその第二回目の来航に際して、電信機を幕府に献上したのに始まる。

 以後明治政府においても明治元年(1868年)ごろから事業創始に乗り出しはじめ、明治二年八月九日より外務省の所管となった電信は、同年八月十八日には民部大蔵省を経て、同三年七月駅逓事務とともに民部省に属した。その間明治二年八月、横浜灯明台、同裁判所間に初めて電信線を架設した。同年十二月二十五日、東京・横浜間に電報が取扱われ、同七年十二月二十日一ノ関まで開通した電信線は、翌年四月二十五日には盛岡を経て青森まで架設された。このことは日本通信史上画期的なことである。座して東京盛岡間、まして青森間の通信を可能ならしめたことは当時の人々をして狂喜せしめ、様々な挿話を残している。

 当時電信関係は、工部省所管であり、官山の林木は国有財産で大蔵省の所管であった。電信線架設のため、電柱用として、杉の木一千七百二十七本を伐採している。この電線架設用の電柱は、南方は和賀郡鬼柳村より北は岩手郡御堂村中山間に使用している。

 明治七年電信事業が政府の管掌となり、東京北海道間の音信料金を公表している。それによると和文音信料は隣局まで八銭、一局を経過するごとに三銭を加算した。

 明治十二年万国電信連合に加入し、同四十一年には銚子無線電信局と、天津丸無線電信局が出来、船舶陸上間公衆通信の業務を開始し、大正四年長崎と上海間に日本政府の海底電信線が開通し、同十五年には東京無線電信局が完成し欧州と無線電信を開設している。

第七節 電話

 電話は西暦1876年米人アレキサンダー・グラハム・ベルによって実用的に完成されたが、翌明治十年十一月には、わが国に伝えられている。当時はあまりこれを実用化しようとは思わなかったといわれ、逓信省の創立とともに、ようやく施設することが考えられたが、これまた官民いずれの経営にするかについて問題があり結局官営にすることになったという。

 明治二十二年一月一日、東京・熱海間に初めて公衆電話の取扱いを開始し、翌二十三年十二月十六日には、電話交換業務をみるに至った。

 明治四十一年一月十六日には盛岡局に電話の交換業務が取扱われ、やがて岩手県内に普及することになる。この当時加入は百四十件であったが、これらは役所や通信関係が大部分で庶民生活に結びつくようになったのは昭和にはいってからである。

 本村の電話普及について滝沢郵便局長久慈光雄氏は次のように述べている。すなわち、滝沢郵便局の開局当時は加入数三、また滝沢駅前局の加入数は二であったが、年を経るにしたがい電話の必要を痛感した村当局・農協・郵便局が三者一体となって促進した結果、昭和四十五年七月十九日から全村ダイヤル式となり、昭和四十六年には、滝沢局加入数一千四百、滝沢駅前局八百と本村世帯数の約九十%が加入しており、これは岩手県において第一位となり、全国においてもまれにみる普及率となったという。

第八節 郵便局

滝沢郵便局

 県内郵便局は、明治初期六郡中三十六局程度であろうか。従って郵便御用取扱人も、郵便局数だけ任命されたものであろう。郵便実施といっても、まだ駅伝や飛脚の制度以外の知識をわきまえない時代と人であるから、指導者や被指導者も戸惑う数多の挿話を残している。駅伝や飛脚制度から新しい郵便制度に移行するに当って、郵便御用取扱と称しているのは旧慣の名残りがあり、明治十七年郵便局長と改称になるまで、郵便物取扱役などと称しているのもそのためであろう。

 郵便通信は、そのころ官公衛の公文書等がその主なるものであった。

 明治八年一月に至り、郵便役所を総て郵便局と改称することとなる。

 地方の郵便局は、旧宿駅や馬継所など、交通通信の上から便宜なところに開設された。旧宿駅や伝馬制度というものがあって、それを基盤として郵便法が実施されたのであるから、あまり故障なく実現されたものであろう。郵便局長を当時郵便取扱人と称したのも、郵便を逓送したり集配したりする事実上の取扱人であったからであろう。従来からあった宿駅伝馬所の問屋を郵便取扱人(局長)に仕立たと考えられる。信書送達事務を主とし、それに金融機関をも扱わしめるとなると、その取扱い責任者たる局長には、少なくともある条件が必要であった。信託された郵便物を濡らさぬためには局舎が必要であり、現金や金券を托されるからにはそれに応ずる金庫や托送用具の準備もあり、一貫した郵便制度を運営するだけの知識も必要であった。従って交通上便宜のよいこと、郵便局舎があること、また郵便事務遂行用具のあること、郵便運営のできる人といったような条件が加味されてくることになる。それには土地の人で、しかもある程度資産があり、知識があって、その職責を遂行できる人でなければならぬことになる。

 明治十九年以降、本県の郵便局は盛岡局だけ二等局であり、その他は三等局で七十二あった。従って県下に七十三局数えるに至った。三等郵便局は請負郵便局と称し、その家で世襲する風が生じた。

滝沢駅前郵便局

 明治三十一年には、年々発達完備する鉄道と不可分の関係があり郵便局は七十八局となり、大正十四年には百十局を数えている。

 大正五年十月一日、全国郵便局において、一斉に簡易保険事業事務の取扱を開始した。

 昭和元年になると、集配局は百十一局、無集配局は四十五局であったが、同十四年には集配局百三十四局、無集配局七十四局で、計二百八局、外に郵便取扱所三十三ヵ所となっている。このころになっても県内には僻地があり、郵便局が必要であっても開局されていない処もあった。

 郵便切手売捌所は、同元年八百二十九ヵ所であったが、同十二年には九百八十六ヵ所に殖えている。郵便函は同元年八百六十一カ所あったのが、同十二年には一千百三十三ヵ所に増加している。本村における郵便切手売捌所と郵便函は、昭和四十六年度滝沢局六、駅前局四、一本木局二、計十二ヵ所となる。このように郵便関係設備の拡充があると共に、電信・電話の利用度も増加して、その取扱局もまた多くなっている。県内産業の発展に伴い人口も多くなり、郵便通信網も次第に伸展をつづけている。

 本村の郵便局に関して滝沢駅前郵便局長の青刈定夫氏は、次のように述べている。

 明治四十一年七月二十一日集配所として厨川局、昭和十年十二月十一日滝沢郵便局、同十四年二月十一日滝沢駅前郵便局、同三十九年九月一日一本木郵便局がそれぞれ開局されている。

 厨川局は昭和二十年八月の終戦まで狐森にあって騎兵旅団等の軍人の大量な郵便物を取扱った。戦後住宅街として青山町・厨川地区等盛岡市北部の発展とともに昭和四十一年七月一日普通局に昇格し、同時に局名を盛岡北郵便局と改称し、現在地に新築移転し、本村全域の郵便集配業務を行なっている。

一 滝沢郵便局

あ 沿革

沿革→

 なお、昭和四十五年度の為替貯金関係の取扱口数は一万六千八百八十七口で、その金額は四億三十二万三千三百三十六円であった。

い 歴代局長

歴代局長→

二 滝沢駅前郵便局

あ 沿革

沿革→

 なお、昭和四十五年度の為替貯金関係の取扱口数は一万六千八百三十五で、その金額は三億一千二百三十六万八千円であった。

い 歴代局長

歴代局長→

三 一本木郵便局

あ 沿革

沿革→

 なお、昭和四十五年度の為替貯金関係の取扱口数は二万九百九十三口で、その金額は四億三千九百四十一万七百九十七円であった。

い 歴代局長

歴代局長→

第九節 逓信事業百年の歩み

     ―逓信新報― 滝沢駅前郵便局長青刈定夫氏提供

逓信事業百年の歩み(1)→  (2)→

 なお、テレビについては、昭和の初頭から研究されていたが、昭和十四年に日本放送協会が最初の公開実験放送に成功したが、戦争によって中断、終戦後の昭和二十七年白黒テレビ放送が開始され、昭和三十五年から、カラーテレビの放送が開始されている。