第二章 地勢の概観

 滝沢村は奥羽山脈の主要峯たる岩手山の東南麓一帯に展開している。この村の中央部を、岩手山から続く南北の細長い低い山系が走り、これが本村山地の主体を占めている。

 本村の地帯を高度別に概観すると、標高六百m以上の岩手山主体部地帯と、その東南に展開する標高二百mから六百mまでの山麓地帯、及び北上川流域平野の西縁部に座を占める、標高二百m以下の緩傾斜地帯、並びに平坦部地帯である。

滝沢村地質・土性図 滝沢村高度帯別地図

 それら地帯の面積をみると、別図の通り岩手山主体部地帯では、標高六百mから八百mまで七・九キロ平方メートルであり、八百m~千mは三・四キロ平方メートルで、標高千m以上は五・六キロ平方メートルである。この地帯は主として輝石安岩山、集塊岩からなっている。山麓地形の地帯では標高二百m以上四百mまでが八十六・二キロ平方メートルで、本村では最大の面積を占める高度帯であり、四百mから六百mまでの高度帯は四十・三キロ平方メートルの面積を有している。この地帯は、丘陵起伏が著しく、主として火山層からなるが、南部と東南部の一部は、石英粗面岩によって構成され、東南縁は殆ど第三紀系凝灰質砂岩あるいは砂質頁岩を基盤に、上層は新期堆積物の火山放出層の成層である。土壌としては東北部と西部の一部に砂壌土があり、その周辺の大部分は壌土である。このためこの地帯では畑作酪農地帯を形成する。この集約酪農の純農村地帯と対照的地帯の様相を示すのが、標高二百m以下の山麓緩傾斜地帯と北上川流域平野西縁部の平坦地帯である。この山麓側の基盤は第三紀系の凝灰質砂岩、あるいは砂質頁岩と推測され、そこを新期堆積物の火山放出物が厚くおうている。この新期堆積物の生成時期は長期にわたっており、ローム質状、または粘土状であり、一般的に保水性に富み、軟弱である。この山麓緩傾斜地帯の東南にある平野部は沖積層の平坦地で、水田を主とした果樹栽培と酪農を経営している。この部分は最近とみに郊村的性格を増しており、都市化の影響が大きく、住宅化している。

 以上のごとく、本村の西北部の山麓地帯の畑作酪農の農村部と、村の東南部の二百m以下の高度帯の第三紀山麓緩傾斜並びに沖積地帯に区分されうる。このように対照的な土地条件を基盤にして、前者は畑作酪農、後者は水田果樹栽培の郊村的色彩の強い地域で、本村は異質的な二重構造を形成している。これが本村の特徴の一つである。

第一節 山

一 岩手山

 岩手山はコニーデ式火山で円錐形をなし、東方が美しい裾野を呈しているところから、南部富士、または岩手片富士と呼んでいる。

 岩手山は火山であるが、有史前から1700年までに幾度も噴火して、雄大な山容を形成している。外輪山は卵形で、東西三km、南北二kmに及び、内側は絶壁で、南壁の鬼ガ城山(一七〇六m)、北壁の屏風岳がそそり立ち、中に大きな凹地がある。この火口は小規模な二重式火山で、火口丘は水をたたえて御釜湖となり、隣接した馬蹄形の御苗代湖は火口原に水がたまったものである。後に東側の一角から噴出し、一段と高い標準的な円錐形火口ができた。これが東岩手山である。これは丁度スリバチを伏せたような二重式火山で、火口が大きなロを開き、側に妙高岳という中央火口丘がある。外輪山のオハチの直径は約七〇〇m、北西に二千四十一mの薬師岳がある。享保四年(1719年)の最大噴火で、東側の標高一、二〇〇mの地点から熔岩を三ツ森山まで流している。これを焼走りとか虎形とかいっている。

岩手山頂上

 登山ルートは東岩手山の表口には、柳沢口と大更口があり、西岩手山の裏口には、網張口と屋敷台口とがある。一般には柳沢コースと網張コースが利用されている。

 なお、頂上に一等三角点がある。

 岩手放送の福田専務は次のように述べている。「昭和四十四年赴任して来た盛岡地方気象台長諏訪彰氏は、火山の臨床医としての権威者であるが、岩手山の動向に注目するよう世論を喚起し、岩手日報等にも執筆したので俄然関心をあつめた」

 その後、十勝沖地震があり、翌年秋田駒が爆発して、ようやく諏訪予言が重視された。昭和四十五年十月国民体育大会が開かれているころは噴煙、爆音とも本村からもわかる程であった。これと前後して岩木山も活動を開始したことが報じられたが、いずれも四十六年に入ると共に終熄したかのようである。

 しかし、岩手山をとりまく休火山が、このように活動し出したことは、岩手山にもある変化が予想されないでもない。

岩手山頂上地形図

 『火を噴く日本列島-日本の火山を診断する』(諏訪彰著・講談社)によれば、日本の噴火災害を予想して、岩手山は、一万から五万人の死傷を発生させると見ており、東北では磐梯山につぐものとしている。

 日本は火山国、地震国でありながら、火山の実体調査が行われていないことを諏訪氏はなげいているが、火山観測を長期に継続する例はすくない。

 幸い岩手山観測所は、昭和十年七月十六日着工、同年十二月十日完成し、翌年七月五日から作業に入った。

 十四年十一月一日岩手山測候所に名称が変り、二十八年までは三人交替であったが、無人化に切替え自動記録を続け今日に至っている。

 しかしながら火山の動向は、いろいろの方法をもって調べるべきで、三宅島の噴火の予想判断が的確に出来たのは地元の一高校生が黙々と二年にわたる観測資料がものをいったといわれる。

 真に岩手山を愛する人たちによって、それぞれの観測(たとえば毎年一定の日に一定の場所から積雪を写真撮影するなど)が行われることが望ましい。

二 滝沢村山岳一覧表

滝沢村山岳一覧表→

第二節 川

一 北上川

 北上川の長さは利根川、信濃川に次ぐ日本の三番目の長流で、御堂の北端弓弭(ゆはず)泉(北上山と称し四三八m第三紀層)に源を発し、漸次南下して第三紀古層にはいり、東より丹藤川、西より松川を合せて水勢をまし、渋民から米内の間の西岸はやや崖をなし、川の中に岩石が突起し、あるいは暗礁の散在をみ、流れが急なところもあるので、わずかに筏が通う位のものであった。ここから盛岡市内の第四紀新層にはいって、南に流れ、左岸に中津川、右岸に雫石川を入れ、南下する。春秋には鮭・鱒・鮎・ほっけ・鯉等の漁利が多かったが、松尾鉱山の鉱毒のため濁流となり、美観を損じ、潅漑には利用されなかった。上流はやや急流であるが、地層の傾きが余り急でなく、その上源を東西の山々に発する無数の小用を合して流れるため、水量が常に多く、従って川幅が広くなっている。だから上流から木材を流すことが出来、明治橋から南は、舟の便が多かった。毎年春の雪どけのころや、秋の霧雨のころは氾濫して、両岸の田畑を害することも少なくなかった。

二 雫石川

 本流は源大森及び安山岩地に発する葛根田川で、雫石の真西にある国見峠雄駒ガ嶽から発する竜川を合せて雫石川となり、赤沢川、黒沢川・南川を入れる。ここにきて水流漸く増し、屈折して東に流れ、第四紀古層を過ぎ、鹿妻堰を分流し、滝沢村にはいり、越前堰・赤川・室小路川を合せ、本村の第四紀新層地を流れ、盛岡を経て北上川に注いでいる。流程約二四、六一四m余で、幅は百m乃至百四十五mである。この雫石川は春の雪どけ、秋の霖雨には濁流となり、田畑に多量の砂礫泥土を運び、その被害甚しく、沖積土(第四紀新層)を堆積し、川幅を増し、流域を変更し、水路を防害することが多かった。

三 室小路川

 諸葛ともいっていて、岩手山の鞍掛森の麓春子谷地から発し、南流して第四紀古層地柳沢を経て、滝沢から第四紀新層である下厨川田中にでて雫石川に入いる。流程およそ二〇kmで潅漑用水、また水車の運転に供していた。氾濫するもその害は少ない。

四 越前堰

 岩手山西南麓の持篭森から発し、南流して安山岩から第三紀の極楽野を過ぎ、ここから西山の黒沢川に支流を分け、さらに板橋川に分けて、繋の尾人から雫石川に入る。

 本流は第四紀古層の滝沢と西山の間を貰流して、第四紀新層地の大釜に至り、分流して仁沢瀬川となり、大釜沼袋から雫石川に注いでいる。.本流の大部分は、大釜の中流から、さらに東北に向い、篠木・大沢・鵜飼に支流を分け、その末は厨川の赤川に入る。本流の流程はおよそ三一kmで一大用水となっており、田部の潅漑のみならず飯料水にまで利用されたのである。出水すれどもその害は少ない。

越前堰

 昭和四十二年に北上川特定地域総合開発の一環として岩洞ダムが築堤されたが、この水は潅漑のみに利用され、その後は発電に利用するという多目的ダムのため、従来の越前堰の西方を逆流させ、その以西を潅漑及び開田に利用した。このダム入水により、今まで不毛に近い岩手の開田・開畑が成功することによって、本村においても中央部から北部にかけて開田されることとなった。既耕地は従来の大釜のいわゆる上釜から、岩洞ダムの流水を越前堰に振替えたのである。今まで利用していた越前堰の水は、小岩井地区その他を開田して潅漑期間中利用することになった。この越前堰は、水道使用以前は飲料水をはじめ、消火・雑用水にかかすことが出来なかったので、小岩井地区等に使用後、従前の越前堰に切替えて住民の安全をはかることになった。