第七章 滝沢村の自然環境保全調査

 環境庁が、自然保護の目的で、全国の植生、湖沼、河川、海域、野生動物、地形地質、自然現象を調査するにあたり、岩手県においては、昭和四十八年七月から十月までの四カ月間かかって、自然環境保全調査報告書をまとめあげたのである。その中から、本村分を拾集して次掲することにした。

第一節 春子谷地湿原

一 調査地の概要

 春子谷地湿原は、岩手山南側の鞍掛山(八九七m)山麓に位置し海抜高は四五〇m前後であり、ほぼ南西方向に長棒円状をなして展開している。この湿原には鞍掛山山麓の傾斜変換部から湧水した水流が、東側、中央部及び西側に流入しているのが見られる。西側及び中央のものは、中央部で合流して東流し、さらに、東側のものもあわせ湿原外に流出して、諸葛川の上流部を構成している。

 東側地区及びその他の水流沿いには、ヨシを主とする低層湿原が分布しているが、その他の地区では幾分隆起し、小規模の谷地坊主を伴う中間湿原となっている。そのうち中央部では、水流による排水が促進されるためか、谷地坊主にエゾハンノキなどの木本類を伴い、ミズゴケが繁殖し、隆起の程度を増している。それで、この湿原を低層湿原(ヨシ型)と中間湿原(谷地坊主型、谷地坊主・エゾハンノキ型)に区分した。中間湿原は、低層湿原から高層湿原への移行型である。

 海抜高四五〇m前後に位置しているにもかかわらず、高層湿原への移行過程が見られるのは興味深いことであり、四季を通じて低温(一一~一四℃)で、温度変化の少ない湧水の影響を受けていることが関係しているものとみられる。

 この湿原は、山麓凹部の沼沢湿原であるとともに、この湿原の周辺には、放牧地及び人工草地が多いことから、豪雨時における地表流下水の影響をはじめ周辺の影響をかなり強く受けることが予想される。

二 調査の方法

1 土壌植生及び生物の調査

 低層湿原(ヨシ型)と中間湿原(谷地坊主型、谷地坊主、エゾハンノキ型)について、土壌及び植生の調査を実施し、また、湿原及び周縁森林内の生物調査を実施した。

2 水試料の採取及び水流調査

 水流の合流する中央部(No1)、流水部(No2)及び流出部(No3)から水試料及び底土を採取し、水温を側定した。またNo1及びNo3の個所では、水位調査を行い、No1の個所では、流出水量の調査を行なった。(後述の地図参照のこと)

三 調査成績

鬼越ダム風景

 調査結果は、別紙調査表の通りである。以下、各項目ごとに説明する。

1 湖沼概要

 この湿原は、鞍掛山山麓の傾斜変換点凹部に位置し、海抜四五〇m前後で約三五haの広さをもつ、腐植栄養型の低層湿原である。水流の流入部では、水深四cm程度であるが、湿原内では一五~二二cmの水深である。水深が浅く、水位の変動も小さいが、降雨の続く場合には六~八cm程度の水位増加が見られる。湿原全体に保有されている水量は約一〇万立方メートルと算定される。

 深さ一m付近まで黒泥土で構成され、岩手火山噴出の黒色スコリアを多量に混じているが、このようなことから、かなりの水深をもつ湖盆が形成されていたことが推定される。

2 受水区域概要

 鞍掛山南東麓に、おおむね湿原を囲んで、約二〇〇haの受水区域があるが、この区域は放牧地や採草地に利用され、しかも、採草地は、人工草地を主としているから、耕起及び施肥などの影響が考えられる。

3 水質の理化学的性質

 八月中旬採集の試料(DO分析試料は、十月中旬採取)を使用した。

 透明度はいずれも高く、流入部の水温は、一二~一四℃で、季節変化は小さく、良質の湧水であることがわかる。湿原を通過しているうちに、気温に支配され、水温も高くなっている。反応は殆ど中性で、CODは流入部と中央部では小さく、流出部では、いくぶん大きくなっており、やはり、湿原通過により有機物を多く含有するようになることがわかる。Nが多くPが痕跡程度であることは、千沼ガ原と同様に、腐植質型貧栄養に属しているものとみられる。しかし、SSが比較的多く、また、CLがかなり検出されているのは、千沼ガ原湿原と異なるところである。このことは、凹地に形成された低層湿原の特徴や人工草地などに由来しているものと考えられる。

 CODが千沼ガ原に比較して、かなり低い値を示しているのは、湿原の性格からは疑問に思われるが、これについては、千沼ガ原のものは安定した停滞水であるのに対して、春子谷地のものは流水であることに原因があろう。

 また、クロロフィルが検出されなかったり、DOが殆ど飽和状態であったりしているが、これらについては、千沼ガ原の場合と同様に、他の分析値と同一に取扱うことは無理である。

4 生物の分布

 湿原及び周辺樹林地の昆虫相についてみると、蜻蛉目及び鱗翅目が多く、カラカネイトトンボなどのような稀重種も確認され、生物的に貴重な湿原であることがわかる。

 また湿原形態区分ごとの植生状態は、別表「春子谷地の湿原形態別植生比較」の通りである。これを見ると、低層湿原のヨシ型では、ヨシが極めて多く、ヌマガヤ、ワタスゲを伴い、局部的にエゾハンノキ、デワトネリコなどの木本類が高木状をなして群生している。中間湿原では、ヨシが減少し、ミカヅキグサ、シロミノハリイ、ワタスゲ、ミヤマイヌノハナヒゲ、ヌマガヤなどが多く、いわゆる代表的な湿原植相を呈しているが、谷地坊主に、エゾハンノキなどが浸入している所では、マアザミ、コバノトンボソウ、ミズギク、タチコウガイゼキショウ、ミズトンボなどが見られ、次第に周縁森林型に移行しつつあることが推定される。

5 流出水量

 水流合流点(No1)の下部をせき止め、昭和四十八年九月十五日、十月三日、同七日の三回にわたって流出水量を測定した。継続測定ではないために、測定値に対しては検討を必要とするが、降水量配布と対応させて取扱うことにより、ある程度の量的把握は可能である。(Noについては後述参照のこと)

 (降水量については省略をする。)

 この湿原からの流出水量は、一日当り三〇〇~四〇〇立方メートル程度であると推定される。ただし、低層湿原を通過することにより、水質がかなり低下していることはいうまでもない。

第二節 春子谷地の昆虫

一 湿原

春子谷地湿原略図

 幼虫が水生である蜻蛉目と本来湿地環境を好む鱗翅目が顕著であり、稀産種や特徴的な分布をする種などの生息が認められた。

 カラカネイトトンボ(高層湿原などの一部に局部的に生息する稀産種)

 オゼイトトンボ、キイトトンボ、ハッチョウトンボ(本邦最小のトンボ)、ハラビロトンボ、ヒョウモンチョウ、ゴマシジミ、ゴキマダラセセリ、モリオカツトガ。

別表 春子谷地の湿原形態別植生比較→

二 湿原周辺樹林地

 湿原から周辺の樹林地帯(デワトネリコ、エゾハンノキなど)にかけては蝶類が多い。

 ミドリシジミ(多産)、ウラギンシジミ、ハヤシミドリシジミ、ウラジロミドリシジミ、アカシジミ。

第三節 すぐれた自然の調査

一 植物

1 貴重な個体植物の産地

春子谷地
ホソバノシバナ、シラキ、ミミカキグサ

岩手山
タカネヒカゲノカズラ、ヒメハナワラビ、ヤマタスキラン、ホナガクマヤナギ、イソツツジ、エゾツツジ、ユキワリコザクラ、マルバキンレイカ、コバナノコウモリソウ

2 貴重な群落調査
あ 春子谷地エゾハンノキ林及び湿原植物群落

 湿原は、ヌマガヤ、ワタスゲを主とした中間湿原であり、周辺に、エゾハンノキ林を伴う。

 対象地域面積 三〇ha 評価 B

い 平蔵沢のヒノキアスナロ林

 青森県でヒバといっている。ヒノキアスナロは、同県には古い植栽林が知られていない。本林は林齢一四〇年生で、面積は少ないが、本邦唯一の老齢樹栽林と思われる。

 対象地域面積 一・五ha 評価 A

二 野生動物

 見出しの表示は図面名、対象区域番号、対象地面積及び評価を示す。

盛岡二 二六五〇ha B

 本村砂込付近カワセミ、アリスイ営巣地、他低地林鳥類繁殖地

 耕地、林業試験場、並木、アカマツ及びスギ植林地、コナラ、クリ林、人造湖、沢等春秋の渡りのコース下にあり、重要な休息地となっているが、近年カルガモが著しく増えている。

 オオジシギ、コノハズク、オオハクチョウ、その他ガンカモ類オジロワシ、ブッポウソウ等生息種類数多い。三〇科、一〇九種。

 本村分れ、大石渡地域は、チョウセンアカシジミ生息地である。谷川にそってトネリコ、コナラなど落葉広葉樹林が広がっている。チョウセンアカシジミの個体数は少ないが、メスアカミドリシジミ、ウラゴマダラシジミ、その他ゼフィルスが多く保護すべき地域である。本村松屋敷付近、蒼前長根山、クロミドリシジミ生息地、密度は不明。

 このチョウセンアカシジミについて、蝶を愛好している詩人の栗木幸次郎氏の説によれば、昭和四十年ごろまでは“分れ”付近で全国的にも珍種とされているチョウセンアカシジミを、たくさん見かけたという。この蝶は、岩手、山形両県下のほんの狭い一区域のみにしか生息しない。食樹であるトリネコの林が伐採されたため、貴重なチョウセンアカシジミが姿を消したことは惜しみてもあまりあるが、栗木氏は「根絶したとは思いたくない。まだまだ広い林があるのですから、きっと生存しているはずです」と、希望的観測を述べている。

盛岡四 九二ha A
 春子谷地である。湿原内では高地性の稀産種であるカラカネイトトンボを昭和四十八年七月発見した。オゼイトトンボ、ハッチョウトンボ、ヒョウモンチョウは個体数が多く、ゴマシジミも生息する。付近のカシワ林にはゼフィルス類も多く付近一帯を含めて重要な地域である。

盛岡五 四〇ha B
 鵜飼西部、高峯山(標高四二八m)東麓一帯である。ヒメギフチョウ生息地で、個体数はきわめて多く良い地域である。広葉樹の多い谷筋と杉の幼木の植林地があり、吸蜜植物のカタクリの大群落があるが、杉の成長に伴って環境悪化の起ることが心配である。

三 地形、地質、自然現象調査

沼宮内三 八幡平八 六一八・七ha A

 岩手山
 岩手山は本県最高の高山で、巌鷲山ともいい、コニーデ型の成層火山で、その形が富士山に似て美しく、南部片富士ともいわれている。また、岩手山は成因上西部と東部に分けられ、西部は三重式の旧火山であり、東部は三重式の新火山であって、これらの複合体から成っている。西部の旧火山は、頂上に東西約二・五km、南北約一・五kmのカルデラがあり、御苗代湖がある。このカルデラ内に一小丘があり、その頂上に火口湖の御釜湖があって、その湖の直径は約数十mである。東部の新火山は、頂上に直径約五〇〇mの大噴火口があり、この火口壁の北縁に薬師岳(二〇四〇・五m)があって、岩手火山中の最高峯である。この大噴火口の中心に火口原から約三〇m高い中央火口岳の妙高岳がある。大噴火口内に御室火口があり、水蒸気を噴出している。その規模は直径一五〇~二〇〇m、深さ約一八〇mである。

盛岡二 B

 柳沢の湧口
 湧口は柳沢の岩手山神社の北方約一kmの所にあり、岩手山の火山伏流水のひとつである。透明清冽な水が湧き出ている。水温は、松尾村の目倉清水や生出の湧口と同じく年中変らず一〇℃である。この湧口は、陸上自衛隊の飲料水やかんがい用水に使われている。

盛岡三 三五ha C

 春子谷地
 鞍掛山(八九七m)の山麓に位置し、海抜高四五〇m前後であり、ほぼ東西方向に長楕円状に展開、四季を通じ低温(一二~一四℃)岩手山の伏流水の影響を受けているためであろう。河流の影響をうける所はヨシを中心とする低層湿原だが、その他は小型の谷地坊主ができエゾハンノキ、イソノキなどが浸入し、ミズゴケが繁茂する。比較的低海抜地でもミズゴケ湿原に移行しつつあるのが特徴で、珍しい植物や昆虫も多い。底土は黒泥状を呈し、スコリア質の火山砂礫を混入している。