第四章 岩手県治の農産業

第一節 農産業の行政

一 研究機関

 岩手県は明治四年(1871年)十一月二日盛岡県として創設され、翌正月八日岩手県と改称された。このときの所管は六部で村数四百九十四ヵ村であった。この期の県行政は、旧藩時代の慣習が多く踏襲され、地租にしても現物納入の石(こく)盛制であり、耕地旧慣反別三万一千石町歩、総高は二十五万三十石程度であった。旧南部藩内の一坪というのは方六尺五寸であり、田は三百坪を一反歩とするが、畑は九百坪を一反歩として慣用していた。

 地方によって、このような計算法があるので、新政府は明治六年に地租改正条例を公布し土地は凡て方六尺を一坪とし、三百坪を一反歩、三千坪を一町歩と称することに決定した。岩手県の地租改正に基づく調査測定は、田畑など耕地の分は明治九年に一応終了し、明治十二年ごろの田畑反別として、田四万九千十八町歩余、・畑八万二千五百三十七町余合計十三万一千五百五十五町としてある。

 明治七年の末ごろから管下人民の勧業を盛んにする目的で種芸試験場の設立を計画し、前述の趣旨を内務省に上申し明治八年仁王村をに開設した。養蚕奨励の見地から桑木の育成、良材普及の意味から桐苗の育成、繊維資材や製紙原料として楮(こうぞ)、果樹として梨・梅・柿・葡萄その他野菜をも試作指導をし、また足柄より椎茸教師を雇って椎茸育成の指導にあたらせた。

 明治九年明治天皇本県行事の際の上申書に「民力ノ労働ニ換フルニ、牛馬ヲシテ田畑耕耘ノ器用ヲ試業スルニ一夫一匹ヲシテ一日凡九百坪ノ地ヲ犂(れい)鋤スルコトハ捷(しょう)便ヲ得タリコレヲ漸次全管ニ及サンコトヲ期ス」とあるが、普及していなかった。明治十六年七月に県では各郡役所宛に通達を発し、一郡役所に二組の器具を回付し、馬耕耕耘を奨励しているが、明治十七年以降も一般には普及していない。

 明治十年五月二十三日には五ヵ所に種芸所を設定し、同十一年一月十二日には五種芸所中三種芸所を開墾地と改称して実際の農地に転換し、県の勧農施策の進歩を見せている。

 明治十年九月勧業学舎を内丸の勧業場内に開設し、生徒数百七十三名内男三十九名、教科は耕耘・栽培・養蚕・機業その他工芸であった。男生徒中には青壮年の人もあったらしく、ここで馬を操練し、鋤を使用して耕耘する馬耕技術、田畑に農作物を試植するため、品種の選定から播種・除草・収獲・製精まで、一切を習得せしめようと企図している。後には産業別に分立しているが、明治初期農業の新農業指導措置として適切であったと思われる。

 明治十二年一月四日から郡役所を開設し、郡長が直接その管内の勧業指導の責任の衝にあたった。同年三月十五日になって各戸長役場に農事通信方(委員)一人をおくことを布達している。県下三百三の戸長役場に三百三の農事通信方が出現したものであろう。この農事通信方によって、篤農家の選定や推薦も郡役所を通して行われたものであろう。明治十四年春篤農家を招集して勧業会話を開催し、県下に農談会を興すことを諭達し、農事に改良を加え、農業生産を増大する主旨で農談会を組織し各自は自分の経験を語りあい、農業経営の利害得失を研究し合い、各農談会は相互連絡してその状況を通信し交換をし、農産物共進会を開催している。

農事ヲ改良シ、物産ヲ振起スル其法多端ナリト雖トモ、先ツ共進会ヲ開キ各地ノ物産ヲ蒐輯シテ其優劣ヲ判シ、進取ノ志ヲ興サシムルト、農談会ヲ開キ各自ノ経験ヲ吐露シ、互ニ其利害得失ヲ講究スルト其間ニ通信ノ方法ヲ設ケ、彼此ノ得失ヲ報道シ、各地農事ノ気脈ヲ通セシムルノ三ヲ要ナリトス。而農事通信ノ方法ハ本県既ニ其設ケアレハ、今叉各地ニ農談会ヲ開カシメント欲シ、先般各郡ヨリ農事篤志者ヲ招集シ、勧業会話ヲ開キ、其方法手続ヲ議セシメタルニ、左ノ通り議決シタリ。就テハ各郡村ニ於テ、右手続ニ準拠シ、一村又ハ数村連合シテ適宜ニ該会開設シ、互ニ農事ノ是非得失ヲ講究シテ知識ヲ交換シ、農業ヲ改良シ物産振起ノ方法ヲ謀ルべク此旨諭達候事
  明治十四年四月六日
               県令島惟精代理
                   岩手県大書記官 岡部綱紀
  農談会開設手統
一、農談会ハ地方適宜ノ方法ヲ以テ一村、或ハ連合村組合ヲ立テ開会スル事
一、農談会ハ農事間隙(げき)ヲ以テ開会スル事
一、農談会組合及規則、右ニ関スル費用等総テ地方適宜ノ方法ヲ以テ定ムル事
一、農談会ハ総テ簡易ヲ主トシ、演舌或ハ問題ヲ出ス等適宜経便ノ法ヲ設クル事
一、農談会ハ適宜ニ開会スルヲ得ルト雖トモ開会一週間前、其郡相当者ニ報道シ担当者ハ之ヲ勧業課ニ報告スルモノトス
  但担当者ハ必ス参会スルモノトス
一、農談会ニハ勧業課員出事スル事モアルへシ
一、農談会ハ前以之ヲ報告シ衆庶ノ傍聴ヲ許スへシ
一、農談会ハ其日誌ヲ編製シ、臨席人姓名及ヒ審議談話スル要件ヲ摘記シ之ヲ勧業課へ報告スル事

 森博士の『明治初期岩手県発達史』はこのことについて次のごとく記している。

 明治十七年に各地に農談会が行われているが、北岩手郡の大更、田頭、野駄、平館、寺田五役場連合農談会が組織され、参会者四十六人、北岩手郡勧業世話係の司会で行われ、一、耕耘法及種物精選法、二、培養及手入方法、三、米穀改良方法が議題となり、速記録を見ると新田農法の批判が、保守的農民と進歩的農民との間に対立的に行われている。南岩手郡雫石農談会では、南岩手郡勧業世話掛三田義正に依って司会され、一、土質及整地方法二、選種及播種方法、三、肥料の種類分量及び得失、四、栽培保護の方法、五、収穫の時期、六、虫害予防法、七、麻茄方乾燥法及び製造法が論議されている。(後略)

 本村に於ける農談会については明瞭ではないが、厨川通か、現在の五大字の連合農談会が組織され、森博士の農業発達史と大同小異のことが論議されたものであろう。

 なお条令の公布及び土地所有権の確立によって民有地は定まり、民有地以外は凡て国有地になった。民有地については地租税が定められたが、国有地から物産を採取するには適当の料金を納めなければ、国有地に出入することは出来なかった。明治十三年六月七日の規則は山桑の採取や苅敷の採取を規定したものであり、山桑の採取鑑札は一枚について二十銭を上納し、紫草料は比隣同種の民有地価に比較し、価格百分の三以上に当るように算出すべしとある。養蚕を奨励する半面その飼料である桑の葉の確保措置をしてやらねばならず、そのためには官林に入って、山桑採取のできる方法を講ずる結果となったのである。稲作も県で大いに奨めており、品種試験までやっているが、その施肥確保という立場から官有林で緑肥の苅取を採取する方法として規則が制定布達になったのである。

 旧藩時代以来の慣例によって、その地方鍵守社において農事保護奨励のため晴雨祈願、雨乞祈願、災害除去祈願、農作祈願等の臨時行事は初年に行われている。島岩手県令が明治十六年八月十三日県社八幡宮に祈願することを県報で告示している。国の伝統によって祭政一致を標榜していた明治政府のもとで地方庁でも、こうしたことを行政の一端としてやっていた。

 産業統計は明治十七年内務省令で一定され、各種統計は正確とはいえないまでも表示できるようになった。

二 米穀政策と生産の変遷

 桜井幸三郎氏は『岩手米今と昔』の中で下記のごとく述べている。

 明治初年には県下に適正品種がなく、多種多様の品種が混栽されていた。しかも、各農家は早稲・中生・晩稲を種々の割合で組合せ冷害の危険と労働力を調節しようとしたのである。従って反当生産力は極めて低かった。県は生産力を高めるために、明治十二・十三・十五年と全国に優良品種を求め、適正品種の発見に努力をする。

 明治十三年に秋田など二十九県から色々の種子を導入し、県内の篤農家に配って試験をさせる。これが本県における優良品種導入のはじまりである。しかも、他県からも篤農家を招いて、米作の改良に努力を払った結果、マンガを手で操る旧式農県から、水田馬耕の畜力機具を使用するようになり、手でむしり取る除草作業から、雁爪の出現によって一段と進歩をする。

 維新以後貢米制度の廃止に伴い、米穀に対する従来の努力が失われ、乾燥・調製・俵製まで粗略になったので、県では明治二十九年米穀商組合規則を発布して、県下に米穀商組合を組紙し、十四年後の明治四十三年には岩手県米穀組合の組織をみるに至った。

 明治三十二年十二月、農民の要望として県農会などの民間団体から県農試へ建議書が出され、明治三十五年四月県立農事試験湯が向中野に創設され、これによって農業技術の関心が急激に高まる。この年は本県にとって惨憺たる冷害で反当四斗五升前後といわれている。同三十八年は同三十五年以上で農家の破産が相次いだ。この時平年作に近い収穫をあげたものに、県技師である小山幸右ェ門氏の“関山”があった。これは反当一石九斗から二石であったから、長く県の奨励品種となった。

 大正時代になると、米作りに対する試験や実際の栽培に科学性がみえて来た。中でも大正四・五年にかけて、“関山”を改良するために穂の大きな生育のよいものを拾いあげるような純系淘汰試験が盛んに行われた。

 また、従来の人糞尿や厩堆肥・木灰のみが肥料であると心得ていたのであるが、人造肥料がはいることによって、化学肥料の肥効試験や配合試験が大きく取上げられる。一方インフレのため米一升十九銭から一躍五十銭にはね上がったのは大正八年である。このとき県農試胆沢分場が生れたが、大正十三年に“関山”よりも“陸羽一三二号”が本県に適すると発表をする。これが開山・亀の尾・豊国・早生大野等を向こうに回して、ものすごいスピードで普及し、後の昭和十年ごろの県内作付は面積の六〇%に及び、販売米は九三・五%にまで達している。

 これよりさきの大正十年に恒久的な米価政策として米穀法が制定されたのである。これは当時第一次欧州大戦後の経済好況により、米穀市場における米価が大きく変動し、国民経済を危機におとしいれたので、これを安定させるため政府が米価の自由市場における米の売買を間接的に調節し、安定させようとしたのである。

 関山・亀の尾の時代が去って、昭和三・四年ごろから、本県産米陸羽一三二号が、東京市場において声価第一位にのぼり岩手のすし米として名声を博するに至る。この間に米の重量制が問題となる。すなわち、米の計量は容量と重量が一致しないことと、従来の土ウス摺りよりも機械摺りの方が重いこと、すなわち乾燥のよいものは四斗未満でも十六貫(六十瓩)に達しているので、容量制から重量制に移行したのである。

 その後、昭和七年まで三・四の改正を見、その間最高最低価格を設定し、一応当初の目標を達した。しかしながら、国民経済政策から農業政策への移行と、外地米が進入することにより、内地米が圧迫されることにより、単なる改正のみではさゝえきれなくなったのである。

 ここに、より強力な統制を必要とするに至り、昭和八年に米穀の数量、または市価を調節することを目的として、米穀統制法が制定されたのである。前者は需給関係を季節的に、あるいは年間にわたって、数量の過不足を調節することであり、後者は米価を公定にし、無制限に売り渡し、または買い入れの申込に応じ、米価を最高最低の間に安定させ、生産者並びに消費者の経済を乱さぬようにしたのである。この法律制定の昭和八年は大豊作であり、翌九年は稀に見る凶作に見舞われ、偶然的な豊凶に直面したので一応の効果をあげたのである。この年、県穀物改良協会が創立され、産米販売宣伝に力を入れる。米穀法から米穀統制法に発展した米価政策は米穀不足により、全国的に広がった米穀市場の米価が上昇し、経済的操作を主体とする米価を抑えることが出来なくなって、米価の安定からさらに進んで国家権力による直接統制が必要となった。

 ここにおいて米穀配給統制法が昭和十四年に制定される。政府は米穀取り扱い業者に対して許可制及び命令権等を規定し、米穀市場機構を整理統合して、新たに国策会社として、日本米穀株式会社を設定し、米穀市場機構そのものを国家が、直接に統制をすることになる。

 このように米価安定の徹底を期したが、戦時経済が進むにつれ、食糧の危機がせまり、昭和十四年の不作を契機に食糧政策は、供給量の確保と配給になり、米価は第二義的となった。

 昭和十五年十月に米穀管理規則が制定され、農家保有以外は全部管理米とするように強化され、ついで昭和十七年に至り、食糧管理法に移行したのである。

 かつての自由経済時代には、岩手米が中央市場において名声をはせたが戦中・戦後の食糧危機に際し、質より量確保に余儀なくされ、産米の品質は昔日の面影を失うことになる。

 しかしながら、食糧事情の好転に伴い、昭和二十六年に麦類の統制が撤廃され、米についても漸次統制緩和の方向に向い、他面、配給機構についても民営となり、政府米売却に当っても等級郡別売却、あるいは保管料の期別計算等漸次経済原則的な要素が取入れられ、従来の食糧操作に再検討を加えなければならない状勢に立ちいたった。

 また政府も貯蔵保管中及び運送中のロスを極力排除して、中間経費の節約を図るため、品質改善を強く要望すると共に、その商品価値を公平に評価し、それを格付けするための手段として銘柄の設定を考慮し、あらゆる角度から調査研究を進めるに至った。

 このような状勢から、米穀の生産・集荷・販売・加工・保管管理・運送の任に当るものが一体となって、県産米の改良を助長し、県産米の声価を高めるため昭和二十七年七月県穀物改良協会が再発足をしたのである。

 最近の水稲生産は平年作を上廻り、年々連続豊作をもたらしている。この豊作は天候等の自然条件に恵まれたことにもよるが、土地改良による生産基礎の整備、稲作技術の進歩の普及、特に品種改良と優良種子の普及によるものと思われる。

 しかしながら、食糧の需供事情は連続豊作、それに他の食料産業の発展著しく、その上減反問題が飛び出し、いよいよ量より質へと転換せざるを得なくなって来ている。そのためには、各農家が思いのままに品種を選択することは、経済面と技術面で益するところが少ないのである。優良種子の更新と優良品種の統一がなされねばならない。そのためには地形上の差違・地質の違い・気候の変化を研究し、同一品種であっても品質のまちまちな収穫物にならぬよう共同乾燥・共同調製・共同荷造り等によって、品種の少ない栽培、均質の大量生産が要求されている今日、農業協同組合の能動的な指導活躍が期待されるのである。

三 岩手県農事試験場→岩手県立農業試験場

岩手県立農業試験場

 明治十年岩手植物試験所として創設され、明治三十四年二月、岩手県農事試験場が開設された。始め県内務部第四課の農商掛で所管し、同年五月岩手郡本宮村大字向中野の同場内に事務所を移し、事業を開始した。また同年三月末限りで、岩手農事講習所と岩手獣医学校が閉鎖され、岩手県立農学校(農科・獣医科)が四月から盛岡に開校になったので、試験場は別に開設されたものである。また同年五月には国立盛岡高等農林学校(農学・林学・獣医学)が開校され、後年の農産業指導に多くの役割を果すに至る。本県における農業総合試験場として発足した県立農事試験場は、種芸・育種・分析・病虫害予防試験など農事各般にわたる試験と、指導を担うことゝなり、見習生を収容してその技術を実習せしめたが、最近農業構造改善近代化に対応するため、昭和三十八年に本村砂込に移転し、岩手県立農業試験場として整備された。また練習生の養成を開始し県内各地に分場を創設してその試験研究につとめた。

 県の農業基本計画の目標を達成するためには、本県の複雑な自然条件に対応した多様な新技術の確立が望まれており、この要請にこたえるため、稲作の直播栽培を始めとする機械化一貫栽培体系田畑輪換協業経営の調査研究等の実用的研究がすすめられている。

 主要研究課題として
 1 水田、水田技術研究として水稲の品種改良、深耕施肥、除草剤、反収頭打ちの解消、輪換用の栽培様式の確立、収穫乾燥の合理化等
 2 畑作、一般作物の品種改良、大豆の合理的栽培、品種改善、病虫害防除輪作体系の確立、傾斜地の栽培利用、地力の保全増強等
 3 経営、農業の企業化共同化、経営自立化等の調査研究
 4 事業、地力保全対策、病虫害発生予察、土壌病害、主要作物原種事業等

四 農村更生運動

1 産業指導統制委員会の結成

 昭和年代に這入って経済不況がつゞき、農産物価格の下向がつゞいたため農民は農地を手放し、耕作者でないものが農地を所有する不在地主が発生して、銀行・肥料問屋・無尽会社・医者・商人などが農地を所有する傾向が強くなり、農山村は疲弊していった。県では、昭和四年九月、産業指導統制委員会を組織したのもその対策の顕れの一つである。行詰った産業経済を打開するというのが主眼で、市町村の産業是確立を指導することを標榜している。その委員は三十余名であった。調査した市町村二百十三、負債の多いところは一戸当り負債農家に限らず一万四百八十三円、一人当り一千四百三十九円であったという(昭和七年岩手県制要覧)。昭和五年同上六年は米一石の中等米の相場は、十五円や十六円であったから、この負債はたしかに重荷であった。

2 農村更生対策

 昭和年代に這入って、昭和六年から同七年に至って最も苦しくなった。このことは米価によく現れている。例えば、昭和二年一石四十円であった米は次第に下落して、同五年には三十円を割り、同六年には盛岡市の米相場は一升二十銭になっている。これでは大正盛期の半分以下であって、米穀生産者である農民にとっては、盛時の五〇%から六六%近い損失に相当するのである。昭和五年は本県産米は百十九万石以上という豊作であったが、時価にすると、盛時の半分以下五十万石程度の価額となろう。豊作貧農の出現したのはそのためである。農村は経済不況にあえぎ土地を手放したり、娘を都市へ奉公(実は人身売買)に出したりして、大きな社会問題を喚起し、農村を救えという声が高まった。この不況から銀行など、金融も梗塞し、県でも財政に困難をきたし、県債を大幅に起している。しかも昭和六年は、農産物は不作であったのである。

 そこで取り上げられたのは、政府の府県町村に対する経済更生計画の作成方督促であった。県では昭和七年十月、県経済更生委員会を組織し、県内三十ヵ町村を経済更生計画樹立とした。翌八年一月には三十六町村を指定した。指定をうけた町村では、自営的に更生計画案を樹立し、指導監督をうけつつこれを実施に移行していった。

 昭和八年三月末日限り、従来あった産業指導統制委員会は廃止になり、四月六日県庁に経済更生課が新設され、県下農・山・漁村の経済更生の事務を統轄することになった。課長事務は、内務部長自ら兼務していたのである。

 昭和八年三月三日、本県に強震を感じ、東海岸に大津浪が来襲、甚大な惨害をうけた。同九年には本県の農産物は、稀有の大凶作で米の収穫にしても五十一万石余で、前の半分にも及ばなかった。同十年また凶作で七十九万石余であった。農村の不況は続いたが、米価は昭和九年から上向きになっている。

 県で公表している昭和八年の経済更生計画を摘記してみよう。

   経済更生計画

 農山漁村、疲弊の現状に鑑み、其の不況を匡救し、産業の振興を図って民心の安定を策し、進んで農山漁村の更生に努むる為、政府は昭和七年十月各府県町村に経済更生計画を樹立せしむることとなったので、本県に於ても、政府の該施設と相呼応して、同月県経済更生委員会を組織し、直ちに同年度に於ける経済更生計画樹立町村として三十ヵ町村を指定し、町村をして、自営的に経済の更生を図らしむることとし、昭和八年一月同年度に於ける計画樹立町村として二十六ヵ町村を指定したが、その後着々計画を樹立してその実行に努力している。
 而してさきに県に於て実施中の産業指導統制委員会は、昭和八年三月末日限り之を廃止して、現在産業是を樹立せる百四十一ヵ町村の指導は、全部之を県経済更生委員会の事業に移管したのである。

 また、昭和九年の凶作を契機に、穀物貯蔵の倉庫建設運動が進められ、皇室よりの御下賜金を基本として、恩賜郷倉九百六十九が設立され、その他の郷倉百八十五と共に備荒施設と運営をみるに至った。本村においては各大字に一棟宛施設されたのであるが、大字滝沢のみは三棟であった。昭和十年以降、県内に一千弐十九の共同作業場が設置され、各般にわたる生産の増進をはかり、経済更生の一端となって活動するに至った。本村にも共同作業場が設置され、それぞれ有意気に利用をした。

第二節 農業経営の変遷

 本県農産のうち、稲作農業、畑作農業が主となっているが、主要農産物としては、米・麦・大豆・小豆・栗・稗・蕎麦・馬鈴薯・大根・果実・大麻・繭その他がある。このような産業に従事する農業従事者や、その経営規模、経営様式は、どう変遷したのか、技術や知識がどうなって、その進歩を促進したのか、その主要と思われるものについて、その大要を窺ってみることにする。

一 大地主の倍増と自作農の減少

 先ず農業経営の規模と、農地所有戸数の関係である。耕地が殖え、生産が増加したのであるが、五十町歩以上の大地主が二倍以上に増大しており、資本主義経済が農村に浸透していることがわかる。明治の初期、土地所有権が確立して、土地の売買が自由になったが、明治中期から大正にかけて、いかに変ったか。例えば明治二十七年五十町歩以上の大地主が三十三人あったのが、大正十年になると八十二人に増している。ところが一町歩以上三町歩程度の中堅農家は減少している。このことは明らかに大地主の増加に伴って、中層や下層の農家が大地主に農地を吸収兼併されていることを意味する。これは幾多の要因からくる結果ではあるが、資本主義下における自由経済の時代では、資本の蓄積のない三町歩以下の農民は、農業経営によって、全生活を支えようとするため、その収支に、ややもすれば平衡を失い、資本に余裕のないものから負債を生じ、農地を失うことが多分にあった。殊に小農小作農に至っては、なおさら、税金・肥料代・社交費・生活費に困難があった。

 一町歩以下の農家戸数を小農とし、その増減をみると、明沿二十七年の例では五万二千九百九十三戸であり、これを一〇〇として大正十年をみると五万七千三百三十八戸であって指数が一〇八となり、この間四千三百数十戸の一町歩以下小農が増加してい、る。一町歩以上二町歩までの中農もこの間(自明治二十七年至大正十年)凡そ一千戸近い減少振りであり、指数も九六であって、この中農もまた没落しつつあることが判明する。

 明治中期以降、本県農地のぅち、自作地と小作地が、どう変化したか、これを田畑に大別してその変遷をみると次のようになる。明治三十年以降大正末年までの情況は、まず明治十六年に例をとってみると、全水田の二一%が小作面積であり、七九%が自作地であった。それが同三十年は小作地二八%、同四十年は小作地四一%となって、明治三十年より同四十年までの十年間に一〇%を越す自作農地の減少はまことに驚異である。併し、その後は小作地四割、自作地六割の比率の線を前後しており、計表の上では余り変っていない。しかし内容的には大きく変っている。例えば明治四十年には自作地三万四百八十四町、小作地二万一千三百十九町と、大正十五年自作地三万三千四百九十九町、小作地二万二千五百十五町とでは、同じ比率であっても内容的には異っている。農地の増加したことは、小作農家や零細農家の所有農地は殖えたのではなく、自作農以上の農家、つまり大きな地主層の農地が殖えたことで、熟田所有の小農が崩れていることを示し、五十町歩以上を所有する大地主は、明治三十年二十八戸であったが、大正十年には八十二戸と、殆ど三倍の大地主が出現していることによっても首肯されよう。

 これを畑地の方でみると、明治三十年には自作地七九%、小作地二一%であったが、同四十年に小作地は二八%、大正十五年には小作地三二%と、これも増加している。これも明治四十年の全畑地自作地六万三千六百四十七町、小作地二万四千四百四十八町と、大正十五年の全畑地自作地五万八千九百五十四町、小作地二万七千三百七十三町では内容は大きく異っている。

 上のごとく、明治三十年から大正末年までの期間に、農耕地は水田も畑地も、自作地が崩れて小作地になる率は高いことを示している。このことは農業経営の近代化は行われたが、資本の蓄積のない小農は、資本あるものへ農地を兼併されてる統計上の表現であるといえる。

 大正元年において、田畑の自小作別・郡市別構成をみるに、胆沢郡、和賀郡、岩手郡、紫波郡の順に田が多く、紫波郡、和賀郡、胆沢郡が一戸平均一町歩位の田を耕作している。これについで和賀郡、西磐井郡、岩手郡が一戸平均〇・八町歩乃至〇・七町歩となるが、岩手郡においては畑がこれを補い、合計二・三町歩を耕作している。

二 技術の近代化

 東北本線が開通し、馬車や諸事が普及して、肥料は潤沢にゆき渡り、農業生産は長足に進歩した。そのうちに技術の近代化がある。その中の二、三の顕著な事実について述べることにする。

 通し苗代と水稲品種。この当時、日本の水稲栽培技術において論議の中心となり、遂には旧慣を打破せんとして押し進められた技術に短冊苗代がある。

 東北地方には古くから通し苗代と呼ばれる特殊な苗代があり、入念にしつらえられた苗代は、苗採取後は休地として年中潅漑し、多量の肥料を施こし、東北地方の風土にあった苗を育ててきた。これに対し、中央の農学者の間には、苗代跡を遊地にする方法は無駄であるとして廃止を叫び、これに変えて短冊苗床を奨励した。各府県もこれに迎合し、この様式の普及奨励のため府県令を発している。この府県令には強権が付与され、岩手県でも、この奨励(実は強制)を遵守しないものは科料十円に処すというものであり、時節になると駐在の巡査が大弱りで、農耕者を説得して廻るという珍事があった。新しい生産技術を導入していったこの期の一面を語るものであったが、短冊苗代の普及はその後多くの年月を要している。

 つぎに当時栽培された県内の品種が多彩なのに驚く。赤・白・黒・褐・茶褐・淡褐・ノギすなわち有芒は十六種、無芒は十一種と色とりどりである。育種栽培技術の移入、研究の奨励が、米作の場合このように現れ、とぐに零細な経営のもとで、反当収量を増大せしめるような米の品種改良、これに適合した管理技術、とくに肥培技術などが長足の進歩をとげることとなる。明治三十八年の『愛国』が岩手県南部で不評を買ったのであるが、大正十二年、農事試験胆江分場で、寺尾博士が無芒の『陸羽一三二号』を産み出し (品種の流れ→) 、昭和前期、岩手県における代表品種となったことは余りにも有名である。

 明治三十八年岩手県凶款の研究より岩手郡内の品種を述べよう。赤稲(中稲・有芒・赤色・良)、最上豊後(中稲・無芒・良)、信州金子(中稲・無芒・不良)、五郎兵衛(中稲・無芒・不良)、タンポ(晩稲・有芒・白色・不良)となっている。

三 馬耕の奨励

 岩手県の馬耕導入は明治九年に始まっている。盛岡市内九種芸所において、教師が招かれ、管内各地を巡回指導せしめたのが始めであった。その後教師が移住して来て、その小作地に試験した結果、やや好結果が表れたので、盛岡周辺の農家に漸次普及し始めた。しかし明治三十七年の統計では、牛馬耕の普及率は田で三・二%、畑で〇・六%程度である。明治三十九年ごろになると県農会が中心となり、馬耕奨励規則が制定され、以後毎年、春秋二季に各郡ヘ馬耕教師が派遣せられ、実地に実習が行われ、一方その技術の向上のために競犂(れい)会が開催されている。かくて普及しその緒についた馬耕は、大正三年になると、田において一〇・三%となり、畑において五・一%となり、大正十三年には田において四四%、畑においては二〇%を越すようになる。労働軽減と深耕がもたらされ、土壌改良の上でも大きな効果があらわれることになった。

 けれどもこの期の田は概して湿田が多く馬耕導入を容易ならしむるには、田を乾田化する土地改良の問題があり、乾田馬耕はこの期の水田改良の根本の問題となっていた。

四 牛馬の飼育

 本県の農業経営上で、牛馬による役畜農業は重要である。馬や牛は草や苅敷の運搬厩肥の造成・肥料の運搬・耕地の労役・農産物の運搬その他物資の輸送に欠くことの出来ないものであった。農家において飼養牛馬を家族につぐ大切なものとしたのは、その生活と深く直結していたのが曲家の構造からも窺える。牛馬の繁殖は、その剰余頭数を売却することによって不時の現金収入を得、農家経営にとって大いに補助となっていた。そのうちでも馬の飼育は自作農家では必至の条件とされ、馬の飼育の出来ない農家は一般から卑められる風があり、独立経営不能の零細農民として扱われたのである。従って普通農家は一匹以上数匹を飼育している。森博士は、役畜一頭の厩肥調達能力は一年間に大体水田五反歩の適正施肥量があったといわれているので、役畜の頭数によって耕作面積を知ることが出来たのである。農業経営の上に、リヤカーのような運搬具が出現しても、牛馬に頼る面がなお多分にあった。殊に大正期に入ると、新しい馬耕機械が普及してきて、農産物の生産は倍加するに至った。その裏面には役畜としての馬匹の存在は重大であった。

 本県の馬匹は明治三十一年ごろから漸次減少し、大正後に少し増加を見せている。

五 施肥の近代化

 明治三十年代から、大正末年にかけての本県農業生産は素暗しい発展を遂げたが、その中でも米穀生産は、水田面積も拡大しているが、従来に比較すると飛躍的な増産を示している。ことに米の生産は明治時代どんな豊作でも八十万石の収穫がなかったのに、大正三年から八十万石を起し、同六年には百万石を起し、その後は百万石未満の収穫は不作の場合に限られるようになった。その増産の理由には水田の増加と、施肥の科学化、その他あるがここでは施肥をとり上げてみる。

 従来の施肥は、主として厩堆肥(まやこい)・緑肥(苅敷)灰・糞尿であり、明治初期までは一反歩に対し厩肥十五駄位を用いていた。石灰の使用は、明治十年ごろから始まり、当時油粕の使用のごときは実に蓼々たるものであった。しかるに明治二十四年東北本線が開通され、荷馬車や荷車が普及して、金肥の流入が容易になり、日露戦争当時には魚粕大豆粕の使用も開始され、経営技術の進歩と相俟って、米穀生産を一躍増進せしめた。今明治四十一年以後、大正十年に至る問の施肥状態を考察するに、同四十一年を一〇〇として、過燐酸石灰・智利硝石.・硫酸アンモニヤ・漁肥(漁粕を含む)・油粕(満州大豆・油粕を含む)・配合肥料・その他をみると、毎年増加の一途をたどり、大正十年には実に四七五の指数を示している。このような新しい肥料の使用は、田畑の作物の増加をにわかに躍進せしめ歓迎されたが、多くは秋の収穫を予想して前借りするので、負債になる傾向が生じていた。

第三節 小作慣行

 小作農家の数は、明治十九年の統計によると、小作を専業とするもの一万四千五万余戸、兼業九千九百余戸、同二十年には専業一万一千百余戸、兼業一万一千余戸で、未だ地主自作戸数に対比して三分の一の割合であった。地主に納める小作米も地方により不定であるが、七分三分か六分四分であった。この後において小作農家は次第に多くなる傾向を生じて来る。

   地主小作人ノ多寡関係の概況
        (明治十六年七月河野内務書記官への上申による)
 管内ヲ平均スレバ小作人ハ地主ノ三分一余ニ過ギズ、取分方法ノ如キハ各部村小異同アリト雖トモ、概ネ田一反歩ヲ小作スル者ニシテ礼米ト唱ヘ、米七斗乃至壱石五・六升、陸田ハ、土地一反歩ヲ小作スル老ニシテ苅数ノ六歩其薄地ハ四歩内外ヲ地主二納レ其余ヲ所得トス、尤モ租税ハ地主ノ負担ニ係ル故ニ租税ヲ小作人ニ於テ負担スルトキハ収穫ノ三分ヲ地主ニ納レ七歩ヲ小作人ノ所得ト為ス、又一ヶ年人夫若干人ヲ出シテ謝儀ト為ス村方アリ、而シテ地主ト小作人相互ノ間ニ於テ争ヲ起ス如キハ曽テ聞カザル所ナリ。
 南岩手郡  地主六分 小作人四分(本村は南岩手郡に属す)
 北岩手郡  地主七分 小作人三分
 紫波郡   地主七分 小作人三分
 以上収穫穀ノ六分ヲ地主ニ納レ、四分ヲ小作人ノ所得トス、尤モ租税ハ地主ノ負担ナリ。
                        (以下略)

第四節 農業生産の変遷

 本県農業の生産額は、県内産業、即ち、農・林・畜・鉱・水・工の六種中、明治三十六年には六二%、同四十四年には五六%、大正七年には五〇%であったが、大正十五年には四六%となっている。農業経営の技術が進み、その生産力が増大し、その価額は上がったが、工産物その他の生産額が伸びたの比し、農産物の価額が低下したこと、大正七・八年ごろの経済界が影響していること、遂には全産業価額の半ば以上にならず、本県産業を変革する結果となった。しかし県内産業では、農業生産力が第一位であり、本県が農業県であり、農産業をもって立っていることには変りはない。

 ところが昭和九年になると、六産業のうち、鉱産業の生産物が第一位となり、工業生産のうち工産物の産額は第二位となって、農業生産額は第三位となっている。もちろんこの昭和九年は稀有の凶作で、米の収穫をみても平年の半作程度であったことに大きな原因があった。同十年には、農産物の総価額は、県内六産業中の第二位であり、全産額中の二六%を占め、首位の工業生産は、四八%という比率を示すに至っている。同十年も凶作であったから、それも原因することはたしかであるが、しかしその後、豊作がつづいても、工業生産額の首位が続いている。生産額の比率では、あたかも岩手県は工業県になったごとくであり、事実工業生産力も上昇七第、ここには問題がある。

 このころの日本は、軍需産業に力を入れ、鉱業生産や、工業生産に力をつくしていたので、その価額を異常に騰貴させる結果となった。岩手県における釜石鉱山等鉱業生産を直ちに金属工業に移行していたので、工業生産の価額をつり上げたのである。昭和十六年になると一層甚しく、工業生産物価額は、県内六産業中の五六%、第二位の農産物価額は一七%を表示している。農業生産物が、数量的に上昇を辿っているのに、価額は低いのは、従来の農業県を主客転倒せしめる観を抱かせて、全くの変態振りである。それは当時の日本が大陸での軍事行動に関連して、軍需産業がさかんであり、農産物価その他に強圧な経済統制が実施され、米価等は殊に強く抑えられた。岩手県庁の内務部に、昭和八年新設され農村更生事務を分掌していた経済更生課は、昭和十五年二月、今度は物価を抑制する元締めとしての経済統制課に変じている。

第五節 産米の変遷

 明治十一年以降同二十年に至る十年間の主要農産物は、米・麦・大豆・粟・稗・蕎麦中、米は三十五万石乃至四十八万石となっているのは、耕作面積が累年増加しっつあったからである。しかしながら、明治十年前後の生産統計には真をおけない。

 明治二十七年には六十万石を突破する成績を示しているが同二十八年より漸減し、同年には三十九万石を示した。これは洪水・大地震と不作の原因によるものであった。同三十四年には六十六万石となり、従前に見ない成績で豊作となった。同三十五年は春以来気候不順で、霧雨低温が影響し出穂が連れた。加うるに九月に至って大暴風があり、米収穫二十一万九千石で、平年作に比し、三十四万石六一%の減収となった。

 大正六年以降百二万石以上となり、そのころ米の百万石は平年作となっている。この増産の原因となったものは、第一に作付面債の増加である。これは耕地整理事業の進捗によって増反のできたこと、米価の高騰に刺激され、開田が活発化したことが考えられる。第二は経営技術の進歩であろう。明治三十年より大正十五年六月閉鎖されるまで農産業の指導陣営の中枢であった郡役所の努力により、馬耕耘の普及、適性品種の撰択と植付、魚粕・大豆粕の普及と化学肥料の採用などであろう。第三は農産意欲の問題である。土地を増大し、生産を殖やすに至ったのは、米穀生産を本業とする農民は、米を多く生産しなければならぬような社会状態であったからといえるであろう。

 大正三年欧州大戦が始まり、同七年終了したが、このことによって日本経済が強く影響され、諸物価が騰貴し、農産物中の首位にある米価も高騰した。本県の米穀生産がこの経済界の動向と無関係ではなかった。いずれにしても本県産米は、農産物中の首位にあって、大正末期には百万石以下では平年作ではなく、不作に属するまでに成長していることである。

 明治三十一年の収穫を一〇〇としてその指数をみると、総収穫では大正三年に一五〇を越したが、その間十六年を経ている。大正九年のわずか六年間に二〇〇を越している。このことは大正三年以後の増産が極めて著しいことを示している。

 大正六年以来百万石以上を収穫しつゞけて来た米作は、昭和元年に百万石以下の収穫になっている。これは不作であったからである。前年の米の収穫は百十四万七千七百七十四石、その価額三千九百九十七万二千余円と推算されている。従って前年に比較すると、収穫において二十万石を減じ、生産額において一千二十万円の収入を示したことになる。しかも米価が下落一途にあったから農村不況を招くことになった。

 昭和元年における本県米穀生産高は、九十四万七千四百七十二石で不作、その反当収量は一石七斗六升に当る。すなわち、生産高にあっては、これを前年五ヵ年の平均(大正十三・昭二・三・四・五年の平均)に比較して十四万四千五百石、また反当収量において一斗八升の減収となっている。同二年より再び百万石以上を収めているが、同四年には反当収量一石八斗に過ぎず、前述の平均より一斗三升も下回る不作であった。翌五年の収穫高は百二十万石に達したが、同六年には四年以降の気候不順、六・七月の低温、多雨、八月の豪雨、洪水があって被害大きく、収穫高は百万石を割り、反収は前述平均より三斗五升減の不作であった。翌七年も不作であり、その反収は一石八斗で、前述平均の約半分に過ぎない。

 昭和八年は大正十四年以来の大豊作で、収穫高は百三十万石を越し、反当も二石二斗二升で昭和十四年に次ぐ豊作を示し、明治以来第二位を占めているが、この年は三陸津波が東海岸を襲っている。しかるに翌九年は明治三十九年に次ぐ大凶作で、収量は五十一万四千八百五十石、前五ヵ年平均(昭和二・三・四・五・七年)に比し五四%の大減収となり、反当は一石七斗減となった。これは四月より気候不順で融雪遅れ、冬作物の被害を招き、五月中の豪雨、降雹、晩霜、七月の強風、霧雨、低温、大雨、洪水大降雹、並びに稲熱病の発生による被害が加わったのであった。

 翌十年も七月の低温、霧雨、八月の豪雨に災されて凶作、収量は八十万石に満たず、前述平均より二七%の減で、反収においても六斗二升減じている。二年間つゞいての凶作で、二年間の収穫を合計しても百三十一万石余で昭和八年の収穫にも及ばなかった。しかも不作の年の米は得て米質は劣悪なのである。

 昭和十一年以降、比較的平穏な天候に恵まれた米穀生産は、その後順調に普通作を続け、昭和十四年、百四十万石を越える大豊作を得た。天候に恵まれたこともさることながら、集村の疲弊に対し、積極的な振興策が構じられ、開墾が進められ、畑返し、新田が増加したことなどがこの豊作に寄与しているわけであり、この収穫高は戦前の最高記録となった。昭和十五・六年はともに不作で、昭和十五年は辛じて百万石、同十六年は八十四万石を割り、反当収量は前述平均に比し六斗の減となっている。同十七年より同二十九年までは、同二十年の七十四万石(反当収穫一石二斗)、同二十三年の九十六万石(反当収穫一石五斗)以外は、百二・三十万台(反当収穫二石内外)を維持し、同三十年より同三十三年までは百八・九十万(反当収穫二石六・七斗)、同三十四年より同三十七年までは二百万石を突破し、反当収穫も二石八・九斗と年々増加をみている。

 ここで明治以後の米価政策についてふれることにする。維新後、米の投機市場は明治六年に復活し、ついで同十六年米穀取引所法により、堂島などを中心に全国的に米市場が組織された。しかし米価の騰貴は消費者を圧迫、低落は生産農家の再生産を困難にし、国民経済を混乱させた。政府はこのため需給の長期安定を図り、米価の短期変動防止の必要にせまられた。この米価政策の最初の制度化は、大正初期の米価高騰や大正七年の米騒動による同十年の米穀法であった。これは市場価格を基準に政府の売買価格を決め、その範囲内で米価を安定させようとしたもので、同時に台湾・朝鮮など植民地米の増産をも目ざした。しかし、昭和初期の大恐慌・植民地米移入増加が米価下落となり、昭和二年三月石当り四十円であった。この年岩手県穀物検査所が県内十九ヵ所に出張所をおいて穀物の検査をしている。同三年三月には石当り三十三円となり、とどまる処なく、同五年三月には二十八円となり、同六年三月には底値一升当り十九円となっている。その後は県統計書は瓩当りとなっているが、同七・八年低迷し、同八年米穀統制法で最低・最高を決めた。同九年からようやく上昇し始めている。さらに米穀自治管理法で市場調節を強化、日中戦争開始後、昭和十四年に米穀配給統制令がで、供出制度で米の強制買い入れや、配給制度を決定、米の自由市場は消減をした。さらにこれらの法令を統合し、同十七年に食糧管理法を公布し、食糧営団や農業会で配給・集荷を国家統制に一元化し、特に買い入れ価格は地主供出より生産者供出を高くした。

 昭和九年から同十九年まで米価が年々上昇しても五十一円までであった。ところが同二十年に三百円となり、翌二十一年にはさらに五百九十一円と倍に近い上昇をする。

 終戦後も統制は続いたが、昭和二十二年管理法改正で食糧配給営団が発足、米価も生産費方式からパリティ方式に移り、更に食糧事情の好転もあって、同二十六年同営団を解散、米屋も復活した。ついで同三十一年に供出制度を廃止、予約買い付け制度となり、他の主食は次々に統制撤廃、間接統制となったが、米の需給の国民経済に及ぼす影響もあり、いぜん、統制・米穀通帳による配給制度は存続している。しかし、日本経済の高度成長に対し、農業者の所得の伸びは小さく、このため米価も生産費及び所得補償方式が同三十四年に採用され、政府買い入れ価格より、売り渡し価格・消費者米価が安い逆ざや状態が増大、流通管理費用とも合わせ、食糧管理特別会計の赤字を巨額とし問題化しているし、開田拡張等により、蔵米が倉庫より溢れ出し、古米、古々米の処理に窮するほどになり、過去の凶作時代に考えられなかった豊かな苦しみをなめた。

 ここで前述以降の石当りの米価についてふれることにする。すなわち、昭和二十二年には前年の二十一年より三倍以上の一千九百二十一円とはね上がり、翌年にはさらに二倍以上の二千三百八十三円、同二十五年に六千二百六十八円、翌年は七千四百円、あけて二十七年より四十二年までは一万円内外であったが、同四十三年より石当り二万円を突破している。

第六節 本村の農業

一 はじめに

 宝暦十一年(1761年)九月廿八日付の『盛岡城事務日記』の宗門改惣人数中、厨川通り、現在の本村分の大釜は四軒、篠木二軒、大沢九軒、鵜飼七軒、元村七軒、〆めて二十九軒となっている。しかし、この二十九軒の年代は明らかにされていない。

 寛政年度(1789―1801年)には、三百九十九軒、明治の初期には五百三十五軒、大正九年には七百二十九軒、昭和五年は八百五十五軒、終戦後の同二十二年には千四百三十九軒、同四十五年は二千百五十二軒となっていて、藩政時代、生活苦のため増加しなかった戸数が、明治以降、加速度で戸数が増加している。

 昭和三十一年二月の農業基本調査表によれば、農家戸数は千二百三十戸とあり、その中、明治以前からの営農家は三百九十四戸、明治年代は二百九十五戸、大正年代は六十二戸、終戦前は六十一戸、終戦後は入植者があって四百十八戸となっている。昭和三十三年の『村勢要覧』には、開拓戸数五百四十五戸となっている。

 昭和四十五年度の村勢統計表によれは、同三十五年より同四十四年までの約十年間の農家戸数は一千三百戸台であり、変化がないのにもかゝわらず、専業農家七百六十一戸から二百五十六戸に減少し、兼業農家は六百十五戸から一千百十一戸に増加している。このことは小規模経営のみでは生活が成り立たず、いきおい兼業せざるを得ないことを物語るものであろう。

 同村勢統計表に、田は年を追うに従って面積が増加し、四十二年度より十万α台を突破して倍以上になっているが、樹園地は七・八十α台で変化が少なく、普通畑は二十万αから十万α台に減少している。このことは、村民は挙って国策に沿うて増反をしたことと、岩手山麓の開田によるものである。

 本村の稲作作付は、下表の通りである。

いね作付農家数及び面積→

 いね作付画境について、水陸稲面積別に示すと、上の表のごとくなる。水稲作付、または収穫面積は昭和二十五年から同三十五年まで維持してきた五千台(反)を、同三十六年より、同四十年まで、毎年百町歩を越し、その後は飛躍的に増加して同四十三年には何と一千四百町歩の水稲面積となっている。

 陸稲面積については、増加の傾向を示すも年によって変異がみられる。陸稲作付は、その価格と、農家の他産業への兼業就業機会の多少による労働分配とによって変動すると考えられるが、本村においては、入植地域を主とする経営畑面積が、四―五町である水田皆無の農家にとっては、自給飯米のための作付と畑利用において商品作物としての作付がある。この場合、商品作物としての陸稲は飼料用作物作付を通じて酪農と競合するが、この競合関係は、飼料用作物作付面積の増加と対比するとはいいえない。

 陸稲作物を含むいね作付面積階層別戸数は次表の通りである。

水陸稲収穫または作付面積別農家数→

 逐年作付面積下位階層が減じ、上位階層の増加がみられる。この傾向は上表にみる水陸稲作作付面積の増加と一致している。開田の今後は水利の制約上、昭和三十五年以降同四十年までの五ヵ年間に、毎年百町歩、さらに同四十一年より同四十三年までは毎年飛躍的に増加をみているが、今後このような期待は出来ず、また、陸稲も今日の技術水準では、経済的生産性と農家労働力配分上急激な増加がのぞまれないから、本村の稲作は今後特に後退することはないであろうが、作付面積の特別な増加は期待し得ないし、減反問題とからんで今後の課題であろう。

 川本忠平氏は余剰米は昭和五十一年度までで、その後は緩和するであろうという。その理由として、古米、古々米の出来たのは、昭和四十一年に五万ha開田したのであるが、毎年道路や工場・住宅等の新設による耕地の減少が二万ha、従って三万ha分が今日の問題になったのだとしている。このことを信じても、ここ五・六年間の休耕管理が問題となる。

 明治から大正・昭和の始めにかけて自作が少なく、小作が多かったが、終戦後の昭和二十二年には、自作が四四%、自小作は三二%、小自作は一四%、小作は一九%となっていたものが、マッカーサーの指令による財閥の解体に伴う自作農創設により、農地改革後の同四十年の農業センサスは自作九七%を示している。不本意ながら、農村が民主化され、農業の生産力が向上したことは喜ばざるを得ない。

 農産物生産額を検討するならば、昭和三十三年度の耕種農業の生産額の主なるものは米と雑穀が各約四十%であったものが、同四十二年の生産額の米が約六〇%で、飼料用作物が約二〇%となっており、本村も国策に沿うて米を増産したのであった。そして、今日まで食管制度によって温存していた米が、最近、減反問題が起り、今後も米が日本にとって論議の中心になるであろう。

 次の(一)経営土地面積、(二)農家と農家人口の統計表を参照せられたい。

(1)経営土地面積

経営土地種類別農家数と面積の変遷→

部落別経営耕地面積→

(2)農家と農家人口

経営耕地規模別農家数変遷→

部落別経営耕地規模別農家数→

専兼業別農家数変遷→

部落別専兼業別農家数→

農家人口→

自小作農家数(1)→

自小作農家数(2)→

農産物生産額→

滝沢村概観図→

二 土地利用形態

 以下九まで『滝沢村の実態と、その基本的開発構想』によった。

 開拓とかんがい土地改良事業とによって、村内の土地資源は利用しやすく集約度段階区分に一応安定したと認められる。かく利用しやすくした農家の地目別戸数と平均面積について検討を加える。次表は経営耕地利用農家数及び一戸当りの平均面積 (経営耕地利用農家数及1戸当平均面積推移→) で、田については昭和二十五年と同三十五年の十年間に百五十戸二〇%強の増加をみたが、一戸当りの平均面積には変化がない。これに対して同三十五年と同四十年の五ヵ年間に戸数が二百戸二五%と前十ヵ年以上の増加を示した上、一戸当りの平均面横は、二〇%余増加し、九反二畝に達し、水田耕作農家は、同二十五年全農家の五八%余から、同四十年には七五%余となった。岩洞ダムの完成により、水利が開けたことがこの急激な水田増加をもたらしたものであり、今後は同様な伸展が期待できないにせよ水田作が他の作目に比し有利であり、国策にも沿うたので本村の農業を安定化させたのであった。

 りんごを主体とする果樹園地は、昭和二十五年から同三十五年の十ヵ年に五倍近い戸数の増加をみたが、一戸当りの平均面賓は不変に止まっていることは、この間にりんごの普及浸透化を示すものであろう。同四十年になると、栽培戸数は約二〇%減少し、逆に一戸当りの平均面積では三〇%余一反の増加がみられる。これはりんご作が単に適地と投資の問題ではなく、栽培技術と栽培意欲、経営体制という条件が伴わねばならないものであって、水稲作のごとく耕地条件と用水の便さえあれば一応の生産水準に達し得るというものではなく、特性によるものである。しかし、この過去十五年間の果樹作の推移は、本村果樹作の将来に対してその基礎作りをしたものといえるであろう。

 次に普通畑であるが、昭和三十五年の総農家戸数の増加は、戦後開拓入植によるものであり、普通畑農家戸数と一戸当りの平均面積の増加も同様の理由である。同三十五年の一戸当り平均面積の減少は、畑の開田によるものである。普通畑面積の増加は開拓によるものであるから、この一戸当りの平均面積は平均であって、開拓地と旧村のごとく地域差がある。昭和三十八年二月一日現在の普通畑一戸平均についてみると、次表 (行政経営別経営土地種類別農家数及面積→) のように、全村平均一町六反四畝前後の部落は小岩井、川前、平均の半分、八反前後及び以下の部落は、大釜・篠木・大沢・鵜飼・元村、二町七反の柳沢・一本木、四町弱の姥屋敷と顕著な差異をもって区分される。本村畑作においては、この点を十分考慮され、その将来が考えられるべきであろう。

 畑地利用と関連して考えられることは草地利用である。ここでは採草、放牧する山林から採草地、放牧地、そしてさらに永年牧草地へと集約的に草地利用をなしつゝあることをその戸数と一戸当りの面積にうかがい得るのである。

三 農家専兼業構成

 土地の農業的利用上から、開拓における草地利用と開田とを軸として、当村農業が地域別にそれぞれの方向を見い出したが、今後は労働集約化と資本集約化が進められ、個々の農家の条件に応じた営農形態が確立されることが順序であると思う。しかし、この土地利用を担当し、営農の主体たる農家の動きは、必ずしもその順序通りに期待せしめないものがある。農家兼業化の動向がその一つである。このことは (農家専兼業戸数及比率表→) のごとく、岩手県全体及び盛岡市周辺の農村は同様である。昭和三十年は日本国民経済が回復復興から発展に転じ、農業を含む第一次産業と第二・三次産業の国民経済上の相対的位置付けが逆転する時期である。農業では兼業化の進展の始った年である。とにかく専業農家が減少し、第一種兼業農家が増加したということが知られる。

 さらに、農家専業構成を部落別にみて、部落の性格を理解しておこう。 (行政部落別専兼業農家構成→) の表が示す通り、水田農家率の高い大釜・篠木・大沢・鵜飼の専業家率は、大沢以外昭和三十八年、すでに岩手県全県及び類似村並であり、且つ同三十九年にはさらに減少傾向を示している。この点大沢部落は水田農家率一〇〇%、一戸当り水田面積もこれら四部落中最高ではあるが、専兼業農家構成及びその減少傾向において、他の三部落と相違するのが特異である。水田、畑、果樹の複合地域とみられる元村、川前部落は、専兼業農家構成及びその変化に類似点がない。特に川前部落の専業家率の減少は異状でさえある。国道四号線と鉄道という交通上の立地の相違を考えるべきと思われる。柳沢・一本木・姥屋敷は開拓地域であるが専業家率が高い。唯姥屋敷以外ではその減少傾向がうかがえる。以上のごとき部落別の差異は将来構想を描く上の条件となるものであると認められる。

四 農家兼業の内容

 昭和三十八年を転機とする急激な兼業化と内容を検討してみよう。 (兼業の内容→) の表は農業を主とする第一種兼業と、兼業を主とし農業を従とする第二種両者に共通する点は、人夫日雇の三倍に及ぶ急増と、職員勤務の二倍に近い増加である。恒常的賃労働がほゞ不変であることと、顕著な出稼がないことも共通している。これに対して、自営兼業の方が、第一種兼業で四分の一近くに減少したのに対し、第二種兼業の方は二倍余になっている。人夫日雇の急増、とくに昭和四十年の就業先をみると、第一兼業で七一%弱、第二種兼業で八〇%弱が土木建設業である。このことは、隣接する盛岡市に土木建設工事が拡大し、それに結びついていると考えられる。

 本村の兼業農家の動向としては、自営兼業の絶対的減少、とくにその他自営業の減少である。その他自営業は、前述のごとく、第一種兼業で四分の一近くに減じ、第二種兼業では二倍余になりつゝあるも、その合計では六〇%余に減少している。その他自営兼業が兼業総体としては減少し、残ったものは兼業を主体とする第二種兼業の形になりつゝある。終りに職員勤務の兼業農家が、第一種兼業で六〇%余、第二種兼業で二倍弱に増加しているということは、兼業内容とし、恒常的賃労働兼業は停滞的ながら人夫日雇兼業の増加、その他自営兼業の減少と兼業の主業化、職員勤務の増加、以上三点にみられた動向と性格が、盛岡市に隣接した本村が一般的に考えられる兼業化方向へたどる道であると理解される。

五 農家人ロの年齢別構成と従業状態

 本村の農家人口の変化と、その農業就業形態の検討をするならば、農村人口の減少が顕著であるといわれる今日、本村はどんなであろうか。 (農家世帯人口の専業兼業別従事者数→) の表から年齢別農家人口構成をみよう。昭和三十五年から同四十年までの五ヵ年間の変化は、次のごとくいえるであろう。男子についてみると、総人口で約三百人、七%の減少である。内容的には十五歳未満層、十六歳―十九歳層、二十歳―二十九歳層の減少になっている。従って労働人口として十六歳以上農業に従業するものとし、六十四歳までの人口合計が約百四十名、五%の減となる。よって総人口でも農業労働人口でも一般的にいわれるごとく、極めて急激な減少とはいえないであろう。五年間で総人口が九二・九%、労働人口が九四・四%になる年率は、総人口及び農業労働人口が半分になるのには夫々四十七年、六十六年を要する年率と速度であって、二十年もしたら農業人口が半分以下になる等といわれるほどの速さではない。しかしこれは男子統計についてゞあって、十六歳―十九歳の若年層、二十歳―二十九歳の青年層の減少はきわだったものといえるであろう。特に昭和三十五年に十六歳―十九歳と二十歳―二十四歳であったものの前者が八〇%、後者が六〇%しか村に残っていないと推定される。この五ヵ年間に社会的減少の最も顕著に生じた層が、この若年層及び青年層の前半期の人々であったと思われる。そして昭和三十五年二十五歳以上の人々の社会的減少はこの五年間殆どなかったといえるであろう。また昭和四十年、十六歳―十九歳層の内約半数の百二十二人は通学者であり、卒業後は離村の可能性の大きな人々である。これに対し壮年層も後期四十歳以上層も増加している。男子にみられるこの様なあり方は、女子についても多少相違はあっても殆ど同様である。かくて本村農家人口は昭和三十五年当時十六歳―二十四歳までの若年層及び青年層前半の人々にこの五ヵ年間に目立った社会的離村流出がみられ、昭和四十年においては四十歳以上の壮年期後半の層が厚くなって農村老齢化の傾向が明確に認められる。たゞ単なる農業労働量の減少は顕著でなく、農業労働量の不足が感じられない。これが事実上農業労働力の不足として感じられるのは、兼業に就業する機会があるため農業で雇傭を求めると不足すると感じとられる。いわば、村内に絶対的に労働量がないという意味ではなく、農業に対して相対的に不足が感じられるということである。このことは前の表の農家労働量の農家専兼業別就業人口の変化によって理解される。昭和三十五年に比し四十年には兼業農家数の増加と同様、男子では農業専従者は半減に近く、逆に農業主、または兼業的農業従業者が倍増している。ただ兼業にのみ従事する農家人口の減少は注目に値することである。女子についてはこの事情は多少かわる。兼業従事者の増加倍率は大であるが、その絶対数は少なく、昭和四十年でも、同三十五年度と同様女子は農業にだけ従事するものが大部分であることがみられる。男子の農業専従人口が減じ、兼業従業者が顕著に増加したのに対し、女子の農業専従が依然多いことは、本村農家の農作業が女子にたよって担当される度合が強化されたことを示すものといえよう。かくて農家人口の年齢構成と、その就業状態の検討から、農家に存在する在村労働量は男女とも過去五ヵ年間に顕著に減少したと総量からいえないが、男子では兼業に向けられる労働量が増加したために、相対的意味において、農業労働力の不足が感じられる。また男女とも若年・青年層の人口が減じ、農業が老齢者によって行われる老齢化が明らかにみられると共に、農作業の多くを女子労働に負担せしめる婦人化現象も明確に数字の上にもよみとり得るといえるであろう。

年齢別人口構成→

六 農業経営耕地面積規模と農業機械の導入状況

 本村の土地と労働との組合され方を農業経営面積規模として観察し、農業経営の資本化の程度を農業機械の導入状態として検討する。 (経営耕地面積規模別農家戸数→) の表によると、昭和二十五年から同三十五年の十ヵ年間に、本村農家の耕地面積経営規模は大きく変化をしている。この間に本村では開拓、開田が急速に進展し二百戸余の増加があった。昭和三十五年までに個別農家の耕地面積規模はほぼ確定し、その後の五ヵ年間は大きな変化のないことを昭和四十年の数字は示している。概観的には一町~一・五町層を境に、これより以下では三反未満層の減少以外固定的であるのに対し、一・五町~二・〇町層以上おいては五町以上層農家の増加にみられるごとく、規模拡大化が進んで来たと判じ得るであろう。唯、水田、普通畑、果樹園、飼料作等土地利用形態が地域的に集中化していることから、今日までの経営規模変化の動向を趨勢とし、将来にまでこのまま伸ばし得ると考えることには問題があろう。むしろ比較的耕地規模の大きな農家がその耕地を如何にしてより集約的に利用し、そうすることによって、現在の親模において安定した経営の確立を図るかに課題があろう。

 経営耕地規模の比較的大きな経営が一般的労働生産性水準を維持するように、耕地の利用を進めるとき農作業機械の導入は当然必要となる。 (農用機械種類別所有農家数及台数→) の表の農用機械の導入台数において、数値が不充分な点もあるが、経営耕地規模の確定した昭和三十五年以降逐年導入台数が増加し、経営の資本化がみられる。農用作業機械の中で何れの作目にも最も基本的共通的作業に使用されると思われる動力耕耘機、またはトラクター台数は、総農家戸数の半分以上に達している。農家二戸に平均一台の割である。唯昭和三十八年以降急激に兼業化が進み、また、農作業の多くの部分が婦人に托されるに至り、作業速度を速めることゝ、重労働を回避するために耕耘過程の機械化が農家の経営耕地規模と無関係に進められていることも考えられる。この点動力耕耘機、またはトラクターの昭和四十年調査における経営耕地規模別所有台数を前表のカッコの中に示しておいた。一町~一・五町層においては二戸に一台の割にある。経営耕地規模一町以下層における導入は兼業に対する労力補充と考えられ、一・五町層以上で七〇%以上の農家に導入されていることは、これだけの耕地を経営する以上は当然必要なものと理解される。この理解の上に立ってみると、一・五町以上層の農家では、各層に導入されている耕耘機台数の農家は、それぞれの階層の耕地面積を一応の水準において利用し、今日一応安定した経営にあり、将来については、さらに一歩踏み出すことを考えるべき対象農家であると考えて差しつかえないであろう。この点三町以上層農家数三百九十四戸に対し百七十四台の耕耘機台数が示すごとく、三町―五町層に課題があることをこの検討で見出すべきであろう。

七 戦後開拓と本村農業

 これまで、本村における土地の農業的利用の確定、兼業化の急激な進行、経営耕地面積規模の定着化等本村農業構造の確立が、昭和三十五年以降であることをみた。農業的土地利用と経営耕地規模が定まった後、地域的な他産業の発展に誘発され兼業化したことは、これが本村農業構造の変化である。昭和四十年農業センサスの耕地面積を基礎に推定すると、戦前本村の耕地面積は一千町歩以下であり、内水田三百町余と思われる。それが耕地三千二百町歩弱、水田九百五十町弱と何れも三倍余に急増したのであった。また、今日一千三百六十戸余の農家戸数に対し、現存入植農家五百十五戸、戦後増反関係農家二百七十五戸に及んでいる。戦後二十年間他産業が荒廃からの回復、復興、発展成長とめざましく進んだのに対し、一年一作を基幹とする農業的土地利用の条件に制約されながらも、開拓と増反は耕地の量的拡大のみではなく、質的に土地利用を多様化すると共に村内農業に地域性を与えた。すなわち、酪農を中心とする地域の成立である。また都市隣接農村として都市の直接需要、商品流通の有利性、加工原料供給等の可能性に応えうる条件、これも開拓、増反を中心とする量的拡大と、質的多様化によって、一つの農業地域が成立したのである。

八 耕種作部門の生産概要

 戦後開拓入植と増反による急激な耕地の拡大と農家戸数の増加によって農業が本村産業中で大きな位置をしめ、安定した生産形態を確立したのは、昭和三十年から同三十五年以降と考え、同三十五年以後の数字によって農業生産の推移と方向を検討しよう。次の表は耕種作部門の生産の作付反別を比較したもの (耕種作部門作付面積→) である。すなわち、麦類、雑穀類、甘藷、馬鈴薯、豆類が累年減少をするのに対して、水陸稲と飼料用作物の顕著な増加がみられる。このことは、開田による水田作と、入植による畑の利用が飼料用作物作付にみられる酪農経営とに集約されつゝあることが本村の実体である。すなわち、昭和四十年農業センサスの結果に、稲を販売農産物の主体とする全農家の五九・四%、酪農を主体とするもの一七・二%、合計七六・六%の農家は稲作か酪農かを主体とする経営形態に単純化しているとみられる。しかし、都市隣接農村として野菜作、畑の集約的利用の果樹作、この両者の作付が停滞していることは将来考慮すべきであろう。

 総農家数の九五%に当る経営耕地五反歩以上の農家(昭和四十年センサスで一種農家と分類されたもの)について農業生産物の販売額規模別専業兼業戸数を次の表 (農業収入階層別専兼業農家数→) に示した。三十%近い農家が販売額二十万円以下であり、その七〇%余は兼業に依存することは当然であろう。総農家の半数近くが、販売額二十万円―五十万円層である。この層は農業現金所得でいえば十四万円―三十万円であり、兼業収入が期待されるものと思われる。この層の専業農家の所得増加が課題となるであろう。七十万円以下層の兼業農家の半数近くは、就業条件の不安定な人夫日雇である。そして人夫日雇兼業農家率は販売額階層に関係なく四三・〇%―四四・七%であることは、単に偶然であるとすることには理解しにくい事象である。

九 農業収入額からみた農家

 次表 (農業収入額別戸数→) の農業的収入額別戸数中、農産物販売額一位の部門が、麦類、甘藷の類、野菜類、養豚である農家は、概して収入額が少ないといえよう。麦類、馬鈴薯、豆雑穀等の普通畑作物が労働的にも資本的にも疎放な形でしか行われていないことを示すものであろう。また消費都市盛岡の隣接村でありながら集約的な野菜専業形態は生れていないことを示している。唯養豚において百万円以上のものが一戸ある。これは過去一ヵ年に肉用として販売した肥育豚頭数が三十―四十頭の規模の農家である。これに対し、稲、酪農、果樹部門を一位とする農家は概して農業収入額が大である。百万円以上の農家が三十戸みられる。養鶏は所得率が極めて低い故、この程度の販売額では高い農家所得を期待することは出来まい。全農家の農業収入区分では二十―五十万円の農産物販売額農家が全農家のほゞ半分に達し、この程度の収入の農家は専業だけでは生活上不充分であり、兼業就業に充分労力をさくことも困難な苦しい階層農家であろう。販売のない六十八戸は自給農家であるが、不完全自給農家もあり得る訳で、この点をより明確にする意味もあって、前の表の経営耕地面積五反以下に乳用成牛が一頭もおらず、成鶏も五十羽以下である様ないわば農家とは称しにくいものを別にし、一応農業生産を行う農家と考えられるものだけを特に一種農家と名付けて区分集計している。本村においてはこの数は前の表にみる様に一千二百九十八戸である。ここの販売なし二十八戸は自給農家と考えられよう。この二十八戸を除いた一種農家について、収入額による区分をみると、二十―五十万円層が六百二十八戸で、丁度半分、そして残りの半分強に当る三百三十六戸が二十万円未満、半分弱の三百六戸が五十万円以上に分られている。低い農業収入の農家は当然兼業に依存していると考えられるが、この間の事情を (一種農家の販売額専兼業別戸数→) の表によってみることにする。この場合、農業収入二十万円以下とは、所得率を六十%とみるとき、年間十二万円、一ヵ月一万円の所得であり、一応の生活水準を維持するためには、兼業を主とし、農業第二種兼業に属さゞるをえない層である。二十万円―五十万円の層は、同様の計算で月の所得一万円―二万五千円でやはり多くは農業を主としつゝも、第一種兼業たらざるを得ない層である。五十万―七十万円の層はほゞ農業収入だけで生活を維持し得る専業農家たり得るものと考えられる農業収入である。しかし、この層の専業農家は、生活を維持し得ても、さらに余剰を得て農業投資をなし、生産拡大をはかるには、生活程度を切りつめる等特別の努力が必要とされる。農業収入七十万円、つまり月三万円以上の所得層になって、始めて農業投資をなす余剰が出来る農業収入たり得るものといえよう。このように理解して前表をみると、まず二十万円未満の専業百五戸は、不充分な生活水準であろうし、兼業の内職員勤務、恒常的賃労働と自営兼業との計百四十戸は、第二種兼業者として、一応安定した就業の場をもっていると思えるが、半数に近い人夫日雇兼業のものは不安定な就業状態にあるものと考えられる。次に二十万円―五十万円の農業収入層の農家においては、月一万円―二・五万円の所得を、少なくも飯米だけは自給し得た上で得るものとすれば、苦しさも少なくなるであろうが、水田皆無の酪農主体の農家の場合、前々表によると、この酪農に該当する可能性あるもの百三十戸あるが、この場合の生活程度は低いものとなろう。そして、この層の多くは第一種兼業と推定され、自己の農業生産を継続して、これだけの農業収入を得るためには、兼業に主力を注ぎ得ず、兼業所得も農業所得より低いのが第一種兼業と分類される場合が多いから、場合によっては、前述の崇業収入二十万円未満の農家でも、安定した第二種兼業を有するものよりはるかに低い生活を余儀なくされる可能性が多いと考えられる。

 かく農業収入階層区分による農家の検討も、自家食糧の自給度、自家農業の経営類型による兼業従事の難易等の営農類型を考慮する必要がある。そのために農産物の販売額の農業総収入に対する割合による営農類型区分農家数を次に表 (営農主体作物別農家戸数→) として示した。いね主体とはいねの販売額が農業総収入の六〇%以上か三〇~五〇%であっても、いねに次ぐ販売割合の作目が二〇%以下であるような営農類型である。これによると、単一作目の営農型態が全体の九一・五%に及び、本村農家は極めて単一な営農類型であるといえよう。唯単一作目中心経営即専門的経営と行かないところに問題があると思われる。とにかく本村はいな作と酪農の二つが主要な部分をなすことと読みとりたい。

第七節 林檎

一 岩手県の変遷

 岩手県内務部発行の『岩手県案内』に次掲のごとき紹介が記述されている。

 果樹苹果は、その栽培を維新当時に起し、明治五年盛岡の人、横浜慶行外二人、苗木若干を北海道より持ち来り、各その庭園に栽植せるを以て起原とす。同七年には、東京青山試験場より更に苗木の送付ありて之を当業者に配付せり。而して横浜等の携へ来りしものは明治八年初めて、数顆を結びたるも名称不明なりしを以て、結顆によりて之に紅魁・晩紅紋・垂玉・大錆と命名せり。翌年鳳駕東北御巡幸の際、時の県令島氏之を天覧に供し奉りしと云ふ。「かくの如く苹果は盛岡人に由りて栽培を試みられしが、意外の好成績を得たるにより、栽培を試むるもの頓に増加し、明治十六年苹果品評会を開くに至れり。爾来栽培は年と共に増加し、一時東京市場に於て、大にその声価を挙げ来りしが、明治二十六・七年頃より、綿虫の大襲来を受けて多大の打撃を蒙り遂に伐採し、之に代ふるに梨果を以てする者生じたりしが、県立農事試験場及び先覚者は最も綿虫駆除に力を入れ昨今再起の形勢となり、その間に又、岩手県果樹会なるもの設立せられて、斯道の奨励を以て任じつゝあり。」

 県が農業奨励の見地から盛岡に種芸試験所を設置し、そこで梨・桃・梅・柿・林檎・葡萄など各種の果樹を育成したが、その中に林檎がある。県ではこれを苹果として扱っているので、ここでは苹果として記してみる。

 苹果は明治九年、県の奨励品種を植付けたものが相当成功し、明治十五・六年には立派な成果を納めたので、同十六年には品評会を開催するまでになった。明治十年に植付けたとしても、すでに七年樹となっていたから、相当の生産があったものであろう。盛岡地方に普及されたのは、洋種の苹果で、その種類も百余種に及んだという。殊に祝・満紅は風土に適して成績はきわめて良好であったという。明治二十二年に至って一本の木で二千個以上の収穫をしたものも少なくなかったと報告され、岩手のりんごの成功は東北に冠たるものがあった。福島県行方郡地方でも苹果作りをやっていたが、岩手りんごの五分の一、二〇%程度の成績であった。このことについて明治二十二年五月、行方郡の園芸家より岩手県に対し、岩手県で成功を収めている苹果の品種・栽培方法・土質土壌の適不適・苹果の手入方法などにつき書状にて申請があり「御教示方、御伝習成し下され度」と申込んできた。県では、これを盛岡果樹協会をして回答せしめている。

 林檎生産は明治三十年以前顕著に発展したが、その後綿虫の発生で不振をつゞけ、大正後期に低落し、昭和期に入って徐々に立直り、同十年後増産一途に向っている。しかしこの間青森県では多収産林檎に成功し、青森林檎の名を高めるに至った。岩手県でも薬品使用の効果、技術の進歩、施肥の科学化なども原因して再び緒についている。

二 本村の林檎

 本村の林檎については、何といっても、後述のごとく、篤農家菊田鶴次郎氏が草分である。

 その後小山田権次郎氏のことについて、矢巾正三郎氏は、昭和初頭より林檎の接木に力を注ぎ、後、青森県の対島竹五郎氏より幼木から成木までの剪定法を学び、昭和二十年元村に移住し、県の果樹協会の林檎剪定実地指導員として県下を巡回指導し、特に本村の戦後果樹園は廃園寸前であったものを青年に呼びかけて、果樹類の剪定技術をはじめ、林檎の肥培管理から販売までの指導をなし、一方、全国品評会において、二ヵ年間スターキングで一等を獲得した外、試験畑を設定し、岩手林檎の将来にそなえているという。また昭和三十年には、立毛共進会において、馬鈴薯反当一千六百五十貫余を収穫して全国第一位、農林大臣賞をも受賞していると。

 また、金田一正身氏は、諸外国の林檎に関する洋書をよみ、私共に目を海外にむけさせ、視野を広めることが出来ると阿部長誠氏は語った。

 昭和四十一年発行の滝沢村の実態とその基本的開発構想の中の表を参考に次掲する。

表→

 昭和四十五年度の村勢統計表による経営土地面積の樹園地調査によれば、次のようである。

表→

 また、昭和二十二年の臨時農業センサスによれば、果樹園四十六戸で十六町三反、同二十六年二月一日の農業基本調査の果樹園は百三十九戸で十一町七反となっており、同二十九年二月一日の農業基本調査の林檎園は八十五戸で十六町三反となっている。ところが同三十年の農業基本調査の林檎園経営者は百二十八戸で、面積は十六町一反と減少している。昭和三十三年の村勢要覧には、林檎の経営者百五十三戸四千本とある。

 以上の数字を通覧するに、同年代の栽培者と耕作面積とが一致していないが、林檎(果樹)を栽培する農家が終戦後漸次増加し、昭和三十五年二百七十七戸をピークとして、同四十四年には百六十五戸と減少している。しかし、同三十五年より同四十四年までの九ヵ年間に耕作面積が八千α台を上下しているので、栽培農家が固定したように思われる。しかし、盛岡市に近接する町村に比較すれば、りんご園面積では最下位で、岩手県全県の伸びより低い。りんごと野菜は遠近に比例し、りんご園は盛岡市は減少し、本村及び都南と盛岡市隣接町村で伸びが小さく、矢巾村、さらに紫波町、岩手町と遠隔町村程伸びが大きくなっている。とにかく、りんごと野菜については盛岡市に隣接する本村としては熟慮せねばならない課題であろう。

 昭和四十五年の村勢統計表にある農用機械の利用状況は次掲の通りである。

果樹園面積広狭別農家の農用機械及び農用施設の利用状況→

 果樹作部門の将来の構想について、滝沢村の実態と、その基本的開発構想に次のように述べてある。

林檎の収穫

 りんごを主体とする本村の果樹作の伸び率が、隣接市町村に比して最低であることはすでに述べた。りんごは完全な商品作物であって、地帯的に集中して産地形成がなされいる。本県において五十町歩以上のりんご栽培面積を有する市町村を抽出配列すると、次表 (地帯別林檎栽培面積→) のごとく、県北から県南にわたって、東北本線に沿った市町村に集中されている。この外に陸前高田市と遠野市が百町歩以上、岩泉町、川崎村が六十町台の栽培面積を有するに過ぎない。盛岡周辺グループと県南グループとを区分する自然地理的境界は求めにくいが、表にみられるごとくグループ分けが出来るであろう。盛岡市のりんご栽培面積が減少していることからうかがえるごとく、りんごは都市的作物ではないが、流通管理機構の所在する都市を核として産地が地帯をなして形成されることがうかがえる。県南グループ中、栽培面積が最小の金ヶ崎町もりんごを主体とした果樹園造成を駒ヵ丘国営開拓パイロット事業の中で三百町余計画されているときく。この表から盛岡周辺グループの一員として滝沢村が市場流通経済的に有利な立地をしていると知るとき、この立地の有利性は本村果樹作拡大の可能性条件となる。次の (林檎樹齢別栽培面積→) をみると、盛岡市周辺グループ内で本村以外の盛岡市以下計では十年以下二三・三%、十一年―三十年五五・九%、三十一年以上二〇・四%に対し、本村においては五一・六%、四三・一%、五・三%と十一年―三十年の比率に大差はないが三十年以上は極めて少なく十年以下半数以上に及び新興地域であることを示している。このことは次の表の (林檎品種別栽培面積→) によると、本村は旭、デリ系、ゴールデンデリシャス、印度等新しい品種の比率が本村以外の全体より多く、特に最近需要の多いといわれるデリ系が占める割合も、本村以外において占める割合との差も大きく、グループ内で本村は将来性のあるりんご作付状態である。かゝる樹齢、品種の両面におけるグループ内において、本村の現在のもつ将来性は、りんご作拡大可能性の経済的条件下にある。

 次に、これらの経済的可能性を前提として、本村における果樹作の目標を如何に求めるか。果樹作の代表的地帯の一つとして盛岡周辺グループをとり、次の表 (盛岡周辺グループ市町村耕地面積→) を作った。これによると、果樹栽培面積が大である普通畑に対する比率が二〇%以上の四市町村は何れも水田比率五〇%以上と高い。果樹作と水田作の間には、その高い商品性と、経営的に資本投下力という経済的要因以外に結合共存を考えられないが、前記の通りである。また岩手県農業基本計画における営農類型でも、りんご作は水田作と結びつけて経営組織されている。これらのことから、前表にみられる水田比率五〇%以上の地域における普通畑に対する果樹園比率を、二〇%以上にとって計算すると、本村現地の主要な果樹地域たる大釜、鵜飼、元村の三部落では現在のりんご作面積を大きく拡大することは困難になる。そこで水田作と果樹作の結びつきが自然な技術的制約でないと考えられることから、水田化率五〇%以下ではあるが、川前部落に四十五町、鵜飼、元村部落で三十五町計八十町の増加により、本村りんご作栽培面積の目標計画を百五十町とする。これを川前で三台、鵜飼、元村で六台、大釜で一台のスピードスプレヤーに依って処理し得る様に集団化する。また、新植品種は紅玉十六町、デリ系六十町、その他四町とし、本村りんごの品種化率を紅玉三〇%、デリ系五〇%、その他二〇%とすることを目標計画とする。この目標計画は、昭和三十九年八月、滝沢村農業基本計画の昭和四十五年目標果樹園面積九十町よりは大きい数字になるが、これは前記果樹作の有利な立地条件に基づく短期的目標計画であると理解せられたい。

三 りんごの話

 『国分翁夜話』第十八話に「りんごの話」がある。

 日本に初めてりんごが輸入されたのは明治四年頃のことである。後に農商務次官となった前田正名氏が米、独、英、仏、伊等に二ヶ年の日子を費して旅行し、各種類の種子や、苗を手に入れ便船に托して日本に送った。

 日本では東京の三田四国町の大名屋敷の跡を開墾整理して二十五町歩の畑を設け、そこへ官立三田育種場を創立し、そこに受け入れて育成し、その苗や種を各地に分譲した。三田育種場は、後に官立から大日本農会に移り明治末年まで存統したが、りんごはその際、同場において繁殖して全国に配布されたものである。

 岩手県に移入されたのは明治十六年頃で、苗木は先ず県会議員に十数本宛分けられたが県会の終了は毎年十二月末だったので、議員諸公はこれを携えて帰り栽培したものだ。その後、副業的に少数の栽培に終った所もあり、企業的にやったものもあるが、主として士族の授産事業として採り入れられた。こうして漸次面積も拡大して行ったが、それと同時に皆という程、病虫害に悩まされた。

 明治三十年頃は相当の面積だったが、病虫害のため非常に衰えた。後、明治の末から大正の初めにかけて駆虫剤、消毒薬が次第に発明され進歩改良された結果、病虫害の駆除が容易になり、復活の曙光が見えて来た。ところが生産に伴う需要がなくて、価格は安く、甚だしいのは四十斤入の上玉で、籍入り荷造りして駅に持ち運んで一円内外の時があった。それがため肥料、消毒薬、労力等の代金を引けばしばしば赤字になる有様だった。そこで県の勧業課も販売斡旋に乗り出し、関東、関西方面に宣伝した。

 大正の初めには関西、四国、九州方面には全く需要はなく、関西以南に販路が拡ったのはむしろ昭和の初期からだというべきである。明治の末や大正の初期には地元でも需要は極めて少なく、連たん戸数五・六百ある町でも水菓子屋は殆んどなかった。金を出してりんごを買って食べるものは先ずなかったといってよい。然るに、現在は何処へ行っても水菓子屋のない所はなく全く隔世の感がある。

 りんごの将来は極めて有望で、生果としての需要も今後益々拡大するが、加工の面にも充分の余裕がある。例えばパン食の普及に伴ってジャムの需要が盛んになるのは当然である。そしてこのジャム加工用には生食不合格の二等品で結構である。更に醸造用として、りんご酒の発達は必ず期待出来る。今日足りない貴重な米をつぶして清酒を呑んでいるのだが、これは今後りんご酒をぶどう酒と共に大いに研究して清酒の代りに果物酒を呑む様にするのが、国策としても甚だ緊要なことだと考えている。特に本県の様に平地が少く、傾斜地の多い所は丘陵地帯、山麓地帯にりんごの栽培をすれば、他県に比し栽培範囲が大いに拡大する。

 一体りんごの栽培は普通作物に比し、甚だ手数を要するもので、特にその品位を向上させ様とすれば特別な苦心と努力を払わなければならない。りんご等の果樹園芸は、非常に人手を要する集約農業であるために、農家の二、三男問題の対策に貢献することも決して少なくない。しかも果樹栽培には重労働も全然ないわけではないが、大部分は軽労働であり、従って老若婦女の人も容易に参加することが出来る。ここが果樹園芸の着眼点である。

 りんごの品位向上のためには、矢張り家畜の肥料を供給することが最も大切である。ところが、一般にはややもすると果樹栽培はすべて、剪定整枝、或は消毒などが基本的技術の様に考える者があるが、これは大変な間違いである。果物は決してハサミやポルドウ液でなるのではない。地力でなるのだ。地力の維持増進が何より大切であることは、他の作物と少しも変らない。しかるにこれを履き違えている者が多いのは果物栽培の通弊といわなければならない。病害のごときも地力と特に密接な関係があり、地力の充分な所には病害の発生は少ない。

 凡ての農作物中、園芸作物は最も集約的で、或る意味では不具的に改良されている。だから樹勢に不相応な結実をさせるため、その結果生ずる弊害は普通の農作物より多い。それがため土壌の健全であることが何よりも大切である。従って潤沢な厩肥の供給が第一の仕事である。全国の果物品評会で岩手から年々優等の栄冠を受ける者が悉く有畜農家であることがその何よりの証拠である。

 次に、りんごの文字について少し述べておこう。りんごは漢字では林檎(りんきん)と書く。従ってほんとうはリンキンと呼ぶべきである。在来種にリンキンと称するものがあり、楕円形の小果を結ぶものである。東洋ではりんご族の総称として林檎(りんきん)という文字を用いた。漢の武帝の時代に大庭園を作り天下の珍果を集めたが、その中に林檎の名が載っている。

 しかるに明治初年に欧米より、りんごを輸入した際、これに苹果の文字を与え、ふりがなには『おおりんご』とつけた。苹は辞典には、草のさかんなるかたち、とあり、詩経には、ゆうゆうたる鹿は野の苹を食う、とあるが、苹とは草の一種と思われる。

 明治初年の博物学者に田中芳男という人があり、前述の三田育種場の場長をしていたが、この人が苹果と命名したと伝えられている。

四 農林省園芸試験場盛岡支場

農林省園芸試験場盛岡支場

 園芸試験場東北支場は、青森県藤崎町に創設され、昭和三十五年に東北農業試験場に統合され、同三十四年から現在地に移転し、同三十六年に園芸試験場の独立により同場盛岡支場として新発足している。

 東北を中心に北陸中部高冷地、山陰におよぶ積雪及び寒冷地帯の園芸生産に関する試験研究がすすめられている。総面積三十七ha、建物、庁舎及び実験室、害虫飼育室、ガラス室、水砂耕準備室その他である。

 主なる研究は、リンゴの新品種育成試験、リンゴの台木に関する研究、リンゴの人工授粉に関する研究、加工果樹品種に関する研究、リンゴの薬剤摘果に関する研究、果樹栽培における大型機械利用に関する研究、リンゴに対する施肥の合理化に関する研究、加工用そ菜の育種に関する研究、そ菜の省力機械化栽培様式確立に関する研究、そ菜の省力機械化栽培適応品種の育種に関する研究、そ菜畑除草剤に関する研究、リンゴ無機栄養に関する研究、リンゴの貯蔵養分に関する研究、リンゴの栄養診断に関する研究、リンゴモニリヤ病に関する研究、リンゴ紋羽病に関する研究、リンゴ斑点性落葉病に関する研究、モモシンクイの生態と防除に関する研究、ハダニ類の生態と防除に関する研究、果樹害虫に対する殺虫剤の効力検定に関する研究、果樹園内の昆虫相の調査研究となっている。

第八節 本村の野菜

 岩大の川本忠平氏は、『滝沢村の実態とその基本的開発構想』の中で、次のように述べている。

 盛岡市における野菜の消費量は県内だけで間に合わず、県外から購入している。昭和三十五年の各機関のまちまちな統計からまとめて推定すると、トマト二六t、きゅうり二五二t、大根四六五t、牛蒡一六tで野菜が需要に応じきれない。

 今から十年前の統封で古いのであるが、昭和三十三年の年間盛岡駅と仙北町駅に着荷した農協中央会の調べによると、
茄子は茨城と栃木から、
トマトは東京、
胡瓜は茨城と東京・山形、
南瓜は東京・茨城、
西瓜は茨城・新潟・千葉、
牛蒡は福島、
人参は北海道・東京・宮城、
大根は宮城・福島、
里芋は群馬、
馬鈴薯は北海道・宮城・静岡、
甘藷は茨城・千葉・栃木・埼玉・東京・神奈川・愛知・愛媛・静岡、
葱は北海道・福島・静岡、
玉葱は大阪・和歌山・北海道・香川・愛知、
白菜は宮城・山形、
ほうれん草は宮城、
その他、カリフラワー・パセリ等は千葉・名古屋・静岡となっている。

 盛岡周辺の地域で、収穫物を商品化しうる度合を五〇%以上越す町村は、都南村と岩手町のみであって、都南村は六四・九%、岩手町は五六・八%である。盛岡市の農業部は四三・〇%、玉山は二九・六%、西根は一九・四%、松尾は二八・三%、雫石は四八・八%、矢巾は一九・八%であって、本村は三五・八%の低率である。

 蔬菜の販売量の多いのは岩手町、次いで都南、次は市の農業部、雫石・玉山、次が本村で五百七十二tを販売し、次は西根・松尾・矢巾となっている。

 本村の販売された農産物の内訳は、大豆・菜種・馬鈴薯・南瓜・人参・甘藍・白菜・葱・玉葱となっている。

 本村の野菜作は、盛岡市及び周辺町村の中で、最も高いことである。都市周辺の町村の野菜作では都市への野菜供給地としての立地条件を有すると共に、野菜作は消費地とは立地的に特別な関係がなく特産地化する可能性もある。本村野菜作は、果菜類において最も顕著に表われた傾向であるが、二~三種の品種に集中している。しかし、その品目は盛岡市及び他周辺町村にみられるものと共通する。このことから、本村野菜作が消費地盛岡市への供給を前提としつゝ、品目としては数種に集中化する方向と考えられる。農業収入からみて野菜専業農家は十戸に過ぎず、野菜収入五十万円以上に及ぶものは六戸だけである。野菜作は土壌条件を始め自然的条件に制約され、栽培技術も多様複雑であるから、消費地を直接対象とした野菜専業農家を多く期待することは困難であろう。唯洋菜類では作付面積、その伸び率共に周辺市町村より多く高い。内容はアスパラガスである。伸び率の低い果菜類の中でトマトの作付も少ない。アスパラガス以外の洋菜類と加工野菜を本作野菜作に加えらるべきであろう。

第九節 麻

 畑作農業のうち特有作物の大麻が民間衣料として、その昔からまことに重視されてきている。明治九年七月明治天皇が本県に行幸になられたが、その際、本県の衣服状況について、次のごとく実況を書いている。

   衣
本県ハ、東北厳寒ノ地ニ僻在シ、管内木綿ヲ生ゼズ。山間ノ人民ハ、宅地ノ傍ラニ麻ヲ栽エ、コレヲ雪中に紡績シ、以テ一家ノ衣服トス。寒ヲ禦グニモ、其麻布ヲ裏トシ、表トシ、僅カニ膝ニ及ブモノヲ製シ、襲ネ用ユ、製ニ男女ノ分チナシ、其ノ古ク敞レタルハ、懇ニ補綴シテ常服トス。是レ中人(中級ノ民ノ意力)以上ノ服ナリ。貧民ハ襤褸、百結肌膚ヲ露ハシ、終身、新衣ヲ着シタル事ナシ(岩手県僻村実況)。

 衣服の「製に男女の区別なし」は不審であるが、製布や染色(多くは紺の二重染)には、男女共通のものが多かった故であろう。

 大麻は宅地に近い良質の畑地を利用し、累代にわたって作付する風があり、最も大事に取扱っていた。麻布は冬季に製布し、春の野良仕事の衣服としていた。麻糸は衣服用には「しらそ(白麻糸)」を製出し、その他は「ただそ(直剛糸)」に製出して、シラソは自家用布、タダソは販売用布(表地)とした。

 麻糸の収穫は、農山村の衣料に重大な関係があった。

 明治十年以降には、北上川水上交通も一段と飛躍して、川蒸気船が一関の狐禅寺河岸まで就航するようになり、北上川沿岸には、綿糸も綿布も自由に移入されてきた。また明治二十三・四年にかけて、鉄道東北本線が青森まで貫通し、綿糸も綿布も大量に移入されてくるようになった。本村の東北本線開通以前は、旧藩時代と余り変っていないのである。

 綿布を着用したが、明治二十五年以降も余り変化なく、作付面積はそのまま持続し、田仕事、夏着の自家用とし、換金のため売出されている。作付は終戦を境として漸次減少している。

第十節 農業団体の変遷

一 農会

 県の農業生産に欠いてはならないものに農会組織がある。町村農会・郡農会・県農会・帝国農会がそれである。明治三十二年(1899年)ごろの県農会長は知事の末弘直方氏で、副会長は県会議員の高橋嘉太郎氏、半官半民的な外廓団体で、県庁内に事務所を有し、郡農会を統率しており、後年には常勤の指導技術員も付属していた。また各郡には郡農会が組織されており、事務所は郡役所内におかれてあった。これまた郡内の町村農会を統括し、郡農会兼務の指導技術員があり、町村農業の指導監督に当っていた。町村農会は町村を単位として組織されており、その町村の農家を全員として成立し、多くは町村長が会長となっていて、その町村の農業団体として活動し、事務所も町村役場内に併設されていた。後年には町村にも専門の技術員が常勤して、技手(ぎて)として町村農業の指導を担任するに至っている。

 町村農会・郡農会・県農会・帝国農会は、積上様式とも言える農業団体で、農業生産の上に果した効力も大きなものがあり、農業近代化の辿った外部施設として重視さるべき事であった。後年の農業協同組合と農業共済組合の祖形となったものである。

 大正十一年(1922年)農会法の改正によって総代会議制度によることになった。農会長は村長中村助太郎氏であった。

二 産業組合

 岩手県の産業は、県の勧業指導・交通の便宜・経営の近代化等によって明治後期に著しく進歩した。産業が緒につくに従って、社会経済の動向に対処するため、産業組合が出現するに至った。

 明治三十三年(1900年)三月産業組合法九十ヵ条が公布され、同年七月には同施行規則十九ヵ条が公布され九月一日より実施になった。岩手県では明治三十九年に産業組合中央会の岩手支会を設立し、大正五年(1916年)保証責任岩手県信用組合連合会が出現した。翌六年には同購買組合連合会の設立をみた。

 産業組合法は、わが国最初の協同組合法制であり、根本精神において、こんにちの農業協同組合法と異るところはないが、内容的には色々な違いがあった。

 その第一は、産業組合の事業が、「組合員ノ産業又ハ其ノ経済ノ発達」をはかるためのものであって、農業に限定されていなかった。従って組合員の範囲は、原則としてその地区内の自然人であり、農協のように農民だけではなかった。

 第二には、信用、販売、購買、生産の四種の事業を行うことが出来るとされていたが、信用事業とその他との兼営が認められていなかったので、こんにちの総合農協の総合経営と大きな違いがある。

 第三には、連合会組織に関する規定が全くなかったことである。

 この外にも色々の違いはあるが、最も大きな違いはこの三つであった。このようにして誕生した産業組合は、全国的にみれば微々たるものであった。

 政府がはじめて産業組合の育成に積極的な態度を示したのは、日露戦争下の明治三十七年である。日露戦争の勝利によって、わが国は一躍世界の強国として擡頭すると共に、国内的には、資本主義経済の画期的な発展をもたらし、政府の小農保護政策の必要性は、益益大きくなってきた。そして産業組合法も、内外の諸情勢の変化に対応して、この後しばしば改正が行われることになる。

 まず、明治三十九年の改正では、信用事業とその他の事業との兼営が認められた。この改正の理由としては、農村において信用組合とその他の組合を別個につくることは、零細な農民資本をさらに分割する結果になり、農民の負担も大きくなること、信用事業で調達した資金を他の事業に利用できること、各種の事業を兼営することにより、組合の事業の繁閑が調節されること等があげられている。いずれにしてもこの総合経営の形式は、わが国の零細な農家経済によく適応し、以後の産業組合に大きな発展をもたらすと共に、こんにちの農協の総合経営の端緒となったわけであり、その意味でこの改正はまことに画期的なものであった。

 ついで明治四十二年には、産業組合連合会についての規定が設けられ、産業組合の上部機関として、今日の段階制の基礎がきずかれた。

 大正三年二月篠木小学校長第四代松尾吉哉氏は『滝沢村振興講話』を発表する。これは第一編本村民覚醒の必要、第二編模範農村、第三編滝沢村の現在及び将来、第四編滝沢村振興策、第五編結論からなる大論文である。第四編第二章滝沢村振興会事業中に購買販売組合の項がある。これに刺激された大沢の堰合鶴松氏が中心となり、大正三年二月二十日、本村に初めて大沢に信用購買販売組合が設立される。

 日露戦争後発展期にはいった産業組合も、第一次大戦による好況によって、大いにその事業内容を充実し、事業量も大きく伸びた。しかし、この好況もながくつゞかず、昭和九年から世界的な大恐慌が襲来し、農産物価格は暴落して、農村経済に大きな打撃を与えた。産業組合もこの恐慌によって大きな打撃を受けたが、同時に、これ以後本格化する農村救済施策のにない手として、大きな役割を演ずることになった。

 昭和六年の満州事変勃発以後、すでにわが国は、準戦時体制にはいっていた。従って、産業組合を動員した経済更生計画は、実質的には農業における国防体制の整備でもあった。そして経済更生計画と共にめざましい発展をつゞけ、商業資本に対抗してきた産業組合が、昭和十二年日華事変の勃発と共に統制団体化していったのは、いわば当然のなりゆきでもあった。

 米の一元的集荷機構として、さらに農業資材の一元的配給機構として、産業組合の組織がフルに利用されるようなり、昭和十六年には全国購買組合連合会、全国米穀販売購買組合連合会、日本柑橘販売組合連合会の三団体が合併して、新しく全国購買販売組合連合会が発足し、産業組合系統の一元的な統制機関となった。

 このような産業組合の統制団体化によって、産業組合は、全国すべての市町村に設置され、全国の農家が産業組合のもとに組織されると共に、多年にわたって農村を牛耳ってきた米穀商、肥料商は殆ど完全に没落した。このような農家の全戸加入、米肥商の駆逐は、産業組合設立以来の悲願であったが、それが戦争によって達成されたのは、まことに皮肉な史実というべきであろう。

 昭和十四年における滝沢村信用購買販売組合の組合員は四百九名、出資口数は四百五十九口、一口の金額は二十円、出資総額は九千百八十円、払込額は三千四百六十七円、積立金二千九百一円、主として肥料日用品等の消費部面の斡旋を主とする消極的な活動であった。

 初代の組合長は堰合鶴松氏、第二代佐藤初蔵氏、第三代斎藤勝三氏、第四代佐藤初蔵氏であったという。

三 農業会

 農業団体の一元化の問題は、すでに農業恐慌の時代から議論にのぼっていた。農業団体は指導団体としての農会、経済団体としての産業組合の外に、茶業組合、蚕業組合、畜産組合などがおびたゞしく設立されていた。従って、農家が幾種類もの団体に加入するための負担は大きいものがあり、団体相互間の連絡も不十分であることがその理由であった。しかし当時の情勢では、このようなことは単なる空論に終っていた。

 日華事変の長期化に伴って、再び各種農業団体の統合問題が起った。昭和十五年六月、近衛首相が新体制の確立を声明するに至って、農業団体統合問題は、新体制の農業版として本格的に検討されることになった。昭和十六年四月には、中央農業協力会という農業団体の指導統制機関ができ、地方においても農業団体統合運動がさかんに展開された。しかし、このような団体側の意向にもかゝわらず、政府部内における農林省と内務省の対立や、国際情勢の緊迫から、統合問題は中々実現せず、太平洋戦争の戦局が苛烈となった昭和十八年三月に至って、漸く農業団体法が公布され、同年九月から施行された。

 この結果、産業組合、農会、畜産組合、養蚕組合、茶業組合の五つの農業団体が統合されて、新しく農業会が発足し、またこれに伴って、産業組合中央金庫は農林中央金庫に改組された。

 中央農業会は、帝国農会、産業組合中央会その他の指導を統合したもので、指導事業を担当し、全国農業経済会は、前述の全国購買販売組合連合会をそのまま改租したもので、経済事業を担当し、都道府県農業会と市町村農業会は指導事業と経済事業の両方を行うことになっていた。このような農業会は、もはや協同組合としての性格を全く失い、完全に統制団体化していた。農民は当然加入を義務づけられ、会長は全員の推薦により主務大臣、または地方長官が任命し、総会の議決を要する事項でも、緊急の場合は、会長の専決が可能であった。

 太平洋戦争も末期の昭和二十年七月七日、戦時農業団令の制定により、中央農業会と全国農業経済会は統合され、あらたに戦時農業団として発足することになった。

 終戦後の昭和二十年九月、戦時農業団は全国農業会に改組され、さしあたり極端な戦時色を払拭した。このため、発足当時、中央農業会と全国農業経済会という二つの全国機関があった農業会系統は、終戦後、一つの全国農業会を頂点とする組織にかわったのである。しかし、昭和二十年十二月、連合軍総司令部が政府に手交した『農地改革に関する覚書』によって、農業会に対する総司令部の否定的態度があきらかとなるに及んで、農業会の解体と農協の設立の方向は決定的なものになった。

 そこで政府は、とりあえず昭和二十年十二月、農業団体法の改正を行い、会長の代表制を廃止して、理事の合議制をとり、役員の選任方法を民主化し、行政庁の監督権限を縮小するなど、農業会の民主化につとめる一方、新しい農業協同組合法の作成にとりかかったのである。

 初代の会長は田沼甚八郎氏、第二代は柳村兼吉氏であった。

四 農業協同組合

 農業協同組合法は、二年近い検討を経た上、昭和二十二年十一月十九日に公布、同年十二月十五日から施行された。農業団体法によって一旦失われた協同組合理念が、農業協同組合法に再びもりこまれることはもちろんであるが、産業組合法と違う処も多かった。産業組合法と農業協同組合法との最も大きな違いは次のようなものであった。

 第一に、農協は勤労農民を主体とする組織であるということである。農民以外の者も准組合員として農協に加入することは認められているが、農協の運営に参画する権利は与えられていない。このことは、職業によって加入を制限しなかった産業組合と農協との大きな違いであり、従来の農業団体が、とかく地主と商工業者に主導権をにぎられてきたことから、農民の職能的協同組合を作ろうとしたものである。

 第二に、農協は勤労農民による民主的団体であるということである。組合員が組合の運営について平等の議決権を持つことは、もちろん協同組合の一般的原則であるが、わが国においては、農業団体の運営の主導権が非農民に握られ、非農民の利害によって動かされることが多かった。そこで、農業協同組合法においては、農民たる正組合員だけが総会の議決権と役員の選挙権を有するばかりでなく、農協の業務を執行する理事の定数のすくなくとも四分の三は、農民たる正組合員でなければならないことになっている。

 第三には、農業生産面の事業をとりあげたことである。農協に農地の管理とか、農作業の共同化というような事業を認め、農民が自主的に農業生産の共同化をはかり、わが国の農業経営の零細性による生産性の低さを克服していくみちを開いたことは、産業組合法との大きな違いである。

 このように、農業協同組合法の精神はまことに民主的であったが、上から与えられたものであることは、産業組合とかわりがなかった。というよりむしろ産業組合以上でさえあった。農業協同組合法の制定に最も力があったのは、占領軍総司令部であり、この意味からいえば、農協は占領軍から与えられたものであるといっても過言でない。

 農業協同組合法施行後の農協の設立は、すこぶる急ピッチであった。総司令部は、農協の設立のテンポを、農村民主化のテンポと考えていたような処があり、総司部の督励によって、政府はマスコミを総動員して農協の趣旨の普及につとめた。この結果、昭和二十四年三月には、三万二百二十九の単協が、同二十九年には三万五千三百六十八にふくれあがっている。

 総司令部は、農協の設立を督励すると共に、戦時統制団体である農業会の完全な解体にも、異常な熱意を示した。従ってこの方も、農業協同組合法施行後二ヵ月以内に農業会に解散準備総会を開かせ、八ヵ月目には事業を停止させるという、急スピードであった。このようにして農業会の組織は、農協の発足と共に完全に消滅したが、農業会の実質は、そのまま総合農協にひきつがれた。こうした結果になったのは、当時の統制経済下では、統制団体としての農業会の機能をひきつぐことが必要であったことと、農業会の財産を分割しない方針がとられたことによるものである。総司令部は、農協とは別個に政府代行機関を作って、これに農業会の統制機能をひきつがせることを考えていた。しかし結局、政府は、農協に統制機能をひきつがせ、そのかわりに食糧集荷業者の自由登録制を行なってお茶をにごした。長い間の統制経済によって、米穀商は決定的な打撃を受けていたから、解散目前の農業会は、自由登録制によって圧倒的な登録を得て、農協にバトンをゆずったのである。

 このようにして総合農協は、農業会の地区、組合員、財産、事業、職員を殆どそのまま受けついで発足した。発足に当って、農業会の食糧集荷業務と、貯金と、財産を得た総合農協の有利性は大きかったが、その反面、新鮮味に欠けたことも事実である。だから、政府の民主的農協の大宣伝にもかゝわらず、農民の意識は農業会が農協にかわったという程度であった。

 指導事業については、戦前の産業組合にはなかったもので、農会がこれを担当していた。それが農業団体法によって農会と産業組合が合体したために、農業会を経て農協にひきつがれたものであり、各県の指導連と中央の全国指導農業協同組合連合会という系統組織によって行われていた。農協の再建整備というような情勢の中で、非経済事業を行う指導連系統の経営が不振であったことはいうまでもない。そこで農協関係者の間では、全指連を戦前の産業組合中央会のような形にして、政府から助成金を受け、農協系統全体の指導機関にしようという考えがあった。一方昭和二十六年三月に発足した農業委員会は、それまでの農業調整、農地、農業改良の三委員会が統合されたものであったが、農地改革の一段落や供出の緩和により、仕事は減る一方で、生産指導事業や農政活動を重点的に行う戦前の農会的な組織に改組したいという意向が強かった。

 団体再編成問題は、このような農業委員会の指導事業に対する積極的な姿勢、農協における指導事業の弱体、そして旧農会のような官製色の強い組織を作って農村支配を強めようとする保守派政党ないし官僚の意図の三つがからんで起ったものである。また一面では、講和条約直後における占領政策反省ムードの農業団体版であったともいえよう。

 昭和二十七年三月、農村更生協会が戦前の農会とよく似た農事会法要綱を発表するに及んで問題は表面化し、農協界のけんけんごうごうたる議論の中で、農林省は昭和二十八年三月、農業協同組合法と農業委員会法の改正法律案を第十五回国会に提出した。法案の内容は(1)農業協同組合中央会を設けて政府は助成を行うこと、(2)農協や中央会に対して行政庁が検査を行なったり、場合によっては業務停止や解散、役員の改選を命ずることが出来るなど、行政庁の監督権を強化すること、(3)市町村農業委員会に技術員をおき、国の農業改良普及制度や農協の指導事業に協力させること、(4)各県の農業委員会を農業委員会議とし、全国機関として全国農業委員会議所を設けること、が主な点であった。すこぶる妥協的なものではあったが、農協としては再建整備以来、目先の経済合理主義にはしり、指導事業の切捨てを行なったりした点をうまくつかれた形になった。

 昭和二十七年三月以来、農協内部では、再編成問題に関連して、経営の合理化(指導事業の切捨て)か、総合経営(指導事業を兼営)が盛んに議論がたゝかわされた。しかし、さすがにこの段階では、生産指導事業を切り離すことは農協の自殺行為であるとする総合経営論が大勢を支配し、昭和二十七年十月、第一回全国農協大会において正式に決議された。従って改正法案の中、農業委員会に技術員をおく点は、農協系統にとって不満であった。

 改正法案は、第十九国会まで持越され、昭和二十九年六月やっと成立したが、最終的には農業委員会に技術員をおく規定は削除され、農業協同組合中央会と府県農業会議及び全国農業会議所だけが実現した。

 このように、問題の中心であった生産指導事業には、結局何も変るところがなく、農協の多年の要望であった中央会制度が実現したことは、農協系統にとって大きな成功であった。しかし、そのかわりに、行政庁の権限の大幅な拡張という付録がついた点を忘れてはならない。また中央会の設立によって、指導連系統は解散し、中央会に吸収された。

 農協は農業に関する協同組合であるが、現在わが国の法律で、協同組合に関するものとしては、農業協同組合法の外に、水産業協同組合法、中小企業協同組合法、消費生活協同組合法の三つがある。また、協同組合という名称は使用していないが、森林組合について定めている森林法、たばこ耕作組合法、労働金庫法、信用金庫法等も実質的には協同組合法制と考えられる。

 こういった協同組合法制に共通しているのは、そのいずれもが、農業者、中小企業者、勤労者といった経済的に弱い者を対象にしていることである。つまり協同組合というのは、企業を中心とする資本主義体制のもとで、小生産者や勤労者が集まり、資本主義に対抗して、物の生産、販売、必要物資の購入等の経済行為を有利に行うために作る相互扶助組織である。従って協同組合は、資本主義の発達と共に成長して来たものであり、協同組合の経営原理は、資本主義のにない手である株式会社とは根本的にちがっている。

 協同組合は、その事業を通じて組合員に奉仕する。株式会社も株主の利益のために事業を行うが、株式会社の事業は、株主と直接の関係はなく、会社は専ら利益の追求のために事業を行うのである。

 これに対して協同組合の事業は、それ自体が組合員へのサービスで、利益を目的として行うものではない。協同組合が物を売るのは組合員の生産物を有利に販売するためであり、協同組合が物を買うのは組合員によい品を安く提供するためである。

 以上は、木下義盛・玉城昌幸共著の『農協から』抜萃をした。

1 本村農業協同組合の資産と負債及び資本

本村農業協同組合の資産→

本村農業協同組合の負債及び資本→

組合員数及び組合員一人当りの出資金その他→

2 本村農業協同組合歴代組合長一覧表

あ 滝沢村農業協同組合歴代組合長一覧表

第1代 武田直弥      昭23・6―同24・7 創立時一ヵ年
第2代    〃      〃24・7―〃26・5 以後二ヵ年
第3代    〃      〃26・5―〃28・6
第4代    〃      〃28・6―〃30・8
第5代 武田文四郎     〃30・8―〃32・6
第6代 田沼甚八郎     〃32・6―〃34・3 死亡
第7代 藤倉艤(本文中では木へんに義)一〃34・3―〃34・6
第8代    〃      〃34・6―〃35・9 辞任
第9代 武田直弥      〃35・9―〃38・6 以後三ヵ年
第10代   〃      〃38・6―〃41・6
第11代   〃      〃41・6―〃44・6
第12代   〃      〃44・6―現在

 なお、昭和二十三年より同三十二年まで滝沢村南部農業協同組合であったものが、以後、滝沢村農業協同組合に変更する。

い 滝沢中央農業協同組合長一覧表

第1代 佐々木精二 昭23・4・12―同25・4
第2代 井上 久吉 〃25・4   ―〃26・3
第3代 加藤 寅雄 〃26・3   ―〃27・4
第4代 太野 末蔵 〃27・4・29―〃29・4・29
第5代 井上 仁蔵 昭29・4・29―現在

 なお、昭和三十九年六月二十日以前の名称は滝沢開拓農業協同組合であった。

う 岩手山麓開拓酪農農業協同組合長一覧表

第1代 千葉精治郎 昭29・4・1 ―同30・3・31
第2代 桑原 虎雄 〃30・4・1 ―〃35・3・31
第3代 大森 栄一 〃35・4・1 ―〃42・5・19
第4代 石井 良智 〃42・5・27―〃43・3・31
第5代 桑原 虎雄 〃43・4・1 ―現在

え 滝沢村北部農業協同組合長一覧表

第1代 角掛喜八郎 昭23・8・3  ―同24・3・31
第2代 角掛 三蔵 〃24・4・1  ―〃26・12・30
第3代 角掛吉太郎 〃26・12・31―〃31・4・30
第4代 吉田徳次郎 〃32・4・30 ―〃37・8・31
第5代 角掛政太郎 〃37・9・1  ―現在

五 農業委員会

 農地改革実施の中心を担った法律は、昭和二十一年制定の自作農創設特別措置法であり、これに並行して農地の権利関係の調整を行なったのが同年に大巾改正をした農地調整法である。同二十四年十月二十一日にマッカーサーから農地改革前の土地制度へ逆戻りさせるようなことは一切許されず、農地改革の成果を永続させるための恒久的措置をとるべしという指示が行われた。この書簡を受け、第八国会で、土地台帳法の改正が成立して、土地の賃貸価格の制度が同二十五年七月三十一日以降なくなることになり、賃貸価格に基礎をおいていた農地の買収、売渡価格が無意味になり、政府は同年九月十一日にポツダム政令に基づく農地等の譲渡政令を公布して、その破たんを食いとめる措置をとった。やがて、講和条約が調印され、ポツダム政令発効のギリギリの同二十七年十月、今までの自作農創設特別措置法、農地調整法と譲渡政令を統合一本化した形で農地法の成立をみたのである。

 戦後の数年間は農業への収奪を強行して経済の回復をはかろうとする政策がとられたため、せっかく農地改革で地主制度の重圧から解放されたのに、農業は伸びる芽をつみとられて、すべての農家が転落傾向にならざるを得なくなった。

 しかし、経済の回復と共に、農業への収奪政策も次第に緩和の方向にむかい、農家の立場はゆとりがもてるようになる。

 また、朝鮮戦争の拡大は、日本経済の自立と食糧自給の向上を必要とし、食糧の増産が農政の課題として大きく位置づけることになる。このような中で、農家階層の動向も、今までの全層転落から、中型自作農層が安定し、農地もそこに動いていく中農肥大化、中農標準化へと変ってきた。農地法はこのような情勢の中で制定されたのであり、寄生地主的土地所有制度へ逆戻りするのを防止する歯止めをしっかりとしておけば、農業は自ら望ましい方向に進むであろうという期待が一応持てたのであった。農地法は、当時の農村の情勢に適応するような形で生れたのである。それが矛盾の度合いを深めていったのは、日本経済が高度成長期に転じた昭和三十年以降である。

 農地法の改正案が昭和四十三年の第五十八国会に提出されてから三度も廃案となり、同四十五年二月第六十三特別国会に四度提出されて五月八日成立をみた。この農地法は第一条の目的に「この法律は農地はその耕作者みずからが所有することを最も適当であると認めて、耕作者の農地の取得を促進し、その権利を保護し、その他土地の農業上の利用関係を調整し、もって耕作者の地位の安定と農業生産力の増進を図ることを目的とする」とある。

 今までも農業委員会は、農地についての紛争の調停等をやってきたが、今度の農地法改正で、農地の利用関係が、当事者間の話合いにゆだねる事項が多くなったこと、関連して、農業委員会による和解の仲介制度をはっきりとさせた。

 とにかく、農業委員会は、戦後農地改革を担当した農地委員会の伝統を継承して、農地法の執行を現地に活かす重大な責務を課せられている。

 農業委員会の仕事の消極面は、従来のように、請負耕作、ヤミ小作といった農地法の秩序外の移動が増え、それを放任すれば農地法の根幹が次第に骨抜きになり、やがては農地法の自滅につながり、農業委員会組織の衰滅になるので、今まで農地法の軌道からはずれていたものを、正規の賃貸借、農協への経営委託、農地保有合理化法人への貸付、農業生産法人への出資貸付等のルートに乗せることが第一の仕事となる。また、積極面は、経済の高度成長期に入って、第二の地すべりといわれる農地移動の本格化が予想される。戦前のような地主制度が復活する条件はなくなりつゝあるが、インフレの進行と相まって、土地を資産的、投機的に利用しようとする趨勢がみられる。この傾向を極力防ぎ、基本的に規模拡大の経済性を確立し、農用地取得を援助する政策の確立が農業委員会の積極面である。

 以上は全国農業会議所発行の『農業委員会業務必携』創刊号からの抜萃である。

1 歴代農業委員会会長一覧表

第1代 田沼甚八郎 昭26・7・20―同29・7・19
第2代 武田 直弥 〃29・7・20―〃32・7・15
第3代 柳村 兼吉 〃32・7・20―〃35・7・19
第4代 沢目岩治郎 〃35・7・20―〃38・7・19
第5代 柳村 兼見 〃38・7・20―〃41・7・19
第6代 柳村 兼見 〃41・7・20―〃44・7・19
第7代 柳村 兼見 〃44・7・20―現在

六 農業共済組合

 明治のはじめ、政府の顧問として来日していたドイツ人パウル・マイエット氏は、天災保険、家畜保険、火災保険等を含む農業保険を農業金融と関連させて、農民救済の制度を作るべきだと提唱したのであったが、当時の政府は原始産業であった農業についての保険制度を問題としながらも実現をみなかった。

 明治十三年六月太政官布告の備荒貯蓄法を定額金納の地租改革とのかねあいで定め、翌年一月より発足させたが、その後、連年の災害で崩壊し、代って同三十二年羅災救助基金法が実施されたのである。

 明治四十年代になると、地主と小作間の小作料減免をめぐる問題は、米穀検査制度の実施とからみながら燻り続け、大正年代に入り、第一次大戦後、飛躍的な高ぶりを見せ、小作争議対策として農業保険制度の実施が農政上の世論として高まる。

 関東大震災以降、政府は資金を農林省所管関係に、災害扶助資金、災害復旧資金、災害応急資金、災害関係資金の名称で低利の融資を以て農業を災害から守るべく力を入れて来た。

 大正十四年四月農林省が独立すると共にすでに村落を基盤とした自主的な共済をはじめ、欧州各国の家畜保険事情の調査に着手し、翌年六月に家畜保険実施要綱を作成し、昭和四年家畜保険法と、家畜再保険特別会計法が公布施行されたのである。しかし、農家の負債が著しく増加し、同年々末からいわゆる昭和農業恐慌対策がやかましくなる。

 昭和七年農林審議会から、農業保険要綱が答申されたが、財政上の理由から実現を見なかった。

 昭和九年以後は災害関係を一本化し、それぞれの災害に貸出すこととなった。しかし、同十二年になって、農業災害保険及び共済制度調査会の議を経た農業保険制度要綱がまとめられ、ようやく、農業保険法が同十四年四月から施行された。

 昭和十七年七月には、共済制度調査会特別委員会の答申により、水稲冷害共済補助金が公布された。

 それに先立ち、昭和十六年には、帝国農会及び農業保険協会から出された農業保険制度に関する建議があり、これを農林省事務当局が検討の上、世界大戦に応ずる食糧自給体制の確立の関係に加え、農業団体法成立との関連もあって農業保険法の改正法律、農業保険の保険料国庫負担等の交付及び分担に関する法律が、昭和十八年三月に交付されて、反当保険金額の引上げと支払い割合の合理化、純保険料の一部国庫負担等の事業の強制実施等が行われた。

 さらに、戦争の激化に伴い、戦時農業保険要綱案、農業戦争災害特別措置要綱案、戦時農業保険金案等が検討されたが、総てが軍事のために具体化することなく戦争終結を迎えたのである。

 戦後、GHQの農地改革に関する覚書に対し、昭和二十一年十月農業保険制度改正の基本方針をGHQに提出し、翌年九月農業共済保険制度要綱案と、これに基づく農業共済保険法案を閣議に提出、法律の名称が農業災害補償法と改変され、十月GHQの承諾を得て第一回国会に提出されて十一月成立をみ、十二月法律第一八号として公布を見るに至った。

 本村における農業共済の戦前は農会において行われ、戦時中は農業会で運営されたのである。

 戦後、昭和二十二年、同二十三年と相つぐ台風による水害を受けたことから、その必要が論議され、同二十二年農業災害補償法案が閣議の決定を経て、成立をみ、施行されたのである。その事業の内容は農作物共済(水稲・麦)、蚕繭共済、家畜共済(死亡・疾病・傷害・廃用等)であった。

 このことが、県を通じて、それぞれ市町村に流れ、設立されるよう指導されたのが昭和二十三年である。本村においてもさっそく準備委員会が設立されている。

 その概要は、昭和二十三年五月、当時村会議長であった沢目岩治郎氏外十九名で、同日二十一日に発起人会を開き、定款を作成し、同月公告し、同月二十四日設立総会を開いた。

 このときの提出案件は、定款承認・事業計画・理事監事の選挙・経費、付加徴収方法及び期日に関する四議案であった。

 当時の計画書による事業量は、水稲およそ五百二十五町七反、麦百三十七町一反、蚕繭四百五g、馬七百七十二頭、牛十四頭、肉用牛四十一頭、山羊百頭、緬羊百三十三頭、種啄五頭となっている。

 事業方針として、今まで農業保険事業は、農業会の付帯事業として行なって来たが、国会通過後農業共済組合と称し、農家隣保互助の精神に基づき出来た制度である。

 これまでは、水稲・麦・桑だけ対象となっていたのが、この時から午・馬・山羊・緬羊・種豚等に至るまで災害の対象となった。

 本組合は、組合員はもちろんのこと、村当局その他各種団体の協力のもとに、米麦の増収により食糧の安定をはかり、養蚕の飼育により蚕繭の生産をはかり、牛馬の増産により堆厩肥の自給自足をなし、また、畜力の利用により労力節減をはかり、なお、小家畜等によって資源を求め、そして、過去の災害は何故起ったかの原因等充分調査をし、各種の災害事故を未然に防止し、農業経営上最善の努力を尽す方針であると結んでいる。

 当時の収支をみるに、収入については、水稲・麦の掛金は約十六万四千円で、同上賦課金は四万三千円(反当六円五十二銭)、蚕繭(一g当四十八銭)百九十二円、計的四万三千円、事務費国庫負担金二万円、その他一千円で総計は約二十二万九千円であった。支出の総額は五万八千円であった。

 理事に大釜から斎藤芳男・武田久義・土井尻吉次、篠木、中村長三郎・武田弘・大沢、沢目岩治郎・斎藤秀三・斎藤三郎、鵜飼、梅村繁次郎・工藤政男、滝沢、駿河久兵衛・井上九兵衛、川前、柳村兼見・杉田与一郎、一本木、角掛惣一郎・角掛喜八郎、柳沢、上野善太郎、監事に滝沢の国分正四郎、篠木の日向松太郎、鵜飼の斎藤幸一郎の諸氏が選挙され、この外、損害評価員が推薦された。事務所は役場内におかれた。

 昭和二十三年、アイオン台風にあい、雫石川が氾濫して堤防欠壊、大釜・篠木の川岸水田が流出し大被害を受けたのにもかかわらず、引受面積が計画より下廻り、その上、掛金が大巾に増収されていたので黒字であった。

 昭和二十五年に法の一部改正があり、水稲・麦を対象とする農作物共済は、自然災害と病害にのみ通用されていたものが、虫害・鳥獣害にも適用され、また、蚕繭共済は、病害と桑葉の自然災害にのみ適用されていたものが、風水害・桑葉病虫害にまで対象にされることとなった。またこの年、任意加入とする建物共済が実施され、年度末には二十三戸の加入をみている。また、事務所を役場から南部農業協同組合に移転をしている。

 昭和二十七年に定款の大巾改正に伴い事業を拡大した。すなわち、甘藷・馬鈴薯・大豆・稗・苹果・甘藍にまで特殊農作物共済として適用された。

 昭和二十八年の六月に豪雨、七月旱魃、八月は低温でイモチの大発生、九月には十三号の台風による水害で、大釜のオナッペと鵜飼のイカリは徹底的な被害をこうむった。このとき、本村ではじめて四百余万円の共済金が支払われた。

 昭和二十九年も四・五月の晩霜害で、麦のごときは一穂に二~三粒、播種したばかりの陸稲の発芽が悪く、その上、イモチ病の発生で大被害をこうむった。

 昭和二十九年五月九日、総代三十名を選挙によって選出し、同三十一年五月十三日より、初の総代制の実施をみ、主なる事項をこの総代によって処理し、四年毎の総代改選の時だけ総会を開くことにした。

 昭和三十三年には、従来各部落三名宛の損害評価委員によって評価していたものを、村全体の均衡をはかるため、損害評価委員六名をもって構成し、このときから評価に関して二本建となった。

 昭和三十八年イモチ病による被害が甚大で、一kgの補償額が二十円、支払共済金は約百七万円で、対象の農家は三割の約二百四十戸であった。

 昭和三十九年には、過去三年間被害のない場合、掛金の一部を還付する無事戻が実施され、最高三分の一で、全農家数の約半分の三百九十七戸が対象となり、約二十八万六千円が支払われた。

 昭和四十年、農業の規模拡大に伴い、水稲二十α、陸稲・麦各十α、春蚕一箱、夏・秋蚕〇・五箱未満の農家は任意加入に改正された。

 昭和四十三年には、新共済として、任意加入の農機具共済が実施され、また、同年、農林省委託による林檎の共済を五ヵ年間試験し、その後は、農業災害補償法に基づいて実施されることとなる。

 昭和四十六年一月二十一日に盛岡地区農楽共済組合広域合併推進協議会を結成し、会長に盛岡農林事務所長が就任し、幾多の論議を重ね、盛岡市と、雫石町を除いた岩手郡、それに安代町を加え、同四十七年四月一日を期して発足することとなった。

 歴代組合長一覧表

第1代 沢目岩治郎 昭23・ 5・29―同32・ 5・23
〃2〃 武田 直弥 〃32・ 5・24―〃35・ 6・19
〃3〃 沢村 一助 〃35・ 6・20―〃40・12・10
〃4〃 井上 一  〃40・12・11―〃41・ 7・10
〃5〃 武田 忠  〃41・ 7・11―〃44・ 6・29
〃6〃 井上 一  〃44・ 6・30―〃47・ 3・31

七 土地改良区

1 越前堰土地改良区

 越前堰は、岩手山麓なる持籠森沢に水源を発し、相ノ沢、キアタ窪沢、タラノ木沢、その他の諸渓流の流水を合して本村の西経を劃る支流に沿って迂曲し、大釜、篠木、大沢、鵜飼、土渕、平賀の六部落と、雫石の一部に潅漑する延長実に三十二kmに及ぶ大溝渠である。

 越前堰の水路の維持管理は、記録によると、天保十三年(1842年)、文久三年(1863年)等関係者有志が堰守となって維持したが、明治十七年(1884年)に水利土功会、明治二十年災害予防組合、普通水利組合と変更し、明治二十四年八月岩手山麓、小岩井農場が創設されることによって、小岩井農場に百町歩の田畑が開発されることとなった。そのとき従前の越前堰の水のみでは不足をきたすので、白川を越前堰に合流して水量を増し、知事の認可をえて開田をしたのであったが、結果が思わしくなく、明治三十二年に酪農に転換。従ってその間およそ八ヵ年間引水したものと推定される。

 同二十七年六月には越前堰普通水利組合と改め、団体組織にして運営にあたり、大正三年(1914年)には潅漑面積四百五十町五反四畝五歩、組合員六百二十六名であった。爾来大正、昭和と歳月を経るに従い、幾多の変遷はあったが、昭和二十五年まで組合長は村長兼務であったという。昭和二十七年三月には越前堰土地改良区と組織変更をする。この範囲は、大釜の仁沢瀬・沼袋・塩森・吉清水・中道・高森・釜口・上釜・細屋・和田・八幡前・小屋敷・竹鼻・中瀬・土井尻・荒屋敷・外館・大畑、篠木の堤・参郷森・荒屋・中屋敷・綾織・中村・上谷地・明法・参郷・黒畑・明眼・樋口・待場・仁沢瀬・矢取森、大沢の割田・鶴子・谷地上・長平・堰合・二タ又・新道・枡村・下屋敷・米倉・谷地中・小谷地・四ツ家、鵜飼の八人打・滝向・下前田・安達、土渕の北野・山崎・谷地上・萬徳・荒屋敷・谷地道・四ツ家・橋場・碇田、平賀新田の吉屋敷・矢無、繋の堂が沢・尾入・山根、雫石の仁佐瀬・丸谷地、すなわち一市一町二ヵ村を区域として、水田四百十町、組合員五百三十七名であった。

 昭和三十五年には、成田の区画整理に伴う隣接地の編入及び開田、開畑により、区域拡張がなされ、受益面積一千四百二十九ha、組合員数一千二百五十二名となり、中には七桁農業を営む者も出来るようになった。

 昭和四十七年三月に越前堰土地改良区受益面積一千五百七十ha、組合員一千二百六十八名、盛岡市夕顔瀬町の木賊川土地改良区四十六ha、組合員九十三名が合併することになった。

 それは、岩手県と岩手県土地改良事業団体連合会の勧めにより、高生産性農業確立のための農業基盤整備事業が益々大規模化して行くので、これに対応して、規模の拡大、運営体制、財政確立が目的とされたためである。

 歴代理事長一覧表

第1代 武田 直弥 昭27・ 6―同31・ 7
〃2〃 田沼甚八郎 〃31・ 7―〃34・ 2
〃3〃 伊東 久吉 〃34・ 2―〃35・ 6
〃4〃 武田 直弥 〃35・ 6―〃35・ 9
〃5〃 伊東喜一郎 〃35・ 9―〃35・11
〃6〃 田沼 恒吉 〃35・11―〃41・ 3
〃7〃 工藤松太郎 〃41・ 3―〃42・ 7
〃8〃 武田 直弥 〃42・ 7―現在に至る

2 岩手山麓南部土地改良区

 岩洞ダムの水を利用し、今まで、主に畑地であった処を開田すべく、昭和四十年八月十七日組織されたのである。

 事業の開始は昭和三十六年で、同四十年の約五ヵ年間、滝沢中央農業協同組合と、岩手山麓開拓酪農業協同組合が、それぞれの区域を担当して開田されたのである。

 前者の区域は、木賊川・湯舟沢・牧野林・根掘坂・称宜屋敷・土沢・中村・外山・穴口・平蔵沢の百九十ha二百戸、後者の区城は、巣子・妻の神・葉の木沢山・砂込・大石渡・大崎・野沢の二百十七ha百六十七戸、以上の外に岩手大学附属滝沢農場分の六haがある。

 歴代理事長一覧表

第1代 大森 栄一 昭40・8・17―同42・5・19
〃2〃 井上 仁蔵 〃42・5   ―〃46・6・28
〃3〃 久保田春松 〃46・7   ―現在に至る

3 一本木土地改良区

 岩手山麓の湧口に水源を求めて開田をし、昭和三十五年に組織されたのが一本木土地改良区である。この区内の本村分は、砂込・長太郎林・柳原・後・留が森・一本木で約百六十町九十九戸である。

 なお理事長は三年ごとに改選されるのであるが同三十五年四月以降現在まで角掛喜八郎氏である。

4 岩手山麓土地改良区連合

                   藤倉仁志氏提供

 (後述の第十二節柳村兼吉氏の開田大事業のところで詳細に述べてあるが、)岩洞ダムは、農林省中心の国営大事業であって、多目的ダムの一つとしての開田を目的としたもので、最初の計画は、用水七千四十二万t、開田面積二千四百六十町であった。ところが実施面積は二千八十一町歩で水不足の実情である。昭和四十六年度は、減反で、一千六百町に引水したから水に余裕が出来た。今後、高速道路、住宅用地等で益々田の面積が減少することとなる。最初、岩洞用水を利用する関係団体である既設の越前堰土地改良区、岩手山麓南部土地改良区、岩手山麓北部土地改良区(滝沢=一本木分八十六・五六ha=と玉山の各々一部)、一本木土地改良区、渋民土地改良区、玉山東部土地改良区、木賊川土地改良区の七団体(一千九百六十九・五四ha、組合員約二千四百)の各理事若干名によって、岩手山麓土地改良財産管理事務所を発足させて協議を重ね、開田事業が完成したので、昭和四十二年四月二十七日、右記事務所を発展的に解消し、岩手山麓土地改良区連合として設立し、法人組織に改変をなし、補助事業並びに有資事業を開始することになった。

 昭和四十二年八月、農林省の財産である岩洞用水路の委託管理を同省と同連合で締結し、保障については同連合がこれにあたることを契約したのである。同年翌九月、岩洞用水管理事務所を本村の大崎に設置して管理をすることとなり、同四十六年六月十五日、同連合の事務所を盛岡市北天昌寺町九番の一号に新築をした。

 昭和四十七年四月一日に、木賊川土地改良区が越前堰土地改良に合併をした。

 岩手山麓土地改良区連合歴代理事長一覧表

第1代 藤倉 清見 昭42・4・27―同42・7・4
第2代 高橋 正  〃42・7・ 5―〃46・7・4
第3代 武田文四郎 〃46・7・ 5―現在に至る

八 滝沢村農事研究連絡協議会

 昭和二十七年五月二日、滝沢村役場において、滝沢村農事研究連絡協議会が設立された。

 参加者は大釜沼袋農研更進会会員斎藤正蔵、同田沼清、大釜みどりクラブ菊地吉蔵、大釜上通り農事研究会斎藤直司、同武田斉、篠木農事研究会斎藤仁太郎、同中村和一、同主浜清、大沢四Hクラブ高田操、鵜飼農事研究会大坪昭一郎、柳沢農研クラブ山本勇、川前四Hクラブ乙部正治、一本木農研クラブ角掛銀次郎、役場の村長代理沢村ソノ、同勧業主任斎藤文雄、岩手県農務課職員の諸氏であった。

〇この協議会のねらい
 一、実践を通じて自らを磨くと共に互いに力を協せて、よりよい農村を創る。
 一、農業の改良と生活の改善に役立つ技術を磨く。
 一、科学的に物を考える事の出来る頭を訓練する。
 一、誠実で友情に富む心を培う。
 一、楽しく暮し、元気で働く為の健康を増進する。

〇この協議会の事績
 一、毎月十日定例会、翌月の農業設計、一ヵ月の実績交換、農事知識鑑定、一行知識真偽鑑定。
 一、一人一研究をなし、その実績を年一回発表。
 一、種子交換会と展示圃設置。
 一、農事視察をなし、視察後は必ず一つ実行に移した。
 一、水稲裏作として青刈用麦類・実取用麦類・ライ麦・紫雲英を導入。
 一、全村共同防除(イモチ病)。会員以外の家庭に奉仕をし、全域防除につとめた。
 一、土壌検定。酸土検査をし、適地通産につとめる。
 一、保温折衷苗代実施づくり。
 一、水稲日本一競作田に出品して大沢藤倉正治氏岩手県第一位で入賞四石八斗二升。
 一、盛岡防除所より沼袋農研更進会(田沼長一郎氏宅)に害虫試験地設置。
 一、農協、農業改良普及所、役場の指導体系を一体化した。

 歴代会長一覧表

第1代  斎藤仁太郎 昭27・4―同31・3
第2代  斎藤 正蔵 〃31・4―〃32・3
第3代  武田 斉  〃32・4―〃33・3
第4代  武田喜初郎 〃33・4―〃34・3
第5代  斎藤 国治 〃34・4―〃35・3
第6代  中村甚之亟 〃35・4―〃36・3
第7代  斎藤 喜明 〃36・4―〃37・3
第8代  斎藤 節郎 〃38・4―〃39・3
第9代  田沼 斉  〃40・4―〃41・3
第10代 三上 正喜 〃41・4―〃42・3
第11代 武田 好雄 〃42・4―〃43・3
第12代 斎藤 哲雄 〃43・4―〃44・3
第13代 角掛 徹  〃45・4―〃46・3

第十一節 松尾吉哉氏の滝沢村振興講話

                       (大正三年二月)

第一編 本村民覚醒の必要

   第一章 此の機会

 諸君、本講話を見らるる諸君よ。天慶にうすい我東北は、明治維新の国事にその方向を誤った為に官界より逐はれ、政治界より逐はれ、又実業界より逐はれ、此の日進月歩の大日本帝国の大勢と殆ど没交渉で、文明の恵沢にも浴せず、社会の進歩にも連れず、実に可憐な生活を送って来たのである。然るに、近年数次の凶作に遇ひ、始めて天下の同情を得たのと、又東北名士の政治界の一角を得たのと、この両者が相俟って、天下の有志をして大に我が東北に注意せしむるに至り、その振興の声の朝野に高かった折柄、本年亦々稀有の大凶作に遇ひ、其の振興の声が活動を促し、本問題は単に東北の問題たるのみならず、国家の一問題となるに至った。即ち中央では渋沢男が中心となり、東北振興会が組級せられ、続いて東北凶作救済会も組織せられ、今又東北拓殖会社をも創立して、所謂東北振興の実をあげんと大いに力を尽されつつあるは、吾人東北人たるもの大に感謝しなければならない所ではあるまいか。

 一体東北振興の事たる我々東北人自身の福利を増進すべきものであるから、我々自身が深く研究し、画策し、その及ぶ処は自ら活動し、及ばない処は天下の有志に訴へ同情を乞ふべきである。然るに我が東北人は唯に茲に出ないのみか、天下の同情の集った此の機会に尚且平然として居る。之が殊に我が滝沢に於てその甚しきを見るのである。之畢竟するに人文に後れた村民のこととて止むを得ないとは云ふものの、実に遺憾に堪へない次第である。否唯に遺憾に堪へない所か、若し此の機会を逸したなら大変、気のきいた者はこの拓殖会社を利用して、どんどん本村を開拓するであろう。さうしたらその土地は他村民に処分せられ、その福利は他村氏に占有せられ、本村民たるもの再び立つ時がなくなるであろう。本村はさきに小岩井農場に平野を取られて困って居るのではないか。今又滝沢方面の地所を処分されたらどうであらう。四肢を切られたと同様ではあるまいか。そこで吾輩は絶叫したくなる「醒めよ村民、今は長夜の夢を貪るべき時に非ず、醒めて此の機会を利用して活動せよ」と。

   第二章 此の生活

 前章に於て吾輩はこの機会を逸する勿れと叫んだが、本村民は仮令この機会が来なくとも醒めざるべからざる種々の理由を持って居るのである。今その一をあぐると生活に関する費用である。本村には男女四千八百十九人の住民であるから、その生活費を一人年額五十円とするも二十四万円を要するではないか。然して年額五十円は生活費として多額なるものではない。之を衣食費娯楽費交際費教育費其他雑費と細かに計算したなら、一人年額六百七十円に上るべく、剰へ生活は社会の進歩に伴ひ、華美に流るるものであるから、本村生活費の将来は実に年々四十万円を下らないだらうと思ふ。然るに、今明治四十四年度の生産額を見るに、僅かに拾四万円で一人当り三十円二銭一厘に過ぎざる少額である。尚之より生産費を差引いたなら幾何の生活費が残るであらうか。之を見て将来を思はば、本村の前途なるもの寒心に堪へないではないか。況してや本村民は多額の負債を持って居るではないか。故に本村民の生活の前途は実に不安のものといはなくてはならん。そこで吾輩は又絶叫したくなる「醒めよ村民。今は長夜の夢を貪るべき時に非ず、醒めてこの生活を安全にせよ」と。

   第三章 此の退歩

 次に本村生業の状況を見るに、その方法たるや何十年以前をそのまま踏襲して居るに過ぎない。否唯に踏襲して居るのみならず、却って退歩して居る。といったら、或は怒る人もあるかも知れない。「吾は豆粕を使用した、昔には豆粕があったか」、「吾は畦一本を滅して大に面積を増した。昔の人はこんな事を知って居ったか」と。それは実にごもっともの説なれど、生業の進歩とは斯の如く、畦一本を減じたとか、この肥料を使用したとか、そんなものをいふものではない。土質天候に最も適した作物を栽培して、生産費をば最も少くし、生産額をば最も大にすることを云ふのである。で本村は作物をどんなに改良したかと問ふたら、何もなしと答ふるであらう。然らば之で安全かと問ひかへしたら、不作凶作でどうも困ると答ふるの外はあるまい。故に吾輩はその進歩を認めない。それからその生産費は昔より増して居るし、その割合には生産額が殖えない。是より見ても進歩とは言ふことが出来ない。尚又人口を見るに昔より大変殖えて居るにかかはらず耕地には大した変化がない。即ち昔は少人数で経営し来った農場を今は多人数ですることであるから、其の一人の生産額は却って減少したのである。だから寧ろ退歩と云はなくてほならん。そこで吾輩は亦絶叫したくなる。「醒めよ村民。今は長夜の夢を貪るべき時に非ず。醒めて此の退歩を挽回せよ」と。

   第四章 此の危険

 更に本村生業組織の状況を観察するに、単純なる主穀農業で副業としては唯畜産あるばかりである。然るに故が滝沢村は気候寒冷で、主穀農業に適せないことは、識者を俟って始めて知る処ではないけれども、人知の低き他に生業を求むることが出来ないで、危険とは知りつつ一に之に依るばかりである。其故一度天変に遇ふと、その影響が甚大で食事の資にすら不足を来し、大に困窮して居る。即ち近年数次の凶作の結果、起債となり、破産となり、その資産の大小に諭なく創痍は実に深痛を極めて居る。若し今本村民が負ふ所の債務を一時に督促されたらどうなるであらう。唯その土地の大部分の所有権を移す外には途なく、故に本村は全滅するではあるまいか。斯くの如く滝沢村は不振より衰退に入り、衰退より将に滅亡に赴かんとしつつあるのである。そこで吾輩は亦絶叫したくなる「醒めよ村民。今は長夜の夢を貪るべき時に非ず。醒めてこの危険を避けよ」と。

   第五章 此の楽土

 尚更に天慶にうすい東北にある我が滝沢村は果して天慶に薄きや否やを見るに、土地に於て十五方里を有し、而も此の土地たるや、平坦なる所大部分を占め、各種の作物に適して居るし、山林も亦各種の樹木に適しない所はない。故に生業組織を適当に工夫したならば、労力と収入の平均を図ることが出来るし、又附近に農学校があり、高等農林学校があり、農事試験場があり、小岩井農場あり、種馬所あり、種畜所あり、種馬育成所ありて、見聞には大に便であるのみでなく。生業経営上大層都合がよい。故に本村民たるものよく之を利用して生業発達に資すべきである。次に販売地としては兵営があり、盛岡市があり、又鉄道に依る時は東京も近く、之も他村に比して大層便利である。尚之に加ふるに本村には天下の名山たる岩手山があるし、天下の名泉たる網張引下の事もある。若し本村民たるもの之の二つをよく経営したなら、天下の人々を集むる事が出来て、本村を紹介することを得るばかりでなく、此等の人々に産物を売り付くることも出来る。要するに本村は生業の要素たる土地に、又生業発達の要素たる、見聞の機関に、販売の機関に、紹介の機関に、万事にその便宜を具備して居って、地の利に於て大に優勢の位置を占むるものと云はなくてはならん。故に若し人の和をして充分ならしめ、此の地の利を完全に利用せんか、滝沢の将来たるもの実に恐るべきものがあらうと思ふ。即ち本村民がその振興策を実行せんか、岩手山からは夏でも白銀の吹雪が飛ぶし、中将森には黄金の花が吹くし、田村又吉翁ではないが、村中一番貧乏な者でも一万円の資産家になれるし、夫から上は五万円、十万円、五十万円、百万円の資産家を出すことは何の訳もない事である。これで吾輩は絶叫する「醒めよ村民。今は長夜の夢を貪るべき時に非ず。醒めて此の楽土を造れ」と。

 諸君、本講話を見らるる諸君よ。吾輩のこの憂は単に杞憂に過ぎないのであらうか。吾輩のこの絶叫は狂的な叫びであらうか。敢て諸君の三考を煩したい。

第二編 模範農村(静岡県賀茂郡稲取村の紹介)略す

第三編 滝沢村の現在及び将来

   第一章 地勢及び地味

 本村は岩手郡の中央に位し地形南北に長く、東は玉山厨川、南は太田御所、西は雫石西山、北は田頭、大更、渋民の各村に接して居る。そしてその西北には岩手山。南には雫石川、東には北上川を控へて居るし、中央には小さい丘陵が南より北に連亙して居るから、低湿の地もあり、高燥の地もあり、山林もあり、原野もあり、肥沃な沖積土もあれば、軽薄な火山灰土もある。で本村は地勢から云ふても、地質から云ふても、その種類の多いこと他に類を見ない所であらう。

 この土地に住する諸君は土地に関し何んと感ぜらるるか知らんが、之を稲取村に比したなら実に良い村と云はねばならん。で吾輩はかう云ふ考を持ってゐる。本村は土質の種類が多いから、生業も多種多様にすることが出来る。稲に適する処には稲、桑に適する処には桑、放牧に適する処には馬、山地の方には植林と、かう云ふ風にして其の組織をよく工夫せば、年に一・二の作物の不作があっても、他のもので之を補ふことが出来る。極都合がよい。然るに現在を見るに本村民は米・麦を作る外に何も知らんから、不適当な地にも稲を植える。麦をまく。そして不作であるの、凶作であるのと騒いでゐる。大に考ふべき事である。唯一つ茲に注意すべきは、本村は前述の如く生業の種類を多くする必要があるし、又同一作物でも大釜、鵜飼、滝沢と場所の異なるに従って栽培法をも異にせねばならんことがある。従って人知を要することも亦大である。故に本村民たるものはその大農中農小農小作農の別なく、修養をつみ、学理をも究め、経験をも重ねて一般生業経営法を弁へ、この努力を完全に使用する工夫をせねばならん。

   第二章 気象

 本村気象の詳細は之を知ることが出来ないけれども、其の大部分は盛岡市と大差がないから、下に盛岡市一昨年慶の統計を掲げて見よう。

 温度 最高三三・六 最低(-)一三・六 平均一〇・三 風速力一・六 雨雪量一、三一六・九粍 平均六・二 初雨一月十一日 初雪(岩手山)十月一日

 之を参考として本村の大略を調査すると、その発展や生業に影響を及ぼす所は下の通りである。

 一、障害となるもの
 (1) 植物発育期節の短きこと
 (2) 温度の不足なること
 (3) 二百十日頃の暴風あること
 (4) 霜害あること
 (5) 冬季の長きに過ぐること

 数へ来ると本村は一としてよいことがない。先づ気候が寒冷で収入が少ない。世人は東北は天慶に薄いと云ふが如何にもその通りである。寒いから作物を自由に選ぶことが出来ない。稲を植ゑても時々凶作に遇ふし、麦を蒔くと春先の腐敗があるし、粟や稗を作ると風が吹いて揺り動かして枯したり零(おと)したりする。養蚕をしようとすると霜がやって来て桑を害して仕舞ふ。それに支出と来たら反対に多い。寒い無理な処でするのだから、何の生業でも多くの知識を要する。のみならず生業費も沢山かかる。そしてその取上りは暖国の半分位である。尚この外着物も沢山着なければならず、薪炭も沢山たかなければならん。実に困ったものである。

 併し諸君さう落胆すべきものではない。一体文明と云ふものは南部に興り北部に維持さるるものである。之を世界に見るに英国然り、独逸(ドイツ)然りで、一国内でも、以前は温い南部が勢力を有して居たのが、今は寒い北部の方が勢を得る様になってゐる。今に吾々の時代が来るに相違ない。然らば吾々はこの寒い所にて生れ、却って幸福であると云はねばならん。それは兎も角、この大正時代に生を有する吾々たるもの、只「困る困る」ではいけない。若し障害があったら宜しく除くべきである。又大正時代に生を有する吾々たるものは、若し障害があったら宜しく除くべきである。又不便があったら宜しく便利にすべきである。さうして不利を転じて有利とし、苦を転じて楽とし、不幸を転じて幸福とすることは吾々の大に努めざるべからざる所ではあるまいか。

 この趣意により吾輩は諸君に下の数項を提議する。

 一、生業組織を改めよ。
 本村は迚も主穀農業に適せないから、従来の生業の如く気候の影響を受く ること大なるものの外に更に気候の影響を受くること少きもの及び全く気候 の影響を受けざるものの三種を選べと云ふのである。

 一、空気の乾燥を利用せよ。
 本村には火山灰土のあることは前章に於て述べたが、本村の空気は乾燥して居るからこの両者を利用せばここに立派な養蚕国が出来るのである。故に吾輩は外山、鵜飼、滝沢、一本木、川前等の畑地の大部分を桑園とさせたいのである。

 一、気候の清涼を利用せよ。
 本村の気候は夏に於て最も人体に適して居る。故に本村は暑さに因る人々を天下から集めよと云ふのである。それには先づ網張を引下げて一大避暑地を作り、葡萄を栽培して葡萄酒を飲ましめ、登山設備を完全にして、元気の回復した人々には岩手山登山をさせることとする。さうすると天下の人々は吾も吾もと滝沢さして出掛けて来るのである。

 一、寒気を利用せよ。
 吾々は太陽に温石を持たせ得ざる限り、冬の寒気をば如何ともすることが出来ないものである。故に「寒い寒い」と云ふて背を円めてばかり居っても致方はあるまい。宜しく之を利用すべきである。即ち氷豆腐寒瓢寒大根寒晒粉等の製造を始めよと云ふのである。

 一、雪を利用せよ。
 是は運搬業をするのである。村内国有林野の特売を受けて村有林とし、之 に村内の私有林を合せて造林し、何年か後には毎年一定の伐採を行い雪を利 用して運搬するのである。

 以上は唯一、二の例をあげたに過ぎないが、とにかく吾々はこの気象に鑑み「如何にせば本村をして最も幸福なる村となし得るか」を案出するの任務を有することを自覚せねばならんのである。

   第三章 土地

    第一節 土地の現在

 本村の広袤(ぼう)は東西四里、南北六里で、此の面積は十五方里である。今之を明治四十四年十二月末日現在による地目別に示せば下の通りである。

 一、民有地

民有地→

 一、其他 官国有地は略す

    第二節 土地に関する将来の企図

      第一項 地目変換

 本村民は保安的であること、知識の低いこと、資力に乏しいこと、その他種々の原因により、生業に於て少しの改艮もないから、耕地も原野も殆ど古のままでその地力も完全に利用されては居らないのである。今吾輩の概略の調査を示すとこうである。鵜飼の百町歩、滝沢の三百町歩、計四百町歩の原野は之を耕地に変換することが出来る。内百町歩は水田とし稲、三百町歩は畑とし之に大豆蔬菜煙草桑を作る。其の詳細は生業の条に述べるが、一反歩の収入を水田弐拾円、畑拾五円としても六万五千円となる。是より秣料を引き去っても六万三千円の収入があるのである。

      第二項 耕地整理

 耕地整理の必要は学理は実際に既に己に決定されて居るにかかはらず、本村民はまだかれこれ云うから今之を簡単に述べて見やう。

 一、排水上―排水不良地は土地を冷かにし、肥料の効果を減ずると同時に遅くして、作物の発育を妨げ且その成熟期を後れしめ、ために大に秋収を減ずることは諸君の知らるる通りである。然るに本村には各所に排水不良地が沢山ある。故に之を除くことが必要であるが、本村は隣村厨川と連って一帯の平野を成して居るから、区々たる排水溝ではその目的を達することが出来ない。どうしても耕地整理に依らなくてはならん。殊に厨川とも関係があるから、両村合して盛岡以西の地を井然たる耕地にすることが必要である。

 一、道路改修上―道路の文明に及ぼす影響の大なるは云ふまでもないことであるが、本村はこの道路の不備不完全なること天下一品とも云ひたい位である。即ち各部落を連絡する主たる道路がなく、屈曲迂回丸で下手な蜘蛛の網の様である。或る人に聞くと、大沢ばかりで里道の延長十二里余あると云ふことである。諸君はこの道路に仮りに稲を植えたとして計算してごらんなさい。道巾下水堰共二間とすると九町となり、三千五百円の収入がある。若しこれを道路用とすると三間巾に直して八里となる。すると横断道路の三筋も出来る。かく計算したなら耕地整理の必要を痛切に感ぜらるるであらぅ。それは兎に角本村の里道が余り長が過ざるから完全な修理も出来る筈なく、どれを見ても道巾狭く馬車が通行し得ないのみか、泥濘脛を没するものばかりで、只の歩行にすら困難である。況して事業を経営せんとする者に於てをやで、近い話は兵営から肥料を運ぶにもあっちこっちと廻り廻って来る。吾輩嘗て盛岡帰りの肥料運びの人に「御苦労」と挨拶したら、「どうも道が悪くて困ります。以前には楽に二回引いたのが、今は難儀しても一回しか歩けません」と。故に吾輩は「本村の開発は先づ道路よりせざるべからず。而して道路改修は其の現在に顧みて修繕のみにては不可なれば、必ず耕地整俟たざるべからず」とするものである。

 一、人心向上統一上―本村は道路の分布と等しく人家も甚不統一で田の中畑の間に一軒二軒とあって隣家に行くにも多大の時間と労力とを要する。即ちこの人家の不統一と、道路の悪いのが相俟って、知識の幼稚な人民をして益々億劫がらせ、退嬰主義に陥らしめ、又延いては部落民心の不統一を来し、何を相談しても、南は熱心なれば、北は冷淡。北は賛成すれば南は反対という風である。併し吾輩は之を以て本村民が人気が悪いこととは思はない。否大に質朴であると思ふ。そして現状を呈するに至ったのは皆人家交通の不統一な為であると思ふ。故に之を救済するには耕地整理に依る外に途がないと思ふ。

 一、労力経済上―本村の耕地は区劃余りに狭小で且形状が不整だから牛馬耕を行ふに大層不便である。のみならず耕地往復にも多大の時間と労力とを要する。吾輩は先に稲取村戸主会の章でこの事を述べたが、若しも今耕地往復の時間と真の作業時間とを区別し、正確な記載に依って統計を取ったら、実に大した損害だらうと思ふ。故に本村は耕地整理に依って以上の弊害を除き、労力の経済を図り、之を以て養蚕やその他の副業を行ふべきである。

 一、増収上―畑地の整理は地積及び収穫に大差ないとして、田地について概算するに、地積と収穫とで各二割増とせば現在の四百八十五町五反歩は五百八十二町六反歩となり、本村一反歩平均一石三斗二升の二割増とせば九千二百二十八石三斗八升となり、現在の六千四百八石六斗より二千八百十九石七斗八升の増収で、一石十八円とするも五万七百五十六円の利益となる。

 尚、この外衛生上より、社会改良上より、生産増殖上よりも説明を試みたいが、余り長くなるから省くとして要するに耕地整理は産業上、人事上、本村開発の根本問題であるから、之を行うでなければ総べての改良はなし得ないものである。

      第三項 村有林設定

 村基本財産として造林の最も適切な事は云ふまでもないが、本村の如く、冬季の生業に乏しい処では殊にその必要を感ずるのである。故に国有林野三千町歩の特売を受けて之を設定したいのである。

    第三節 土地の将来

 本村は前節に於て述べた三項を実行し、地目変換及村有林設定より生ずる不足原野七百町歩を全部国有林野に仰ぐことゝすると、本村将来の土地は次の通りとなる。

 一、民有地

民有地→

 而して造林地の特売はどう行くか分らぬにしても、開墾事業に至っては、目下その筋で調査中でもあり、東北振興会東北拓殖会社の組織を見る今日、村の事業とするか、若しくは確実な団体の事業とするならば、予約開墾は簡単に許可さるる事と思はれる。さうして生業法を改良して耕地一反歩より年二十円をあぐることゝすると、農産のみでも四十二万三千百二円、又三十円をあぐるとすると六十三万四千九百八十円となる。之に林産畜産副業温泉等よりの収入を加えると百万円にはなる。本村民たるもの宜しくこの辺を標準として活動すべきである。

   第四章 生産

    第一節 生産の現在

      第一項 生産額

 前章に述べた民有地より生ずる生産額は以下の通りである。

生産額→

      第二項 移出生産物

 前の表を見られる諸君はその面積の広きに比し、生産額の余りに少なきに驚かれるであろう。而かもその多くは生活の資として直ちに消費せらるるのであって、村外へ移出するものは米の幾部、馬の幾部、林産の幾部に過ぎないのである。今米の移出を見んがため、飯の材料となる穀類の合計を見ると、精げにして米六千六百六十石、麦三百四十石、粟百五十石、稗三百二十五石、蕎麦三百十三石、計七千七百八十八石である。次にその消費量を調べて見ると、農民だから平均一人一年一石二斗を要する。すると人口四千八百十九人では五千七百八十二石八斗、差引二千六石の移出米を得る割合となる。之を一石二十円として四万円。之に畜産の収入一万円、林産の収入五千円を加え、六万円前後と見たら大差あるまいと思はれる。

 一体村の前途の分るるのはこの移出生産物によるので、若しも移出生産物は安定であり、且年々増して行く様であったら、少々の負債や少々の疲弊は意とするに足らんものである。之に反して此の移出生産物が不安定であったら、負債がなくとも、村民が如何に勤倹であっても何時かは衰ふるものであることは諸君も既に知らるる所であらう。

 この見地より本村の将来を推測したら如何であらう。米には度々凶作があるし、村には既に木がなくなって居るのではないか。この辺より打算して吾輩は本村の将来を悲観したのであったが、諸君は以て如何とさるるか。

      第三項 収支の状況

 諸君よ、更に吾々は前項の移出生産物を以て何々を求めざるべからざるかを調べて見よう。その第一は生産費である。その中の肥料について調べて見るに学者曰く「肥料の能率は次第々々に減じて行く。即ち、昔は一円の肥料で十円取れたのが、今は三円の肥料を使わねば十円取れない。後には八・九円の肥料を入れなければ十円の収穫が得られない時代が来る」と、吾輩は極端には之を信じないが、併し肥料代の増し行くは事実である。又、農具について見ても同様である。吾々はこの年々増し行く生産費を前項の収入金より支払うのである。

 この第二は生活費である。食糧にも銭で求むるものが沢山あるし、衣服は殆ど全部であるし、住宅の費用も同様である。吾々は矢張りこの費用を前の収入金より支払はねばならん。其他上納然り、交際費然り、教育費然りで、尚之に酒代然り、煙草代然り、借金の利上げ然りと数へ立てたら、それはそれは岩手山よりもかさむかも知れない。今試みに吾輩の独断的概算を御目にかけよう。肥料代を一戸五円宛として五百四十戸分、二千七百円、衣服及食料中他より求むるもの一人五円宛として四千八百十九人分二万四千九十五円、上納二万六千円、教育費小学校児童一人四円宛として六百五十人分二千六百円、中等学校入学者一人百円宛として九人分九百円、計三千五百円、酒代一万円、煙草代五千円、借金利上一万八千円、その他一万円合計九万九千二百九十五円となる。何と驚くべき額ではないか。而して此等は何れも皆社会の進歩と共に増し行くもののみである。借金の利上は別として、彼の不安定な財源を以てこれら年々増し行く費用を支払はなければならんのである。之を見彼を思はゞ、如何に暢気な者でもじっとして居る訳には行くまい。

 諸君よ、尚、更に吾々は金銭を要せざる生活費、即ち、売出さずに直接消費さるゝ生産物の収支を調べて見よう。諸君も知らるゝ如く、以前は農民に米麦を買うものは一人もなかったのである。然るに現在は買はずに済む者は少数であるとの事。然らばこの方面も矢張り収支相償はないのである。

 それから第一項の生産額より村中の資産家三十人分の収入と負債の利子とを差引き、その残戸数残人口に対する一戸当り一人当りを算出すると次の結果を得る。

 一戸当り百三十九円三十銭、一人当り十六円六十九銭

 平年作として尚且かうである。どうしたらこれで御飯をたべたり、着物を着たり、肥料を買ふたり、農具を求めたり、上納をしたりする事が出来やうか。況して新事業や生業改良等とは思もよらんことである。諸君、諸君も之には異議あるまい。吾輩は第一編に於て本村の将来は危険であると云ふたは、この辺から割出したのであった。

      第四項 余 論

 吾輩は生業の将来を定むるに当り、その現在を第一項以上精しく調査すると同時に、これ以外の収入、例へば労働賃金等をも調べ収入の統計を作り、又一方には支出の確実なる統計を得て、第三項の結論を数字を以て示し、それから将来の理想を立て、本村は将来幾何の支出金があったら幸福な生活をなし得るかをも究め、これを参考として生業の将来を定めたかった。併しそれが容易の事ではないので、他日諸君の力をかりることゝして、此度は以上に止めたことは本編の始めに断った通りである。故にその実際は諸君で研究され、今一層確実に本村の現在を知って戴きたい。次節に移るに当り吾輩は独断的に「本村民は幸福なる生活を営むには現金支出のみにても三十万円を要する」ことを断っておく。その使途は第四編に依って見て下さい。

    第二節 生業の改良

      第一項 生業組織の改良

 総べて生業は土地気候に適するものを選ぶことは勿論であるが、尚労力及収入の平均を得る様に組織しなくてはならんのに、本村従来の生業は単純な主穀農業で、前述の如く、土地及気候に適しないのみならず、尚下の欠点を持って居る。

 一、労力の春夏秋冬に偏すること

 本村農家は春先より秋の収穫期までは甚だ繁忙で相当に働いて居るが、収穫期以後三月に至る四ヶ月間は因襲的に薪炭の料を得るのみでその大部分は遊んで居る。遊んでは居るまいが何等生産を出さないから生業上から云ふて遊んで居るのである。それから尚詳細に調べて休日等を除いて見たら、作業日は半年位に止まるであらうと思ふ。即ち本村民は生産を出すため労働は半年に過ぎないのである。半年働いて一ヶ年の生活費を得るのであるから実に無理な話と云はなくてはならん。故に本村では、冬季にも夏季と同様生産を出す様に労力を使用する工夫が必要である。

 一、収入の秋冬の交に偏すること。

 主穀農業の結果としてその収入の秋冬の交に偏するは当然の事である。その結果として如何なる不都合が起るかと云ふに、前述の如く本村には農家がありながら米麦の不足な者もある。で買はんとせば銭がなく、亦得べき道もない。耕しては居るが秋までは何物も得られない。止むなく収入期まで借入れる。而かも之には高利を添へなくてはならん。又金銭についても同様である。その利益を殺がるること莫大である。本村民はかくして一ヶ年間粒々辛苦して是等の供給者たる商人及び金主の懐肥をして居る。故に本村では春夏秋冬の各季節に相当の収入を得る様に工夫せねばならん。

 以上を参照して本村生業組織を次の通り定めたい。
 一、第一種(気候の影響を受くること大なるもの)従来の生業中穀類に属するもの
 一、第二種(気候の影響を受くること小なるもの)蔬菜、煙草、養蚕、果樹、燕麦
 一、第三種(殆ど気候の影響を受けざるもの)畜産、林業、藁細工、寒瓢、寒大根、晒粉等の製造業

 以上の生業を行ふと気候に対する用意にもなり、労力及び収入の平均も待らるる積りである。故に仮令年一、二作物の不作があっても困らないし、その収入も大に増して行くのである。

      第二項 生業経営法の改良

 本村の生業経営法は自給的で、自衣食の資を得ることに汲々として、是を得ると満足して居る。その営利の如きは村民の念頭にないやうである。かう云ふたら読者諸君が「ある、大にあるが飯を食はずに利益々々と云ふ訳には行かんから致し方がない」と云はるるであらうが「致方がない」と落胆して仕舞って何もせんから結局ないことになる。総べて物は「致方がない」として仕舞へば何一つとして成功するものではない。衣食に困るからと云って仕舞へばそれまでであるが、利益を得なければならんと云ふて起てば其処に利益があがるものである。さうすると生活も楽に行く。生活が楽に行けると又利益が増して行く。かくして原因となり結果となって発達して行くものである。近い話は稲取村である。あの時「地味が悪いから致方がない」「借金があるから仕方がない」「人気が悪いから致方がない」「人物がないから致方がない」と云って仕舞へば既に滅亡して居ったのであったらう。かう云はれたら如何にも念頭にないと点頭(うなず)かるるであらう。若しあったとしたら、それは念頭にあらずして家の後の梨の木にだらうと思ふ。話は理屈に走ったが、生業が自給的になると発達するものではなく、次の欠点幣害が生ずるものである。

 一、商品の少なきこと。

 自給的であると、生産品は衣食の資を得るに止まり、商品は生活に必要な金員を得るに止まるものであって、大に製作して大に売出すと云ふ気風もなくなり、商品が増さんものである。

 一、共同心に乏しくなること。

 自給的であると自分さへよければよいとなる。自分の関係のないことには冷淡となる。狭く考えると共同の必要もなくなる。競争者は隣近所のものになる。即ち隣にまけたくないと思ふ様になる。負けると口惜しくなる。勝れた人は憎くなる。かくの如くして人心は益々小になり、陰険になり、此の間に共同心公共心を失ひ、村内や身内の事に関しては馬鹿に意気地を立てたくなるものである。そしてこんなものに限って外部には極弱いもので、世人はかかる人を称して「内弁慶にして外味噌なり」と云ふが、本村は余り甚だしくはないが、幾部この数に漏るることの出来ないなと思はるる処もあるから読者諸君は大に注意されたい。

 一、貧富利害を異にすること。

 自給的であるから経済関係が単純で、借金でもすると返済の道が立たない。又労働の種類もないから田地でも失ふと非常に困って行く。富者の投資も同様単純だから土地にのみする。やがて所有権が移る。例米を取る。よい米沢山とりたい。すると小作人が困る。故に富者利すると、貧者が窮して行くのである。

 一、農商利害を異にすること。

 商品を産出せんから商人と云へば皆衣食物の移入商のみである。本村の商店と云ふたら諸君の知らるゝ通りである。故に商店は繁昌すればする程農民が困って行くのである。近年農家の斃るのは殆どこの例による様に思はれる。

 以上は只一、二の例に過ぎないが、要するに自給的生業経営法は唯に発展上害あるばかりでなく種々の弊害を伴ふものであるから、之を改良して大に営利的とし、資産家には慈善心を以て事業に投資して貰ひ、又投資を受けた者は真面目に働いて成功する様にし、かくしてどんどん商品を出して商人に頼み、商人も相当の利益を得ると同時に農家の利益も図り、村内皆々持ちつ持たれつして幸福な生活を送る様にしたい。かうなると競争者も村外の者となり、従って一致する必要も生ずるし、今日の如くつまらない言合がなくなる。その精しい事は第四編に述ぶるとして、吾輩はこの主義により生業の種類を定め、之に相当の土地を配当し、その大体の経営法をも講じて置いたから、それは次節について見ていたゞきたい。

    第三節 生業の将来

      第一項 稲

 土地の将来に於て述べた如く、田地六百八十二町六反より次の成績を得るのである。

 九、二二八・三八石、旧田地五八二・六反より一反平均一三二升の二割増とす。
 一、三二〇・〇〇石、地目変換地一〇〇・〇反より一反平均一三二升を得るものとす。
 一〇、五四八・三八石、合計
 一八九、八七〇円 価額一石一八円平均とす。
是より次の移出米を出さんとするのである。
 七、八五六・三八石 移出米石数
 一四一、四一四円 同上価額
備考
 本村飯の材料としての必要穀類五、七八二・八石中、三、三六〇石は麦其他より補ひ、其の不足額二、六九二・〇石を米とす。

      第二項 燕麦

 之天候に応ぜんが為新設したものだから要領を述べやう。燕麦の収穫は八・九月の交であるから、霜や風やその他気象より来る害を蒙ることが少なく、痩地にも困らんし、収穫は相当で而かも小農の食料のなくなった頃だから大層都合がよい。又養分の上から云ふても粟稗の比ではないから、稗の全部蕎麦の一部を廃し、百五十町歩の耕地を当て、一反歩三石宛として四千五百石を待、更に精げて二千七百石の食料を得るのである。

      第三項 大豆(附氷豆腐製造)

 耕地五十町歩を増し、百七十七町九反歩より一反歩八斗宛(本村平均六斗二升)一千四百二十三石二斗を得、内自家用味噌納豆豆腐の料一人一斗五升宛四千八百十九人分七百二十二石八斗五升を残し、その他で氷豆腐を製し、一万五百円を得るのである。

      第四項 蔬菜(附澱粉寒大根)

 製造耕地五十町歩を増し、八十六町八反歩より次の収入を得るのである。

蔬菜栽培による収入→

 本村は蔬菜栽培には憤れないから少少説明する。玉菜をば春先まで囲ひおき、直接東京へ売り出すと一貫目運賃除き五銭は受合である。一坪の収穫を一貫のもの四個とすると一反歩百二十貫目この価額六十円となる。併し五十円と見て三十町歩で一千五百円を得る。それから玉葱も同様にして七千五百円を得る。次に三十町歩には馬鈴薯と大根との二毛作をやる。馬鈴薯は一反歩二十俵として六千俵、それより澱粉六千円代を製し、其他を食用とする。大根は一反歩三千六百本として百八万本、内九十万本を切干大根、寒大根として九千円を得、其他を食用とする。又自家用蔬菜は此等の売残物とし、尚必要な菜類は玉菜玉葱の二毛作若しくは間作とし、止むを得ざる人参牛蒡等の用地として十一町八反歩を充てるのである。

 序に言ふておくが、馬鈴薯で馬鈴薯米を作ると白米に似たものだと云ふことである。凶作の時等に製造して食べたらよいであろうと思はれる。

      第五項 煙草

 耕地五十町歩を新設し、一反歩より二十円の収穫をあげ一万円を得るのである。

      第六項 桑園(附養蚕)

 現在の桑園九十町歩に百町歩を増し、三十八万貫目の桑薬を得て二千枚の掃立を行ひ一枚三十五円宛として七万円を得るのである。

      第七項 果樹

 耕地五十町歩を新設し、柿は乾柿とし、葡萄は葡萄酒として次の収入を得るのである。

果樹による収入→

      第八項 馬

 飼養馬匹の頭数及その借用地は現在のままとして価格を上げて収入を増すのである。即ち現在の一千四頭より年々四十二頭を産ましめ、之を一頭八十円宛に売却して三万二千円を得るのである。

      第九項 鶏

 飼料を別に給せずに飼養するので毎戸一雄三雌とし下の収入を得るのである。

 飼養戸数 五四〇戸 鶏数 牡五四〇羽 牝一、六二〇羽 計二、一六〇羽産卵数二四三、〇〇〇顆 一羽一五〇顆宛 此代価四、八六〇円 一顆金二銭宛 売却鶏一、〇八〇羽 一戸二羽宛此代価三二四円 一羽金三〇銭宛 収入総計五、一八四円

      第十項 林業

 本村には林野五千三百二十二町五反歩あるけれども、内四千二百八十町歩は他村民の所有地であるから差引いて一千四十二町五反歩しかない。それに国有林野特売を受け、又本村民の他村所有地を合せ、合計一千七百八十二町二反歩の林野中放牧秣地を残して次の通り造林するのである。但し三、四十年間は収入が見られないから、収入は例年の如く見積っておく。

 全土地一、二四二・五反 松三〇〇・〇反 杉二〇〇・〇反 栗三〇〇・〇反 櫟四四二・五反

      第十一項 藁細工

 本村は原料に富むのみならず兵営の肥料を利用することが出来るから余程実行してもよい。今一ヶ年の作業日数を百日とし、一戸に付一人平均、一人一日金三十銭宛得るものとして四百五十戸に実行させると一万三千五百円の収入を得るのである。

      第十二項 搗栗

 前述の栗林より原料を取って搗栗を製するのである。今三百町歩に三十万本の栗の木あり、一本から二升の産額とすると六千石を得る。之を搗栗として一千四百石を製し、一升四十銭に売って五万六千円、之を隔年として年額二万八千円を得るのである。

    第四節 生業の将来

前節に於て述べた処を表にすると次の通りである。

生業の内訳→

   第五章 岩手山経営

 吾輩は以上数章で生産に関する方面の大略を述べたが、尚発展に大関係のある見のがすべからざるものがある。それは岩手山と温泉とである。湯殿山や善光寺や伊勢に行かれた諸君は充分御承知の如く、今や各地とも名所旧蹟や温泉などを経営して他の地方の人々を招致せんと努めて居る。で行って見ると、極めてつまらん所でも木を植ゑたり、建物を建てたり、由来を書いたり、絵葉書を発行したり、名物を作ったりして、他地方人を集むると同時に大に収入を得て居る。それに本村を見るに、天下の名山、天下の名泉を持ち乍、茲に思が至らないのか、至っても、やり得ないのか、設備も極不完全であるし、登山者が来ても何一つ売らうともせん云はゞ宝の持腐である。故に大に世間の例に倣ふて設備を完全にする。即ち、盛岡市及温泉には完全な道路開鑿し、柳沢には後編に述ぶる所の模範養蚕家模範園芸家を配置して一大養蚕地一大園芸地とし、登山者の宿泊や飲食物購入や慰安に便にし、大に登山者を満足させると同時に生業の参考ともなり、又一方には岩手山の樹木を利用し箱根の寄木細工の様な物でも造って売る様にせよと云ふのである。さうすると岩手山登山者は「滝沢村は養蚕の盛んな村だ」「挑が良い所だ」「葡萄の出る所だ」等と云ふ間に一万円位は落して行く様になるのである。

   第六章 温泉経営

 是隣村西山にある網張温泉を本村に引下げ経営せんとするのである。網張温泉は諸君も知らるゝ如く、効能の顕著な温泉であるし、本村に引下げると盛岡市が近いし、交通も便であるし展望にも富んで居るからその繁栄が受合である。故に本村民たるものその要領を辨へて之を利用する工夫をせねばならん。今参考に吾輩の意見を述べて見よう。

    第一節 利益

 今本村に温泉を引下げたとすると、先づ百戸位の戸数が増す、この戸数の増す割合に村税が増さないから村税負担が軽くなる。又温泉地には色々の人が這入って来るから、村民への刺激にもなる。従って人文の進歩をも促す。即ち富を増す上から云ふても、人文の進歩上から云ふても大層利益なものである。是吾輩の説明を俟つまででもなく、諸君既に知らるる所であろうが、農業と関係のある数項につき次に簡単に説いて見よう。

      第一項 温泉主の利益

 冒頭として温泉主の利益から説かう。温泉引下には彼是六一〇円が入るやうである。而して引下後の収入はと云へば一万四千九百九十円で、それから諸費用及積立金一千百七十六円を差引いて、純益金一万三千八百十四円を得る。故に配当は二割三分強に当るのである。高利貸以上になる。今少し精しく述ぶれば次の通りである。

 一、人員調
 十八万人 是は六月八月の二ヵ月分、一日三千人づつ
 三十万人 是は三・四・五・七・九の五ヶ月分、一日二千人宛
 四万二千人 是は十・十一の二ヶ月分、一日七百人宛
 一万八千人 是は十二・一・二の三ヶ月分、一日二百人宛
 五十四万人 合計

 一、収入調
 八千六百円 是は浴客四十三万人分、一泊金二銭宛日帰も同
 千六百五十円 是は子供十一万人分、一泊金一銭五厘宛日帰りも同じ
 四千七百四十円 其他
 一万四千九百九十円 合計

      第二項 産物販売上の利益

 生業の発達には販売機関は第一であるが、販売機関としての温泉を調べて見やう。先づこの五十四万人の人が一人一円三十銭宛使用するものとすると、十六万二千円の物を売ることが出来る。勿論これには肴や酒等の移入品をも含むのであるが、又計算の方面を変へて原料について見るに、この人が一人一日三合の米を要するものをすると、一千六百二十石を売ることが出来る。さうすると村民はこの米を売るために徒費する時間と労力とを利する外、糠を馬に喰はせることが出来るし。水車業者にも仕事が出来る。又この人は一人一日弐銭代の副食物を取るものとすると、一万八百円の蔬菜類を売ることが出来る。次にこの内十万人の人が二十銭の土産を持ち帰るものとすると、矢張り二万円となる。要するに如何なる方面より調べて見ても、販売機関としては、盛岡市より利益あることは諸君にも分ることゝ思ふ。故に吾輩は村民に「口を開いて温泉主の利益を見てばかり居らずに、大に之を利用して儲ける工夫せよ」と警告しておく。若しも諸君が「然らばその儲くる方法如何」と問ふなら、吾輩はかう答へる。先づハイカラ向から始めると、温泉には銭を使ふに来る人が多いから、この種の人には飲食物が第一である。勿論夏だから、果物なら西洋苺、桃、林檎等を食はせるし、魚なら鯉、鰻等を養って居って、鯉の羹(あつもの)に鰻の蒲焼、次に土産物に行くと早く名物をこしらへる必要がある。善四郎糯、明眼糯を原料とする餅菓子、外山蕎麦を原料とする落雁。それに前述の御山木細工・葡萄酒・澱粉・氷豆腐。尚之に滝沢織でも加へて、絹布をほしい人には絹布、書生には菓子、病人には葡萄酒、家業持の人には澱粉なり氷豆腐なり、尚一層甚だしい人には大根や玉菜を売ってやるのである。かう云ふたら諸君は戯談とさるゝかも知らんが、私は真面目で云ふので、若しも交通機関を完全にし、且安心すると、盛岡市の老人達は日帰に出て来て嫁さんの土産に此等のものを持って帰る様にならうと思ふ。で諸君が今は農家であり乍、野菜を盛岡から買ふて居るが、将来はどうしてもかうせねばならん。

      第三項 本村紹介上の利益

 生業の発達には販売機関が必要であることは前項でも述べたが、この販売をして容易ならしむるには天下に知らるゝことが必要である。近年広告法が大に研究されてゐるのはこれが為である。然るに本村ではこの温泉と岩手山とを利用せば、何んの苦もなく紹介が出来るのである。

      第四項 肥料上の利益

 話は少々まづくなったが、併し農家には肥料が一番大切である。その近くに供給地があったなら、どんなに利益だかは、この悪い道を盛岡市から引上げらるゝ諸君の方がよく知らるる事であらう。

      第五項 結論

 吾輩は以上数項に亘りその利益を説いたが、中には温泉が出ると色々の人が来るので風紀が悪くなるとか、何かと思はるゝ方もあるかも知れないが、それは「温泉が悪きに非ず人の悪きなり」である。注意しさへすれば、こんな事はどうにもなる。吾輩も幾等かこんな考えを持って居ったから、飯坂及び上山について少々調べて見たが、少しも心配することがない事を確めた。この地の学校は何づれも模範学校と云はるゝまでになって居る。殊に金が這入るから設備の点は実に立派であった。是等より帰納して吾輩は「温泉の利益と農家の利益とは一致するものなり」と結論する。

    第二節 設備

 前節の結論により吾輩は農村として温泉主に左の設備を希望したいのである。その日的如何と云ふに大に繁昌させ度いのである。前節の結論に依り温泉利すれば農村利するのである。一体苦情や弊害と云ふものは、利益の少ない所より起るもので、利益さへ多かったら少々位の無理も理屈に変ずるものである。況してこんな利益のあがる事業だから、下の設備に依り、大に天下の人々を集め、相共に其の利益を収めたいのである。

      第一項 温泉地の設備

 温泉に関するものは完全なる最新式の設備によりて、浴客に満足を与ふると同時に一大公園を作り、慰安をも得させる。又官吏、政治家、実業家、学生等の諸種の会合に便するが為、一の公会堂を設くる。是は後に述ぶるが如く、本村にも必要なものであるから、両者協議の上両方の目的を達する様にしたい。次に本村でもここに後編に述ぶる各種の模範家庭を配して実業家の参考にさせる。かうすると病者に、避暑者に、農夫に、学生に、紳士に、治療に、保養に、我れも我れもと集って来るであらうと思はれる。

      第二項 交通に関する施設

 先づ盛岡には、完全な交通機関で、極低廉な費用で往復し得る様にしたい。さうすると、日曜日の散歩にも出かけて来る様になると同時に、帰りには「どうせ乗って行くに只帰るよりは玉菜でも」と云ふて種々のものを持ち帰る様になる。次に岩手山と温泉、岩手山と盛岡の間も出来得る限り完全にしたい。そして盛岡市に来た人は序に登山したり、温泉に来たりするし、登山者は必ず温泉に寄るし、浴客も沢山登山する様にさせたいのである。

   第七章 結論

 吾輩は以上数章に亘り、本村の現在を調査し、その必要に応じて将来を研究した。即ち吾輩は本村が食料の原料以外に現金三十万円の必要を感じたので、之が研究の結果、食料の原料として十万円を差引き、三十七万円の移出生産物を出すことを得る。故に七万円の剰余金を得たのである。尚之に林産と岩手山及び温泉経営より生ずる収入を加ふるときは十五万円の剰余金を得ることは何の訳もないことである。是は読者諸君も大に包容性に訴へらるゝことと思ふが、宜しく南は沼より、北は下田川前に至る迄、北海道風の碁盤割の耕地とし、その目的を達すべきである。今少し立つと、我が滝沢村には停車場が五つ建設さるとの事であるが、それまでには実行して、どの停車場に下りた旅人にも、あっとさせ、盲人も杖を捨てゝ走り廻る様にすべきである。併し、是は「運と果報は寝て待てよ」式では駄目である。第一編で述べた如く、長夜の睡より醒めて起ち、人の和をして充分ならしめ、天下の同情を味方として、郡長、県知事を顧問としてやらねばならんものである。すると吾輩の云ふた以上に発達するから。要するに之を実現するのは郡長でもなく、県知事でもなく、東北拓殖会社でもなく、諸君の共同一致唯是のみである。それで吾輩は又「共同一致なる哉、共同一致なる哉」と絶叫するのである。

第四編 滝沢村振興策(以下略)

   第一章 滝沢村振興会組織
    第一節 滝沢村振興会要領
    第二節   〃   の組織
    第三節   〃   活動法
      第一項 実施事項決定方法
      第二項 〃   発布方法
      第三項 実行方法
   第二章 滝沢村振興会の事業
    第一節 修養施設
      第一項 講話会及び研究会
            附 支部会集会所公会堂
      第二項 他町村視察
      第三項 各戸指導
      第四項 図書館及び文庫
      第五項 模範経営家
      第六項 小学校児童に対する施設
      第七項 農業補習学校設置
      第八項 育英事業
      第九項 余論
    第二節 実行施設
      第一項 労力経済に関する施設
      第二項 労力服制定
      第三項 肥料改良
      第四項 経営誌制定
      第五項 実施奨励施設
      第六項 金融機関
    第三節 購買販売施設
      第一項 商店
      第二項 購買販売組合
      第三項 米券倉庫
   第三章 滝沢村振興会事業施行案
    第一節 借金征伐

第五編 結論

第十二節 篤農家菊田鶴次郎氏

一 経歴

篤農家 菊田鶴次郎氏

 明治十二年九月二十日、福島県伊達郡桑折町、菊田庄吉三男として生る。

 大正二年十月二十七日、滝沢村大字鵜飼字細谷地一四六番地に、大坊守衛氏所有地十町八反歩を譲り受けて入植する。内三町歩は既に開墾が終っていたので、直ちに農作物の栽培に入る。

 畑作経営に於ては果樹・陸稲・蔬菜の三本建が最も合理的と考え、その方針で経営に当る。

 昭和三十年二月十七日、黄綬褒章を賜わって表彰さる。

    褒章の記
                     菊田鶴次郎
早くから陸稲優良品種の育成苹果甘藍及び桑樹の栽培法につき研鑽し優秀な成果をあげる等まことに業務に精励し衆民の模範であるよって褒章条例により黄綬褒章を賜わってその善行を表せられた。

内閣之印→

 昭和三十年二月十七日
              内閣総理大臣 鳩山 一郎 印
        内閣総理大臣官房賞勲部長 村田八千穂 印
  第十号

 昭和三十一年一月十日、伊勢神宮より顕彰状を受ける。

    顕彰状
貴下夙に敬神の念篤く孜々として業務に精励せられ曩(さき)に農業功労者として黄綬章受章の光栄に浴されたことは寔に斯界の慶事であり欣快の至りに堪えません。仍て本日全国農家有志各位の協賛に依り皇大神宮大前に於て新穀感謝奉告祭を斎行するに方り顕彰の式典を挙げ謹んで慶祝の意を表すると共に記念品を贈呈し以て御功績を顕彰します。
  昭和三十一年一月十日
               神宮大宮司 佐佐木行忠 印
            伊勢神宮奉賛会長 佐藤 尚武 印
  菊田鶴次郎殿

 昭和三十九年四月二十九月、勲六等単光旭日章を授与せられる。
 同年十一月二十五日、八十五歳の高齢で逝去される。

二 果樹

 大正三年春林檎二町歩(紅玉一町歩・国光五反歩・その他五反歩)、梨五反歩(和梨三反歩・洋梨二反歩)を定植する。当時果樹栽培はいわゆる揺籃期で、県の試験機関も未だ研究が固らず、従って何れからも指導を受けることが出来ず、自ら研究を積み重ねる以外に途がなく、まことに苦難の連続で失敗の繰返しであった。当時盛岡市周辺の同業者かお互いに相助け合い、失敗を一つ一つ切り開いて行かねばならず、肉親以上の交際を深めたのもそのためであった。

 時代が進むにつれて県の試験機関が充実して、大正期にはこれらの指導を得るに及び徐々に成果をあげるようになった。

 かくして、青森県の栽培大家対馬竹五郎先生の知遇を得るに及びその指導を受けるようになり、順調に軌道に乗る。対馬先生については一人菊田ばかりではなく、岩手県の果樹栽培の今日あるは、この人の指導に与ること大であることはいうまでもなく、大恩人である。

 林檎栽培に最も意を注いだのは品種の選定で、何時も口癖に、将来社会の進展に伴い、その嗜好に合うのはデリシャス系品種以外にない。そのデリ系の内で最も傑出しているのは「スターキング種」で、この品種の普及こそ岩手の林檎を左右するものだと異常な情熱を燃やしていた。

 このスターキングは大正十年、アメリカ、ニュージャージ州でデリシャス種の枝変りとして誕生したもので、その将来性を高く評価した東京銀座の「千疋屋」主人斎藤義政氏が昭和四年輸入したのが、そもそも我が国の最初で、これを対馬先生に栽培を依願する。対馬先生とは前述のような関係にあるので、翌五年極秘のうちに穂木を持参し、これを栽培するように言われすぐ高接する。

 記録によると、導入四年目の昭和八年、対馬先生園で二個の収穫を得たのがはじめである。翌九年には当園でも収穫し、篠木小学校における農産物品評会に参考品として出品しているので、おそらく県下で最も早い収穫ではないかと思われる。

 そして当初は栽培者間にもいろいろ批判され「林檎らしからぬ林檎」と、相手にされなかった。それから三十数年を経た現在では、この品種にあらざれば林檎に非ずと言われるようになり、正に隔世の感がある。

 対馬先生に対しては生涯その高恩に感謝し続けて終る。

三 桑

 大正四年、当時の尾形亀寿郡長より依頼され、七・八反歩を試験地となし、七十五種の桑園を創設し、全県下に頒布普及をする。

四 陸稲

 大正四年春、厨川村本田農園より「満州赤毛」という陸稲品種を譲りうけて試作をする。翌五年これを元村土沢佐藤金平氏の水田三十坪に水稲粳種「亀ノ尾」と混植自然交配を試みる。その中より有望と思われる一穂を撰び、さらに翌年より一粒播にして品種改良に努め、以後六年間品種淘汰を行い、遂に、大正十二年粳「大豊」、糯「良温」二種の改良に成功し、翌十三年における大旱魃にも耐えたので、県の奨励品種に指定され、後普及をする。

 以後、戦前、戦中数品種を試作し続け改良に努めたが、希望する理想的品種が生れなかった。

 戦後となり、食糧事情が緊迫したので、一層改良の重要なることを思い、昭和二十六年粳「大豊」の一穂、傑出せるものを発見し、これをまた一粒播により改良をする。それは耐病・耐旱・食味・収量等に重点がおかれた。遂に同三十二年成功し、現在粳種「菊田二号・菊田二十二号」の二種が残る。農業試験場員・農業改良普及員等による度重なる試食会等を経て、食味は水稲に劣らぬと好評を得て普及される。

 学者は、絶対に糯と粳と交配せざることを論ずるが、これを交配せしめて水稲に劣らぬ良種を作成したのである。

 その時まで三百数十種に及ぶ改良試作をしたのであったが、その後も死去するまで怠らなかった。

五 甘藍

 大正三年春林檎定植と同時に間作として甘藍の栽培を取り入れる。約四万五千本栽培して成功をする。翌四年十月十六日、大正天皇御大典に県の指示により献上する。

 当初の品種は「バンダロー」種だったが、岩手の風土に難点が認められ、適応品種の必要性に思いをいたし、大正五年盛岡神子田藤村権蔵氏に依頼して、品種改良を同氏と共に研究試作を重ねて成功し、「南部甘藍」と命名す、以後、県の統一品種として普及することゝなる。

 大正五年八t車一車(四百四十俵入)を単独で東京へ出荷し、部落の人達を招いて祝宴をはった。これに刺激されて部落内に栽培熱が盛り上がり、同志の人達六名による(本文中では〇の中に夕)甘藍出荷組合を結成、以後漸増して四十三名となる。

 大正七年県に働きかけて、岩手県農会内に菜果組合を結成し、盛岡・見前・沼宮内・滝沢の四地区が主体となり中央出荷体制を整える。当初の出荷量は四組合で二十車、翌八年は新に奥中山・平館・区界が加わり出荷量も四十車にふくれあがる。県の最終目標を百俵におき生産に努めた結果遂に昭和十年目標を達成する。当時東京市場において岩手甘藍は相場を左右する程の重要な産物となる。

 この間出荷に当っての悩みは輸送中腐敗による被害であった(東京三日・名古屋五日・丸枡九日)。これを解決する対策として、当時盛岡運輸事務所の砂子令幸主任と協議をし、全国初の試みとして「ドライアイス」使用の輸送試験を計画し、組合員が同車する等、東京秋葉原に二回、名古屋に一回、九州大牟田に一回、計四回実施して画期的な成功をおさめる。たゞ、九州は日数がかゝり失敗したが、その他は成功したので以後はこの方法がとられた。

 この(本文中では〇の中に夕)甘藍出荷組合の運用に当っては、一切は共同作業でプール計算が取り入れられ、これも当時としては画期的な運営方法であった。

 甘藍は他の蔬菜等のかねあい等から相場にも変動があり、可否の論議がなされたのであるが、平均して、反当二百四十俵になる。一俵一円として二百四十円、諸経費を五〇%とみて差引き百二十円の純益をみている。当時米価一石十五円であるから、畑作物としては如何に有利であったかゞわかる。

 品質が優秀なので昭和三年にも今上陛下の御大典に陸稲と共に献上している。

 その他数々の品評会には何時も上位の成績をあげている。とりわけ昭和六年、山形県東置賜郡宮内町における北日本農産物大品評会(東北六県・北海道・樺太・新潟)では金賞メダル三箇、銀賞五箇、銅賞その他二十一箇受賞し、文字通り日本一の出荷団体の名声を博す。

 昭和十二年以降、強敵長野県が擡頭するに及び、それに需要が伸びず、次第に衰退の一途をたどり、昭和十七・八年ごろから自然に消滅してしまう。

 以上果樹・桑・陸稲・蔬菜について、研究改良に努めたが、その間補助等一切なく、ただただ損得を度外視して取組んだのは、生来の農業に対する愛着以外の何物でもなかったようだ。今後この様な形の研究者が現れないのではないだろうか。

第十三節 柳村兼吉氏の開田大事業

一 はじめに

 本村の稲作三大発展の第一回目は、田村麻呂の奥羽平定の時もたらされた稲が、太田から渡り、長年月を程て、山裾より次第に平地に普及し、第二回目は、綾織越前を含めた南部氏の盛岡築城と共に、築堤による水田開発であり、第三回目の飛躍的発展は、北上川特定地域総合開発の一環である岩洞ダムの築堤により、不毛に近い岩手山麓の開田開畑を成功させたことである。

 第一回目の田村麻呂は奈良時代、奈良の大仏鋳造に当り、国外から輸入していた金が意のまゝにならず、一時中止のやむなきに至ったが、東北地方からの金の献納があり、大仏は見事に完成したのである。この産金が、我国最初のものであったから、当時、有史以来、その当時を除いて現在までない四字の年号、すなわち、天平感宝のごとく数回使用している。この時から、東北を日本の宝庫となし、平安時代に田村麻呂が遠征することになる。稲の栽培法を教えた田村麻呂の目的は金獲得のためであった。

 第二回目の南部藩は三戸より盛岡へ南下したのであるが、盛岡城の築城と共に人口の増加に伴い開田の必要性にせまられ、それと同時に鏡内各地に築堤をし、幕府に献上する雁・白鳥・鶴のいわゆる三鳥を呼びよせ、その下流に開田させたのである。南部藩の目的は南部家の安泰と幕府への献上品獲得がそのねらいであった。

 第三回目の柳村兼吉氏(明治二十九年二月二十日生)の岩洞ダム築堤の目的は純粋の農民自身、いな日本全体の目標である食糧増産が目的であったから、前二者に比較して、雲泥の差があることは論ずるまでもない。

二 北上川特定地域総合開発の発端

 河川が地域開発の拠点となることは、古今東西を通じ人類の歴史が示すところである。北上川もその例にもれない。今より約一千二百年前、坂上田村麻呂が北上川流域を開発し、その後、二百年後、藤原三代による平泉黄金文化がこの北上川流域を拠点として築かれたのであったが、その遺跡や伝説のはなやかさにくらべて、今日の北上川流域の姿は極めて貧しいものである。すなわち、この川が縦貫している岩手県は、今日の日本の後進地域である東北地方のうちでも最も開発のおくれている地域である。岩手県の面積は一万五千二百七十四平方kmであって、全国面積の四・一%であり、北海道を除き全国第一位の大県であるが、その利用状況は山林原野が八〇%を占め、耕地面積はわずか九%に過ぎず、東北六県中最下位で、全国でも下位から三番目である。耕地狭小に加えて、寒冷な土地で、稲作の限界温度とされる℃十七度以上の日数が年間約六十日で、関西地方の二分の一であり、水田の九八%は一毛作田である。その上岩手・青森の歴史にみられるとおり、この地方はしばしば冷害を受けているので、農業経営は一般に困難で、兼業農家が多く、農業技術の停滞をきたしている。また戦時中の森林の濫伐等が原因となって、北上川の台風による氾濫(はんらん)被害(例昭和二十二年カサリン台風・同二十三年アイオン台風)もたび重なり、北上川流域の後進性を深く大きいものとしている。

柳村兼吉氏

 本村出身の柳村兼吉氏は終戦直後の八月、戸惑う農民の立上がりに先鞭をつけ、同志と相謀り、開拓団を組織したのである。後、政府は北上川流域を開発すべく法的並びに経済的な措置をとるようになる。同氏はこの低生産性・後進性の根本原因は北上川の氾濫と冷害にあるとし、この北上川の治水を基盤とし、それにあわせて農業水利・農地開拓・電源開発・その他の事業を進め、その総合効果として、この地方の後進性である経済的・社会的条件を引上げようとおし進め、それが国土総合開発法(昭和二十五年五月二十六日法二〇五号)となり、北上川特定地域総合開発計画(昭和二十八年閣議決定)となり、この計画の一環として、岩手山麓開拓建設事業が実施されたのである。

三 岩手山麓開拓建設事業の経緯

 盛岡市の西北にそびえる海抜二、〇四〇メートルの岩手山の南・北・東から三方向に向かって北上川に広がる山麓には、およそ一万二千町歩に及ぶ農耕適地が未開発のまゝになっていた。その大きな理由が二つある。第一は従来この地は軍用地と、農林省種畜育成用地に占有されていたことであり、第二は岩手山火山山麓の自然地理的条件である。

 昭和七・八年ごろ、この地方の人々から、岩手県に対して、岩手山麓の開墾について陳情が行われ、県はそれに答えて、まず、北上川の水質と稲作に及ぼす影響について調査をした。その結果、北上川水系松川支流赤川の上流にある松尾鉱山よりの鉱毒水により、赤川及び赤川合流後の松川、北上川は酸度が高く、合流後の北上川においてP・H四~五程度であり、かつ甚しく混濁し、これが河川流下中に生ずる沈澱物によって、稲作に大害を及ぼすことが究明された。その後、昭和十四年には第二次世界大戦のぼっ発を見、国の農業政策や食糧政策も長期戦に対応する政策をとることになり、昭和十六年に緊急開拓法を公布し、農地開発営団をつくって国内の自給自足体制を固めることとなり、同十六・十七年にわたり、この営団の手によって、初めて岩手山麓大更山後(さんこ)の開墾に着手したが、当時未だ軍用地等が開放されなかったので、水田百九十町歩、畑二百三十八町歩が開墾されたに過ぎなかった。昭和二十年敗戦と同時に九千万国民の生活すべき国土はいわゆる四つの島に限られることとなった。

 柳村兼吉氏は八月川前部落内にある盛岡市有地約三十八haを開放し、同志三十数名等と共に川前開拓団を名乗り、団長の要職にありながら、自ら開拓作業を行なった。二ヵ月おくれて十月「緊急開拓実施要綱」の閣議決定に伴い、岩手山麓の国有林・軍用地・種畜育成用地が解放されることとなり、食糧増産による自給強化・失業対策及び産業復興による生産力の拡充が大きくクローズアップされたのである。その一つとして岩手山麓開拓の最初の扉が開かれることとなった。同二十一年政府は、全国二十一地区を緊急開拓事業地区に指定し、既設の開拓地を加えて六十一地区に無縁故引揚者を入植させて積極的に開墾を進める計画をたて、農林省は、富士山麓を第一候補とし、八ヶ岳・弥陀ケ原・本県の岩手山麓は順位から第四位であった。岩手山麓においても、この計画の一つとして、国県営団等主体を異にした開拓事業が進められた。すなわち生出野渋川・柴沢・好摩・日陰山・西山・大花森は農地開発営団であり、観武原・一本木松島・牧野林・狼久保・夜蚊平・小出(おいで)湧口・沼返・水沢・鉢の皮・川前・寄木・帷子・松川は岩手県で、各主体間に関連性がなく、また計画も充分な進捗をみなかった。

 昭和二十二年七月前記の各開拓団が内容的に事業主体が種々であることと規模が小さいということから、岩手山を中心とした一市二十一ヵ町村に及ぶ一万haの大規模な国営事業の推進計画を四月に県会議員と村長に当選した柳村兼吉氏は耕地課長原了氏と共に一大政治運動を展開した。

 当時、岩手県及び県議会、さらに市町村会等は、馬産岩手の名残を捨てさせることが出来ず、岩手山麓一万ha地内に所在する農林省種馬育成所・種馬所・毛皮獣養殖場、また県立の種畜場、さらに民有の小岩井農場等が開放されることを嫌い、地区産馬組合及び連合体等が主体となり、全面反対運動がすゝめられた。

 昭和二十二年十月農地開発営団が閉鎖され、その事業を農林省が引継ぎ、岩手開墾国営連絡所を設置して、各種事業主体の開拓を一体にした農林省岩手山麓開拓建設事業が発足したのである。

 しかし、常に現実を凝視する柳村兼吉氏は、これに満足するはずはなく、松尾鉱山廃液は開田権漑に不適なることを熟知しているところから、岩洞にダムを作って水源を確保し、合せて電源を開発する偉大なる構想のもとに将来への見通しをたてゝ運動を進めた。

 しかしながら、相変らず反対運動が激しく、当時、県会議員定員四十九名中四十八名と、さらに、県選出衆参両国会議員も反対をする。その中で参議院議員の千田正氏一人のみが積極的な後援をし、『原-柳村-千田』の結束した線で進められる。

 当初から岩手県及び県議会、市町村会等を主体として中央陳情を行うべく陳情書を作成したが、知事を始め気違沙汰にして同意するもの一人もなく、万止むなく有志開拓者を主体とする規模拡大促進同盟会を発足し、同氏自ら会長となり、裸一貫の開拓者が相手なるため会費なしで運動資金一切を自ら負担し中央陳情が行われた。

 陳情同行者の旅費も一切負担し、滞在中は東京都台東区の岩手県東京事務所の前身である大行寺の寺院内に一ヵ月も滞在し、国会及び政府機関に強力に陳情し、なお長期にわたる場合は、食糧難時代であったため、米・味噌・野菜等まで携行するか、または滞在期間中に輸送させてまでして進められた。

 昭和二十二年当時の参議院は無所属議員の勢力が大きく、本県出身千田議員の手で無所属が結束し、さらに参議院経済安定常任委員長佐々木良作氏等の協力により押し進められた。

 参義院に勤務する用務課長の蒲生貞喜氏は、昭和四十二年七月十日付の書翰に次のように述べている。

 昭和二十二年十一月十二日、村上順平岩手県議会議長及び柳村県議外数名の県議が第一回国会開会中の参議院を訪問され、松平議長宛に次の請願書を提出した。

 一、岩手山麓国営開墾及び岩手種畜牧場拡充強化に関する請願
 一、宮城・青森両県間に国道新設に関する請願
 一、中央出先機関廃止に関する請願
 一、北上川上流改修工事促進に関する請願
 一、岩手山・八幡平一帯の国立公園指定に関する請願
 一、和賀川外二十七河川の砂防工事に関する請願

 同日上の請願に関連し、村上議長が主催し、岩手県選出の衆参両院議員招待晩餐会が参議院議員食堂において開かれた。

 しかるに、この晩餐会の経費の支払について、特に岩手山麓関係の分については、他の五件の請願と切りはなし、人員に按分して、当時の金四・五千円を県議会事務局から会費として要求され、柳村県議がこれを支払う。同じ村上議長名の請願でありながら、岩手山麓についてはこのような処理をうけたのである。

 従って御出席の方々もなんとなく白眼視しているように感得されたのである。

 私は請願の手続を進めると共に、県議会側と国会側との連絡に当ったのであるが、このような空気を察知し、議員食堂前の廊下で千田先生にお会して、柳村という人は汲んでも汲みつくすことのできない誠意のある方であり、建設的で且つ実行力のある方であるから、是非御力添えをいたゞきたいと懇請をした。

 同請願は、千田正先生が紹介議員となり、昭和二十二年十二月八日委員会の採択となり、翌九月参議院本会議で可決され、同日政府に送付された。当時千田先生は参議院無所属倶楽部に所属しておられた。たまたま同倶楽部の佐々木良作先生が参議院経済安定委員会委員長をしておられたので、本件は千田正先生から佐々木経済安定委員長を通じ、経済安定本部へ強烈な運動を展開したのである。

 私は今日まで数名の請願や陳情のお世話をしてきたが、岩手山麓国営開墾間題程理想的な運動をし、不可能を可能に変えた事例は他にないのである。

 巻脚絆姿にリュックを背負い、上野大行寺に一泊六十円で宿泊し、国会や官庁に猛烈な請願陳情を行なったのである。この間国会議員や関係官と晩餐を共にしながら膝を交えて懇談し、その実現を要請したのであるが、先方の都合がつくまでは何日も滞在し、また一切の費用は私財を抛ってこれを支弁した。

 柳村県議は懸案の処理はいつも正攻法によってなされた。それは、第一に県を経由して中央に進達させる。第二に国会に請願して委員会採択、本会議可決、政府に送付をする。これだけでは予算がつかないのである。予算の枠と懸案事項との関係は娘一人に婿八人以上である。柳村県議が上京すれば毎日国会を訪問している。私は衆参両院を自由に通行できるバッチを提供した。柳村県議は両院を駆ずり廻って関係議員を歴訪し、さらに関係各省を訪問し、国会と関係各省の間を緊密に連絡し、隘路があれば一つ一つこれを打開し、適当な時に適切な手を打ったのである。

 昭和二十六年の春、岩洞ダムの予算獲得の際は参議院議員川村松助先生の御案内で、時の農林大臣広川弘禅氏を世田ヶ谷の私邸に早朝寝込みを襲い、遂に予算の獲得に成功したのである。このころまでは柳村県議は岩手県における政党関係は無所属に属していたが、岩洞ダムの予算獲得のためには、政府与党である自由党に入党することの必要を痛感し、同党に入党をしたのである。多くの議員は以前どんなに世話になっても、党が変れば他党の議員に会わないのが普通であるが、柳村県議は自由党に入党後も、上京すれば必ず手土産を持参して、無所属倶楽部の千田先生を訪問したのである。千田参議員もその信義の篤さに感激していたものである。

 日本国憲法は民主主義を必要な基本原理としている。この民主主義は他から与えられるものではなく、自らの努力によって獲得しなければならないものとされている。岩手山麓国営開墾事業が今日の成果を挙げえたのは、柳村県議が全生命を傾注し遂に実現せしめたことは、新しい日本国憲法の精神を実践し、これを実現したものであり、偉大なる民主主義実践者といっても決して過言ではないと信ずるのである。

 このことは滝沢村の誇りだけではなくして、岩手県にとっても、いな日本にとっても、この上ない名誉なことである。

 柳村兼吉氏の構想に従い、農林省は岩手山麓開拓建設事業の調査段階で開田地の用水源として北上川水系丹藤川の支流柴沢川岩洞地先(区域)に好適のダムサイトを発見し、これが八百㍍にも及ぶ高標高であることから岩手山麓三千町歩の開田地との落差を利用し、導水途中に発電所を建設するという総合開発計画をたて関係機関との折衝に這入った。この農林省の調査とは別に、日本発送電KKでも、終戦直後の昭和二十二年に、米内発電所の増強を目的とした発電調査が進められていた。岩手山麓国営開墾が同二十三年九月参議院を通過し、大望の予算化がなり、柳村兼吉氏はいよいよその具体化に奔走することとなる。米内発電所の計画ダムサイトが、農林省計画のダムサイトと同じ岩洞地先であるため、同二十三年経済安定本部は両者の調整をすることとなり、日発・農林省を含む丹藤川総合開発調査協議会を作り、それによって日発は岩洞ダム測量を中止した。一方、この協議会とは別に、同年に経済安定本部に河川総合開発調査協議会をおき、全国の河川のうち緊急度の大きい二十四河川の総合開発調査をすることとなり、北上川もその一つとして、その支流丹藤川の調査を農林省の担当とし、農林省では、日本産業再建技術協会に調査を委託した。前記の丹藤川総合開発調査協議会の第一回は、昭和二十三年七月十四日岩手県において開催され、以来数回にわたり研究協議を重ねた。その途上同二十四年には前述の日本産業再建技術協会の調査結果が農林省に提出された。これは岩手山麓開墾地への潅漑を主軸として、岩洞ダムの水を最も短いルートで山麓に導水し、その途中で発電する案であった。これに対して日発案は既設の米内発電所の増強を考慮に入れ、しかも、岩洞ダムの水を潅漑に供せんとすみ案であり、これを支持する通産省側と農林省案とは最後まで対立し、協議を重ねること数回、十指に余る改案を出して意見の調整を計ったが、解決が得られなかったので、同二十四年八月第五回丹藤川総合開発調査協議会の討議結果を、経済安定本部の河川総合開発中央委員会に提出して、ここで解決しようとした。しかるに終戦後すでに入植者の入っている山麓開拓地の状況は、いつまでも水源工事の着手を遅延することは許されない情勢となっていたので、同二十五年六月経済安定本部が中心となり、農林省と商工省との協議の結果

  一、岩手山麓潅漑三千町歩
  二、水源岩洞ダム七千万立方メートル、逆(さかさ)川ダム八百万立方メートル
  三、岩洞ダムに大川、末崎川、向井の沢、軽松沢の水を入れる。
  四、逆川は岩洞集水の残流域の水を貯水し、これを揚水して岩洞へ導入する。
  五、岩洞貯水池の水を貯水池上流側より九立方メートル/sec取入、山麓開田地に導水し、途中大平、中里、柳平の三発電所を新設する。
  六、別に既設の外山ダムに三立方メートル/sec分水して、米内発電所の増強を図る。

 以上の最終案を決定し河川総合開発中央協議会の議決を経て、ここに水源問題の解決をみたのである。昭和二十五年六月二十六日国土開発法が制定され、岩手山麓開墾の実質的基礎が全く確立を見たのである。同二十五年秋、農林省は前記決定案による発電事業者の推薦を岩手県に依頼したので、岩手県は北上総合開発と河川管理の立場より、同二十六年三月県営発電とすることに決定したのである。

 柳村氏の運動は、川前開拓団組織発足以来、農地開発営団から岩手開墾国営連絡所へ改組、さらに岩手山麓開拓建設事業所へ発展、通産省側と農林省案の発電の調整、経済安定本部への交渉、昭和二十二年以来同二十六年まで、毎月休むことなく波状的に行われ、その間県費は、費用として、あるいは旅費として一銭も支出されておらず、むしろ反対運動の県議会議員の運動には旅費をはじめその他が支出されている。同僚の県議会議員及び市町村長から気違いと罵倒されながらも全生命をかたむけると共に自己の財産を投げながら中央接折衝渉が進められた。

 昭和二十六年三月県議会養員の改選期をひかえているにもかかわらず、最後の追い込みのため、強力な陳情が進められ、遂に岩手山麓開発の水源施設の岩洞ダムに、岩手県営発電を含む開発方式が決定し、初期の目的が達成されたのである。

 同年四月県議会議員に再度当選し、水源施設ダム工事、用水路、さらに開田工事までの農林省直轄工事の調査、工事着手等の促進運動が引続き進められる。

 このころから、予算裏付けのため、参議院議員の大矢半次郎氏、川村松助氏等へ強力に陳情し、大矢、川村の両氏はこれに賛同し極力努力をした。

 その後、県選出衆参両国会議員・県議会議員・市町村長等も促進のための努力をおしまなくなり、関係市町村による岩手山麓建設事業促進期成同盟会が発足する。この発足を見た柳村氏の胸中?

 昭和二十六年三月、県営発電とすることに決定されたが、同一貯水池の水を九立方メートル/secは県営発電、三立方メートル/secは日発と分けて使用することは、将来に紛争の種を残すのみならず、経済的にもとらざるところであるとして、同二十七年十一月岩手県知事より通産大臣あて最大使用量十二立方メートル/sec一本に統一するように意見書が提出された。その結果、問題の処理を経済安定本部に移すこととなり、ここで調査した結果、岩洞集水域は外山川上流で、外山ダム側に食いこんでいるものとして、同二十八年、経済審議庁を中心に岩手県・東北配電が協議の結果、岩洞集水流域を外山川、柴沢川の分水界とみられる小石川まで後退させることの決定を見、日発の外山ダムの三立方メートル/sec分水案は取りやめとした。一方この年の二月六日には、同二十五年五月制定の国土総合開発法に基づく北上川特定地域総合開発計画が閣議決定され、前述のように協議がまとまり、岩手山麓開拓建設事業はまさに軌道に乗り出すこととなったのである。このころから県選出衆議院議員野原正勝氏の予算獲得がめざましい。なおその後同三十二年七月には発電所新大平と柳平の二ヵ所が出来、後にこれが岩洞第一と第二発電所と名称変更となり、東北地方の電力事情から、冬期間の出力を可及的に増大するため、最大取水量九立方メートル/secを十二立方メートル/secに増加する案につき、通産省、東北電力、農林省の了解をえて、ここに現在実現している岩手山麓総合開発の姿を確立したのである。

サイホンと岩手山

 これまでの柳村氏の献身的努力は言語に絶し、昭和三十一年から同三十七年までに狭心症で三度もたおれ、同年五月一日岩洞用水が北上サイフォンを通過し、滝沢駅前の分水ロに通水したのを待たず、四月二十五日に他界される。当時の村長択目岩治郎氏により村葬をもって挙行された。

四 岩手山麓土地改良事業計画樹立の経緯

                         (農林省調査)

 一、昭和二十六年岩手山麓開拓事業一万二千五百八町歩のうち岩洞ダムを水源とする開田面積を二千八百二十八町歩として計画し、この二千八百二十八町歩に含まれる約七百町歩の耕地(畑)は自作農創設特別措置法第三十条に基づいて国が買収の上、併せて開発することとし、建設工事は開拓に準ずる方式とした。

 二、昭和二十七年七月十五日自作農創設特別措置法が廃止され農地法が施行される。

 三、昭和三十一年~同三十二年農地法第四十四条の解釈がきびしくなる。即ち、併せて開発する農地を国が買収し、開拓同等の全額国庫の建設工事を施行することに対し、土地改良事業の開拓便乗との提起が大蔵省からなされた。

 四、昭和三十三年、大蔵省高木主計官より、併せて開発する農地は、国の未墾地買収からはずし、土地改良法第八十七条二の二項により土地改良事業計画を樹立の上事業を行うよう指示をうけた。
 この際の条件として、
1、土地改良事業計画は昭和三十三年度内に樹立すること。
2、同三十三年度内に樹立すれば、土地改良法施行令第五十二条二項に規定する都道府県の負担敬(四〇%~二〇%)は二〇% とする。
3、同三十三年度に樹立出来ず、同三十四年度から負担金を徴集することになれば、負担金の率は四〇%とする。
 ここに土地改良事業として、国の買収から除外する工事は次の五工区である。
 第二渋民    二六四町四二
 笹森丘     三三七〃二五
 赤袰       二〇〃六五
 仁択瀬      四七〃六八
 第二陽和郷    五七〃二〇

 五、昭和三十三年度事業所は岩手県と協力の上全力を挙げ、地元接捗に入るも計画樹立の段階にまでこぎつけられず、地元交渉経過日誌を農林省に提出、大蔵省の条件を一ヵ年緩和延期してもらうよう取進める。

 六、昭和三十四年度事業所は岩手県と共同接渉の結果、土地改良事業実施予定地域が固り、十一月土地改良事業計画案が完成した。

 七、十一月下旬農林部長耕地課長開拓課長に土地改良事業計画の説明を行う。

 八、十二月七―九日の三日間農林省において建設部、計画部、管理部の三部が合同土地改良事業計画書審議会を開催する(出席者、事業所、岩手県)。
 三部合同会議に提出審議を受けた計画書の取纏要点は次の通りである。
1、岩洞ダム貯水量の基礎となる二千八百二十八町歩の開田面積は変更しない。
2、二千八百二十八町歩のうち開拓二千百六十五町歩、土地改良六百六十二町歩とする。
3、昭和三十三年度までの決算額については負担金の溯及徴集は行わない。
4、負担金は昭和三十四年度以降の残事業費から電力負担金を差引いた農林予算に同三十四年度以降の償却費を加えた額を対象とする。
 費用負担は同三十四年度以降の残事業費を開拓土地改良の全使用水量割で分けた領のうち土地改良分について二〇%の負担率を適用する。開拓分については全額国庫負担とする。

 九、三部合同会議によって一部若干の修正を受けたが、基本線は各部とも諒承する処となり、同三十五年一月十日岩手山麓土地改良事業計画並びに要領書を農林省に提出。

 十、昭和三十六年十月岩洞関係開拓地区計画整備完了。

 十一、同三十七年九月岩手山麓土地改艮事業計画変更。

五 岩手山麓地区開拓計画整備を必要とする理由

             昭和三十三年三月 仙台農地事務局
 北上特定地域総合開発の一環たる岩手山麓大親模開墾事業性総面積一万二千五百八町歩、その間岩洞ダムを水源とする水田地域関係面積は七千三百七十三町歩であるが、その内二千八百二十八町歩を開田する計画である。しかして、二千八百二十八町歩中、用地取得を完了した地区からの開田面積は、僅かに九百六十町六反六畝に過ぎず、残りの一千八百六十七町は昭和三十三年-同三十五年度において取得予定の地区から開田を予定している。

 然るに、今後取得予定の地区は、農地が至る処に介在しており、農地を未墾地と同時に併せて開発しなければ、当初通りの開田計画はむずかしい現況である。

 従って、これら農地の包括買収の取扱いについて、昭和二十七年七月一日付農地局長進達の主旨から、当局としても、具体的取扱いについて、各工区別に慎重な検討を重ねて来たが、他方岩洞ダムの貯水量その他築造上の経緯より見て、最少限度二千八百二十八町歩の開田が出来なければ、相当重大な段階に立到る事情もあり、昨年九月の局内打合せに於て、漸々別途土地改良による開田も極力進めることとし、他方これが為にも各工区別包括買収地域及び面積の速急な決定が必要となり、自来数次に亘る局内検討及び現地調査を経て別項のとおり、包括買収面積を決定したものである。

 なお、岩手山麓岩洞ダム関係用地の所得経過は下記の通りになっている。

       記
 一、経過
 (1) 昭和十六年農地開発営団により岩手山麓開墾が着手をされ、終戦後軍用地の解放等に伴い、大親摸開発が企図されるように至った。その一連の構造とし、岩洞ダムによる発電、開田計画が生れ、昭和二十年-同二十五年まで種々の案につき検討を行なったが、昭和二十六年三月県営発電と農業との共同事業案がまとまった。
 この案は共同施設費十九億八千八百万円、農業専用費十一億一千百万円、発電十七億一千万円、合計事業費四十八億九百万円にして、開田面積三千町歩であった。
 (2) この案に基づいて昭和三十七年農林省は直轄事業として岩洞ダムに着手することになり、ダムの実施のため詳細調査を開始すると共に、一方において用地取得地区開拓計画が進められた。その結果、
 (a) 用土等の関係上土地堤に無理があり、逆にコンクリートダムが可能なことが判明し、計画を変更することになった処、所要経費が六十八億―七十二億に上昇し、妥当投資額をはみだす事になり、遂に昭和二十九年度に於ては白紙に還って再検討することになった。
 (b) 一方地区開拓計画は、昭和二十七年、三千九百町歩と五百町歩計四千四百町歩の割当に対し、五千五百四十六町歩の計画を樹立し、昭和二十四年二十五年の両年度計画済のもの四百四十九町歩を加え、六千四十五町歩を完了した。
 その概要は次のごとくであった。

土地利用現況表→

土地利用計画表→

 但し、用地の買収が之に伴わず計画時点における状況は買収三千五町歩未買収三千四十町であった。なお、岩洞地区のため行なった適調面積は五千二百五十二町歩であった。
 (3) かくして、岩洞ダムは昭和二十八年度一時工事中止となり、同二十九年度一千万円の経費をもって農地局、農地事務局合同で再検討を実施した。
 この結果、ダムの構造及び大きさを変更し、総事業費六十五億九千二百万円に抑えると共に受益につき検討を行ない、直接効果のみ妥当投資額六十六億一千百万円を得て、昭和三十年度より事業再開するに至った。
 (共同事業費の負担率は、農業三九・二%、電気六〇・八%)

 二、整備の経過(昭和三十四年-同三十六年)

 (1) 昭和三十年度よりダム工事の再開と共に、開拓計画も整備したが、用地取得の買収が困難となり、昭和三十三年三月、本省農地課において買収工区と土地改良工区とを区分し、買収工区は用地所得が済み次第地区開拓計画を整備することとし、土地改良工区は土地改良法第八十七条二の二項で行うことにした。
 (2) 地区開拓計画の整備は主幹線水路別に整備することとし、昭和三十四年度北部主幹線関係(同三十二年-三十三年買収)、三十五年三十六年(同三十三年-三十四年買収)に南部及び小岩井関係を行ない、この結果については同三十六年十一月本省説明及び審査を行なっている。
 (3) 土地改良事業については、昭和三十三年度中に一切の手続きを完了するよう努めたが、現地調査及び説明会負担金等地元関係者と調整の関係上同三十四年度において取纏めを行ない同三十五年度に法的一切の手続きを完了している。
 (4) 前述の如く開拓計画の整備が完了すると共に次の事項が明確となり、従って土地改良事業計画についても変更が必要となった。
 (a) 開田計画変更及び位置の変更。
 (b) 減水深の修正畑五百九十五町は中止し水田だけとした。
 (c) 事業費の変更。
 (d) 最近に至っては農業構造改善主幹作目と開田の関係。

六 岩手山麓開拓事業の完工

 農林省東北農政局と岩手県、盛岡市など七市町村、それに地元の七土地改良区が、二十六年の歳月と百二十億の巨費を投じて開拓してきた岩手山麓一帯の開拓事業が完成し、その喜びの完工式が、七月十五日午前十一時から盛岡市上田の盛岡体育館で盛大に行われた。開拓面積は、約一万二千haという広大なもので、山麓開拓では日本一の規模である。また、この開田工事には、火山灰土による漏水を防止するため開発された「岩大工法」という特異な開田方式が採用されている。これまでススキだけの生え茂る不毛の大原野が、実り豊かな水田に変わり、明るい日本の国造りになっている。

1 独自の開田方式を採用

 岩手山麓開拓は、盛岡市の西側に広がる岩手山麓東側の不毛の大原野で、盛岡市の外、岩手郡雫石町・滝沢村・玉山村・西根町・岩手町・松尾村の七市町村にわたっている(一一、八三七・八二ha)。

 この一帯は、岩手山の火山灰土の強酸性のため、戦前は陸軍の演習地や種馬育成地にしか利用されていなかったが、昭和十六年太平洋戦争に備えて、食糧増産の目的から農地開発事業団が、この一帯の開拓を始めたが、事業は思うように進まなかった。そして戦後は農林省の手に移ったが、これも戦後の混乱で、あまり成果は上がらなかった。ところが昭和二十八年経済安定本部の指示によって、北上川特定地域総合開発計画の一環として、本格的な開拓事業が行われることになり、農林省東北農政局岩手山麓開拓建設事業所が盛岡市仁王小路に設置され、関係七市町村は、岩手山麓総合開発促進協議会を結成して、全面的な支援を始めた。開拓計画は、標高二四〇m以下の原野は水田(二、四七六・一七ha)に、また六〇〇m以下の所は畑地(五、八六八・六五ha)や牧草地(三、四九三・〇〇ha)にする方針で進められた。問題の潅漑用水は、近くを北上川が流れているが、上流の鉱山の廃液による強酸性のため利用できないので、対岸の柴択川にダムを築き、この水を導水管で引き、サイホンで北上川をひとまたぎして、奥羽山脈の岩手山麓の開拓地へ送り込むことが考えられた。すなわち、北上山系の雨水で、奥羽山麓をうるおすという実に雄大な計画になった。

 まず、潅漑用の水源として、北上山地の山ひだの中を流れる柴択川を堰止め、岩手郡玉山村薮川地区に岩洞ダムの仮放水口を昭和三十一年一月に着工し、同三十五年十一月まで、四年十一ヵ月の歳月で完成した。これは姫神山の東側にあって、貯水面積は約六・二三平方㎞で富士五湖とほぼ同面積で、総貯水量は六千五百六十万立方メートル、有効貯水量は四千六百三十万立方メートルという全国で三番目に大きな人造湖。また寒冷地のためコンクリートによるひび割れを防ぐため、ダム用地が全国初の土石混合方式(アースアンドロック形式)で築かれていて、工事費二十九億円で、ダムの特色は経済性と利用高率が極めて高いことである。

2 岩洞ダムの水をひく

 次に、ダムの水は温度の高い水を取水するため、表面水を取水する装置になっている。この人造湖から直径二・五メートル前後の導水管を山の中に敷設して、北上川をサイホン現象を利用して、岩姫橋付近で一気に横断し、さらに東北本線と立体交差させ、岩手郡滝沢村川前に設けた南北分水口まで引いたが、この導水管の全長は約十六㎞に達した。これは昭和三十五年三十六年の二ヵ年で完成をみた。

 またこの導水を利用して、落差の大きい地点に岩洞第一と第二という二つの発電所を設け、一石二鳥をねらった。両発電所は、岩手県営で、昭和三十六年に三年半の工事で完成し、合計最大毎時四・九三万KWの発電を行なっている。第一発電所は年間を通じ二億一千百六十万KWA、第二発電所は主として非潅漑期に二千八百七十二万二千KWAの発電をしている。

 ついで、この分水口は昭和三十六年に究成し、岩洞ダムから毎秒十tの割合で流れてくる水は、ここで南部主幹線水路と、北部主幹線水路とに分水される。南部は滝沢村仁択瀬までの二十㎞で、一方北部は玉山村古川までの十四㎞の用水路で、南部は途中から東部主幹線水路(盛岡市榛沢までの三㎞)に枝分かれしている。この三主幹線は昭和三十六年から四十年までの五ヵ年で完成した。

 そして、この主幹線は合計三ヵ所でポンプアップされ、野を越え山を越え谷を渡って岩手山麓一帯に達し、幹線から支線水路へ、さらに小用水路を経て開田地を潅漑するようになった。この岩洞ダムから引水工事と共に、岩手山麓にある松川や赤川、葛根田川等既存の河川を利用した潅漑用水工事も、昭和四十二年三月にすべて計画通り完成した。

 導水路は、一cm一mごとに細かな勾配を考えて設計され、取水パイプ、導水トンネル、サイホン等を含めて総延長三万km近くにも及び用排水路もまた主幹線だけで用水路が八本、延長六十km以上、排水路が七本、十六kmにもわたってまさに放射線状にめぐられている。人も通れなかった雑潅木がおい茂っていた山麓一帯は、開拓道路が網の目のように張りめぐらされ、主幹線道路百七十六km、幹線道路三百八km合計延長四百八十四km。盛岡東京間の距離に匹敵する長さである。これに恐らく過去においても、また将来においても、日本における一国営事業地区としての規模では最大であろう。

3 豊かな収穫

 これらの基幹工事は、農林省の担当で行われたが、これと共に県農地開拓課の指導助言を受けて、開拓予定地に岩手山麓北部、同南部、松川、一本木、渋民、越前堰土地改良区など七つの改良所ができ、それらが主体となって開田工事が行われた。

 この辺一帯は、水の浸透しやすい火山灰土の土象のため、昭和三十五年に開田した玉山村柏木平地区では漏水が激しく、工事は難行した。だが、岩手大学農学部の農地造成研究会(代表徳永光一助教授)が開発した「岩大工法」という特殊な開田工法を採用して漏水を防いだ。そして開田工事には、この岩大工法を習得した菱和建設、東北ブルドーザー、開発公団の三社が当り、盛岡市観武ガ原、滝沢村牧野林、西根町第一水沢地区など不毛の原野を満々と水をたゝえた水田に次々に変えた。こうしてこれまでに水田二千四百七十六ha一七と畑地五千八百六十八ha六五、それに牧草地など三千四百九十三haの合計一万一千八百三十七ha八二が開拓された。この面積は、全国の山麓開拓では最大の広さである。

 すでに稲の作付けをした所では十α当り八俵(四百八十kg)の豊かな収穫をあげており、この開田事業により、不毛の岩手山麓一帯から一万二千tの米作りが期待出来るようになった。岩手県は、日本の食糧基地県、産米五千万t運動を展開しており、この運動に大きなプラスとなる。

 総工費は農林省が導水路などの基幹工事に投じた五十四億円と、県や地元の土地改良区などの農民が開田工事に投資した六十六億円の合計百二十億円の巨大な金が使われた。この開拓事業の完成の結果、既存農家二千二百二十九戸の増反ができ、また一千七百十戸の開拓農家がここに入植ができた。この開拓農家は、水田による米作りと牧草地利用による酪農の二つの経営方式を取入れ、年収百万円を越す七ケタ農家がどんどん誕生し、希望に満ちた村づくりが行われている。

入植戸数及び一戸当り配分計画→

事業の効果→

4 岩大工法で漏水を防ぐ

 山麓の開拓事業では、全国一の規模というこの広大な岩手山麓開拓事業を成功させた立役者は、火山灰土による漏水という悪条件を克服した岩大の特殊開田工法だった。昭和三十五年、南北分水ロの完成を前に、すでに出来た導水路の水を利用して、分水口の手前から第二渋民幹線水路が建設され、これを使って最初の開田が玉山村柏木平で行われた。ところが岩手山麓一帯は通称黒ぼくという通水性のよい火山灰土のため、開田した水田は漏水がひどく、一日で八十mmから二百mmの減水があって、水温はさがるし、肥料の流出は激しく、満足な稲作りは望めなかった。期待を裏切られた農民の不満は激しかった。そこで岩手山麓開拓建設事業所や岩手県農地開拓課では、地元の岩大農学部の農地造成研究会に、漏水を防止した開田工法の研究を依頼した。これによって農業工学教室の浪瀬信義、石川武男両教授、徳永光一、伊藤実両助教授と月館光三助手らが共同研究の結果、岩大工法という画期的な工法が開発された。

 岩大工法の特長は色々あるが、なかでも最大の特色は耕起砕土転圧の方法である。従来の開田方法では、斜面をブルドーザーで削って平均化した地山(じやま)(自然の山)の部分は、削ったままで水田の地底としていた。ところが研究の結果、この部分の間げきが通水しやすいようになっており、漏水の大きな原因となっていることがわかった。そこで岩大工法では、この地山の部分から盛土の部分までをローターベータで三十五~四十五cmまで掘り耕やして、土壌を細かくくだいて後ブルドーザーでこれを踏み固める。こうして耕盤をつくる。こうすると土粒の荒い間げきがぴったりとつまって通水性がなくなり、漏水が防げるのである。すなわち従来は、ブルドーザーだけの開田工事だったが、ローターベータを導入し、水の漏れない耕盤づくりをするのが、大きな特色である。そしてこの耕盤の上に十五cm程軟らかい土壌を入れて耕土とする。またあぜも耕盤の上に作り、約三十五cmほど盛り上げて堅く固める。こうして水田をつくるのである。

5 施工と管理の指導

 岩大工法における盛土は従来のように土壌を単に押し寄せたのではなく、ブルドーザーで谷側の方から、順次きっちりとしめ固めて地盤くずれを防いだり、また地割杭をあぜの中に立てる従来の工法をやめて、盛土の最外側に立てて、四隅の耕盤づくりをしやすくする色々な特色がある。また従来は開田工事の施工と管理は大変あいまいだったが、農地造成会の先生方は、開田現場へ出かけて、農民に水分検査のためには、土壌で土ヒモつくりをする浸潤計を使って、浸潤検査をするなど各工程にあった検査方法を指導した。この結果、農民自身が各工程を管理し、施工検査ができるようになった。

 この岩大工法で、つくられた水田での減水は、一日わずかに三十mm前後という驚くべき数字をマークし、少ない水で多くの開田をという水田づくりの鉄則に合致している。

 この岩大工法は、学界でも注目され、青森県滝沢平や茨木県筑波台地などで、これによる開田工事が進み、豊かな国土の開発に、大きな貢献をしている。

6 受益者の感想

 次に、当時の受益者岩手山麓開拓酪農協同組合長石井良智氏と、岩手山麓南部土地改良区理事長の井上仁蔵氏、越前堰土地改良区理事長の田沼恒吉氏三人の感想を述べる事にする。

 東京育ちの石井良智氏は、当時、十頭の乳牛を飼育し、五ha余りの畑地の大部分を牧草に変えて、酪農中心の営農を柱としていたが、開発された山麓農業への希望も大きい半面、農政に対する批判もしたのである。彼は、我々は酪農で生きようとしている。しかし、今の酪農行政は、完全なものであろうか。現行乳価と高い購入飼料のアンバランス。牧野を作って、自給飼料だけで乳をしぼれといっても、脂肪率が価格を決めている取り引き基準からすれば、牧草ばかりの酪農は脂肪率を下げ、乳代を低下させることになる。それに、山麓開発の基盤が出来たといっても、一戸当り十頭以上の多頭飼育に達するには、まだまだ耕地が足らない。行政の中で、公営集団放牧地を作る等の施策を考えない限り、切角の国営事業も、現時点に甘えるだけの営農になりはしないだろうかと、彼は、将来への展望をも忘れないで述べている。

 岩手山麓南部土地改良区理事長井上仁蔵氏は次のように述べている。

 私達が終戦直後、狐や狸が常住する岩手山麓牧林野地区に生活を求め鍬を下し、大小豆、大小麦、稗等二年三毛作による低生産を余儀なくされていたが、その後国営岩手山麓開墾建設事業計画の樹立に伴い、開田計画地区に編入され、昭和三十五年度には、世紀の大事業たる岩洞多目的ダムが完成し、同年秋には県営発電所が完成、なおこれと平行して、農業用水路の主幹線サイフォンは北上川を横断し、翌三十六年度には南部主幹線水路が私達の住む牧野林地区まで延長し、これにより愈々待望の開田事業が着工された。この時の喜びたるや、終生忘れ得ぬ歓喜に満ち、農林省を始め、各関係機関の御労苦に対し、ただただ感謝の念一杯であったが、翌年切角出来上がった田圃が未風化の火山灰土壌なるが故に漏水田が続出し、開田工法の検討が急務とされ、岩手大学農学部諸先生の試験研究の結果、火山灰土壌に適応した新工法、すなわち「岩大工法」が生れ立派な開田となった。

 とくに本年は天候の恵みと技術向上により、史上最大の大豊作となり、このよき年に岩手山麓事業完工式を挙げたことは、二重の喜びであり、感謝にたえないところである。

 越前堰土地改良区理事長の田沼恒吉氏は次のように述べている。

 岩手山麓開拓事業により、小岩井・雫石地区が農林省に買収されたら今後どうなるか、買収後、その所有者に還えされないではないかとの不信によって、国並びに県に反対陳情をしたのであるが、当局の懸命な説明により、還元売渡しを条件として買収に応じたのであった。

 また、農林省開拓事業所よりは、越前堰土地改良区に対して、昭和三十一年潅漑用水の振替に協力を求められ、同三十四年、当時の理事長田沼甚八郎氏の時、納得して同意をしたのであった。

 後、用水切替に備えて排水路の整備と、労力の節減を目的とした区画整理が計画され、昭和三十五年より区画整理事業に着手したのであった。

 その後、負担の過重を恐れて大きな反対があったが、その大部分は近代農業にふさわしいとして、基盤整備を終えたのであった。

 現在岩洞ダム用水の切替により今までの冷水による青立の被害がなくなり、理想的な潅漑用水を使用することが出来、一層の増収がもたらされている。

 従来使用していた越前堰は岩洞の切替により、雫石・小岩井地域に利用され、ここに四百数haの開田完成を見たのである。このことによって、本村民一戸当りの水田耕作面積が急激に増加し、沈滞勝な我々農民に一大希望を与えてくれたのである。

 私もその恩恵に浴した一人である。旧田全部が区画整理を終り、その上開田をもなし、現在八町歩近い水田を耕作することが出来、息子夫婦が主力となって働いている。このことによってトラクター、コンバイン、乾燥機等を導入し出来る限り機械化をなし得たことは何よりの幸福と感謝せずにはおられないのである。

 幸い今年は好天に恵まれ、開田地は二年目を迎え、昨年より約五割の増収を見ている。

 基盤整備が完全になり、全農家が機械化すれば農業の将来は決して悲観すべきものではない。農民といえども他産業従事者に劣らない文化生活が可能である。

 今我々農民の目の前に実現されたこの岩手山麓開拓事業のような大変革は、本村にとってもまた我々農民にとっても将来恐らくないであろう。

 事業に対する反対、賛成あの騒動は、お互いの無理解や誤解から生じたものであり、無理のないことであったと思うが、それはすべてこの大事業の胎動であった。

 基盤整備に用した多額の負担も苦難も、明日への飛躍であり、この時に廻り合せて生まれた我々は最上の幸福であると思う。

 この偉大なる計画と事業に御尽力して下さった各位に対して、心から感謝をすると共に、将来、これに報ゆるには、魅力を失いかけている農業後継者に、喜んで働けるようにすることが我々に課せられた責務であると切に思うのである。

七 国営岩手山麓開拓事業完工式

 昭和四十二年七月十五日、盛岡市上田盛岡体育館で盛大に行われた。

 紅白の幕、万国旗等で飾られた館内は祝賀ムードで一杯。正面舞台に特設された祭檀で神事が行われ、今度の事業が地域経済の発展となることを祈った。

 この後式典に移り、農林大臣代理の農林省農地局長和田正明氏が「戦時中に着手され、戦後は幾多の悪条件を克服し、事業が完工したことはうれしい。この事業の直接受益する農家の経営安定、向上はもとより地域産業発展に貢献するところ非常に大きい」とあいさつ。施工業者の大成建設、飛島同、酒井同、古久根同、勝村同、住友同の六業者と事業完工に貢献のあった故柳村兼吉氏と故大森栄一氏、それに岩大農地造成研究会に東北農政局長久我通式氏から感謝状が贈られた。

 ついで県知事代理の中村副知事、国会議員代表の野原正勝、県議会議長千葉一、関係市町村代表の吉岡盛岡市長の各氏らが「北上川特定地域総合開発事業の一環として、全国的にもまれにみる大規模な建設事業が完工したことはうれしい。東北知事会が提言している国の食糧供給基地としての使命がはたせるように施設を有効に使っていく」と来餐祝辞を述べた。

 このあと最後に受益者を代表して岩手郡滝沢村の越前堰土地改良区副理事長高橋正氏が下掲の謝辞をのぺて式が終った。

    謝辞

 受益者を代表して、一言御礼申し上げます。長い間の念願であった国営岩手山麓開拓建設事業は、今日の佳き日を卜して、農林大臣はじめ、来賓各位の御臨席を待まして、かくも盛大に完工式を挙行せられますことは、洵に御同慶に堪えません。地元受益者四千戸を代表して、衷心より感謝申し上げる次第であります。
 かえりみまするに、この岩手山麓一帯は、広大なる山林原野が大部分を占め、農耕地としては殆ど利用されておらなかったのでありますが、食糧増産政策として、昭和十六年、農地開発営団が事業主体となり、当地域開発に着手、同二十二年事業が農林省に引つがれ、更に、農林省が通産省と協議の結果、発電事業との共同施工による岩洞ダムが完成し、開発地帯一帯に、道路、水路等あらゆる施設が近代技術の粋を尽して完成され、今日では、見渡す限りの牧野と美田に幾多の経緯を経て開発されたのであります。
 これひとえに、関係各位の絶大なる御支援の賜と、今ここに改めて厚く御礼申し上げます。
 我々受益者は相共にはかり、この完成された施設に、最大の努力を懐注して、維持管理を行ない、御期待にこたえる覚悟であります。
 今後とも御指導賜りますことをお願いし、受益者代表の謝辞と致します。
  昭和四十二年七月十五日
               受益者 代表 高橋 正

八 柳村兼吉氏の銅像建立

柳村兼吉氏銅像

 当時の毎日新聞は、次掲のように報道している。

 不毛の岩手山麓を縁の水田にし岩手山麓総合開発を推進した元県議、故柳村兼吉氏の銅像の除幕式が、昭和四十三年七月二十日午前十一時から岩手都滝沢村分れで行なわれた。

 式には兼吉氏夫人のハツさん(七〇)をはじめ吉岡盛岡市長、滝沢村長ら関係者約百人が出席した。除幕は孫の仙台白百合短大一年の英子さん(一九)が紅白の綱をひいて、等身大のブロンズ像がお目見えした。この像は青銅製で県の文化財専門姿員で県立盛岡短大講師、吉川保正氏が制作をした。

 岩手山麓一帯では、昭和十六年ごろから国や県の手で小規模ながらも農地開発事業が行われていた。そして、終戦直後の極端な食糧事情の悪化から、国も開拓事業に本腰を入れ始め、岩手山麓開拓建設事業も、さる二十二年から農林省の直轄事業となった。

 この事業は、火山灰地におおわれた岩手山麓一帯に、潅漑用水を導いて水田や畑を造成しようというもので、二十八年から本格的に着手され、その範囲は盛岡市、雫石町、岩手町、西根町、滝沢村、玉山村、松尾村と七市町村に及ぶ広大なスケール。そして四十二年七月でほぼ工事を終り、事業前の水田・畑面積五百五十八haが八千三百四十五haに増えた。

 しかも水源は、北上川が松尾鉱山の廃液で汚染されていて利用出来ないため、北上川を越えた北上山系の玉山村岩洞地区からトンネルをくぐったり、サイホンで北上川を横断して引いてくるというもので、その延長は百七十四kmにも及ぶ大規模なものだ。

 スケールの大きさでは、日本でも有数の開拓事業者だが、この事業の推進役となったのは、故柳村兼吉氏だった。

 柳村氏は、昭和四年から滝沢村議や村長をつとめたが、家業は雑貨商と運送業で、農業とは無線の人だった。しかし、戦時中から終戦直後の食糧難時代に自らクワを振って開墾したのがきっかけとなり、この雄大な開拓プランと取り組むことになった。

 まず、さる二十二年に滝沢村長と県議に当選すると、このプランを実行に移そうと県議会で熱弁を振るった。当時、開拓事業は農林省に引き継がれていたとはいえ、小規模でバラバラなもので、柳村氏が描いたように、北上川を越えて岩洞地区に水源を求め、岩手山麓一帯を開拓しようという計画とは縁遠いものだった。

 このため、柳村氏の意見は、だれからも相手にされず、どもりどもりまくしたてる柳村氏は奇人扱いされた。自弁で国会や政府に強硬陳情に行っても、その先に県費で上京した県議に「変なのがくるよ」と妨害されたという。

 そんなとき、当時、参議院議員だった千田正氏(のちに岩手県知事となる)は、良き理解者だった。その応援で数々の障害を乗り越え、二十八年に閣議決定された北上川特定地域総合開発計画の一環として、岩手山麓開拓事業も、柳村氏の主張していた構造通り、北上川を越えて水源を求め、山麓一帯を包括する大事業として、本格的に着手された。

 柳村氏は、とうとうこの事業の完成を待たずに、三十七年に六十六歳で死去されたが、なくなって一週間後、岩洞の水が初めて北上川を越えてきたのである。

九 おわりに

 惟うに、小額で短期間の事業と違い、二十六年の歳月と、国費五十四億、県と地元の開田工事に投資した六十六億、合せて百二十億の巨額を投入した国営岩手山麓開拓建設事業は、簡単に完成したものではない。大小の事業の完成に当って、第一は事業の構想、第二は計画、第三は計画の決定、第四は予算化、第五施工、第六完成の順序を経るのが常道である。第一から第三までは内面的であり、第四からは漸次具象化して来る。柳村兼吉氏は前者の内面的な構想が余りにも巨大で、誰からも誇大妄想狂として相手にされず、文字通り孤軍奮闘、長年月の波状的陳情の熱意が遂に参議院議員を動かし、さらに衆議院議員をも納得させて実現し、ここに見事に完成をみたのである。よって村誌を通じ、滝沢村稲作大発展の第三回目の貢献者として、また滝沢村の偉大なる政治家として、否、岩手県の大功労者として、末永く顕彰せずにはおられない。

 なお、同氏の第二の業績は、国営岩手山麓開拓建設大事業の激務中に、相の択国有地一千三百町歩を村有地に確保したことである。このとき未決監に入れられたこともあったが、村繁栄に献身された結果、後この地は牧野に、あるいは木材が学校建設等に大いに役立ったのである。

 第三の業績は自衛隊の誘致である。昭和二十八年自衛隊の誘致運動が雫石・北上・金ヶ崎との間に一本木がはいりなかなか困難であった。県議としての柳村氏は、当時の村長沢村三次郎氏に北部開拓者及び開拓婦人会が一体となって突き上げられたことをみかね、また、今まで開田に協力した開拓者までがあべこべに反対したのであったが、一本木部落の陳情を根幹とし、日本の要求を貫徹しようと、防衛庁に働きかける。このときもまた開田と同様、県議から圧迫されたのである。しかしながら弛まぬ努力により、昭和三十年確定し、同三十二年建設となり、今日に至ったのである。一身をかえりみず、終始一貫、滝沢村進展に身を献げ、名実共に偉大な政治家の範を後生に残されたことを明記せずにはおられない。

第十四節 おわりに

 本県は明治四年十一月に設置されたが、そのときは所管岩手・紫波・稗貫・和賀・閉伊・九戸の六都であったが、明治九年五月、新しく胆沢・江刺・磐井・気仙・二戸の五郡を加えて十一郡となり、後年これを十三郡に編成したが、この所管地域は今日まで変化がない。

 県の行政期の初期は旧藩時代の慣習が多く踏襲されており、地租にしても年貢石盛制で現物納入が続行されていた。わずかに盛岡に種芸所を開設し、農事についても指導しているが、農産業に及ぼしている影響など殆どみるべきものが顕れていない。明治十二年から郡役所が開設されて、郷村の農産指導をも兼ねるようになり、産業統計も明治十七年の内務省令で一定され、種芸所開設以来の功績も緒につき、農業生産の統計も正確とはいえないまでも、若干表示できるようになった。

 明治二十一年から同三十年までは、農業戸数、田畑の耕地も、同二十九年の特別を除くと、大きな動きを見せていない。従って農業生産も同様であるが、果樹や養蚕などに著しい進捗が顕れるようになった。

 本県農業の生産額は県内産業である農林畜鉱水工の六種中、明治三十六年には六二%、同四十四年には五六%、大正七年に五〇%であったが、大正十五年には四六%となっている。しかし郡役所が明治十二年以来大正十五年廃止まで農産業指導の前線にあって、町村の農業生産指導の前線にあったことはどうしても見落すわけにはいかない。また町村の農業生産は、経営の近代化に伴って躍進をしている。しかし、その半面農村にも資本主義経済の潮が波及して、工産物その他の生産物が伸びたのに比し、農産物の価格が低下し、耕地は金持や、銀行・会社に兼併されて、耕作しない不在地主が発生し、耕作農民は細農化や小作農民になる傾向を示してきたことである。

 昭和期になって農業生産力が盛況存続し、米穀生産などは、本県創設以来の大増収を示したこともあり、衰えを見せぬ時代であったが、この期ほど農村が不況にあえいだことは創県以来であろう。農産物価額は昭和元年から同六・七年まで下向の一途をたどり、同六年不作、同八年大津波、同九年大凶作、同十年凶作、つづいて軍需産業偏重と、農産物の価額抑圧となってあらわれた。

 大正期から昭和前期にかけての産業上における農業の実態を見ても、好景気から不景気、金融恐慌、凶作、津波を経験した。この間本県へも近代資本主義の嵐が強く激しく用捨なく吹きまくって、土地兼併がおこり、大地主と零細小作が生じた。そのためにこそ、対立と紛争が起り、対策が考えられ、五・一五事件を産み、左翼運動も右翼運動も、農村救済を標榜して土地解放を叫ぶに至った。狭い国土が問題なのであり、大東亜戦争へもつながりつくものと言えよう。大正から昭和にかけての本県農産の様相も激動する近代日本の縮図であり、その一端に外ならなかった。

 細目大次郎氏は、戦後、農地制度の矛盾を解決しなければ、日本経済の根本的再建が出来なくなり、地主の存在をなくして自作農を広範に創設し、高い小作料の収取関係を否定し、働く農民の地位安定と、農村の民主化、農業生産の増大を目的とし、今までの農家のあり方を大きく変えたのはこの農地改革であった。これにより、小作農と、これに近い小自作農とが約半数をしめていた農家の構成が一変して、自作農とこれに近い自小作農とが全体の約九割をしめるようになった。昭和三十年にはじまる日本経済の高度成長は、兼業農家を激増させている。これらが順調に経営規模の縮小と挙家離農のコースをとると共に、あとに残った専業農家が畜産や果樹等を加味したりして、経営規模を拡大し、出来るだけ多くの自立経営農家に成長することが望まれている。この農地改革によって、日本の農村は確かに近代化された。従来の自主的土地所有と家父長的家族制度の解体によって、農民を古い制縛から解放し、農業生産力を上昇せしめた。しかし農地改革は典型的な日本の零細農耕を一層零細化させた。日本経済の高度成長下、農業だけが小規模生産に固定されたところに、日本の農業問題の本質があるという。

第十五節 岩手県の農業のあゆみ

岩手県の農業のあゆみ→