第七章 近代の商業

第一節 明治以後の商業

 明治後期(明治三十一年―同四十四年)から大正、昭和になると、汽車・電車・馬車・自動車などが発達し、物資の交流が容易になり、金融機関も備って、商業の発達を見るに至る。これがわずか五十年そこそこの出来事である。明治十五年(1882年)の統計書によれば、県内三十二ヵ所の市場があげられている。すなわち、盛岡市の惣門に青物市が毎日、同加賀野新小路に魚市が一・三・六・八の日に開かれている。商店街は住宅の一部を店舗とするが、市日の場合は、住居に関係なく、市日の開かれる場所に物品を並べ、臨時に店開きをして、販売又は交換をするものである。新町名に変更されるまであった六日町・八日町・十三日町は、その日に市日が開かれていた。

 明治十六年以前の商業戸数の集計されたのが見えないが、同十六年は卸商・仲買商・小売商・雑商(旅館・質屋)に分類され、明治四十年以降は専業と兼業に区別されている。

 東北本線は明治二十三年十一月一日盛岡まで開通し、明治二十四年九月一日盛岡から青森に貫通している。ところが、東北本線の開通によって北上川の舟荷が衰微をするのである。一方道路の整備と相まって、荷馬車が普及し、大八荷車が普及して、明治後期の商業界は顕署な進歩を見るに至る。

 大正期の商業は交通機関等の発達によって、物資の交易もますます盛んになり、商業の活動が一層活発化してきた。東北本線の利用はもとより、支線の布設と相まち、県内の開発が二層促進し、国道県道も整備され、東海岸と内陸部を連絡する自動車も運転され出し、荷馬車・荷車・リヤカーも普及し、物資の運輸は往年に比して極めて円滑になる。

 一方産業も大きく伸展し、貨物の集散が活発になり、商業取引が盛んになる。この期に農業生産の上昇した裏には、人造肥料導入、農具の進歩があり、その取扱い者は商業を営む者であった。このことは、交通・通信・金融・その他の機関との有機的発達があることはもちろんである。

 昭和三年あたりから、同七年に至る間の商業界は、経済界の不況のため、商品の取引が低下し、購買力が衰退した。その後、大津浪や大凶作があり、商業界を脅かし、国際問題の悪化によって統制経済になったのである。

第二節 本村の商業

一 商業の現況

明治・大正時代の商売風俗

 現在は交通機関の発展、流通構造の向上、及び消費生活の改善により、商業の機能は著しく進展している。いうまでもなく商業は生産と消費をスムーズに結ぶ流通機構の一端を占めており、商業の発展は第一次と第二次産業の発達に敏感な関係を有する。従って、地域経済の発展に重要な役割を果す。

 本村の場合、盛岡市に隣接しており、しかもバスの便も近年とみによくなったので、盛岡市の商業活動の中にはいっている状態である。

 本村の商店規模についてみると、一店当りの従業員数、昭和三十五年には一・七人、同三十七年に一・六人である。これを他町村と比較すると、玉山村は二・一人に二・一人、岩手町は二・〇に二・〇、西根町は二・二に二・一、雫石町は二・一に二・一、都南村は一・五に二・六、矢巾は一・九に一・八と、周辺町村の場合も本村と大体同じようなものである。盛岡市の昭和三十五年は、四・四、同三十七年には五・〇である。滝沢村には卸売店なく、商店の全部が小売店で、しかもその殆どが飲食料小売店である。

 滝沢村の商店数が、本県県央経済圏々域の総商店数に占める割合は、昭和三十八年に〇・八%であり、盛岡市四三・九%、玉山村一・九%、岩手町三・八%、西根町三・八%、松尾村一・四%、雫石町三・三%、都南村一・二%、矢巾一・九%である。これらの町村は盛岡市の周辺近隣地域であるから、盛岡市の商圏下にある。これらの町村へ盛岡市を中心としてバス路線網が発達しており、また盛岡市の商業力が周辺と比較して強力であるから、これら町村は盛岡市商業活動の中にある。

 昭和三十五年本村の商店数は総数五十五店で従業員九十二人、飲食料品小売店四十二店で従業員六十二人であり、外に衣服身廻小売店一店と飲食店が十二店である。同三十七年には、商店総数六十三店になり、従業員が百三十四人で、その中、飲食料小売店が圧倒的に多く四十六店、従業員六十六人、衣服身廻小売店二店、従業員五人、自転車荷車小売業店一店、飲食店は十四店で、従業員三十一人である。同三十九年になると、商店総数七十一店、その従業員は百十六人、その中小売店は五十八店、その従業員九十人、飲食店十三店、従業員二十六人である。

 何れからみても本村の商業活動は活発でなく、盛岡市商圏下におかれていることになる。

二 買物と娯楽の圏域

 本村において、日常生活必需品の三七%を盛岡市から購入しており、都南村の場合は二七%である。これが中級商品になると、盛岡市からの購入比率が高くなり、本村においては八六%も盛岡市に依存しており、玉山村三三%、岩手町一一%、西根町一四%、松尾村一四%、雫石町一八%、都南村は八五%、矢巾は三六%となっている。都南村も滝沢村同様、盛岡市に隣接するというだけではなく、盛岡市中央街とのバス連絡が比較的便利であるから依存度も大きい。その理由もあるが、中級品や上級品になると、盛岡市でないと、それを求めうるに容易でないということである。さらに高級品についてみるに、本村が盛岡市からの購入比率は九三%、で玉山村六二%、岩手町二一%、西根町一七%、松尾村一六%、雫石町二七%、都南村八一%、矢巾四八%で、本村と都南村はやはり高い比率を示す。

 娯楽のために盛岡市に依存するのは、買物より遥かにその比率が高い。本村は九九%、玉山村は九〇%、岩手町三二%、西根町三六%、松尾村二五%、雫石町四一%、都南村九八%、矢巾八六%と、盛岡市に娯楽を求めているのである。

三 商品仕入先の現況

 本村における商品仕入先は、全商品の中九九・三%までも盛岡市から仕入れている。都南村は九三・六%、矢巾は八八・二%、雫石町は七三・九%、玉山村は七三・五%、松尾は六一・〇%、西根町五四・〇%、岩手町四四・七%である。盛岡市以外の仕入先は、仙台や東京である。

 このように滝沢村に限らず、盛岡市周辺の町村は盛岡市に依存している。そこで、盛岡市の商業機能のうちでも、特に都市外延部に波及する力の大きい消費関係機能について概観をすれば、盛岡市の卸売業の昭和三十五年には就業員五千八百五十一人、同三十八年には七千三百七十七人と増加し、各種商品一括小売業の就業者数は四百八十四人から六百六人になり、家具建具家庭用電気器具小売業は八百八十七人から一千三百十四人に増加、娯楽業は三百五十五人から二百八十四人、証券・商品取引業は二十四人から九十七人となり、昭和三十五年から同三十八年にかけての盛岡の商業伸長率は一・三七である。このように盛岡市の商業機能が伸長するに従い、都市外延部への波及も大きくなると共に、周辺からの依存もまた大となる。これを昭和三十年と同三十五年とを比較すれば、大きな進歩であることが明らかである。すなわち、盛岡市の卸売・小売業は三九・六%、サービス業は二八・二%、運輸通信業は一〇・五%の増加を示している。

 なお、盛岡市に本店をおく地元岩手・東北・興産相互の三銀行の支店は、滝沢・都南・矢巾に設置がないのは比較的郊外バス路線が発達しているから、支店設置の心要がないためである。

第三節 農産物の流通構造

 本村の東南部一帯の水田地帯は、盛岡市とのバス路線の便はよく郊村的性格であるが、本村北部や北西部の山麓畑作酪農々村部は近郊農村的な性格ではない。本村内部で二つの異質的な性格があり、営農形態も異なる。つまり本村の農業は二重的構造を有することになる。

 昭和三十九年二月の統計によると、本村の農家総数は一千三百六十で、専業農家、五百九十一戸、兼業農家数七百六十九である。具体的にみると、小岩井・大釜・篠木・大沢・鵜飼・川前などは水田耕地の多い地帯であり、バス路線網の比較的発達している地帯では、兼業農家数が過半数を占めている。これは昭和三十二年ごろから水田稲作の反当収量は増収になったが、農業機械化や薬剤の多量使用などの生産諸経費の上昇により稲作反当所得が停滞しているので、農家経済を補充するために在宅通勤者が増加したことや、郊外バス路線の発達によって通勤可能になったことによるのである。

 さて、郊村のもう一つの特徴である商品化であるが、交通が整備されれば消費市場に近い農村の商品化率は高いことになる。

 昭和三十九年二月一日現在の農業基本調査流通調査結果報告書による農作物・果樹・工芸作物・種苗々木・養蚕・畜産を含んだ商品化率を算出すると、本村の場合六五・三%、玉山村六八・三%、岩手町五七・八%、西根町七〇・四%、松尾村六九・二%、雫石町七三・四%、都南七六・九%、矢巾七七・四%であって、本村は予想したよりも低率である。

 本村の農業粗収益は五億七千二百四十五万三千円(耕地面積三千六十六ha)、都南村は九億六千五百七十四万九千円(二千四百十五平方キロメートル)、矢巾十億六千八百九十一万八千円(三千三十五ha)で、都南は本村の二七倍、矢巾は本村の一・九倍の粗収益をあげている。盛岡市は十三億七千三百七十八万一千円(三千八百五十二ha)、玉山村六億一千七百二十六万九千円(三千四百四十ha)、岩手町は六億三千七百九十六万四千円(四千四百二十ha)、西根町は二億七千九百八十二万円(四千七十五ha)、雫石町は九億二千二百五十三万三千円(三千四百九十一ha)、松尾は三億二千七十七万三千円(一千七百七十九ha)の農業粗収益である。そのうち前述した比率分が商品化される粗収入である。それらのうち、さらに商品化される度合の高い蔬菜と果実だけを取あげてみると、盛岡市周辺諸町村で、それが五〇%を超えるのは岩手町の五六・八%と、都南村の六四・九であって、他は郊村といえども商品化率は低い。盛岡市域の農業部で四三・〇%、玉山村二九・六%、西根町一九・四%、松尾二八・三%、雫石四八・八%で、高率と思われる矢巾でさえ一九・八%であり、本村も三五・八%という低率である。これらの諸町村は道路交通の点からみて、蔬菜・果樹の搬出に不便とはいえないのに、そのように低率であるのは蔬菜・果実の生産計画・営農・栽培技術・出荷体制のいずれかゞ整備されていないのであろうか。

 次に、それらの販売量をみるに、蔬菜販売量の多いのは岩手町の二千九百四十一t、次いで都南の一千八百九十五t、盛岡市農業部一千八百三十五t、雫石一千五百五十一t、玉山村六百四tと続き、その次が滝沢村で五百七十二tを販売し、西根四百四十一t、松尾三百十九t、最も少ないのは矢巾の二百四十六tである。

 蔬菜販売数量の最も多い岩手町の主なる販売農作物は大豆二百三十三t、菜種百六t、馬鈴薯三百二t、南瓜百五t、人参九t、甘藍二千三百八十四t、白菜百三十五t、葱五t、玉葱一tで、大部分は甘藍で占められている。都南の場合は大豆二十七t、馬鈴薯五百八十四t、南瓜五十四t、人参百七十五t、甘藍四百四十一t、白菜四百九十七t、葱百三十九t、玉葱五t、盛岡市は大豆四十三t、馬鈴薯四百十六t、南瓜九十五t、人参百六十五t、甘藍五百十七t、白菜四百六十一t、葱百七十七t、玉葱四tであり、雫石の内訳は、大豆四十一t、菜種十六t、馬鈴薯三百五十四t、南瓜十六t、人参四t、甘藍七百七十七t、白菜三百九十一t、葱九t、玉葱なし、玉山は大豆二百十三t、菜種三十五t、馬鈴薯百十六t、南瓜百六十七t、人参五t、甘藍百九t、白菜百九十六t、葱十t、玉葱一t、西根は大豆百二十九t、菜種十t、馬鈴薯九十三t、南瓜四十t、人参十一t、甘藍二百六t、白菜五十六t、葱二t、玉葱三tであり、松尾は大豆四十四t、菜種三十八t、馬鈴薯四十二t、南瓜百二十七t、人参一t、甘藍百五t、白菜四十三t、葱一t、玉葱なし。矢巾にいたっては盛岡市への依存度が高く、販売農作物の内訳をみると、大豆六t、菜種一t、馬鈴薯九十一t、南瓜二十五t、人参十五t、甘藍三十七t、白菜六十四t、葱十四t。

 本村の主要販売農作物の内訳は、大豆百四十八t、菜種三十四t、馬鈴薯九十五t、南瓜六十t、人参十九t、甘藍百四十一t、白菜二百五十一t、葱五t、玉葱一tである。

 本県の県央経済圏々域の中で販売農作物の最多なのは甘藍で、その全販売量は五千五百二十三tで、そのうち岩手町だけで二千三百八十四tを販売している。その次は馬鈴薯で二千六百九十四t、第三位は白菜で二千四百一tである。

 果実についてみると、その性格からして商品化率が高いのは当然であるが、これも予想に反して低い。本村における果実の商品化率は八六・七%で、盛岡市は八六・九%、玉山村は六五・〇%、岩手町六八・六%、西根町五八・〇%、松尾五三・二%、雫石五八・七%、都南八三・二%、矢巾六七・五%である。

 果実販売は主に林檎と葡萄であるが、その量も極めて少ない。両者合せて玉山村は百九十五t、岩手町八百六十二t、西根町百一t、松尾百六t、雫石百十二t、である。県央経済圏々城中、果実販売量の最多は盛岡市で三千八百二十一t、次いで都南の三千五十七t、矢巾は商品化率は低いが一千三百九十六tの販売量である。本村の場合、果実商品化は比較的高率であるが、その量は僅かに五百十四tにすぎない。紫波町は二千五百九十二tを販売している。果実の大部分は盛岡市場に集められ盛岡市で消費されるが、一部は東京方面に出荷される。

滝沢村農林産物生産販売状況→

 付 盛岡市における蔬菜需要量

 滝沢村に限らず、盛岡市周辺近郊農村は、盛岡市の蔬菜需要量を把握しておいて、直接的に蔬菜栽培計画を考慮する必要があろう。従前のように需要量を前提としないで、無計画の栽培ではバランスがとれず、価格の安定性を保つことは出来ないといっても過言ではあるまい。このことは、都市と農村が相互的に依存して共同体的機能を保持し、地域を高次の段階に発展させるには、相互に前堤となるように計画を樹立しなければならない。

 それで、まず盛岡市の蔬菜需要量を把握しなければならないが、このことは容易に出来ることではない。

 今、昭和三十三年の岩手県農業協同組合と盛岡市場の青果及び畜産物需給状況調によると、盛岡市における青果消費推定量は、茄子六百九十四t、トマト五百二十t、胡瓜七百三十一t、南瓜九百t、大根一千八百二十一t、牛蒡二百三十四t、人参三百八t、葱五百八十七t、玉葱六百十二t、甘藍八百五十六t、白菜一千三百四十二t、ほうれん草八百四十六t、甘蔗一千三十t、馬鈴薯一千百四十八tで合計一万一千六百二十九tであり、果実としては蜜柑が九百十三t、林檎五百七十tで合計一千四百八十三tである。これに対して盛岡市の青果物市場管内の推定生産販売量は、茄子六百三十三t、トマト五百四十七t、胡瓜九百八十三t、南瓜百十t、大根二千二百八十六t、牛蒡二百五十一t、人参二百十四t、葱百五十四t、玉葱十九t、甘藍三百t、白菜二百七十七t、ほうれん草六十六tで合計が五千八百三十九tである。従って差引、五千七百九十tを移入しなければならないことになる。

 要するに、本県の農協中央会が調査した昭和三十三年の盛岡市の蔬菜需要量の不足分は年間五千七百九十tであり、筆者の推定算出した結果によれば、昭和三十五年の盛岡市農業部における生産販売量を把握しえないので、農協中央会が調査した同三十三年の生産販売量を合考すると、六千五百十八tの不足である。

 果物の不足量は、盛岡市場管内の生産販売量を把握しえないので不足数量をここにあげることは出来ないが、昭和三十三年の果実消費量が一千四百八十三tに対し、国民一人一日当り、百三gを基準にして算出した昭和三十五年の盛岡市の推定年間果実消費量は五千二百二十六tであるから、やはり相当数量の不足になるわけである。

 それでは、盛岡市の蔬菜消費量を満足させるために如何程の数量が移入されているか。この数量を把握するのはなかなか容易ではない。鉄道・自動車による着荷、及び戸別販売があるが、全部を統計化しえない。

 野菜の収穫期が地域によって異なるので、盛岡市周辺以外の県外からの移入が多い。推定生産販売量が推定消費量よりも多い品目はトマト(二十六t)、胡瓜(二百五十二t)、大根(四百六十五t)、牛芽(十六t)である。

 農協中央会調べによる、昭和三十三年間に盛岡駅と仙北町駅に着荷した品目別数量をあげると、茄子百二十t、この中茨城から九十四t、栃木から二十四tを移入している。生産販売量の多いトマトは二百二tを移入し、そのうち百七十五tは東京から着荷。胡瓜も百五十二tは県外から得、このうち茨城から七十二t、東京から二十一t、山形から二十t到着。南瓜の三十二tは東京と茨城から各十二t宛移入し、西瓜は三百三十八t、その中茨城から百二十三t、新潟から七十六t、千葉から五十七tを受入れている。牛蒡も福島から十八t、その他合せて三十五tを移入。人参移入先の最多は北海道の二十五t、東京十六t、宮城十一t、県内から六t、その他合せて七十五t到着。大根もやはり消費量よりも生産販売量が上位にあるが、生大根は四月ごろ新大根として、宮城から六十八t、福島から六十六tを受入れ、全移入量は百八十四t。里芋の大部分は群馬の百四十三tであるが、合せて二百五十一t。馬鈴薯は北海道・宮城・静岡その他から百三t、甘蔗は茨城から五千七百五十五t、その他千葉・栃木・埼玉・東京・神奈川・愛知・愛媛・静岡の順に荷量が多く、合計七千百七十t、葱は百十四tで主なる移入先は北海道の二十九t、福島の二十一t、静岡の二十七tその他となっている。玉葱の大部分は大阪からで一千九十八t、和歌山・北海道・香川・愛知、その他合せて一千八百五十七tを受入れている。白菜は五十六tで主として宮城・山形から、ほうれん草は百八十三tで宮城から百七十六tの移入、その他蔬菜三百三十三tを移入するが、その大部分はカリフラワー、パセリ、セロリなどで千葉・名古屋・静岡で生産されたものが東京市場経由ではいってくる。

 果物をみると、和歌山・静岡から蜜柑九百九t、夏蜜柑三百四十五t、林檎は青森や県内から七十五t、梨は五十一t、これは主として福島からはいる。柿は和歌山・福島・山形などから八十六t、ぶどうは山梨その他から七十t、干柿七t、桃は福島を主とし、その他から七十三tを購入している。

 以上の着荷を合計すると、蔬菜は一万一千四百八十九tであり、果実は一千六百二十tである。このような状態で盛岡市の需要量を満足させることになるが、この中からさらに三陸沿岸の諸都市に販売されるものもある。

 蔬菜の地元生産販売だけで満足しえないのは盛岡市だけでなく、全国的傾向である。そこで蔬菜の価格が上昇するのである。そのため蔬菜価格安定対策として、蔬菜生産地の拡充、蔬菜安定基金の設置、指定産地の生産基盤の整備、それに指導体制の確立に各地で努力している。今日蔬菜指定生産地は全国に二百十ヵ所あるが、昭和四十一年は五百二十ヵ所になる予定である。さらに、われわれの健康増進・体位向上のため、より高い栄養源を必要とするので積極的対策が必要であることはいうまでもない。

 そのためには地方核心都市の野菜消費の実態を分析し、並びに都市近郊周辺地域の蔬菜生産の実態を明らかにして、蔬菜の種類・必要量・生産地形成及び輸送体系・販売体制を計画すべきである。このようにして消費市場に対応する生産地の基盤を整備すると、次に、大切なことは、生産地間の競合をなくするために、立地条件と地域性に適合した主産地を形成すると共に、生産地間の連絡会議を持って計画栽培を実施することである。

 以上、第七章は『滝沢村の実態とその基本的開発構想』によった。