第三章 明治以前の本県教育の概観

 本県の教育は坂上田村麻呂(758-810年)の奥州平定後、毘沙門天や薬師などの仏像をつくって、民心掌握の具としたに始まるといわれる。前者は仏教を守護する四天王の一人で、北方を受け持つ多聞天の別称。また後者は衆生の病息をなおす仏のことである。つまり、これらを信心すれば日常の生活は安定し、災難は除去しうるとの教えであった。騒乱に次ぐ騒乱で荒廃の極に達したこの地方の民心を教化するには格好の手段。その像はできるだけ巨大なものとした。

 次いで、中世の藤原三代全盛期を迎え、仏教文化が普及し、天台宗派寺僧の積極的な布教と相まって寺院教育が盛んに行われた。更に山伏などの修験僧から、物語りを主とする教育を受けるようになった。

 当時、すでに坂上田村麻呂の征討以来、北上川筋の開拓は盛んに行われ採金者もぞくぞくはいり込んてゴールドラッシュ時代にはいっていた。二戸郡安代町田山地方に残るめくら暦は、金山探検にきた修験僧が庶民教育を行なった好例であろう。これが後に盛岡にも行われたが、簡単な桧と記号とを組み合わせた判じ絵のような暦で、農耕や年行事を主体にし、文盲、つまり文字に関心を持たぬあきめくらに対する教化用に使われた。

 その後、江戸期になると修験僧はもとより富山の薬売りや近江商人などの往来が激しくなり、彼らを通じて世のさまざまな事象を知らされるようになった。同時に先進地で読まれた『義経軍功記』や『絵本楠公記』、『漢楚軍談』など和漢の物語りをたずさえて、農村にはいりこみ、これを読み聞かせて、興味をそそりたてた。この外『おしら神』や『十月ぼとけ』『隠し念仏』などの民間信仰を通じこの教化も盛んに行われた。これがやがて寺子屋教育に発展していった。

 一方、藩士達は専ら私宅で自習につとめていたが、次第に公的な教育機関として藩学、または藩校を設ける機運を醸成していった。師はいわゆる儒者で、中国の儒教思想を学んだものが、これに当たった。もともと藩主に対し儒書を講義する役だったが、一般藩士にも聴講を許すようになり、これが藩校のもとになった。本県の地方では遠野南部藩が寛永年中(1624-43年)に、江戸から帰った江田勘助が経学を講じたとの記録が古い例としてあげられる。

 藩学は江戸中期になって急速にふえた。これは幕府が聖堂学問所の制を定め、従来、林子平の私塾として経営されていた聖堂を、幕府の官学とした政治的影響によるものであろう。本県の地方も中央との接触が進むにつれて学問教養への要求が高まり、藩内各地に人材養成のための公的教育棟関設立の機運が動いた。これがきっかけとなり、南部藩では盛岡の作人館(前身は明義堂)をはじめ、花巻の揆奮場、遠野の信成堂、福岡の会輔社など四ヵ所、また伊達藩では一関の教成館をはじめ水沢の立成館、岩谷堂の比賢館、金ヶ崎の明光館など四ヵ所、合わせて八ヵ所に藩学が設けられた。

 これら藩学は南部藩では盛岡の作入館が中心藩校として指導機関となり、伊達藩では仙台の養賢堂が中心になっていた。学科は朱子学を主とする漢籍教育の外武道場を併設し、後には洋学・医学をも教授していった。

 寺子屋は南部藩内では寛永年中(1600年代)に紫波郡赤沢の白山別当・遠山掃部が一般子弟の教育に当ったのをはじめ、享保年中(1700年代)に盛岡の原茂兵衛=原敬の祖=が長町に開いた私塾、和賀郡土沢で正徳年中(1711年-15年)に菊池治右衛門が創立した寺子屋などが古い例であろう。伊達藩内では同じころ水沢・前沢・一関などに多く設置され、とくに前沢などは人口数百戸にすぎないのに、十数ヵ所の寺子屋が設置される程盛んだった。いずれも藩制の拘束を受けることなく自由に開設、当時の有識階級だった神官・寺僧・医師・浪人等が教育に当たり、主として実学を中心に教え込んだ。これら教育に大きな影響を与えた人物もぞくぞくと生まれ、ここに教学いわての夜明けを迎える。