第四章 南部藩の教育

第一節 藩教育

 近世南部藩の領土は、天正十九年(1591年)の秋をもって確定した。十ヵ郡十万石の領域はそれである。初代の藩主信直や次の利直の代までは、治城も三戸・福岡・盛岡と転々し、藩政創業期であったから、文武教育の揺藍時代であり、その諸策は未完成の観が濃厚である。三代目の垂直の寛永十年(1633年)からは盛岡城が居城と決定し、その後は明治元年(1868年)までかわらない。この代になって文武教育は一通り備わったとみられる。

 南部藩の文教内容は、漢字・国文・和歌・連句・俳句・狂歌・書道・絵画・医学・馬医学・本草学(植物学・薬草学)数学・暦学・諸武道・能学・茶道等である。

 南部藩は近世大名として成立してからは、参覲交代にしても、諸侯間の交際にしても、二十万石を所管するにしても、それに応ずるだけの体制が要請された。それは、対外的な公文の発送収受や、領内統治の事務にしても、諸侯並の祐筆や、計算の出来る家臣が必要であった。しかし藩政初期(三代目の垂直)にはそうした人材は漏れなく揃っていた様子がなく、先進地から多く招聘している事実がある。藩主一族や重臣がまず学問を修め、家臣がそれに做った様子がある。盛岡に治府が決定すると、領内の有名な大寺院の多くは盛岡に集中したのである。例えば永福寺・聖寿寺・広福寺・東禅寺・報恩寺・妙泉寺・教浄寺・大勝寺・法泉寺等である。よって寺院文教が栄え、それが藩の学問文教を進展せしめており、碩学高僧の来住をみるに至った。

 南部領十ヵ郡中には総計四百七十四箇寺の寺院がある。寺院の僧侶は、一通り読み書きできる階層であり、殊に小僧養成をやっていた大寺院では、厳しい学問教育をやっていた。たとえば、報恩寺は『封内郷村誌』に「曹洞宗二百ケ寺之総録也」とあるごとく、南部領内曹洞宗の総締をしており、僧堂を有して多数の寺僧を教養するを例としてきた。ここで修業した僧は、やがて本山に上って修業し寺院住職たるの資格が与えられ、寺院自体の小僧教育がなされたのである。

 寛文五年(1665年)には十万石から八戸藩へ二万石を分立したが、天和三年(1683年)には八万石に新田二万石を加えて十万石に復し、学問文教も盛んになった。元禄十六年(1703年)三月、儒学の興隆に力をつくした第二十九世重信、第三十世行信が相ついで卒去するに当り、儒学に反感を抱く従来武功をもって譜代の中賢を任じていた一派は家老の北九兵衛、七戸外記等藩の大身者をはじめ、勘定頭・御目付等の諸重役の十五人の儒者は、それぞれ罪科に処せられる事となり、一時頓挫を来したのであったが、これは新旧思想の衝突とみられる。しかしながら、学問修業はますます栄える傾向をなし、藩の学問所も独立の建物を有するようになる。藩政後期になって、藩財政は苦しくなったが、日本の国際的な立場から、南部藩は二十万石に格上げされ、北海道東辺の警備を分担させられた。従って財政の苦痛にあえぎながら、さらに文武教育を強化せねばならぬこととなったが、武道教育もまた他藩先進地の人によって指導されている。藩における学問武芸の稽古所は、明義堂から作人館と改称され、日影門の外側に専門学舎をもち、その他領内の枢要地に分館も設置され、作人館維持経営のため三千石の学田を有するに至った。

 盛岡城の御新丸の中にあった文学所においては、講座のあるごとに藩主や御一家、重臣が列席するを例としたが、そのため特に建物のあった様子がなく、藩設学問所の基盤であったことには誤りがない。

 享保二十年(1735年)大膳太夫利視(三十三世)大いに国政を改革し、領内十郡を二十五に区分し、二十五代官所を置き、各々その所内を管理せしめる。花巻に城代があってそれに管理せしめ、遠野は家臣南部弥六郎の釆地(一万三千石)であるから弥六郎に管理せしめたのである。

 元文五年(1740年)南部利視の代、新丸内の学問所を廃し、城南八幡町の坂の上に移したという。この時はじめて藩の学問所が独立の建物を持つに至ったらしいが、未だ特定の校名はない。

 明和八年(1771年)十二月、城下八幡町の坂の上にあった文武教習場を三戸町日影門外小路に移転した。規模を大きくし一段と整備されたのはこのときであろう。そして藩学教育の中心であった。このときも特定の名称がなく御稽古所(場)と呼び、儒学・詩文・国学・医学の講座を開設する外に、武術の道場にも使用したものであろう。十郡十万石を支配する大名として、常時五千人を動員する軍役の義務ある南部氏はその子弟教養の学館として経営したのであるから、それはひと通り整備されてあったことが想像されよう。

 寛政(1789-1801年)頃になると、藩の教育に対する勧奨が益々加えられ、享和(1801-04年)年間には、熱心なものを褒賞するようになった。ことに武術修練を奨励しているのは、当時北地整備の必要から生じたものである。

 文化(1804-18年)、文政(1818-30年)以後は、盛岡南部藩も日本の雄藩(二十万石)として日本の国士を警備する立場から、自領の北奥十郡の守備はもちろん、さらに北海の東部ムロランから函館までの間を警備することゝなった。

 このような事態になったのは、寛政四年(1792年)ロシアの使節がネムロに来航して以来のことで、逐年国際問題がやかましくなり、文化五年(1808年)に至って、幕府は一躍盛岡南部藩を二十万石とし、北地警備の一部を委ねられた。この資格の格上げは藩の産業は勿論、文教施設の向上、諸学術の奨励となって顕れ、諸教授の招聘学問所の拡張学館の命名学館分館の開設や新学校の設置となり、新しい時代を迎えるのである。

 天保十一年(1840年)日影門外小路に開設された学問所は明義堂と命名され、利済(三十八世)藩主は「忠孝無二文武不岐」の八字を学塾(中核は和漢一致・神聖一揆・文武一致・忠孝一致・学業一致=水戸学)とし、それを藩の教育方針とし、従前通り、藩士等の和漢の学問や医学や武道を教授したりしている。明義堂の命名は、ときの藩主利済がつけたと伝えられ、教師には教授と助教があり、就学者を学頭・学生・学生並と整理区別され、学館は文学館・医学館・武術館の三部制をとり就学する学生に対して二年三年と経続して修業するものには賞金を給していたらしい。

 美濃守利剛(ひさ)(四十世)の文久元年(1861年)四月、洋式高炉による製鉄に成功せる藩士大島総左衛門高任・医師の八角宗律が主唱し、同志二十二人連名で、新しい学校開設を建白した。その理由は、「国産開拓の見地より西洋新学・砲術・製煉及び医学・種痘を研究すべき学堂新設の緊要」にあると述べている。学校名は目新堂と名付けられ翌年東中野村の新小路に開校されたのである。

 利剛大いに文学を拡張せんと欲し、慶応元年(1865年)明義堂に新しい校舎二棟を増築して規模を拡大し、作人館と改名し、文学館を修文所に、武術館を昭武所に、医学館を医学所に改称し、文武医の三部制を確定し、翌三年岩手郡西部の六ヵ村から三千石を裂き、作人館の学田とし、その費用に充当させる。藩主は、盛岡士族に布令し、その子弟をして必ず学ばしめるようにさせている。また二十五代官を盛岡に召し、各々その部内に一校を新設、あるいは修繕し、享保年間(1716-36年)のように文武の勉励を命じている。各代官は命を受けて帰り、その部内に命令し急に工事をなさしめる。花巻の揆奮場と遠野の信成堂の二校は従前より土着の士が教師となっていたが、新設の福岡・三戸・五戸・花輪・毛馬内の各学校には、作人館より教員、または助教及び訓導、武は一の座、二の座を派出し、三ヵ月、あるいは五ヵ月で交代せしめている。その教員の滞校中の食費及び往来の旅費等すべて藩費より支出している。助教は上下三人、訓導は二人、その教則等はみな作人館の制規に従っている。土着の子弟で、勉強を倦まず才学が月に進み品行正しき者があれば、派出教員これを上申し、作人館の入寮を命じ、藩費生としている。自費で入寮を希望するものがあれば、その学業品行を検査して許可を与えている。城下諸士の子弟はもちろん作人館の試験を経て教授助教の上申をまって入寮が許可されている。しかも最優等者は藩費生となっている。自費生のごときはその事情に因り、必ず受験しなくともよい者もある。藩主の臨校・春秋試業定例の外、年に一度或は隔年大試験(御上覧と唱える)があるときには、重役一同用人目付その他文武係。の者皆随従し、優等なる者に対して賞品(文は書籍・武は稽古道具の類)を与えている。その中最も抜群なる者をえらび世子公子の近習小姓となし、教員となし、小吏としている。さらに進んで教授・助教になりたい者があれば、士族平民を問わず皆禄を給している。而して士族の当主は奉職の日直ちにその禄が増加し、または十年精励の後に増加する者もあり、二、三男及び平民にも新たに禄を給して家を起させてもいる。これを文武出身の者といい、その在職中軍事征役(税金と労役)はもちろん城内の当番宿直等が免除され、座席が進む等これは皆奨励の方法としてとられたのである。

 その後、明治元年(1868年)十二月、南部藩の領地没収と共に解消したのである。

第二節 庶民教育

 藩学は一般庶民を対象とせず、日本及び国際情勢の変化に伴い、藩政維持のために、上から発達させたものであった。ところが、町人及び農民の下層階級も教育の必要を認め、下から寺子屋なる機関を盛上げたものであった。

 以下は『いわて教学物語』による記述である。

寺子屋授業風景(久昌寺蔵)

 寺子屋教育の起源を遡って見るに、京師地方ではすでに鎌倉時代にあったといわれ、当時各派の僧侶はその宗旨布教の手段であったかも知れぬが、布教に従事する傍、学事に関係し、大いに教育事業に尽瘁したのである。当時苟も学を志すものは寺院に赴き、学僧に師事する外途はなかった。

 近世になって武士が城下に集中し自らの教育機関をもつようになると、同じ城下に集まった町人階級もなんらかの教育機関を必要とするようになった。その経済的実力が充実するにともない、ますます普及し、農村でも寺院が、教場とされるほどだった。

 もともと「寺子屋」とは、中世に寺院教育が行われたころ、教育を受ける場所を「寺」と称したにもとづく。これが習慣となって児童教育を行う家を「寺」または「寺屋」といった。そこに通う子供たちを「寺子」とか「寺子供」と呼び、その寺子たちを集めて教えるのを職業とした家を「寺子屋」というようになった。「屋」は米屋や酒屋などの「屋」と同じ意味である。

 寺子屋は明治維新直前まで、二百数十ヵ所(盛岡は二十三)にのぼり、その寺子たちも多いところで岩手郡雫石町の長山、村上与治郎兵衛が経営した寺子屋など一時は千百人に達する程だった。少ない処は農村地帯の十人内外、たいていは六十から百人をかかえていた。教えを受けるものは男子がほとんど、女子は盛岡周辺や県南の町部に限定され、最大の生徒数をもった村上与治郎兵衛の寺子屋でさえ、女子は皆無だった。

 経営者は藩士出身が多く、次いで藩士から帰農した農業従業者、医業にたずさわるもの、寺僧などで、教授を専業としたものは全体で十人内外、うち女子は数人にすぎない。設立時期は文化-文政-天保-弘化-嘉永-安政-文久年間(1805-63年)が最も多く、慶応から明治初年に設けたものも相当数にのぼった。塾名も付けられたが、ないところが多かった。

 寺子屋教育は、一般には年齢七、八歳から十三、四歳のものを対象とし、授業は朝八時ごろから午後四時ごろまでで、生徒数の多いところは時間を区切って教えた。このほか「たなばた」祭や天神祭などの年行事もあり、朝習いや寒習いもあった。教科は実用向きの読み書き算を主とし、これに作文や礼式などを加え、ところによっては兵学や唱歌(謡曲)も教えた。教科書は仙台伊勢版の本が多く用いられ、庭訓往来(生活に即した身近な事項を述べた往復手紙)や商売往来、消息往来、百姓往来などのいわゆる往来本などは、どこでも使った。進境いちじるしいものには、四書五経、女大学などの漢籍も講義された。

 とくに注目されるのは、それぞれの郷土に即した教科書を編さんして使わせたところが比較的多かった点である。たとえば伊達藩内では西村明観が『農家手習状』を、また遠野地方では萱沼左衛門が『遠野往来』を著している。小友などの金山地帯では『厚朴金山覚書状』を編さんして金山の状況を教え、中館衛門は『早池峰誌』を著し名山早池峰まいりなども教えた。波岡務が『農民かまど立往来』を、また武田三右ェ門が『俗言集』(後述参照)を著し、課税や度量衡、郷村制度を教えたことなど、いずれも郷士の実際生活に即した教材を取り入れている。

 ところでその教え方だが教室内だけでなく、家庭・社会の各方面に綿密な配慮を加えていた。寺子たちには家族的に接し、なかには夫は男子を、妻は女子を(一関の原田新平の例)、また父は師長でその子は幼児教育を担当するというぐあいに、一家をあげて教育した処もあった。これがまた寺子たちの勤労教育にもなった。

 寺入り、つまり入学の際は、親から「何(なに)分ともきびしく・・・」と頼むのが例で、厳格ないわゆる“雷師匠”程繁盛したという。師に対しては「七尺さって師の影をふまず」が文字通り守られ、「お師匠様」と呼ぶなど厳粛な師道が維持され、杯をかわして師弟のちぎりを結ぶこともあった。なまける寺子の懲罰にしても、線香や棒・竹類を使ったが「あやまり役」の老人に頼めば許されもした。

百姓往来 往来物

 その維持費は謝礼によったが、それも師家から定めるのではなく、父兄からの申し出でによるのが大部分、だいたい月額三十文(もん)で、のちに三十銭、年額では白米五升(現在の七、五kg)か金一分(ぶ)が通例節句や盆には別に現金三十三文か、モチ類や酒を贈る習わしで、年末には一貫文か白米一斗から一斗五升(一五kg-二二、五kg)を贈り、入門の際は、濁酒一升(一、八リットル)とモチを持参したとある。

 『岩手県史』は“庶氏教育”について次のごとく述べてある。

 庶氏教育は享保二十年(1735年)三月、領内二十五代官所の代官に「郡村の事務并に給人・役医・与力・同心等の文武教育を掌らしむ」とあるところから、一般庶民教育がそれに刺激されたものであろう。家塾が多くなったのは文化(1804-18年)・文政(1818-30年)以後であり、漢籍の素読・珠算・習字はどこでも見られるようになったのである。特に庶民教育によって影響したのは寺小屋であった。元来、寺院において僧侶から文字を学び、毛筆で字をかくことを習ったことから発生した名称であろう。僧侶・社人・山伏は一般庶民と異り、読書や書記のできる知識階級である。家塾の教師を一般に師匠と称していた。師匠になるのには、資格があった訳ではない。師匠への謝礼を束脩とも称したが、その額は千差万別であった。

寺子屋時代の机兼用文庫箱 盛岡官板、蔵板四書五経(嘉永二年刊)

 教科書は千字文を習い、往来物・庭訓往来・実語教・童子教・小学大学・貞永式日・中庸・論語・孟子・四書五経等を読み、忠孝を重んじ、仁・義・礼・智・信の五倫を弁え、人間完成を本義とした。算学は算盤を用いて加減乗除から、更に高等数学に及ぼしたがこのような教科内容は全部にわたったわけではない。藩の学館では孔子を学神として崇敬したが、一般は菅原天神を理想の文神として崇敬し、月の二十五日をその行事としていた。とにかく藩政後期の文化文政以後は文書記録が多く残されていることでも立証されるのである。

 要するに、藩政時代の教育を、藩学の諸士子弟教育と郷村における寺子屋の庶民子弟教育とに大別してみれば、前者は漢学中心の教育であったのに対して、後者は実学中心の教育が施された。そして藩制の崩壊と共に、藩学が沈衰してしまったか、一般庶民の教育的要求に基づく寺子屋はますます普及し、明治五年(1872年)の新学校制度施行に際しては、優に官学である小学校に桔杭対立する程の私学的勢力をもっていたようである。しかし、一方には当時の多くの寺子屋がそのまゝ小学校に転用されたり、また、その師匠がそのまゝ教師として採用されたなどのの例が多い。従って寺子屋教育が土台となって、その上に明治の新学制が築かれて行ったものとみることも出来る。

して実学を中心に教え込んだ。これら教育に大きな影響を与えた人物もぞくぞくと生まれ、ここに教学いわての夜明けを迎える。