第二章 滝沢村と田村麻呂

第一節 田村麻呂の東征理由

 坂上田村麻呂が何故東北地方にのりこんできたのであろうか。それには次のような理由があると思う。

 即ち、天平十九年(747年)に有名な奈良の大仏の鋳造に着手し、天平勝宝元年に出来あがるまで、三年に八回も改鋳された。しかし、金不足のため、大仏が出来あがらないので困っていた。この時、天平二十一年に陸奥の国司百済王敬福からの産金九百両が献上され、みごとに大仏が出来あがる。この陸奥の国の産金は我国最初のもので、天皇は畿内七道の諸社等に報告され、伊勢大神宮と、宇佐八幡宮に分けて献上、その上、後にもさきにもない四字の年号、即ち、天平感宝と改め、敬福らに恩賞を与えられた。金の出た所は宮城県の北部であったが、その後岩手県の南部からも産出し、多賀城から北は税として砂金を納めることになった。

 当時、大きな国策であった仏教文化に欠くことの出来ない地方となり、黄金産地を蝦夷地開拓と称して大規模な討伐が行われたのである。

 後に、安倍氏とか、平泉藤原氏のような勢力が岩手を地盤としてあらわれたのも産金が一つの理由であった。

第二節 伝説 大武丸(大猛丸)

 昔、南方の達谷岩屋に高丸即ち悪路王、北方の岩手山麓に大武丸相呼応して、坂上田村麻呂を挟撃夜襲したので、鬼神のような将軍も遁走しなければならなかったが、野戦数年にわたり、辛じて高丸兄弟を殺害したのである。

 大武丸は姥屋敷南方の「長者館」(庭石や泉の配置は極めて精巧なもので、人々は長者館という)を根拠として、紫波・稗貫・下閉伊地方に十一人の親分を配置し、その親分にそれぞれ子分を付属させ、付近の良民から略奪をこととしていた。身長は大きく、顔は醜く、機敏で七、八人力を持ち、山木(削らぬ木)の強い弓を引き、戦術頗る巧みで、大酒を好み、常に婦女子を側に侍らせていた。大武丸はかくのごとく多くの部下を持ち、勢力甚だ旺盛なので、将軍は生擒られようとし、軽うじて米内の名乗坂に隠れた事もあった。そこで、将軍は雫石西根の篠崎八郎を案内役として大武丸を追廻して転戦し、岩手山の九合目の鬼ガ城に縄の梯子を用いて上下し、坑内を居所と定めていた大武丸を攻めたのである。たまりかねた大武丸は坑外に遁出し、御神坂から盗人森にさしかかり、元の居館長者館を通り、燧堀山の北側の坂を下った時、良民は「鬼越坂」と名付けた。この外鬼越・鬼古里山の地名が現存している。このことから大武丸は、如何に乱暴粗豪を極めたかがうかがわれる。しかし鬼越についてはアイヌ語のオニンコシュという、辷る場所を意味し、アイヌは雨降りや、雪中傾斜している赤壁土の場所をオニンコシュと称して警戒し、後、これを漢字にあてはめて現在の鬼越になったものであろうともいわれる。大武丸は力つき遁走したので、将軍の部下は諸葛川の川原で首を打ち取り、ここに強豪をほこった大武丸も最期を告げたのである。当時の習いとして耳のみを切り取り、これを塩漬けになし、高丸兄弟の分と共に、京都に送り、将軍は親して復命をしたということである。この時からこの場所を「耳取」となづけ現今に及んでいる。国分謙書氏は、耳取とはアイヌ語の日当りのよい場所を意味し、「ミムンドリ」から命名されたという。耳取の地名は紫波郡にもある。

 大武丸の伝説については南の伊勢鈴鹿山、日光、さらに北の外が浜まである。東北においては岩手、宮城、青森の各地に多く残されているという。

第三節 滝沢村と田村麻呂

 田村麻呂は、岩手の賊即ち大武丸が容易に服さぬので、岩手山の秀霊に祈念し、その神徳によって平定することが出来た。凱旋するに当り、国家鎮護のため従臣斉藤五郎兼光を別当として厚く祀らしめた。その子孫であるという現在篠木に在住する斉藤周三氏は、第卅七代とか、同家の系図が示している。後、将軍を敬慕するの余り南部侯は柳沢に祠を建立し厚く祭ったが、明治維新後廃藩置県となり、藩の保護を受けることが出来なくなり、且、柳沢までの距離遠く朝礼夕祭が思うようにならないので、篠木斉藤氏の邸の側山王杜に遷座した。これが今の田村神社である。また岩手山爆発の貞享三年(1686年)以前から、一本木に田村麻呂を合祀した角掛神社が建立されてあったが、噴火の際いささかも異状がなかったという。明治二年一村一社の太政官令により、翌年湯舟沢にある現在の角掛神社に奉遷をした。その外本宮の大官神社にも合祀されている。

 田村麻呂以前はいわゆる狩猟時代であって、人工を加えない自然のものを摂取して生活をしていたようである。自然物が人口増加に伴い漸次その数を減じ行づまりを当時の人々が感じつゝあったときに、田村麻呂の指導する稲の耕作技術の教示をみたのであるから正に革命であったにちがいない。現在の総合開発は農林省・通産省・建設省の分担で搗合う。千年以前の田村麻呂は、陸奥出羽の按察使(地方長官)と、陸奥の守(軍事)を兼ね、同時に征夷大将軍(天皇直属)であったから、縄張り争いがなかった。しかしながら、稲作りは、木の実をとり、鳥獣をとってすぐに食することとはちがい、一ヵ年の長い月日を重ねなければものにならない。しかもこの稲には、害虫・冷害・病害がつきまとうので、これをものにするには並大抵のことではなかったはずである。我々の祖先は必要としながらも今までの生活と違うので、当時の人々の苦労は計り知ることが出来ない。よくもその苦労に耐え忍んだと思わざるを得ない。

 田村麻呂は征伐の余暇をみて、開墾に従事する鎮兵と称する屯田兵を、関東方面より妻子を伴った人々を志和城に住ませ、彼らには一日米二升(一升一合五勺)が与えられ、武器や衣服はすべて官給であった。志和城の食糧は、胆沢城を経由し、北上川を北上し、船を利用したものと推定される。これ以来志和城を拠点として、水域一体に本格的な水田開発が始まった。もちろん、その速度は極めてゆるやかなものであったに違いない。しかし、それでも志和城が築かれてから九年後の弘仁二年(811年)に、和我・稗縫・斯波三郡の一郡として斯波郡がおかれている。本村及び盛岡は斯波郡治の勢力範囲であったものと思われる。かくて、国家の勢力が北上するに従い、大陸半島よりの帰化人をして、土地が広く人口の少ない未開地に、大陸の優れた技術を農耕に応用せしめたものであろう。延暦二十一年正月の勅に、関東中部地方十国の浪人四千人を胆沢城に配すとみえ、大同五年(810年)と承和九年(842年)にも見受けられる。もちろん帰服せる住民の中から優秀な人物を派遣して、先進民族に同化及び順化させてもいる。

 岩手郡は吾妻鏡の奥六郡に出ているので、前九年の役(1051年)の安倍氏のときと思われる。志和城が出来て二百年後に岩手郡が上っているから、田園の北進は太田から大釜・篠木・大沢・鵜飼・滝沢と進んだのである。もちろん、現在の越前堰がなかったので西側の山々から流れ出る自然の河川を利用し、小川の流れに沿うて部落が出来あがったものであろう。これが即ち村であって、大釜村・篠木村・大沢村・鵜飼村・滝沢村となったのである。大釜村の小川の上流に上釜(わま)の屋号があり、篠木村の小川の上流に田の頭と上(わ)篠木がある。当時、原野を新田におこすことは、測量機械のないときに如何に苦労したか。しかも原始鍬を使用して田をおこし、除草器がなく両手を唯一のものとなし、鎌で刈り取り、脱穀に至っては唐箸(からはし)を利用している。調整には籾摺を使用、手で搗いたり、バッタリを使って白米にしている。当時の除草・脱穀。調製は想像以上であって、今からは考えられないのである。このように、祖先の開発精神の旺盛なこと、忍耐強さ我慢強さ、困難の壁を打ち破る勇気、生への意欲には敬服せざるを得ない。

 嵯峨天皇のときに、中務郷万多親王編集で古記旧紀を探り研精十年神武より弘仁に至る一千百八十二氏を撰定し、皇別・神別・蕃別とした新撰姓氏録から本村の同姓氏を拾ってみると、橘(立花)・高橋・竹田(武田)・石川・吉田・菅原・中村・大田(太田)になっている。これは弘仁六年(815年)七月に出来あがっているから、奥羽開発第四期の終りの年である。これらの人々は直接関東・中部・近畿から入って来たものと思われないが、永い年月を経た結果であると思われる。

 かくのごとく、田村麻呂の政治力が浸潤し、雫石川及び泉水を利用して、原野は水田に衣がえし、あちこちに人家の煙をみるようになった。これは特に人々によって、大きな生命の改革であったといえる。本村における田村麻呂を祭る神社が滝沢村に二社、村内の路傍に四つの石塔がある。