第四章 室町時代の岩手郡

戦国時代の諸大名

 建武の中興が過ぎ、南北朝が合一して足利氏が政権を握ったが、応仁の乱後将軍の権威がなくなり、関東管領が分裂して争う状態で奥羽の諸将も自国の強大をはかるために分れて争うようになった。

 県南における胆沢・江刺・気仙・西磐井・東磐井五郡は葛西氏であって、その領域は北上下流から牡鹿半島を含むすこぶる広い地域にわたり、奥州中部に及んでいる。

 県北における中世の豪族としては、和賀氏・稗貫氏・斯波氏・河村氏・工藤氏・滴石氏のごとき北上地域の豪族、遠野の阿曽沼氏、宮古方面の閉伊氏等小党分立である。中山分水峠の以北には三戸を中心として南部氏がおり、馬淵川流域はもちろん、いわゆる一戸・二戸・三戸・四戸・五戸・六戸・七戸・八戸・九戸の糠部(ぬかのべ)諸郡を押えて一族がはびこり、北は下北半島から津軽諸郡鹿角郡及び出羽の仙北都にまで及んだりしている。

 岩手郡の厨川城には、鎌倉以来の地頭として著名である工藤氏が南北朝争乱のとき、三戸南部氏に併せられ岩手郡の地頭職が停止になり、岩手郡三十三郷は福士氏に移され、工藤氏はわずかに近郊十ヵ村を領知するに至った。後、室町時代には衰微して権勢がなかった。

 河東の不来方城には、三戸南部義政の被宮福士親行を応永十一年(1404年)五月に、河東の不来方城を給付して、北館に在城させる。重臣であった福士氏は南部信直と円滑をかき、(旧文書→)。その後慶長七年(1602年)所領の歿収、後元和八年(1615年)十一月百五十石の扶助地を給せられたが、後年に二戸郡長流部村田野村と変転し、遂には八戸藩の家臣として故地を去ることになる。

 大永元年(1521年)二月、和賀氏と南部氏は志和郡で合戦、和賀勢は敗退している。このころから三戸南部氏は、ことあるごとに北上地方に浸入するようになる。

大正14年秋ごろ南部氏対斯波氏勢力図

 天文九年(1540年)第二十四世晴政は領内小康を得たので、最も抵抗力の弱いとみられる岩手郡を討つことになり、手始めに岩手郡不来方の城主福士伊勢守広高はもと南部氏四天王の一人で光行と共に甲州から下向し、第十一世伊勢守信長の時代に岩手郡目代とした者の子孫であることを説いて降伏させ、その福士を使って岩手郡の地侍不来方彦次郎、日戸内膳、玉山大和、栗谷川兵部、上田治部、川貝某、元信某等十四、五人の降伏を勧誘させた。しかし「郷頭と称する雫石の城主手束左衛門尉、長山何某、戸沢城主何某右三人の者共何も互に境を論じ確執止む事なく」降伏しなかったが、他の十五、六人の地侍は南部に降伏した。

 天文二十四年(1555年)ごろ、岩手郡の厨川平野及び雫石盆地は「斯波氏の勢力が滲透している。斯波氏は高水寺城におり、高水寺御所または志和御所と、斯波詮高の二男雫石詮貞が滴石城に、三男猪去詮義は猪去館におって、雫石御所・猪去御所と称したほどである。その外、大釜氏・日戸氏等がいる。

 大釜氏は大釜邑主で、和賀多田氏の庶流と伝えている。『奥南落集』には、志和諸臣として扱い、「大釜薩摩守政幸主家ニ叛キ信直公ニ任エ五百石」とあり、その子政綱と、二男良重の三人をあげている。居館は、雫石川の北岸大畑にあり、大釜館(今の東林寺境内)と称し、大釜氏累代の城館であった。斯波氏全盛のころ、多田氏の支族は斯波氏に出任し、大釜郷その他を領地していた。その後南部氏の臣となり、某氏金山奉行のとき罪ありて入獄にあい、再び断絶しようとしたが、その子後許されて寺田に微録を食めりという。御維新のころ、大釜白水氏零落しているのを高橋氏に買われ、氏の孫に至り兄を高橋寛城氏、弟を大釜徳治氏を名のり現在に至るという。

大釜氏系図→

 元亀二年(1571年)の春、南部氏が斯波氏と争い、志和郡に進入している。

 天正元年(1573年)春、三戸南部氏は諸勢をして、厨川平野より南方に進出し、和賀氏と交戦したという伝えがある。

 天正十四年、斯波氏の頽勢を偵知した三戸南部氏は、雫石攻略を企て斯波氏の支族雫石氏を九月二十九日討ってこれを破り、雫石地方を押えた。これは信直の実父高信が天文九年(1540年)この地を攻略してから四十七年目である。

 天正十六年(1588年)八月南部氏は志和郡を政略して名族斯波氏を滅亡させた。斯波氏は大崎探題家の一族として室町幕府の存続中は権勢すこぶる旺盛であったが、室町政権の頽勢と共に権勢を失い、このときをもって敗退を命じたのである。

 大釜館について、田中喜多美氏は『岩手史学』第四十九号で「南部氏は太閤秀吉の命により“全領十ヶ郡四十八ヶ城書上目録”に、三十六ヶ城破却の中に厨川城を破却したと、天正二十年六月の届書に記しており、大釜氏にしたところで、文禄慶長中はその存在が諷められないから、厨川工藤氏も、大釜氏も、福岡城・三戸城・盛岡城等太主所在の城下在府小路に詰合の筈で知行地存在は出来ないのは原則であった」と述べている。

 慶長三年(1598年)ごろの居館は五十七あったらしいが、岩手郡では五百石栗谷川兵部の栗谷館、七百石の大釜彦左ェ門の大釜館、二千石北彦助の寺田館となっている。