第三章 神社

第一節 本村の神社

一 はじめに

 農耕の発達に伴い、開拓が進むにつれて、自然に対する驚異を払拭することが出来ず、人間は猫にねらわれた鼠のように驚愕するのみであったが、やがて自然崇拝となり、太陽を始め、山や雷や馬や樹木等八百万の神々を信じ、神社を建て、外面的な旱天・低温・願風・疫病・病虫害等に対して祈祷・卜をなし、これら苦悩から脱却しようと努力をした。これら災害の排除は個人及び本家を中心とした同族でなされている。一族は家屋の建築・屋根のふき替等共同で営むことにより、一層関係が親密となり、冠婚葬祭等互いに助け合うことにより共同の意識が生れ、相互扶助のいわゆる結(ゆ)いの組織が生れてくる原因となる。一族が崇拝する神社が左記のように建設され、祭典や維持管理をするようになる。これが更に範囲を拡大して行政区域を氏子とする産土神にまで発展し、氏子総代とその年成人になった青年によって祭典や維持管理がなされた。用水堰の開鑿やその維持、森林や採草地の経営等多くの人々が協力を必要とする。また共同生活の面が多くなるとこれを統制するためのきまりが必要となり、多くの人の意志を結びつける村のおきてである不文律の規範や村寄合等の合議制度が生れたものである。これら血縁及び地縁関係の結束が外に対して堅牢なる城壁となり、セクト的な部落根性を根強く植付けている。

 明治三年には、大釜の八幡宮・篠木の田村神社・大沢の熊野神社・鵜飼の駒形神社・滝沢の角掛神社がそれぞれ村社に決定されたのである。岩手山神社は郷社から大正五年十一月に県杜に列せられている。

 村内の神社をさらに詳細に見れば、大釜には八幡宮・落合不動尊・諏訪八幡宮・末社山神・庚申堂・稲荷社、篠木には田村神社・山王社・自松蒼前、大沢には熊野神社、稲荷神社、鵜飼には駒形神社・月読社・山祇祗祠、滝沢には角掛神社・山神祠・白沢神社・本覚明神・岩手山神社がある。

二 八幡宮

 祭神は応神天皇(誉田別(ほむたわけ)尊)で、御神体は青銅、丈(たけ)七寸七分、文雲孔雀の衣に袴をつけ深沓(とう)をはき、剣をさげ、冠を頂き、床机に腰をかけている。台座も青銅で正面五寸五分横三寸五分高九分、正面に「奥羽南部上岩手郡大釜村八幡大菩薩」と刻み、側面に享保五年(1720年)九月十五日治工有坂字平次之作とある。外に明眼三右工門外数名が刻まれている。八幡宮は大釜釜口にあって、面積は五反四畝二十九歩、祭典日は旧八月一日であったが最近九月一日に変更している。

八幡宮

 創立不詳。伝説によれば「康平五年(1062年)源頼義及び其子義家安倍貞任を討伐せる時其武運を祈願し捷(しょう)を奏し、此処に一社を勧請せるものという。本社は又安倍八幡といい、即ち安倍氏討滅報謝のため建設せる意なるべし、其後南部信濃守重信(第三十一世)寛文十二年(1672年)に社殿再修、大膳大夫利幹(もと)(第三十二世)は宝永三十二年(1705年)に大膳大夫利視(み)(第三十三世)は享保十九年(1734年)に社殿修補されしが、明治三年(1870年)六月村社に列す。」と記してある。

 「川井村郷土誌」に次のように記述されている。

 文亀二年(1502年)四月南部政康(第二十二世)は、その家臣信玄の子武田彦十郎忠直を閉伊郡に派遣し、小国・江繋及び金沢村の一部を与えて治めさせた。武田氏は甲斐源氏の一族であって、忠直は南部家をたよって甲斐から一族郎党を連れて陸奥の三戸へ来たと伝えられる。ここでしばらく南部家の食客となったが、政康は忠直に「永代締木戸御免」の家格を与えて庇護したと伝えられる。武田家の永代記の一部にその家系を「清和天皇源陸奥之助信時息男六之助武田信義長男南部閉伊郡小国城主武田彦十郎忠直云々」と。

 一族部党の中に忠直の長男左馬之助直家、次男彦右ェ衛門直信、参男丹後(細谷の先祖)が含まれていた。細谷は甲斐の国巨摩郡細谷にある。ここから家号名が出たであろう。細谷は「八幡大菩薩」の像を氏神とし、これを祭主し、年々例祭の時だけ御神体を奉遷して参拝せしめ、常には自家に安置している。この丹後は人に接する事を甚しく忌み嫌い、やむなく人を引見する際は、離れて火箸を自分の衿(えり)より稍高く衿頭に挿入して接し、少しの隙も見せず、しかも夜中には絶対に面接しなかったという。細谷は維新前までは一族の者武田を名乗らず武島といっていた。

 この八幡を世人ドンツク八幡といっている。このことについて大坊直治氏は次の四つをあげている。

 沢村亀之助翁曰くドンツクとは博奕のことなり、明治の聖代にも彼の社にて博奕せしものなれば村人はかく名附けん。

 太田重裔翁曰く、宇佐の八幡を深川の八幡というように、甲斐の国の小字名を冠せしものならん。

 本誓寺住職是祥曰く、ドンツクとは上方の或地方で旦那という事に使う。即ち旦那の八幡様の意ならん。

 最後に一説を附せんか。恐らく蝦夷からの転訛せるものにして、小丘の意に非らずや。

〇篠木神主斎藤家古文書
一 八幡宮  一宮
 厨川通大釜村御本社外殿有り来りの通り八幡山の内社内の儀は南より北は山裾限り南に杉サイカチの大朴、西に当って大松小松。北に朴其所より東に見下す。東より南まで田添小関切南は道切り
一 諏訪大明神  一宮
一 末社山神  一宮
 前両社は千ヶ窪御山之内小名高館森と申所に往古より御鎮座にて境の義は南北へ八問東西へ十二間前之内社木の義は御山帳にこれあり侯
 以上三社にて二社也(明治三年十二月太政官布達により一社となる。)
 寛政十一年(1799年)未四月            主蔵
                           肝入 勘右エ門
                           御山肝入 新助
                           外四名
 斎藤日向少輔(しょうゆう)様

〇南部家の『御領分社堂』には
大釜村
一 諏訪八幅宮 三尺四面板葺                 久六
上社堂建立年月由緒等不相知

大釜村
一 稲荷社 二尺四面板葺
 前は慶安年中(1648-52年)勧請奉り候由申し伝え候篠木斎藤家古文書より拾ひ書すれば、文化十二年(1815年)五月先祖丹宮儀師家斎藤出雲持宮田村大明神社家ニ御取立仰せ付けられ下し置かれ度く願い上げ候処願の通り仰せ付けられ候其節斎藤兵庫と苗字名共に下し置かれ候官職の儀は文化十三年(1816年)六月兵庫吉田家より免許頂戴仕り候尤も兵庫儀は天保九年(1838年)四月兵太夫と改名仕り候て私まで二代に相成り候間此段申し上げ候以上

 弘化三年(1846年)六月 大釜村八幡宮祠宮 斎藤家門弟
                        斎藤十之進(篠木大橋)
 覚
一 松之木 目通 六尺五寸廻                一本
 前は厨川通り大釜村八幡宮境内にて風折木剪取り頂戴仕り神楽殿建立仕り度き旨別当斎藤出雲願に依て下し置かれ候条根に御極印を入れ同人へ相渡し申し候紛敷儀これなき様剪り出させ申さるべく候以上

 嘉永四年(1851年)七月           西根御山奉行判
 斎藤出雲殿

〇八幡宮境内之朝鮮五葉松
 大坊直治氏によれば八幡宮神殿前の五葉松は長崎県対馬国の芳長老といえる大僧侶が寛文年中(1661-73年)我が藩に幕府より御預けになったが、其時我が藩主重信公に其種子を献上した。藩ではそれを播種し、御城の周り又は神社等殿様関係の場所に限られて植栽されたが、篠木斎藤神職は命に依り文化年中(1804-18年)城内の榊山神社に奉納神楽舞を演じた時苗木二本頂戴し、その一本を植える。氏子其由来を知り石柵を建て廻らしたが、先史民族の古墳の上に栽えたのは何かの緑因ではないだろうかと。

〇稲荷の由緒
 国道四十六号線の南竹鼻に屋敷名を稲荷という処がある。現今は杜堂なく其跡を止めるのであるが、その由緒は下の通り。
              奥州岩手郡大釜村
                     本宿兵衛
上依願正一位稲荷大明神云々
              神祇管領 長上家
 慶応二寅年(1866年)四月        公文所
この稲荷社は明治三年の太政官布達によって八幡宮境内の小社に遷座する。医学博士土井尻正次氏宅では八幡宮の例祭日に神饌を献じて祭祀をする。

〇落合不動尊
 落合不動尊は往古沼袋穴熊(まみ)沢にあったが、沢と川とは其の落差が非常にありて落口は懸りて滝となる。その滝を不動の滝と名付ける。しかし洪水の度毎に河岸崩壊し不動尊は川底深く没せんとする危険あるにより八幡宮境内に遷座する。

〇諏訪神社
 元高館森にあったが現在は細屋にある。八幡宮の北方越前堰の向いの森を人々は八幡館。高館森の森をば省略して高館、または御諏訪さんなど色々に呼んでいる。

 南部家の御領分社堂によると大釜村諏訪八幡が見える。この高館森に諏訪神社があったが後八幡宮に合祀する。

 細屋の掛仏御諏訪さんは青銅で直径約一尺の円板である。

                        源助
                        助左ェ門
                        久蔵
                        彦左ェ門
                        仁蔵
   観音 奥州南部上岩手大釜村        久兵衛
表面弥陀 裏面諏訪大明神            善左ェ門
   薬師 享保五癸子年(1720年)九月十四日  三右ェ門
                        万之助
                        惣次郎
                        久助
                        才三郎
                        与左ェ門
                        藤原 助五郎
                        冶工 茂平治

〇庚申堂
 日向の西方国道の北側に祠堂の庚申堂がある。

三 田村神社

 田村神社の祭神は坂上田村麻呂で、社殿の本殿は四尺に二間、拝殿は三間四面、外に神楽殿があり、敷地は壱反六歩、大字篠木にある。

 安永二年(1773年)の由緒書上に拠れば、桓武天皇が延暦十六年(797年)に坂上田村麻呂を征夷大将軍に拝せられ、・同二十年(801年)に東夷征討の事に従わせられた。賊勢兇暴容易に服さなかったので、霧山嶽(岩手山)の秀霊に祈念し、其神徳に依って東夷を平定することが出来た。凱旋するにあたり、国家鎮護のため且つ謝恩を含め、従臣斎藤五郎兼光を別当として厚く奉祀させたのである。其後、京都吉田家(社家)より正一位神官の申下しがあり岩鷲山正一位田村神社と尊崇した。後将軍を敬慕するの余り南部侯更に岩手郡滝沢村に祠を建立し篤く崇敬され、明暦四年(1658年)三月十六日祭祀料として柳沢祢宜斎藤伊豆守に高拾参石四斗五合を賜わった。これより愈々敬仰深きを増す事になる。萬治三年(1660年)八月二日神道管領長卜部(うらべ)朝臣兼連(つら)より篠木村祠官斎藤淡路守正吉に神道裁許状が授けられ、爾来代々神職を勤める事になった。

田村神社

〇田村大明神之勧請(安永八年=1779年)
 函館市外有川村亀田源兵衛氏より岩手県二戸郡一戸町鳥海稲荷神社の別当田中館周防氏を介して滝沢村篠木なる岩鷲山別当斎藤日向氏宛、岩鷲山田村大明神の御分霊を函館駒が嶽に勧請奉祀した際の依頼の書簡

 松前駒ヶ嶽へ田村大明神勧請の事

 松前箱館在有川村大名主源兵エと申す者の先祖は盛岡厨川の生れにて当時松前表に住居仕り居り候然るに先年赤人(ロシヤ人)共箱館へ上陸の節御公義(幕府)より立置かれ侯御蔵の御番仰せ付けられ相勤め罷り在り候元来盛岡岩鷲山田村大明神は氏神故多年信心仕り代々崇敬仕り居り候然る処此節御公義より松前中新田開発仰せ付けられ侯に付ては厨川より岩鷲山を仰ぎ見侯事を思ひ浮べ供、岩鷲山田村大明神と申し上ぐるは往古延暦年間田村将軍奥州奥通り山々の鬼共を討ち従へられし後初めて田地を切り開きて将軍の霊を祀り岩鷲山田村大明神と仰き奉り御神に御座候右に付箱館通りの内御駒ヶ嶽は無神なる上形は岩鷲山の如く相見え申し候間箱館八幡宮別当も兼々心願仕り居り候に付御公義御奉行御下役へ御内々駒ヶ嶽へ田村大明神を勧誘仕り度く候段御伺い申し上げ候処早速御承諾成し下され侯えば同人へ委細の義頼合に付き泊りがけながら拙者方へ右の咄(はなし)合仕り侯。

 延暦年中岩鷲山切り開きの節西法寺と申す村に鬼鹿毛と申す馬これあり将軍は其馬に乗り遊ばされ候て御山切り開き遊ばされ候其節毘沙門天の御堂御建立遊ばされ馬は其儘御乗捨て遊ばされ候処へ駒形大明神と仰せ下し置かれ今以てここに御堂(駒形神社?)これあり候鳥海稲荷別当とも相談仕り候て御城下より田名部通りの内田村大明神の道先御供仕り度く候殊に御世話出脚等懸りの分仰せ遣され下され候はば早速罷り上り万端御相談申し上ぐべく候間御上様へ御内々御伺ひの上箱館別当并に源兵衛へ御上様其筋様の御様子御伺ひ成し下され候て御国中松前子供疱瘡もこれある場合殊に御公義并に御国元松前表にても御軍用の御時節にもこれある哉に承知奉り候別して御軍神に御座候故誠に以て此度の義に付ては右御神の御神慮にも相叶ひ候事にも御座あるべしと存じ奉り候間御早様御内々に御伺ひ遊ばされ御様子次第松前表へ書状差し遣し度く存じ奉り候尊君様よりも有無の書状御□成し下され候はば松前表へ返書遣はし申し度く存じ候右御内々西法寺の三神の事共仰せ上げられ下され度く重々願上げ奉り候御世話道案内等失敬ながら御内談申し上げ度く候間御失念なく御取計成し下され度く先は右委細の義聢(しか)と尊願をえ萬々申し上げ度く斯くの如くに御座候以上

 正月
              福岡通一戸村
                鳥海稲荷別当詞官
                    田中館 周防
 斎藤日向様
 尚以て松前箱舘八幡宮の別当は菊池大炊助と申し候由に御座候(ビードロの盃を土産に持参している。)

〇明治維新後
 明治維新後廃藩置県となり藩の保護を受ける事が出来なくなり、又柳沢までの距離が遠く朝礼夕祭思うにまかせず祢宜斎藤之(これ)を己が邸の側の山王社に遷座したのである。すなわち今の田村神社の境内はもと山王社で、この山王社に田村神社を遷座して合祀し、社名を田村神社とした。例祭日は山王社をとって旧六月十六日となす。山王社は猿田彦命と白山比女(め)命を祭神とする白山姫神社(中部地方白山神社の末社)である。

四 熊野神社

 熊野神社の祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊で社殿拝殿は二間四両・神楽殿は二間に二間半・敷地一町一反大字大沢若松にある。

熊野神社

 由緒については、天喜四年(1056年)鎮寺府将軍陸奥守源頼義が後冷泉天皇の詔をうけ八月に安倍頼時其子厨川次郎貞任・鳥海三郎宗任を前九年の合戦、その時、熊野に朝敵誅滅の祈願をし、其神霊によって力戦数次、遂に廉平五年(1062)九月十七日之を滅すことが出来た。ここにおいて陸奥平定の後、八幡太郎義家報恩感謝のためここに熊野十二所大権現を勧請し、社殿を建立して厚く奉祀をした。その後、大破したので永和年中(1375―79年)再建し、後寛政四年(1792年)三月十四日山火事の際悉く記録を焼失してしまった。このとき焼死した大蛇の骨累々と残存したとか。昭和九年本殿を改築する。例祭日は旧六月十五日である。

〇古記録
 厨川通御代官所之内熊野十二社大権現(御領守社堂巻之二)
                  斎藤己之太郎

 右は廉平年中厨川次郎安倍貞任、鳥海三郎宗任前九年合戦の時鎮守府将軍陸奥守源顧義朝臣敵誅罰(ちゅうばつ)祈請のため当国平定の後八幡太郎源義家公此所熊野十二社大権現御造立遊ばされ鎮座候神木の義は篠木村祢宜先祖斎藤六郎植え置き候其後御堂大破永和年中(1375―79年)造立奉り候、尤縁起棟札(むなふだ)これあり本社に納め置き候処炎焼仕り御座なく候

 十二所権現(公国史巻ノ十三)         社人斎藤氏
 村の鎮守熊野権現社を祭る、伝えに言う源頼義安倍征伐の時祈願の為勧請す平定後其子義家御堂建立す
 安永十年(1781年)二月二十四日(南部藩事務日記)
           厨川通大沢村十二所権現別当 斎藤織部

 権現本堂拝殿并に末社薬師堂共に大破仕り候に付き修復仕り度く御村并に隣村老名共相談仕り候え共貧窮の御百姓ども出銅及び兼ね勿論自力に及び兼ね候に付き修復料の為社内の杉目通り八尺廻り一本八尺五寸廻り二本九尺五寸廻り一本下し置かれ度き旨申し出御元〆御勘定頭共へ遂吟味致させ願の通り寺社御奉行へこれを申し渡す
 天明四年(1784年)四月十日(南部藩事務日記)
           厨川通大沢村十二所権現別当 斎藤織部

 極窮に付き権現社木の内杉目通り八尺廻り一本九尺廻り二本下し置かれ度き旨申し出御元〆御勘定頭共遂吟味させ願の通り寺社御奉行へこれを申渡す
 十二所権現
 熊野三山の一なる那智山の十二神宮、もと十二座の神宮なりしを本地垂迹の思想により十二座の神にそれぞれ本地の仏菩薩を配せるものと記されている。尚、応和三年(963年)の十二神社は、龍穴・火雷・水主・木嶋・乙訓・平岡・恩智・宏田・生田・長田・坐摩・垂水であるという。

〇稲荷神社
 熊野神社の境内にあって倉稲魂命を祭神とする。明治三年(1870年)御達により、同年九月篠木参郷の森より此地に合併遷座される。

〇山の神
 熊野神社の境内にあって大山祗(つみ)大神を祭神としている。大正九年(1920年)建碑せる山神を、昭和九年社殿改築の際、山の神の社殿として建立し遷座する。

五 駒形神社

駒形神社

 駒形神社の祭神は保食(うけもち)神で境内は六反三畝二十歩、大字鵜飼大平(だい)にある。

 慶長二年(1597年)五月五日鳥谷源右エ門と申す者三戸より駒二匹をひいてこの地にきて息を止め、また、小笠原氏由緒系図によれば、立往生したのは享保六年(1721年)五月四日で、馬は厨川通鵜飼村の鳥谷源右エ門のものとなっている。又、一説には和賀郡沢内村新田力助という者端午の節句の休日に田の代掻きをしていたところ、急にその馬驚奔して跳ね出し鬼古里の山で息を止める。部落民は御蒼前の神とし、小祠を建てて信仰し、毎年旧五月五日には近郷村仕事を休み、馬に装飾をし早朝から鈴の音勇しく馬に休養させ蒼前詣りをし牛馬の無病息災を祈願した。

 明治三年(1870年)六月盛岡県庁より、三寸八分、二寸五分の白木の角柱に「駒形皇太神」の五字の黒書が下附され、駒形神社と改める。

絵馬売り 参拝

 明治四十三年県知事より神饌幣帛供進神社に指定される。神社は鬼越坂の側にあったが、火災の憂目にあい、再災を憂え、その上例祭には参詣人多く狭隘なため雑踏甚だしく、明治四十四年十一月十六日現在地に移転をする。然るに数百年間伝統の装飾馬も次第にすたれ参詣馬は鞍や裸馬で参拝をするようになり、地元及び畜産家有志深くこれを憂い、伝統を保存すべく、昭和十五年より勧奨し、昭和二十六年より滝沢村・盛岡市協力のもとに、チャグチャグ馬コ保存会を結成し、昔そのままの姿で参詣するようになる。なお昭和三十三年より祭日を毎年六月十五日と定め全国に宣伝をすることになる。

〇忠魂碑
 大正九年(1920年)田中陸軍大臣の書による忠魂碑を駒形神社の境内に建立する。

〇月読社
 明治四十一年に三日月大神宮の祭神月読命を第四地割より駒形神社境内に移転する。

〇山祗(ぎ)神祠(し)
 享保のころ(1717-36年)姥屋敷に上厨川より移住した佐々木某なる人があった。この地の石川某と心を合せて最も風致に富み神域として最適の現地に大山祗(つみ)の大神を勧請し産土神として部落一同九月十二日を祭日と定めて祭典を執行し、厚く崇拝をしていた。 維新前雫石新山例祭のときには度々別当の自光坊が護摩祈祷をなしたという。その後社祠風雨にあらされ、腐朽したので大正四年(1915年)九月全部落民協力して二間四面の社殿を建立し、遷座祭を取行った。

1 チャグチャグ馬コ
あ はじめに

チャグチャグ馬コの行列 チャグチャグ馬コの仕度

 奥羽に牛馬が入って来たのは、あまりはっきりとしないが、養老二年(718年)に蝦夷地から千匹の馬が進献されているから、相当の馬産があったことが推定される。

 奈良朝になって、全国に官営牧場が設置され、軍馬や駅馬が飼養されているが、奥羽には設置されていない。その後田村麻呂が関東から良馬を奥羽に移し、改良に当ってから、一層良馬が出来るようになった。

 前九年の役や後三年の役、及び源平合戦に岩手県の良馬が活躍したことは余りにも有名である。

 南部藩では、牧場を経営して盛んに奨励したから、益々良馬を産出した。太閣秀書・徳川家を始め、諸国の大名が南部の名馬を買い求めたから全国にその名がひびき渡った。

 南部藩は本村の姥屋敷を放牧地に利用している。

 日本国内の各大名は、馬を軍用に、あるいは駅伝用に使用したが農家は最大の能率を挙げる道具として馬を利用している。すなわち糶(せり)市を通じて移出する一方、運搬のみならず稲を作るのに、五反歩に馬一頭を飼養しているから、馬の頭数によって、耕作反別が幾らであるかが、自ら明瞭になっていた。従って農家にとって耕作と推肥に欠くことの出来ない絶対に必要な家畜の最大のものであった。しかしながら死馬も自由に処理出来なかったほど厳しい馬政制度のもとに飼育しなければならなかったから、当時の農民の苦悩は並大抵のものでなかったことであろう。

い チャグチャグ馬コのはじまり

 文禄元年(1592年)第二十六世南部信直が豊臣秀吉の許可を得て盛岡築城にとりかかって四年たった慶長二年(1597年)同五月五日烏谷源右エ門と申す者三戸より駒二匹をひいてここに来たところ晴天俄かに曇り、空中に声あり。「我は是れ駒ヶ岳に往む蒼前なり爾今、この鬼古里に鎮座して(それまでは姥屋敷に創建)天が下の牛馬の災難を除き、請願成就守護すべし」との御詫宣に依って勧請したと宝暦(1751-64年)安永(1772-81年)の神社由緒に述べてある。従って蒼前社は馬匹育成、医療の守護神で、古来南部領を始め、越後・信濃方面に多く祀られてあった産業神である。

 また、一説には、慶長二十年(1615年)に和賀郡沢内村の新田(にった)力助という人が、旧五月五日の端午の節句に、馬で田の代かきをしていた。当時端午の節句には、農作業を休み、特に牛馬には安息を与えるならわしであったが、力助は部落の慣習を無視して、田の代かきを始めた。ところが馬がどうしても動かない。棒で尻をたたいたところ、馬が狂ったようにかけ出し、山伏峠を越え、十五里程離れた滝沢村の鵜飼まできて、鬼越の山を登る途中に疲れて立ち止まったまま死んでしまう。そのときまで、すっかり晴れていた空が急に曇りだし、雲の中から大声が聞えて来た。「私は蒼前である。これからは鬼越の山において、牛馬の災難を除き、願いは何でもきいてやる」といった。死んだ馬はカ助のものでなく、沢内村川舟の青田吉右衛門が飼っていた毛並の美しい白馬で、蒼前の徳を慕い、あわれみを乞うために来たという説もある。

 また、吉田芳哉氏は『奥羽史談』第五二号に述べている。「和賀沢内に、此の地より売られた馬が酷使に耐え兼ね逃げ帰り鬼越峠に於いて立往生したと……そして此の馬はこの地に新牧(あらまき)を屋号とする旧家、小笠原家産出の馬として現在も小笠原家に家宝とする馬匹災難除けの守札の版木があって門外不出とか。猶この版木の製作年代は享保二年(1717年)五月と称せられているが、田かき姿で仲々の逸品である。現在伝承されている馬装束は、南部藩政の寛文年間(1661年)頃の様式を源にしたもので、時代の推移によって多少変化はしているが、概ね古式を維持しており、現存する古いものでは寛政年間(1789年)頃のものが若干残っている。」

南部藩参覲交替 御召替馬の部分図 御召馬の部分図

 また、小笠原家に伝わる『小笠原氏由緒系図』には「利幹公御代享保六年家督ニ云 利直公盛岡御城築以来 鳥谷氏厨川通鵜飼村ニ居住叉云孫六ト申召仕ヲ以同村ノ内持地田畑披立ス 其頃地遣ノ馬也ト云鬼越山馬頭社五月四日代ヲ攪候馬駈出今ノ社ノ所ニ行立死セシトゾ」という文面があり、立往生したのは享保六年(1721年)五月四日で、馬は滝沢村鵜飼の鳥谷源右エ門の馬という。

 小笠原家は南部第十代茂時公の家臣徒頭、小笠原半助の子孫で、藩命により今の滝沢村鵜飼で、農耕に従事していた。

 こうしたなかで、蒼前神社の別当をしていた烏谷氏に跡継ぎが絶え、同氏の娘が小笠原政右衛門に嫁していた関係から同神社の別当を継来した。明治二十五年、盛岡に転住するまで社の管理をし、現在、小笠原さんが保存している版木によってお守り札を作り参詣人に配っている。

ちゃぐちゃぐ馬っこ 盛岡八幡宮祭行列図

 以上のような伝説がある。ともかく部落民はこれをきき、馬をねんごろに葬り、その場所に小さな神社をたて御蒼前の神として信仰をした。蒼前とは、大昔、東北地方に住んでいた人の名で、不毛の地を開き、農耕技術を教えるなど地域のためにつくし、死後農業神としてあがめられたという。蒼前は身体全体が白色で、足だけが黒いいわゆるあし毛の馬にまたがった衣冠束帯姿の騎馬像である。それから毎年旧五月五日には近郷の農家の人々は一日仕事を休み、馬に飾りをつけ、朝早くから鈴の音も勇しく、馬をつれて御蒼前参りをして、牛馬の無病息災を祈った。チャグチャグ馬コの本然の姿は、お参りのため、夜中に家を出発し、朝露を踏んで夜明け前に参拝をすますのである。

 宮沢賢治の歌に
  夜明けには
  まだ間あるのに下の橋
  ちゃんがちゃんが馬コ
  見さ出はた人。
  ほんのペゃこ
  夜明げがかった雲の色
  ちゃんがちゃがうまこ
  橋渡て来る。
  いしょけめに
  ちゃがちゃが馬こはせでげば
  夜明げの為が
  泣くだぁぃよな気もする。
  下のはし
  ちゃがちゃが馬こ見さ出はた
  みんなのながさ
  おとともまざり。
とあり、夜明け前に盛岡以南の多くの馬も、下の橋を渡って、滝沢村のお蒼前さんに向ったことが明らかである。

 いずれにしても馬産地として知られた郷土の人々が、牛馬の無病息災と五穀豊穣を祈って始まった行事である。

う チャグチャグ馬コの語源

 この稚拙な呼び名の語源は、馬の首の下についていた径二十センチ位のドーナツ型の鳴輪と装具のいたるところにつけてある指先大の小鈴とのハーモニーから来た音によるもので、馬が早く走れば、チャングチャングと聞えるところから、称呼が生れたものであろう。首輪の響はかなりな遠方まで響くから、狼の多い当時は、それからの災害を免れたことであろう。

え 装束

 馬車研究家の山吉敬造氏は次のように述べている。

 チャグチャグ馬コのはなやかな装束の基本は、小荷駄装束という馬装である。

 小荷駄というのは、昔の軍列の後方に従った輸送隊で、その隊馬を小荷駄馬といい、その馬装は従って、軍用の馬よろいから生れたものであり、その渕源はシベリヤ・スキタイ文化(BC1500)にさかのぼる。チャグチャグ装束の威(おどし)編みの編み方は、スキタイ馬装のそれと全く同じである。

 南部の殿様の参勤交代のときの大名行列には常に数十百頭の小荷駄馬が従った。もちろん、何万石は何頭との規定があったが、南部侯の場合は、小荷駄馬の大半が諸侯への進物馬でもあったから員数外にふくれた。

 当時、小荷駄方御手伝という賦役があり、村方馬肝入から申し上げて、近郊十ヵ村の篤農家が行列に奉仕した。無上の光栄で、お貸し下げの装束などはもちろん大切に取り扱われ、お役交代の際にはお下げ渡しをいただいた者などもあった。

 ところが、世の中が元禄時代以上はでやか、かつルーズになった寛政のころになると、旧五月五日端午の節句恒例の鬼古里お蒼前さまへのお参りに、自慢のお下げ渡しをいただいた小荷駄装束をつける者があらわれて、たちまち大流行になった。当然おとがめの沙汰もあったが、また半面神事でもあり、さらに姥屋敷高原一帯が、殿さまの馬の放牧地だったところから、丁度放牧期直前に行われる蒼前祝いの祭りは盛ればさかるほど、放牧地にはびこる熊や狼を追払う効験などもあったので、適当におめこぼしの次第にもなった。

 馬は大変な装束を全身につける。すなわち、鼻飾り・前飾り・首飾り・胸がい・尻がい・腹あて・結い上げ・吹き流し・二布(ふたの)ぶとん・鳴り輪・小鈴などで全身をおおい、尻がいの上部に皮革製の当革があり、真鍮金具で各家の定紋が美麗且つ堅固に打ち出されているのは、往時戦陣における防具の名残りを留めたものであろう。鞍は元来藩用小荷駄馬の名残で鋲打ち木製の頑丈な荷鞍である。鳴輪は馬の口元から鞍の前にかけて吊る独特な真鍮製ドーナツ型の鈴で各音色の異なるのが特徴であり、元来は牧場の狼除けとして発達したとの説もある。また小鈴はむながい・しりがいに音色のよい小鈴を多く吊り下げるが馬の歩行に連れて、その音がチャグチャグという音色を出し鳴輪と調和をとっている。多くの部分は、良質の麻であり、染料も紫紺染め、草木染めの手法による古代味あふれる紺・古代紫・こげ茶・ポタン・朱色などの色彩あざやかなもので豪華なものは総練り絹を材料として用いられた。

 装束の順序は一番先に荷ぐらをつけ二布(ふたの)ぶとんをかけ、次に腹あてであるが、それはあい染め麻三幅一丈八尺、中央六尺で腹をまきつゝみ、両端六尺宛を二つに割り、肩と腰でそれぞれ結い上げ、あまりを四肢にそって垂らす。次いで鳴輪をつり、胸がい・尻がい・革ずり・くびよろい・まびさし・鼻かくしの順に装着し、最後に飾り切れをのぼりに準じて黒・黄・緑・赤・青をさげる。あし毛・青毛の馬は緋色、か毛はもえぎ、栗毛は紫の装束である。

 しかしこの大事な装束も、今日では保存も補充も十分でないため年々痛みくたびれてきていることは残念である。残りものを寄せ集めたのでは調和がとれず優雅さが失われる。昭和四十年ごろ一頭分の装束は三十万円以上もしたという。

 森口多里氏は『民俗の四季』の中で「チャグチャグ馬コの美々しい装束は、人に見せて楽しませるためよりもまずお蒼前様にお目見えする儀礼のための晴れの衣装であった。五月節句に働いてはならぬという戒律を馬に守らせるのは蒼前の霊力を受けるためであったが、こちらから積極的に出かけて霊力を受けようとしたのが蒼前参りであったのだ。神霊の分子ともいうべき活勢はつまり霊力で、この霊力のヨリシロとなるものこそは絵馬であった。だから旧五月五日の朝蒼前の社に参拝した人々が絵馬を買って腰にさげて境内を出るのは、遠い祖先からの信仰に合致するものである。霊力は絵馬をヨリシロとしてマヤまで導かれるという信仰である」という。

お 神社の起源

 南部馬史研究家・チャグチャグ馬コ保存会理事の吉田芳哉氏は、『奥羽史談』第五二号で「鬼越蒼前様御鎮座の地帯は、少なくとも今より約1,200年程前から優良馬匹の集散地で、大和方面から名馬を欲しい連中が押しかけ、彼等が俘囚(ふいん)と呼ぶ人々を通じ取引が繁盛したため姥屋敷なるものがはやった位である。因みに姥屋敷とは、現代語に直すと遊女屋ということになりそうだ。このことからその辺は如何に繁盛した馬匹購売市場であったかということが知られる。ここにおいて、大和の財源は日高見に流入し、いわゆるまつろわぬもの共が強くなることを恐れた大和政府は、ひそかに馬匹を移入することを命令によって厳禁したことが古文書に見えている。これによっても此の辺は日高見有力者の根拠地であったこと、そしてそこには彼等の心の拠り所である祭り場のあったことが容易に納得できることであろう。従って鬼越蒼前様は、今では日本一古いお蒼前様であるといいたい。そして、その昔北アジアに広く分布したシャーマン教から深い影響を受け奥羽一帯に大いなる根を張った山岳宗教、すなわち、後年の修験道に関係のある信仰体型に入る原始宗教の一つが蒼前神信仰であると考えられる。」と述べている。

 なお前記五、駒形神社を参照せられたい。

か チャグチャグ馬コの変遷

 チャグチャグ馬コの起源は、山寺敬造氏がいう南部の殿様の参勤交代のときの小荷駄馬であるといい、森嘉兵衛氏は「寛政(1789-1801年)年間に盛岡の馬市に集った馬喰や商人達が自分で買った馬を五色の布できれいに飾り、大きな鈴をつけて、チャグチャグ音を響かせながら、近郷の守護神にお参りしたのが、農民の間にも流行して次第に普及したのだ。」という二説がある。

 明治になって一時衰えたが、盛岡市の関口に居住する昭和三十四年に八十八歳だった熊谷定光氏は、十四歳の時から八十六歳までの七十二年間、毎年参加した人である。熊谷氏の少年のころは、今のように馬の飾りはつけなかったし、行列もしないではだか馬に乗り多いときは百頭位の馬が参拝したという。熊谷氏が二十歳位(明治二十四年ごろ)の頃侍(さむらい)が戦のとき馬にきせた飾りをある人から譲り受けてきせて行ったところ、それから外の人達もだんだん馬に飾りをつけるようになり、御蒼前さまの前で審査をし、一等から三等まで貿晶をくれるようになったといっていた。

 日清戦争のころから、岩手県は軍馬育成地になったので、どこの農家でも馬を飼うようになり、農耕馬のみならず、軍馬の生産が盛んであったから、チャグチャグ馬コも非常に盛んになり、地元の本村では壱千頭程が参拝をしている。

 その後、第二次世界大戦が始まると、丈夫な馬がどんどん軍馬となって徴集され、チャグチャグ馬コはだんだんすたれてきた。そこで、地元が中心になり、長い伝統のあるチャグチャグ馬コを続けようと、昭和二十六年に保存会を結成し、観光行事として普及してから、一年ごとに盛んになり、全国的に有名になっていった。

 昭和三十三年から毎年田植えのころにあたる旧五月五日を新暦の六月十五日に決めて全国に紹介をしたのである。

 駒形神社でお参りをすませたチャグチャグ馬コは、午前九時に出発し、初夏らしい鈴の音を響かせなが、盛岡市の繁華街をねり歩いて、午後一時半ごろ八幡宮に到着する。

き 行事の意義

 チャグチャグ馬コ保存会理事の新藤喜多男氏は行事の意義について以下の四つを述べている。すなわち、祈り・戸籍・馬の市場・楽しみがそれである。

 第一の祈りは近郊の馬という馬のすべてが年に一度馬の守護神であるお蒼前さまにきれいな装束を美しく着飾り晴れがましい姿でお参りし、五穀豊穣と無病息災を祈ることである。

 第二の戸籍はその年生れた子馬の毛色・額の星・脚の白等の特徴を描いた絵馬を買い求めて、これをうまやの入口に掲げ、その馬の戸籍札とすることである。

 第三の馬の市場は重要な意義を有するもので、元来南部馬の声価は高く、当時請国の馬買いが、この馬の集合する日をねらって方々から集った。つまりチャグチャグ馬コの行事が自然に馬の市場となったことは当然の帰結といえよう。

 第四の楽しみはその日一日農耕を休み餅を作って一家が駒形神社の境内で団欒を楽しんだのであるという。

 本村における馬の飼育頭数は明治の初めには一千頭で、昭和二十二年には八百頭、昭和三十三年にも八百頭、同四十二年には半減して四百頭になっている。これは農耕が機械化するに従って馬の飼育が減少し、堆肥から金肥に変化したためである。従って昭和四十二年の参加頭数は八十頭であった。

六 角掛神社

角掛神社

 角掛神社の祭神は・伊弉諾・伊弉冉二尊の御子で山を掌る神すなわち大山祗(つそ)命と坂上田村麻呂の二神である。敷地は一反七畝十五歩あって元村にある。

 角掛神社の由緒は、桓武天皇延暦二十年(801年)坂上田村麻呂、勅令により東夷征伐の折、達谷窟に悪路王赤頭兄弟の暴威を振うを誅し北進して、岩手山麓に清伏する酋長大武丸をも誅戮したのである。ここにいう大武丸というは近郷きっての豪の者で多くの部下を有し、金穀の掠奪はもとより老幼婦女子を惨殺する等常に民害絶えるときなく、村人大いに怖れて悪鬼と呼ぶ。田村麻呂は悪鬼を誅戮しようとして岩手山麓まで進軍したが広漠たる大原野中に老犬な柏樹が一本あったから、この木陰を占居して戦況を視察し、地の利を考え命令訓令皆ここから発した。事が終り国家鎮護のための祝いをもここで執行する。例祭は七月十六日である。

 後世この地に一社を建立し、将軍の功を慕いこれを祭る。その後南部藩の封土となったが、貞享三年(1686年)三月岩手山が爆発したとき、一本木の角掛社殿には、いささかも異変がなかったという。

 津軽侯曽て牛に乗り、この社前を通過した。如何なるハズミかその牛の左の角欠け落ち、地上にあったので、村人これを拾い社殿に掛けて奉納をする。それより誰いうとなくこの神社を角掛神社と呼ぶようになる。

 明治二年(1869年)十二月太政官令の神仏混淆厳禁及び一村一社に則り、翌三年中央である元村に奉遷し以て村社とする。

 明治五年四月丈五尺一寸五分角の桧材に角掛之大神と五字黒書した神体を盛岡城光り堂において盛岡県より神社の祠官祠掌へ当局の役人より手渡される。

 明治年間下小路御薬園内の奥に鎮座せる藩直轄の稲荷堂が神官工藤森繁の手に移ったが、金拾五円で購入しこの社に鎮座せしめる。

 明治十九年篠木の田村神社より御分霊を遷座する。

〇山神祠
 大山祗尊を祭神とする山神は平蔵沢と大石渡にある。

〇その他
 瀬織津媛を祭る白沢神社は土沢、蛇の神様という本覚明神は滝沢小学校の北隣り、一本木には角掛神社に稲荷大明神、巣子に金毘羅の明神がある。

七 岩手山神社

1 祭神

岩手山神社

 岩手山神社の祭神は三柱である。すなわち、宇迦之御魂(みたま)命は五穀を掌る神であり、倭建(やまとたけるの)命は、東夷鎮定の偉業をとげた神であり、特に主神である顕国魂(うつしくにたまの)大神は、またの名を大国主神・大(おお)穴牟(なむ)遅(じの)神・大物主神といい、伊弉諾・伊弉冉二尊以前に、この豊葦原の中津国(日本)を経営巡化し、斯民を安堵せしめ、医薬の法を創め、海内を統一して、天孫降臨にさきだって建国の基礎を定め、後、この国を天孫に譲った神であるという。

2 由緒

旧文書→

3 岩鷲山祭典行列

 岩鷲山の祭典行列は旧五月二十七日の大祭日に盛大に行われ、毎年大勝寺が多くの供を具し、大々的に仰々敷法螺の貝を吹きながら一糸乱れず行列を練り、押上より根掘坂を経て柳沢に行ったものである。現今の八幡宮御輿渡御と大同小異である。明治五年神仏混淆禁止により仁王の大勝寺は廃寺となり、滝沢の一名物がなくなる。この日は公休日であり、明治初年まで女人禁制の霊山とされていた。

 なお毎年開山後大勝寺の出張所が滝沢に設けられ登山札を交付している。これすなわち札場である。この札場は太野栄吉氏の屋敷であった。

4 岩手山神社に関係する古記録

旧文書(1)→  (2)→  (3)→  (4)→

5 神仏分離による岩鷲山大権現

 明治二年(1869年)二月の中旬、羽黒山寂光寺末に属している盛岡の大勝寺住職全教から、復飾の上、神職に専念、岩手山神社の神主として奉仕したいと請願書を提出し、許可されている。

 盛岡の大勝寺は、寛永十年(1633年)五月岩鷲山大権現の別当寺で、寺領百十一石余を有し、権勢の高い神仏両部の寺であったが、維新の大勢によって、神祇に転向することになったのである。同時にその末寺十二ヵ寺院も、悉く本寺にならって神祇奉仕に転向を願い出たのである。

 新政府の方針は、藩主が公認していた社領や寺領といえども、寺社自ら耕作して課税に応じない限り、収録する方針であったので、寺社がいずれも、その寺社領を失うこととなり、この期を最後にその名が消えたのである。大勝寺を始め、その末寺十二寺院も、このときを最後として消滅してしまったが、神仏分離に伴う神祇道転向の一例に過ぎない。

 岩鷲山大権現は、本地仏を弥陀・薬師・観音の三尊としてきたが神祇転向について、祭神を日本武命・大国主命・字迦之御魂命の三神合祀と致したいこと、神社名を岩手山神社と称したいこと、大勝寺全教が還俗して、栗谷川対馬と改め、岩手山神社に奉職したいこと。以上のように寺社奉行に願いでて許可された。大勝寺開基安楽坊は、栗谷川氏より仏供田として十三石の給禄を受け、その後南部藩より加増され、百十一石余となったこと、大勝寺は厨川通代官所管内、柳沢口の別当であったこと、栗谷川氏・厨川氏は本姓工藤氏で、始祖工藤小次郎行光以来、その嫡系の家は厨川城主であり、岩手郡のうち三十三郷を支配してきたと伝えること、以上の緑由などが考えられる。かくて大勝寺十八世全教は復飾して栗谷川対馬と称し、岩手山神社に奉仕する神職たることを許された。しかし一般国民は、国名・官名を称することは禁止になったので、対馬を帛(かとり)と改めた。

 このように旧南部領の寺院のうち、神仏両道を祀っていたものはそのいずれかに帰属することになって、寺社奉行のもとに出願している。しかしながら、藩主が領土を失ったので、その領内の寺院も藩主から給せられていた寺領の効力が解消されることになったので神仏両道の寺院住職は多く神主に転向している。

第二節 神楽

一 はじめに

神楽の奉納に社殿へむかう農民達

 神楽は神聖な舞踊とされ、いかなる場合でも神籬(ひもろぎ)の内で、心身を清め、板の間で舞うのが原則である。

 神楽は舞いと神楽歌とが表裏になって調和しなければならないとされている。

 旧藩時代における村の祭りは、藩の民政の一部であって、日照りがつづいて水が涸ると、雨乞いの祈祷をやり、神楽を奉納し、霖雨低温で冷害の恐れがあると、天気快晴の祈願祭をやって、神楽を奉納したのである。その他氏神の祭りにも神楽を奉納したのが恒例であり、十月以降初春のころにかけ、各山伏はその支配区域を春祈祷して巡り宿泊する家では夜神楽・朝神楽を舞い、予約希望に応じては昼神楽を舞うのであった。この外新築した家を回り「屋がため」「柱がため」といって舞ったのである。

二 南部神楽

 南部藩内の北上川々岸の聚落に伝わる神楽に二つの大きな流れがある。すなわち、岩手山神社と早池峯神社の信仰に付随して伝えられた神楽であり、これらの山の信仰には、神楽奉納は欠かすことが出来ないものとされていた。

 岩手山は、奥州の霊山として知られ、岩手山大権現社の宮司には岩手郡三十三郷の領主工藤氏の一族が担当してきていたが、栗谷川城が文禄元年(1592年)取壊わされ、工藤氏が衰退して南部藩の出現となり、栗谷川氏から南部藩に変ったのである。

 山岳神に対する信仰が古くから極めて強烈濃厚であった。女人禁制で、「御山かけ」の出来る青年を一人前とみなし、春祭りの陰暦五月二十五日から同二十七日まで山麓の新山で祭りが行われ、二十八日御山開で、山伏の先達により登山参詣し、這松の梢を折って帰り、家内の無病息災と安全、五穀の豊穣の祈祷札を田畑にまで立てて祈願したのである。すなわち山岳神は村の農業と万民の多幸を守って下さる神であり、その神は山の奥の岩手山の頂上に鎮りますものと信じていた。かくのごとく民衆の信仰をあつめている岩手山の登山口に三ヵ所があり、それぞれの登山口に別当がおり、それぞれの神楽が伝えられていた。世にいう雫石口の雫石神楽、平館口の平笠神楽、盛岡口の篠木神楽が代表する神楽であった。篠木の斎藤祠官は白川神道の流れを汲む故、篠木神楽は社風神楽の系統とみられる。不明ではあるが、岩手山神社の神楽は天台宗系なりという。

 岩手山をめぐる別当は、明治維新まで修験道の人々であり、旧藩主から寄進していた霊山に対する待遇の廃止と、修験道が本宗への帰属という大変革によって別当職を失うと共に、生活の基本としていた土地の知行権を失い、たちまち生活に窮し、破産に追い込まれ同時にこれら別当の下にあった神楽師も、従前所管していた区域を毎年祈祷して廻村する権限をなくしてしまい、神楽を奉納する有志者のない限り、演舞の機会を失うに至って、神楽の衰微を来たすことになったのである。

三 篠木神楽

篠木神楽を舞う

 滝沢村大字篠木の斎藤家は岩鷲山厨川口新山の禰宜として知られており、南部藩から公認された社人である。それは次の古文書で知られる。

旧文書→

 篠木斎藤家は坂上田村麻呂の家来斎藤五郎兼光の子孫といわれ、鎌倉初期以来、岩手郡三十三郷大領厨川城主工藤氏の被官と伝える古い家柄である。岩鷲山大権現社の厨川口新山は、文禄元年(1592年)栗谷川城が取壊され、工藤氏が衰退して南部氏になると、北岩手に発祥した本山派山伏の白光坊や羽黒派大勝寺等が勢力を増し、厨川口の別当権で争議を醸し出している。篠木の斎藤家は京都の白川神道卜部家につき岩鷲山厨川口柳沢新山の祠官になったのは、そうした争議と裏付になり、伝統の別当権の主張が認められる。明暦四年(1658年)には藩において斎藤家を岩鷲山大権現社の禰宜と認め、万治三年(1660年)には卜部家から神道の裁許を得ているのである。

 貞享三年(1686年)三月一日、岩手山は、突然大噴火をおこし、大きな被害を出した。同年同月十二日付、柳沢別当篠木の禰宜より藩の寺社奉行衆中宛に、その噴火の状況を届出ているが、その文中の一節に「同十二日御湯立神楽仕り指上申候」という一句がある。この湯立と神楽は柳沢別当篠木禰宜と署名してあるから、篠木の神楽師は柳沢新山社の神楽殿で祈祷と神楽を奏したものであろう。神道祠官の奏した神楽とすると、それは社風神楽であったのではないかと考えられると『岩手県史』にある。

神楽(秘伝)

 斎藤家所伝の神楽は、同家の安永二年(1773年)三日の伝授書によると、「右神楽は、唯一神道斎藤家代々の秘流神楽謡舞筒条の大事皆伝せしめおわんぬ」「岩鷲山正一位田村大明神神主斎藤淡路守藤原正吉」として、斎藤家から藤倉帯刀(たてわき)への神楽伝授書と知られ、このとき斎藤祠官と門弟が立合して神楽伝授が行われたものらしい。斎藤家代々の秘流という神楽については下掲の通りであるが天の岩戸開き、鳥舞、八幡舞、山神舞など諏訪まで十二番としてある。そのあとに蕨折から三方荒神、車角力などまでを追加伝授し「外に狂言、道化舞数多」としてあるから、三十曲以上伝授されたものであろう。

 この伝授書に記されてある斎藤淡路守正吉は、万治三年(1660年)八月神道管領長卜部兼連から裁許状を下付された人である。これが同一人であるとすると、安永二年(1773年)に伝授された藤倉帯刀は工藤宮十郎・山崎定右衛門などからも習得したものであろう。その篠木神楽は万治年代に活躍した斎藤淡路守正吉の代までさかのぼることができよう。

神楽秘伝(1)→  (2)→

四 神楽歌

 この神楽歌は、篠木の主浜甚七氏口伝を小岩井の姥名啓四郎氏が昭和四十三年に記録したものである。なお主浜氏は秘伝神楽中の秘舞は烏舞・八幡舞・山の神の三つで、歌は烏舞にはなく、八幡舞と山神にあると述べている。

  八幡結び

さらさらと下り給う郊杜やにます、しろよき香たち光来の郊社面白しや。
しきなれば四行と申すしきの手で黄金の御倉を押し開く郊社面白しや。
これより南にこそ、筑前と申す島があり、かあの島にこそ、八幡(やわた)八幡立っておわします。ドトンドンドン。
八幡おば宮とは申す西は海、東はなぎさ、中は五大疏や郊社面白しや。

  山の神

さらさらと下り給う郊社やにます白よき香たち光来の郊社面白しや。
しきなれば四行と申すしきの手で黄金の御倉をおし開き郊社面白しや。
秋山やみな紅にそめだして、みな金銀のひたゝれがいじょうや郊社面白しや。
あゝ夕べにはさいてい星を頂かせ、朝には悪そうもんの霧をはらえども、へようどうだいいちの風吹けば雨風草木はなきものよ
叉いちじしんようの雨ふればふるがん草木はなきものよ
さればみずからはかんおうかのしのほうぜんがためにとてほうがんにみたをいたゞかせ
叉父母の法のほうぜんがためにとてくとしんがいに発病をなやます
されどみずからはイザナギイザナミの御子太郎の王子にてわたらせ給う
一時身命にさんをせられあかんが君のおゝせさんそうろう、とはみずからはわがことなり
さればみずからはひと手のおんちょうじょうを給わって片手の御ちょうじょうをは天は二十八宿あるるやとて天におさめ、又片手のおんちょうじょうをば地は三十六元にあるるやとて地に修め事なくきりみをしずめあずかりによって山の神三千軍とはみずからはわがことなり。
さればみずからは一年に一度二年に双たび雨のしやの中のまに勝利勝神の御影にうつすべき事はなけれどもたゞ今のだいたんなの、さんぎさんぎの志し何をかだいとうらするや来るおうずる年のなん月のなん雨のなん風のなんひのなんしんじちゅうようたんみほうさんのまつりごと来たってめいに見ゆるともたゞ今の一の御ちょうじょうをもってあいちかいにとうらするや。

五 神楽歌のよみと解釈

1 よみ
あ 八幡結び

 さらさらと降り(神は社に平常坐さず、祭時に天より下降する)給う郊杜(支那に於て冬至に天神を祭るを郊、夏至に地神を祭るを社)やにます(にいらっしゃる)。性質(しな)よき香たち光来の郊社面白しや、四機(人天機・二乗機・菩薩機・仏機)なれば、四行(菩提・福徳・智慧・羯磨の四種の行)と申す四機の手で、黄金の御倉を押し開く、郊杜面白しや。これより南にこそ(あたっている処に)筑前と申す島があり、かの島にこそ八幡八幡立っ