第五章 社寺の整理

第一節 神仏混淆の分離

 王政維新に際し、新政府は日本の国是として祭政一致を標榜し、明治元年(1868年)正月十七日「議定」の中に「神祇事務総督」を設け、「参与」の中にも「神祇事務掛」を設けた。同年二月三日には神祇事務局として職員の定数を規定している。同閏四月二十一日には官制を改革し太政官七官を改めてその中に神祇官をおいている。

 明治二年七月八日にはさらに官制を改革し、神祇官々制を敷きこれを行政庁の首位においている。明治四年八月十日神祇省がおかれ神祇事務の強化が図られることになる。

 明治元年四月神祇に関し、神祇官より布達が出され、神仏を混淆すべからざるよう厳達された。従来仏像をもって神社の神体としてきたもの、あるいは神社に鰐口梵鏡仏具のあるものは撤去を命ぜられた。

 慶応四年(1868年)の岩手県地方は、奥羽同盟などの争乱騒ぎがあって、神仏混淆分離はやっていない。翌明治二年からその整理に着手している。南部氏は明治元年十二月白石に転国指令をうけたが、翌年五月に転任したので、それまで旧領地の寺社は、従前の寺社奉行で取扱っている。転住に当って寺社奉行の職名を社寺正と改め復帰に当って同十一月職制をさらに改め、藩庁機構を三職五局制とし、三職の一である神祇職が管内の神祇事務全般を掌ることとなる。五月三日に盛岡地方に盛岡県が成立したが、寺社をどう扱ったか詳しいことは知られていない。

 明治三年六月、盛岡藩では神祇職をして神社の点検を地主や別当立会の上御神体、棟札(むなふだ)・旧記書類を検分し、存否を決定している。この際月山・湯殿山・百万遍寺の供養塔の撤去を指令している。後年みられる石塔は、一たん撤去されてさらに再建されたものであろう。社堂に仏像が安置され、本尊が神体となっていたものは、このときに分離撤去を強要され、色々な巷談を残している。

 一、乗駕籠壱挺此夫三人、両掛壱荷此夫二人、江刺大属沢田権少
 属鈴木兄記宿壱軒、右は別紙村々神社検分のため、明後二十日より滝沢村出立罷り越し候条、右夫滞なく継ぎ立て申すべく、尤も泊の儀は行き掛り次第申し付くべく候事。
 六月十八日
 沢田権少属、鵜飼村大沢村土渕村篠木村、大釜村雫石御所繋村各
 一、銘々宮人地主相詰め居り申すべき事
 一、神体棟札並に古き書付類これあるもの持参の事
 一、社地掃除等致し置き申すべき事
 上の通り猶以て昼仕度用意に及ぼす候、向触の儀は出張向へ相戻申すべき事      『大釜村村長御用日記』
 先般神祇職御役方廻村の節、村々にこれあり、月山或は湯殿山百万扁などの石塔建て置く向、取片付申すべき旨御達しに相成り侯未だ其儘差し置き候村方もこれあり様相聞え候条、両三日中猶又神祇御役方廻村に相成り侯間、其節見当り侯はゞ急度御咎めなさるべく候条、此旨相心得早々片付け申すべきなり
 七月十三日(明治三年)
               上田部民事出張所
                元厨川通村々
                       村 長 共

第二節 社寺の整理

 前述のごとく、盛岡藩では、明治三年(1870年)六月から管内神社の検分を遂げ、御神体・棟札・古記録を審査して巡村している。その際、和学(皇学)に造詣の深い者や神道家などを付属同伴して、実地検証している。郷村の道路の辻に建ててある月山・湯殿山・百万遍等の石塔などは、撤去を命ずるなど、神仏分離を強行している。

 盛岡県になっても、神社や寺院の整理は引続き行われている。たとえば神社整理においても、明治四年十月二十三日の布告により、一村に氏神社を一社だけ存置し、それ以外の神社の存置を認めない方針だったので、個人の屋敷内の杜堂にまで整理を勧奨している。それは神殿や鳥居を取払い御神体をその家に移して安置せよと命じている。また神社整理によって、某神社は某社に合祀するの止むなきに至っている。神社の営繕費・祭典費その他すべてその村の負担であった。

 明治三年十二月、太政官指令によって、社領・寺領とも、現在の境内を除く以外は上地を命ぜられた。それは各藩の版籍奉還に準じて採られた措置であった。由緒や朱印地(将軍の朱印状によって所有を証明された土地)や除地(免租の土地)などと特別の理由のもとに現状維持を承認すると「社寺ノミ土地人民私有ノ姿に相成ルノ惧レ」があったからとある。その知行地の収納は、明治三年分は従来通り収納することを認め、明治四年から禁止となった。但し社寺にて自作するか、小作さして、耕作農民と同じ年貢や諸税を負担する場合は、その所有権を公認する方針を明らかにした。

 盛岡県では、明治四年四月十四日、寺院の境内地査定について布告を発し、山門外の土地や門前地で、寺院の所有と認定できるものは、竿入検地して持地とすべきこと、野場や空地は田畑に開墾するか、植林とする場合は所有地として認めるとしてある。

 明治四年七月十二日県では社寺に布告を発し境内地売買を禁止している。当時社寺共藩主の国替によって従来の知行権を喪失し動揺していたから、ひそかに売買も行われていたものであろう。

第三節 社寺の変遷

一 神社

 幕末体制の崩潰から全てが御一新という標識のもとに大きな改革が行われようとした中に、「日本は神国なり」という思想が支配的であり、天皇は日本の元首であって、且現世(うつしよ)神であるとの解釈をもって、その権威の尊厳を拡大し、治世統御に結びつけていた。日本の皇室は古い伝統をもち、祖先崇拝を最高に高調し、皇室祭祀も古く且盛大であること、また一般国民の祭祀行事ともほぼ一致しているところから、国民からも親しまれ崇敬の対象になっていた。従って、日本国民の祭祀行事と、皇室の祭祀行事は共通することが多く皇室は全日本の総本家総元締という解釈も思想も成立していたのである。

 近世の末期、いわゆる維新の変革期に当って、国学が抬頭し、大陸文化として入って来た仏教や儒教渡来以前に、日本には神を崇拝する思憩があり、神が天下りし、社もあり、八百万の神々があって人々を加護していると説明していた。従って維新前後のころ、国学を皇学とも称し、神社神道こそ国教であると極論するものがあり、それが神仏分離から、排仏棄釈へと通じた思想の流れであった。国防のために社寺の梵鐘を撤去して海岸の防塁に配置したり、神仏分離と称して、仏閣寺院から社殿を分離し、鎮守社堂から仏道仏具を取り去らしめるに至った。剰え通路側の供養塔や古碑をも撤去させるまでになり、神仏の混淆を嫌って神社は神社の姿に寺院は寺院の姿に復元するとして王政復古を唱え、社寺行政上でも内容でも大きく変革を来たすに至った。

 旧藩時代、藩主から恩典や厚い待遇をうけていた社寺は藩の廃絶と共に停止になったので、維持経営が出来なくなる。殊に寺院は大変な惨(むご)さがあった。近世の仏教政策が明治には神社政策へと逆転している。排仏棄釈、神仏分離への進展に伴い、村の鎮守社の祭神は記紀の神々の名に書き改められ、不動様やお薬師様・観音様は鎮守社から分離されたが、民家の信仰は一朝一夕の政令では変らない。形式的には神社を優遇し、神社神道を国教的に取扱いながら宗教上の信仰の自由を認めている。

 岩手県では明治五年六月管下を二十一区に改正した結果、一区内に郷社が二社、あるいは三社併存することになり、明治六年三月八日郷社定則に基づいて村社から郷社を決定し、一県に一県社の方針により志家村の八幡宮を県社にし、一区に一郷社を確定した。

 第四区の郷社は岩手山神杜で、村社は下厨川の稲荷・大釜の八幡・篠木の田村・土渕の神山・大沢の熊野・鵜飼の駒形・滝沢の角掛の各神社である。村社氏子はその村に居住する限り、その村杜の氏子であって、氏子札を所持することを強請された。

 明治政府の安定の度が加わると、かねての方針に基づいて、神社神道の昂揚を促進し神仏分離や神社整備につとめたのである。本県においてもその方針に従って、寄せ宮と称して神祠社堂を整理して、漸次諸社・村社・郷社・県社が決定され、神社に階級が存在するがごとき印象を与えたのである。

 こゝで神社神道の整備としての氏子札の旧盛岡県の分は、明治五年一月に氏子札は交付されているから、岩手県が踏襲したものであろう。同五年にはいわゆる壬申戸籍帳が出来上がっており、初めのころは氏子帳と戸籍帳は同じ扱いをするほど神社氏子帳を重視していた。しかも同年八月三十日から教部省の差図により僧侶と雖も一般民と同様氏子札を交付されている。氏子調は「出生の児及び氏子数と某名前を録し、毎年十一月中其管轄庁へ差出、十二月中に太政官へ差出すべし」の原則に基づき、県では六年一月管下各区祠官祠掌に命じ調書を提出するよう布告した。同年四月には第四区の郷社岩手山神社に属する村社及び氏子(戸数)は下厨川稲荷神社は四百七十戸、大釜八幡宮は二百四戸、田村神社は六十五戸、神山神社は八十二戸、熊野神社は七十五戸、駒形神社は九十七戸、角掛神社は百七十八戸になっている。現在の本村分の戸数は六百十九戸になり、一戸平均約五人にすれば約三千人の人口となる。明治九年一月戸口調査は別途に新発足したから、氏子は単に氏神地域の氏子で戸籍とは別にあることと、仏寺側から猛烈な反対があって氏子札施行を停止するに至った。

 明治政府は成立初期、神社行政に力を入れ、神社を整理したが、別に軍人を主とした国家に殉じた功臣なるものを神格化して、靖国神社に合祀し、各県ごとに招魂社を建立し、神社に奉祀する業を興した。岩手県における招魂社は、明治三年三月を以て東中野村に創立され、爾来三月八日が例祭日で、且官費支弁である官祭社であった。明治六年太陽暦の施行により以降は四月四日を以て定例祭典日となった。後、官費支弁が禁ぜられ、一般崇敬社として取扱われ、社格も諸社として取扱われた。これが後年の護国神社である。

 大正中期に我国には社会主義運動が起きたが、これは時代の社会不安を助長するものとして、為政者から忌避された。これに反し、思想を善導するものとして、明治以来の神社神道が、すでに政府の管轄下にあった体制を利用して、神社の昇格供進社の増加地方費の神社補助等の保護援助により、昭和に入って国家政策遂行上の思想鼓吹のため最も重要な働きをするようになる。しかしながらこの傾向は昭和六年の満州事変までは余り表面的な動きはみえない。

 満州事変を期して戦争遂行のため祈願祭が行われ、皇国思想に戦勝を願う祈念が加わるようになると、政府の神社対策は次第に国民を動員し、神社神道のもつ超国家思想を強制鼓吹するため、事あるごとに参拝を強いるようになる。これに最も早く動員されたのは各学校の生徒及び児童であったが、このころの文部省は昭和八年のキリスト教系学生の靖国神社参拝拒否問題を期し、「学生・生徒・児童の神社参拝は教育上の理由による」として、例外なく従わしめたのである。昭和十二年九月には、全国の小中学校に対し、一斉に国威宣揚祈願祭に参加すべきことを指令し、一般国民に対しては、いわゆる国民儀礼と称する集会時の始めに皇居、神官の遥拝が定められ、昭和十四年には興亜奉公日の名のもとに毎月一日の神社参拝が半ば義務づけられる。戦後、ポツダム宣言によって昭和二十年十二月十五日、日本政府に対して連合国軍最高司令部から、神道が軍国主義の温床なりとして、神道指令が発せられ、国家と神道の分離を命ぜられ、長い間生活の中に溶け込んでいた神道に苦しい時代があったが、平和条約締結と共に平和的崇拝のもとに、国家管理を離れた自由な立場で再び認識され、崇拝されるようになる。

二 修験(しゅげん)宗の廃止

 明治五年九月十五日付従来からあった修験宗本山・当山・羽黒三派は、自今廃止と布達になり、天台宗や真言宗の本宗に帰入すべしという方針が明示された。修験宗は、永い間民衆に親しまれ崇敬されてきた仏教の一派で不動明王を本尊とし、神仏の両道につかえ、仏典も誦するが、日本古来の祝詞をも奏上するという両部のもので教理をとくよりも冥験の行である加持祈祷を修行することに重きをおき、山野に起伏して苦業を積み、無病息災、万民安楽のため挺身して奉仕することを標榜していた。岩手県でも岩手山(岩鷺山大権現)、早池峯室根山(早池峯大権現)、室根山(室根大権現)など高山を霊場とし、五穀豊穣、国土平和、家内安全を祈願する風があった。この神仏両部道たる修験宗の廃止も神仏分離の思想の上から発したものであろう。従って加持祈祷の風が薄れることになる。よって修験道者は、清僧になるか神職になるか、還俗して平民になるかの変革であり、明治二年の還俗を第一期の変革とし、同五年の修験宗廃止は第二期の変革であり、やがて明治七・八年にわたって修験道系寺院は大幅に減少することになっていったのである。