第四章 仏教

第一節 和賀是信房

 和賀是信房について『岩手を作る人々』の中に次のようにある。

 民衆救済の本義を説いた親鸞聖人の高弟二十四輩の中の是信房が奥羽に来たのは建保三年(1215年)三代将軍実朝の時で、この時は三十六歳である。最初和賀郡の一柏に暫く布教し、万塩に移り更に花巻に来、晩年紫波郡彦部に本誓寺を建立して布教の中心とし文永二年(1265年)八十六歳で大往生を遂げるまで五十年に亘って真宗の布教に生涯を捧げたのである。だから彦部が奥羽に於ける真宗の聖地となり、諸国の巡礼者の跡が絶えなかった。後年南部信直が盛岡を開いた時諸国の旅人は盛岡を素通りして彦部に巡礼する者が多かったので彦部の本誓寺を盛岡に移したのである。

 彼の布教は単に和賀・稗貫・紫波の三都に止まらなかった。西は秋田郡六郷に善証寺、南は常州府中(茨城)に本浄寺、信濃国松城(新潟)に本誓寺を建立し、その教化は奥羽・関東・中部にまで及んだ。殊に注意すべきことは親鸞の子善鸞の開いた会津の大綱と交流したことである。

 会津の大綱は後年「隠念仏」の本山として有名な所である。これと交際したという事は、後年この地方に隠念仏の普及する基となった。後年の隠念仏は別の系統から入ったものであるが、これが紫波・稗貫・和賀・胆沢を中心に急速に普及するようになったのは、是信房によって弘法(ぐほう)された基礎があったためと思われる。

 平安末期に天台宗をもとゝした大寺院が平泉に創建されたが、これは藤原氏の氏寺的のものであり、政治的文化的なものであった。然もその教義は天台宗であり、自力本願であり、貴族階層を主としたものであったから、一般大衆に宗教的信仰を与える所まで行かない内に衰亡してしまった。その時に教義的にも一般大衆の生活に即した真宗が、しかも是信房の如く熱烈な布教者によって行われたことは民衆の教化に大きな功徳を齎したのである。これによって真宗が僅か四、五十年の間に関東・北陸・奥羽中心に栄えたのである。

第二節 正法寺無底

 正法寺無底について『岩手を作る人々』の中から引用した。

 道元に依って創始された禅宗が武士階級に、親鸞の浄土真宗が一般民衆に全く新しい信仰を与えた事は、新しい武家社会の出発に大きな贐となった。

 新しい社会が創り出される時、その社会の発展のために必要な生産条件や精神的なものが、政治によってよく調和されないと、その社会は発展しないものだ。武家社会が成立すると、それに対応するように生産条件が改善され、馬を役畜として利用し、労働能率を高め、これらの人々の生活観、人生観の根底として新しい信仰を与え武人の補任によって治安を守ったから、奥羽の社会は一応安定することが出来たのだ。

 この安定は次第に奥羽に地頭の定着するものを生じ、武人の社会が繁栄するようになった。この大勢を喝破し、新興武家社会に新宗教を布教したのが、江刺郡正法寺開基無底禅師である。

 無底禅師は総持寺の二祖峨山禅師二十五哲の上足で、良詔と称した。貞和四年(1248年)四月五日熊野権現の霊夢を感じて伊沢郡黒石に今の正法寺を建立したのである。彼は三十四歳の時である。

 無底は峨山の上足であり、曹洞宗本山の一である永光寺開基の一族である且明峰禅師からの譲り弟子の地位にいる人である。それだけでも総持寺五院の列につらなる人である。ところがこれを棄てて遠く東奥僻遠の地に来て独自の開教に当ったということはたゞ人ではない。

 彼はなぜ宗門の顕位を棄てゝ、このみちのくに来たのであるか。彼は新に一山を開いて宗門を布教するため特に宗教的に処女地たる奥羽を選んだのだ。彼の祖道元は親鸞と共に真に日本の民衆に仏教の真随を教えた二大宗教家の一人だ。

 親鸞が仏教を民衆に伝えることを真実の目的とし、出来るだけ平易に、平民的に普及することを念願としたように、道元も亦禅宗を民衆に徹底させることに終始した人だ。彼の曹洞禅は百姓禅だ。彼は宗から帰国すると、越前の山中に入り、時の権門勢家をさけ、よく「貧に学す」べきことを教えた。無底もこの師の教えを徹底したのだ。

 無底は、黒石村の領主黒石越後守正端父子及び長部近江守清秀の帰崇を得、多くの山林田荘の寄進を受け、大道場を創建し、急速に帰依者を得たのである。従って観応元年(1350年)には崇光院から奥羽二州における曹洞第三の本寺とせられ、紫衣着用、両国出世道場たることの論旨を賜ることになったのである。更に康安二年(1362年)には総持寺二祖から末代まで奥羽両国の曹洞の本寺たるべき置状を受けることになったのである。これから六百年奥羽における曹洞の本山として重きをなしたのである。この無底の傑出した風格の腸ものである。

 鎌倉の初期には既に浄土宗・禅宗・日蓮宗・時宗と岩手の地まで布教に来ている。

 このように当時新しく一派を開き、または一派を唱えた人々の直弟子の多くが相継いで、布教に従事したのは、奥羽が宗教的に末開拓地であり、それだけに宗教的活躍の意義も深かったからである。これらの人々は諸国を巡錫(しゃく)していた人々であるから、奥羽の話も色色無底に入ったのだろう。かつては平泉黄金文化の発祥地ではあるが、宗教的には全くの処女地である。かゝる未開地こそ、一山を開くに最適と考えたのではなかろうか。

 未開拓地、処女地を最適と考える者それこそ国を興す者だ。この開拓精神こそ、岩手の興隆の基本なのだ。坂上田村麻呂以来、岩手の興隆はこの開拓者によって営まれて来たのである。坂上田村麻呂は農業開拓に力を注ぎ、藤原一族は文化の開発を根本とした。鎌倉御家人は牧畜の開発に主力を注ぎ、是信房、無底禅師は新宗教の開拓に終生を捧げたのである。

 藤原時代までは奥羽は異国という感が一般的であり、奥羽への文化の波及は国際的な波及と考えられる傾向であったが、鎌倉時代になると、国内的文化圏と考えられるようになっていた。だかちその開拓も国家権力によってゞはなく、個人々々の自発的な創意によって開発され、振興されるようになったのである。

第三節 寺院と文教

 藩は藩内の戸口書上に際して、寺院の数を三百五十七とし、その後三百六十四とした。しかし安永年中(1772-81年)には寺院数を四百七十四としている。また出家は九百数十人から多い場合は千三百数十人もあり、常に一千人内外あったのである。

 町村にそれら寺院が分布し、一寺院二人宛以上の出家僧侶が存在していた。これ等一千人前後の人々はいずれも学問を修業し、読書のできる階級であったに相違ない。領内人口三十万に対して一千人の出家は、庶民三百人について一人の僧侶があったことになり、一寺院二人宛の僧侶は六百人の庶民に接していたことになる。

 寺院と僧侶は日々庶民と接し、日常必要とする読書を庶民の子弟に教授していた影響は頗る大であり、藩政時代の文教は寺を中心として庶民の間に浸透していた。

 藩政後期においても、民間における手習の師匠は寺院の住僧や各地に散在する山伏が多かった。寺院には一定の檀徒があり、山伏には一定の霞区があって、そこから生活資料を得ていたので、生活の安定度が高かった。ことに藩から給所地を宛行されている寺社や山伏の生活が安定していたので、江戸や京都で発行される各種の著書も購入することができたし、読書もかなり自由であった。従って和歌・俳諧をたしなむ階層もこの人々であった。元禄三年(1690年)に出家九百七十人、山伏七百四十人、行人百五十五人であったが、享和三年(1803年)には出家八百三十四人、山伏八百八十七人、行人二十六人であり、常に一千七、八百人の読書階層のあったことは、領内庶民の文教の中枢となっていたことが考えられる。

第四節 寺院と隠遁

 森博士は『岩手を作る人々』中巻の中で次のように述べてある。

 一国の中に政治の及ばない所が多いということは、中央集権力が衰微していることを意味する。殊に政権が二つにも三つにも分れ、政治権力の及ばない盲点が生ずると、治外法権の所を生ずる。中世のヨーロッパのように政権が二つにも三つにも分れると、社会的勢力の強い民衆の心を握っている教会は、政治的盲点となってアヂール(隠遁所)となり、一旦教会に隠れると、如何なる犯罪者でも処罰出来ない所となり、益々国家権力を弱体化する傾向を生じた。

 日本に於ても中世以来、政権が朝廷と鎌倉幕府とに分れると、社会的勢力の強い寺院が政治権力の及ばない盲点となって、一種のアヂールとなった。

 然し、戦国末期になって、織田・豊臣・徳川と次第に中央集権力が強化され、政治的統一が行なわれると、寺院の治外法権力は次第に薄れ、寺院の中にも政治力が浸透するようになった。中世以来のアヂール権をもって庇護した叡山を織田が否定してその特権を破り秀次を隠した高野山は秀吉の中央集権力で否定されていった。

 徳川時代になると、この寺院のアヂールは縁切と犯罪免除の場所として、かすかに中世的アヂールを残した。縁切寺はどうしても離婚したい妻女のために、夫の暴虐から逃れようとする妻女のアヂールとして残された。この時代には、原則として妻から離婚を請求する権利は認められていなかった。どうしても離婚したい妻女は、鎌倉の東慶寺か、上州の満徳寺に駈込み、三年間尼修業すれば、寺ではその妻女のために夫に対して離婚を勧め、夫はそれを拒むことが出来ない慣習になった。寺の勧めによって三下り半を出させるのである。妻が離縁状を得ることは、不法の夫から離れて、堂々と再婚が出来ることになる。それがためには三年間尼修業しなければならないのだ。この三年間は駈込の妻女を夫から守るアヂールの期間だ。それは中世的遺制であると共に、閉ざされた社会に於ける悲しい例外であり、不当な贖罪であった。不法に迫害される妻女を堂々と裁決出来ない為に、例外を三年の贖罪に依って認めざるを得なくなったのである。

 ところが南部藩には、犯罪人が寺に駈込むと犯罪を免ずる習慣が残っていた。

第五節 本村の仏教

 日常生活に必要な読み書きを習い、何か問題がおこると凡て僧侶に教えを乞う有様であったから、家庭を中心とした菩提寺として寺院の存在の意義をもったのである。本家分家の一族から部落へと連りがあるように見えても、それは神社と相違し、寺院への寄進・布施は、あくまでも祖先崇拝と個人・家庭を中心とした縦の連りの庶民の心の落着き処として寺院が存在していたのである。正月十六日と盆の十六日には祖先に感謝し、現在は悪事をなさず、将来明るい生活が出来るよう仏檀を通じて誓合っていたのである。

 本村の仏教は殆ど曹洞禅宗にして、大釜と篠木の武田家一族は東林寺、篠木・大沢及び鵜飼と土渕の一部は清雲院、鵜飼と平蔵沢は盛岡市の永祥院、元村・一本木・川前・柳沢は同市の天昌寺をそれぞれの菩提寺としている。

 神道・天理教・真宗・創価学会・キリスト教等を奉ずるものは僅少である。また、菩提寺と無関係に、幼少の子供達に対してのみ仏をいたゞかせる隠念仏は根強く今日なお行われている。

一 東林寺

東林寺

 東林寺は大字大釜にあって、曹洞禅宗にして檀家が二百四・五十軒ある。本尊は釈迦牟尼仏で、盛岡市三ツ割東顕寺の末寺、開山は南翁東橘大和尚となっており、永正二年(1505年)四月二十三日入寂と東林寺及び東顕寺の過去帳に記録されてあり、墓石もある。この寺は、太田の猪去から慶長年間(1596-1615年)に大釜氏が遷座したものといい伝えられている。また同寺の過去帳には寛永十五年(1638年)八月十九日常庵心公居士大釜殿の先祖也とある。田中喜多美氏は後述のごとく、弘治(1555年)から天正の終り(1591年)までの約三十余年間に遷座されたものであろうとしている。

 以上のごとく、東林寺の遷座については、まちまちであって、ここでは即断をさけることにする。

 南部家の御領分社堂によれば

旧文書→

 田中喜多美氏は『岩手史学』第四九号の中で、厨川城は太閣秀吉の命により南部氏が全領十ヶ郡四十八ヶ城書上目録に三十六ヶ城破却したと天正二十年(1592年)六月の届書に記しており、大釜館にしたところで、文禄、慶長年間は認められないから厨川の工藤氏、大釜氏等の知行地存在は出来ないはずであると述べている。

 斯波氏が岩手郡を侵し、雫石川流域をその支配下に統治したのは天文二十四年(1555年)であろうと『岩手県史』にあるから、雫石御所や猪去御所はそのころであり、この猪去から大釜に移転しているので遷座は天文の終りから天正十六年(1588年)八月、南部氏が斯波氏を滅亡させるまでであろう。従って弘治(四年まで)、永録(十三年まで)、元亀(四年まで)、天正(十九年まで)年間の約三十余年間に遷座されたものであろう。

二 萬蔵院

 大釜の武田善四郎ど(殿)の後方に茅葺の極めて粗末な熊野神社がある。盆・正月にはその付近の人々が清掃祭祀しているが、一歩上堰を越えれば鐘つき堂という処がある。また、門前という処もあるという。

 熊野神社は最初萬蔵院境内にあったと思われ、宝暦五年(1755年)の凶作か、または天明三、四年(1783、4年)の飢饉の時無住となり、建物は年月を経るに従って壊倒し、後住なく縁故の人は神社のみを人家近くに移転遷座して祭祀したものであろうと大坊直治氏はいう。

 屋敷名に熊堂と呼ぶ家があり、またワタパという処もある。熊堂は熊野神社のお堂であり、ワタパは渉り場の約で橋なくして徒渉した所からそれらの名称が出来たものであろう。

三 清雲院

清雲院

 大字篠木にある清雲院は宝岩招泉和尚が当地に鈴を止め地方通の教化に尽したところ偶々南部の藩士松岡作左衛門高徳を慕って帰依し、自ら率先私財を投じて盛岡の住人大工棟梁戸沢兵衛秀貞に命じ一宇を建立し、次で招泉和尚の師である紫波郡飯岡長善寺六世岩翁文芸和尚を請して開山としたものと伝えられる。従って清雲院は長善寺の末寺になる。明治三十一年(1898年)境内墓地の一隅に青苔蒸した一碑に「貴山霜公信士貞享元甲子年(1684年)九月二十一日松岡作左衛門開基」とあるのを発見した。創立は慶長二年(1597年)と伝えられるが、開基松岡作左衛門が貞享元年の死去であるから創立の慶長二年の開山から逝去までは、十七年になるから創立については疑問とせざるを得ない。

 『南部藩事務日記』に次の事項がのっている。

 享保六年(1721年)二月朔日
 飯岡長善寺末篠木村清雲院当二十六日大風の処大雪故夜中の四ツ時殿堂破損仕り菊池善左エ門子年十四に罷成り侯もの手習のため当十六日より罷り在り候処破損の砌材木の下に罷り成り相果て候に付き親類の者共見届け取仕末候由これを訴える

 天明四年(1784年)十月二十日
                      篠木村 清雲院
 本堂衆(しゅ)寮庫裡数十年に及び零落仕り侯に付き建立仕り度く候間篠木村外山にて松材木三百八十六本下し置かれ度き旨頭書へ絵図面相添え申し出て侯に付き其筋へ遂吟味させ願の通り寺社御奉行へこれを申し渡す

 天明六年三月十二日
                      篠木村 清雲院
 庫裡衆寮再建立仕り度く去年八月大風の砌境内根返の杉八本願い上げ普請料に囲ゐ置き候え共右にて行き届き兼ね檀家の手伝の儀も時節柄届き難く候に付き境内杉の内四尺廻より九尺廻りまで十三本下し置かれ度き旨願書報恩寺末書を以て申し出て其筋へ遂吟味させ願の通り寺社御奉行へこれを申し渡す

四 馬頭観音堂

 清雲院境内に馬頭観音堂がある。維新前は綾織蒼前と号して安置されてあったが、維新の際本尊は駒木家の内神として崇拝しておった。後故あって篠木の屋号多吉どの有に帰す。しかるにこの本尊は当地方の開拓者である綾織越前が自己の愛馬を祀った由緒あるもの故昭和七年三月同寺住職高田考学和尚のとき関係者と協議し清雲院で管理することとなったものである。畜産家の崇教甚だ厚し。

五 正覚院

 大字鵜飼久之助どの入口の右手に小杉六・七本ある所は山伏寺の正覚院所在跡である。正覚院は西福院の末院といわれ南部家御領分社堂中に見えている。

六 仏沢観世音

 仏沢観世音は鵜飼の仏沢山の南東麓金沢と仏沢との合流点に鎮座する。

 伝説によれば旅僧が来て経文を土中に埋めたという。また斯波氏が南部氏に攻められたとき高水寺の僧は、寺を焼払われて御経を背負い逃げ出し、姥屋敷に行こうとして仏沢の水路を辿り(今の鬼越道がなく通行者は皆水路を辿り往来せるものなり)この僧も沢路を辿る中に小柴に眼をつき、この沢の水でしきりに洗ったところ不思議に眼がなおったという。観音堂より上流百間ばかりの処に石がありかゝって滝となる。ここに僧は経文を埋め塚を築いたものであるという。三百年以上もへたと思われる周り約二丈位の老杉一本、外百年と見られる松一本七・八十年たったと思われる栃の木一本それに杉二本に大きな藤がからみつき、花時の眺め最も宜し。正月十六日と七月十六日に参詣者が最も多い。眼病者はここに籠り、絶えず沢水で眼を洗う。遠くは江刺胆沢等県南地方よりの賽(さい)者多く、また参詣者は昼食携帯終日限を洗い夕景帰宅をしたという。

 ここは遠野の儒者伊能嘉矩氏によれば経塚だろうといっている。

七 弁財天

 紫波郡飯岡村出身の女行者が諸村を巡礼しこの耳取に来る。市兵衛川辺で病魔の襲うところとなり、遂に起つことが出来なくなる。後枕神に立たれたある人が三尺四面の板葺の堂を建設する。これが弁財天である。

八 永祥院と法性寺

 鵜飼・滝沢にそれぞれあった永祥院と法性寺について第四編第一章第一節を参照せられたい。

 以上本村の仏教についての参考文献は大坊直治氏の野史によった。

九 隠念仏

1 はじめに

隠念仏のおさずけ

 隠念仏について『岩手を作る人々』の中に、次のように述べてある。

 古い伝統の中に生活しておればおる程人々は仕来りを守り、これを破る者を共同の敵として防ごうとする。価値判断は古い伝統的なものから一歩も出ない。外部から新しいものや、珍しい文化が入って来ても、古い伝統的なもので煮詰めてしまうから、新しい文化の蒸返しの材料になるだけだ。

 秀れた頭脳も低い考えも、財力のある者もない者も。一応古い組織の中に格付けされて、新しい飛躍は許されないのである。こういう所では其の個人というものは成長しない。

 それだからこそ一度個人自身のことを考えると不安であり、寂寥(せきりょう)でありやるせないのである。

 これを振りきるためには現状から飛躍するか、絶対者にすがるか他の世界を求めるか、少なくとも現状を越えなければならない。

 経済的に飛躍するか、思想的に飛躍するか、何れにしても格付けがきびしければきびしい程それを越えて飛躍するより途はないのだ。

 厳しい社会に閉じこめられた民衆の心は外に伸びることが出来ないので、だんだん内に沈んで行った。古い習慣の中から一歩も出ることを許されなかった人々は、一度自分自身を考えて見ると堪えられない寂寥におそわれるのである。彼等は手近に心の救いを求めてやまなかった。隠念仏はこういう人々の間隙(げき)を縫って広まって行った。

 しかし幕府は切支丹紛争以来宗教に対して頗る神経過敏になっていたから仏教を国教のように定め、他の宗教は紛らわしい宗教として厳重に取締った。だから人々は信仰の自由を持たなかったのである。

 隠念仏も亦この紛らわしい宗教に入れられていたから公然と信仰する訳には行かなかったのである。それに隠念仏はその源流である浄土真宗からも異安心として排斥されていたから愈々地下に潜らざるを得なかった。

 隠念仏は山中に隠れ、土蔵に隠れ、警番をおき、秘事を受けた人人は、たとえ親兄弟たりと雖も堅く他言を禁じ、若し他にもらせば「七生仏罰を蒙る」といって極力秘事の漏洩(せつ)を防ごうとした。ところが絶対に漏らしてはならない秘中の秘であるということは、この宗教を一層神秘的なものとし、信仰を強める効果ともなった。隠念仏は個人的な内面的な強い信仰をもって広まっていった。

 宝暦の初めごろ水沢に隠念仏が入って来てから僅か数年ならずして数万の信者を得るようになった。それは単に浄土真宗の者に限らなかった。禅宗であろうが、時宗であろうが、武士といわず町人といわず、百姓といわず、あらゆる階層に亘て行われた。それは他面において既成の宗教が、民衆に対して宗教的教化力を失っていたことを示すものである。

 これは既成宗教にとって大いなる脅威である。遂に摘発が僧侶に依って行われ、隠念仏の指導者たちは一挙に処罰されることとなった。水沢地方の善知識として数万の信者から崇敬の的となっていた留守家の小姓山崎杢左衛門、同じく今野庄助、水沢柳町の百姓長吉等は仙台に召喚され、逆磔に処された。時に宝暦四年(1754年)五月二十五日である。この時の三人の判決文を見ると当時の隠念仏の実体がはっきりする。

  伊達主水殿家中小姓組  山崎杢左衛門

 其方儀浄土真宗にこれ有り、一念帰命の法の由にて、通りの六十六部から授り、人にも教え、真宗にて文章と称える書冊の説法を行い、全く邪法ならざる旨を申紛らしているが、浄土真宗正念寺、正楽寺の申すには、其の教方は皆真宗の教義ではなく、却って、本山の制禁する所であると申述べている以上は邪法に決定した。

 其方俗の身分として仏間を作り、文章を語り聞かせ、第一在々所所を翔け歩き、一念帰命の信心決定の法にこと寄せ、諸人を進め、他の疑いを避けるため、真宗の出家に帰依せしめ、一応の同行という。追て其方へ帰依するに及んで、其の同行と称し、脇へ洩し聞えることを恐れ、其法に蓮如聖人から初めて俗につたわったもので、同流の出家にも聞かすまじき由約束させ、帰依する者を山中に引入れ、或は土蔵に会し、如来絵像を掛け、並に蝋燭を立て息をかえさず、助け給えと教え、甚だ精神を疲らしめ、既に無症(證)に成った時は、手ずから蝋燭を取って口中を見、成仏疑いなき由と称し、大いに人の信を起し、邪法を以って数郡の百姓大勢を誣(いつわ)らかし、御政事を害し、非道の重科たるによって其所に於て磔(はりつけ)に行われるものであると判決した。

 隠念仏は岩手県に起った宗教ではなくて、外から入って来たものである。その所伝はいろいろで、必ずしも一定してはいない。或る説には親鸞が常陸に在住中那賀の平太郎に伝えたのが始まりだという。或は親鸞の子善鸞が会津東山に来て初め、それから如信に伝え、近世になって白河侯に伝え、所謂大網派がその源流であると説いているものもある。所謂水沢派と称せられる山崎杢左衛門の流れを汲む者は白河侯からその盟友留守家に伝わり、その藩士山崎に伝えられたともいっている。

 これらの起源は皆鎌倉期の事であるが、近世になって岩手に普及した隠念仏の起源を見るとこれ又色々である。たとえば水沢在の隠念仏の一派である渋谷地派の所伝では、墨屋仁兵衛という旅人が五郎八・長吉・新兵衛三次右衛門の四人を長吉の土蔵で「御取揚」をした。それから四人は仁兵術と共に江戸に上り、更に京都に上って鍵星卯兵衛書休に会い、更に二度目には長吉が先達となり、山崎杢左衛門・勘兵衛・三次右衛門・教詮坊の四人が京都に上り、内二人が御取揚を受け、水沢地方の導師を許され、親鸞の絵像を貰って帰国し善知識となった。

 この時渋谷地教詮が一番老体なので絵像を安置し、杢左衛門が導師となり、長吉が御脇、五兵衛・新兵衛・勘兵衛が世話方になり、水沢地方の隠念仏の元祖となったのである。この墨屋仁兵衛は明治四年(1767年)におこった御庫念仏と関係があるから、近世の岩手の隠念仏は江戸の隠念仏の流れを受けたものと見られる。江戸の隠念仏の背後には京都の鍵屋があり、全国的に布教していたのであるから、これは京都の流れを受けたものといえる。処が水沢に鍵屋派の外に大網派がある。これは親鸞の子善鸞が父の名跡を継ごうとしたが、親鸞の直弟子等が強固な教団を作っていたので、遂に善鸞の教義を異安心として排斤したのである。水沢に入って来た隠念仏には京都鍵屋派のものと大網派との二つの系統があり、後に混淆し大網派を主とするか、鍵屋派を主とするか、その度合によって細かな差異を生じ、色々な分派を生ずるようになった。今でも隠念仏には色々な派があって、お互に相手をにせだといっている。

 宝暦四年(1754年)山崎、長吉の処罰によって水沢の隠念仏が弾圧された時、法網から脱した善知識達は各地に潜入し、南部藩内の渋谷地派・紫波派・順証派が出来たのはこの頃と推定される。

 文化十三年(1816年)に紫波郡で土舘村の御堂喜兵衛の親善教と、片寄村の日当りの清兵衛が盛岡藩の移牒命令で捕えられた。二人は森岡、徳田、伝法寺通の農民を集め怪しい会合をし紛らわしい念仏を行なっているというので捕えられたが、だんだん取調べの進むにつれて隠念仏を行なったことが明らかになり、関係者が続々と取調べを受けた。善教は二・三年前から煤孫村に来て布教していた仙台藩の医師木村養庵から伝えられたものであった。藩はその取締を強化するために、寺に対して宗旨改めを行わせ、叉一般にも「世間に風聞に相成候者、人違にても苦しからず」訴出ずべきを命じた。しかし、こういう信仰は一片の法令で減るものではなく、却ってますます深く潜って殖えるばかりであった。藩は工藤巳之助父子を密偵として全領を回村させ摘発に当らしめた。丁度このころ領内に密銭を鋳造するものが増加し、百文銭、四文銭の贋銭が横行し良銭は影を没して物価は高くなる一方であったので、贋銭鋳造の摘発を兼ねて回村を行わしめた。これがために各地の隠念仏が摘発され、所謂「法難」を生じたのである。

 嘉永六年(1853年)三閉伊通の百姓一万数千人が家族をつれ南部藩政に愛想を尽かして仙台領に逃散し、これに呼応して領内各地から一揆が起り、大騒動となったことがあった。藩はどうしてこのような一揆が起ったか色々内偵したところが、一揆の起った田野畑村の祖父弥五兵衛という者が十七年間も領内を遊説して歩いたことがわかった。この遊説は巧みに密会し、この密会はただの密会ではなくて、どうも隠念仏ではないかと思われる。

 そのためか、安政の初め(元年は1854年)になって急に隠念仏が厳しくなり、摘発が再び行われた。この時御明神村の久兵衛の出した口上書に隠念仏の様子がよく出ている。

 口上書を以て申上候事

 一、私儀去る十一月十一日大谷地の叉衛門と申者に誘われて、北田の五左衛門宅へ参りました。下中屋敷叉兵衛、子供の千松、川端の又助、中南の甚内の子供の酉松、沼の喜左衛門家内中、喜八親子三人が居りました。その外に私の覚えない人が二人来て居りました。右の二人は大師様とかいう由承りました。私儀常居に参りまして段々見ますと、御脇様とかいう人が、其方達はよい事を聞き度くて来られたに相違有るまいなと申されました。
   左様に御座います
と申しましたところが
   座敷へおいでなさえ
と申されますので、座敷へ参りますと、座敷にはかの大師様とか申人がおりまして、比の人も
   其方達は貴い事を聞きたくて来られましたか
と言われました
   左様で御座います
と言いますと
   そうならば念仏を唱えなさい
と申されました
   御念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申筈だが、ただ、なまえだなまえだと申しなさい
と言われた。其時喜八親子三人が、北田の兄夫婦、私と六人で右の念仏を申して相済みましたところが、次には
   たすけたまえたすけたまえ
と申されよと言われたので、是を申しますと、右の大師様の所に寄れと言われましたので寄りますと
   助けた
と言われまして先ず相済みました
 其方達も神の位になったからもう外に神を拝がまなく共宜しいと申されました。それから御振舞を頂いて帰りました。外にも大人数がおりましたが、夜中の事ですから、慥に見覚えもありません。
 御明神村の仁太郎が山で働いていると沼の喜蔵が来て十日に是非来いと三度も来たので下久保の喜右衛門に行った。
 今度貴様を招くのは外の事ではない。世でう(世上)の品風には外道邪法と申す共、全く左様でない、誠に有難い阿弥陀如来で有る。是程けっこうなるもの、貴様共に知らせないでは置かれず。二人とない兄弟よりも一しい(いとしい)せうとも(友人)共是非よき事を知らせないで置かれない。今度我れ噺事きけ。中略。
 誠によき事を教え聞きますが、私共返事も致兼候処、角十郎と申者返事致し、私共は兼て答置候得ば、返事も致さず
 是より念仏致すべし。なんまえだと千べん唱え、又たつけたまえど千べんとなえろ
と申され、其節栄助と申者前に出て、背なかには市蔵と申者付き手には徳右衛門と申者付き
 拙者共御助申し、声ばかりなんまえだとゑき(息)の出る内、あせをかく程念仏申せ
と申され、それを申には手を合せ、腹をひらき、腹を附、あたまを押付、其外さまざまのさいくわ(災禍)懸けられ、私共もたまり兼ね、むざ(無作)に起きあがり、私申事には
   兼て御噺知らせると申しながら此の様にさいくわにかけ、此の様な噺あるものか、噺ならどこまでも聞く
市蔵申には
   いとこ(従兄)ずれが来ているからわるゑ事ではなえ、よぐきげ、放て喜蔵、喜代太申には
   しやうとも(友人)今度拙者共へ御たつけ下されたいと頼まれ。扨我立ば貴様共身の立所なき事か、然者(しからば)今夜ぎり男立申すべし。
扨又見じれの(見知らぬ)人一人罷出て、見しれの人二人となり。其人の前に私共に大勢取附き、引出され、大将中には
   誠にけっこう(結構)な事、貴様は知りますまい、おれはおせ(教)ます。
手をくましらゑ(組まされ)ほぞにあて、みりと押さしらゑ、口をあき、まなく(眼)をひくれ(閉れ)、たつけ(助け)たと、おれのよゑとゆ(言う)迄ゑき(息)をつくな。
しばらく間あり
   先づよえ
と申された。
更に大将語を継いで、
   さらば是より御湯殿山の御くらに成り、明日にぐわじゆ山(岩鷲山)をかける共、二そく(二足)四そく(四足)たべよ共、死火産火く(喰)共肴ば申すに及ばず食べても大事なし。
   是より此宅はおほうた所と相心得申すべし、月に三度づつ参詣致すべし。
扨私共申には
   只今迄ほうたに参られるともよき事が今迄のほうたにも参らねば人にも気も付けられ、是にもゑかのばなり申さず
   神をおがまなくてよし、おがみてもよし、おがむ節にはなんまえだと三べんとなえろ。
   誠にたとき事で、親に知らせな、女房子供にも知らせな、まして他人に知らせな、是を噺せばこぞう(五臓)はくされると申すなり、御ぼうすな(産土様)へ参詣致すとも、なかえ(長居)は無用、長え致せば、御ぼうすな様下産に出る、それを見ればわるゑ。
又申すには
   初日より七日しやぅじん(精進)致すべし、又二十五日二十八日急度しやうじん致すべし、何れも毎月三度づつけして(決して)しやうじん致すべし。
と申事に御座います。是から座組となる。

 この口述書は方言と当時の標準語とが入交っていて中々解りにくい。カッコ内は私(森嘉兵衛氏)の判読だが、恐らく近世の隠念仏の内容を最もよく伝えたものと考えられる。

2 本村の隠念仏

 本村の隠念仏は二派と思われ、いずれも山崎杢左ェ門から分れたものと思料されるが、これら二派とも何派であるかは明瞭でない。

 篠木の善知識馬場時治氏が、元治・慶応のころ、旧正月十六日、盆の十六日、十一月二十二日より二十八日までの一週間親鸞上人の命日をお七夜と称して布教に努める。御七夜中に御座(おざ)を立て、そこに信者をあつめて、仏教のありがたさを説き、知識さまから御取り上げをして頂き、常に念仏をとなえる事によって極楽浄土に参ると教え、この日から春の彼岸あたりの農閑期に御座立てが行われた。

 大正の初期には花巻の佐藤勘蔵氏が中心となれるも、現在は上米内の大崎長助氏が中心で彼を招待して教を受けている。

 大崎氏によれば、北は八戸・二戸・岩手・下閉伊・稗貫に広がり東京にもあると述べていた。本村においては、篠木の日向家、大沢は高田家・藤倉家・斎藤家・鵜飼・滝沢・川前・一本木の開拓・柳沢に広がっている。

 他の派は、大宮栄太郎氏の記録のごとく、現在は佐比内黒森の畠山巌氏が中心になっている。大釜の全域、篠木の武田家・中村家・斎藤家、大沢の善兵エど、谷地上の長四郎ど、姥屋敷の全域に広がっていると斎藤与次郎氏はのべている。なお同氏は畠山巌氏宅の年忌の際集った人々は雫石・西山・御明神・御所・太田・米内・佐比内・見前・徳田・大迫等二千人の多きに達したとのことである。

3 浄土真宗内法善知識代々記

浄土真宗内法善知識代々記(1)→  (2)→

4 子供の礼拝及び講話

 部落内の信仰者から善知識の都合のよい日(正月盆の十六日が多い)を選び、入学前の一族及び部落内の幼少の子供を宿に集める。控室で脇役から常日頃善行を積むように説話があり、本日より一週間精進をすること、正月とお盆の十六日には名号をとなえて仏を拝むこと、持参せる一切のものを出させられる。預め、善知識の持参せる「おろく字」(南無阿弥陀仏)を座敷の床の間にかけ、掛軸に向かって、左側に善知識、右側に脇役、先生と脇役の間に年齢順に並んですわり、そのうしろに各々の父兄が付添いをする。

 先生は「お前さん達はこゝにお座り下されて、後生の一代をお願い致したいと思っておすわりなされて、誠に結構で御座います。」に始まり、一人宛年齢順に六字の名号を拝み、二人の指導者通り名号を一回音を出さずに長めて称える。なんまいだあ-。その態度によって、「よろしい」「出来ました」、あるいは「おあずかりです」「残念です」と入仏の可否が極り行事終了となる。その後在家勤行として正信偈と御文章の第六通と第十二通を読み、講話、赤飯の会食、菓子等で散会となる。

 所により毎月一回か二回部落の信仰者が善知識を招聘して正信偈御文章拝読後説教に移り、質疑応答散会。ときには午前一時か二時に及ぶこともあったという。会費は米一升位までで限定せず。善知識に対する謝礼は志であって額がきまっていない。隠念仏を普及するのが目的であるから謝礼にはこだわらないという。