第三章 近代の行政

第一節 盛岡県

 明治元年(1868年)十二月七日同盟軍として官軍に拮抗した奥羽北越三十余藩は、領地の没収または削減、あるいは転封等の処罰を受けたのであった。

 官没の土地には、新官制に基づく知県事、判県事以下の官吏が派遣され、管地は「奥羽各県当分御規則」により県治が行われた。この期間は約半年ばかりだが、町村役員まで改正したほどで、制度の変革上画期的な時期であり、新しい県治を施行し、後の郡県制の端緒となったものである。

 一方社会人心の面においては、封建諸侯の扶助の下に生活をして来た武家士族が、必然的にその扶助から離れたために焦慮し、農民等は永年にわたる武士階級の圧迫からのがれて、すでに天朝の民であるとて放縦に陥り、秩序・安寧が著しく乱れ、富豪に対する強請、山林の押破り、前権力者への反抗等は、すべてこの時代の特徴であった。

 明治二年二月五日には、行政官の達しをもって「府県施政順序」をさだめ、施政の項目十三ヵ条をあげて、民政補等の基本を明かに示している。なお条項によっては追々達しが出されると思うが、大網の趣旨をよく心得ておくようにまた各府県により特別にこのほかの良法があったならば、忌憚なく申し出るようにつけ加えてあるが、その条項とは

 1 知府県事職掌ノ大規則ヲ示ス事
 2 平年租税ノ高ヲ量り、其府県常費ヲ定ムル事
 3 議事ノ法ヲ立ル事
 4 戸籍ヲ編制戸伍組立ノ事
 5 地面ヲ精覈(かく)スル事
 6 凶荒予防ノ事
 7 賞典ヲ挙ル事
 8 窮民ヲ救ウ事
 9 制度ヲ立風俗ヲ正ス事
10 小学校ヲ設ル事
11 地力ヲ興シ富国ノ道ヲ開ク事
12 商法ヲ盛ニシテ漸次商税ヲ取建ル事
13 租税・制度ヲ改正スべキ事

の十三項であり、まず

 第一に府・藩・県の三治が一致することこそ大急務であり、庶民が疑惑に迷わぬように、早く政令を出すように、

 第二に府県の会計官の大急務は、その管内の収入・支出を定め、

 第三に従来の規則を改正し、あるいは新しい法制を作るには、すべて衆議により公正な結果を得るようにし、一般庶民の心情を安堵せしめることが必要である。

 第四に京都府の制度にならって、戸籍を作り、五人組(五戸の組合)を組むこと。戸数・人口の多寡を知るのは民政の基本であり、五人組は庶民和合の根本である。

 第五に地面をくわしく調べ、郡村市街の境界を明らかにすることは、生産増加のため粗略にできぬところである。

 第六に管内の人口に応じて倉庫を備え、凶作や地変の救助にあてること。

 第七に人情風俗をあつくするため、忠義・孝行・貞節・義理にあつい者の行を表彰し、また合せて養老のこともおこなえ。

 第八に貧民を上・中・下の三等に分け、その救助の方法を講じて、次第にそれが減少するようにせよ。また貧院・養院・病院などの入費は、設置する市町村の戸口に割りあて多くの公金を使わないようにせよ。その施設の法はよくよく審議をとげ、その上で計画立案すること。

 第九に民政繁栄のもとは勧善懲悪にあり、また華美・専侈を禁じて質素・倹約をすゝめ、衆人が安心してその仕事に励むようにすること。

 第十に小学校を設けて国語・算数・習字を習わせ、願書や手紙や珠算などの用に立つようにして、また時々は国の成り立ちや、時代の趨勢をよく知り、忠義や孝行をわきまえるように教えさとし、人情風俗のあつくなるようにつとめるべきである。また才能抜群の者で、学業が甚しく進んだ者は、その志望する方向に進ませるようにすること。

 第十一に開拓や用水堰を作り、交通・輸送の便をはかり、種苗や牛馬豚鶏等の畜類をふやし、生産を増す方法を研究し、高所に立って遠大な計画をじっくりとおし進めること。

 第十二に上層下層を問わず、利欲に走ることをいましめ、庶民の利益促進に眼をつけ、次第に税法を定めて大成することが大切である。決して手近にあるからといって、小さな利益を求め、また目前の成功をあせってひどい政治を行なってはならない。

 第十三に租税の改正については、検地を正しく行なって石盛りを定め詳細に研究をつくしてから手を下すべきである。これは決して政府官庁の利益でなく、貧富得失のことを平均する方法であり、古来の定額にとらわれてはならない。現在のところ土地の肥瘠(せき)にかかわらず、相当の不公平が見られ、そのため瘠土の貧村はますます人口が減退し、肥土の富村はいよいよ繁栄して人口が増加する有様であり、貧民の有様は全く同情のほかはない。

 以上のような施政の大綱に添って、各条目については詳細に協議すべきであり、条令を作るのは容易であるが実績をあげるのはむずかしいから、まず一項目を施行してみて、その実績があがったならば次の項目に移るべきであり、全項目を一時的に簡単に施行してはならない。その土地の風俗を考え合せて順序を定めるべきで、最後に完備すればよろしいと施行の方法を示している。

 また施政の大網に追加をして、特に施行の最初に当って注意すべきこと四項をあげている。すなわちその

 第一として無理に租税を収めさせてはならない。民心の常として使途もはっきりしないのに租税のことを審議すれば、必ず疑いを懐くものであるから、税のことは最後に手をつけるべきである。大綱の第二に租税のことを記したのは、従来の収入高を知って費用の節約をはかるべき意味を持たせたもので、決して収入の道をひろげよというわけではない。税制の改正に際しては紛争の起ることがあり、その大部分は富者が貧民を煽動するものである。それは、貧民は富者の田畑を借りて耕すものであり、いま税率をあげれば結局貧民の年貢米が高くなるばかりであるし、反対に税率を下げたとしても、必ずしも貧者の年貢米まで下がるわけではあるまいから、その辺の情実関係をくわしく調査して、勇敢な決断に基づいて処置しなければならない。

 第三として庶民と共に議事をするには、衆論の中から最も中正妥当な論を取出すためである。もし議論の多数決にのみ従えば、常に紛争が絶えず、政治がスムーズに行われることはない。そのために施政の大綱ではことさら「議事ノ法ヲ立テル」と言っており、「議事ヲ興ス」とは言っていないのである。これらの内わけについては多くの説明が必要であろう。

 第四に賞罰の二つは政の大本であるから、どちらの一方を忘れてもならない。施政の大綱では賞典のことばかりで刑典のことにふれてなかったが、それは寛容仁慈の上意に基づき、賞を先にし、罰を後にし、教化をおしひろめて罰する民のないことをねがったためである。しかし一人の悪者を罰することにより、万人のいましめともなし、庶民の害を除くという方法は、政治を行うためには必要なことである。それで懲悪のことがらは、施政の大綱の九番目の「制度ヲ立風俗ヲ正ス事」という条文の中に含まれているわけである。

 松代藩盛岡県御役所が開庁されたのは、明治二年五月三日のことと思われる。

 すなわち盛岡城廻りの六検断に対して、旧領引渡しの達しがあり、同時にこの日、盛岡県御役所から申渡し十九ヵ条と中に八ヵ条を加えているので二十七ヵ条に及ぶものや、心得の条々二種十二ヵ条の布達があり、ここに画期的な官別に基づく盛岡県の政治が始められたわけである。

 この心得条目は、町村役員から印をとり、町村役員はまたその配下から印をとるという徹底ぶりであった。

 盛岡県においてほ、県庁事務開始に当り、県官幾人ずつかを遣わして、南部氏側の係役人と立合の上、その事務を引受け、かつその管内の村肝入及び老名全員を召集して、受渡しの趣旨を布告している。従って各地の代官所における引継事務は、五月三日以後に行われ、多少の時日の相違があったものと思われる。

 新発足した盛岡県は、同年七月二十二日南部利泰が旧地盛岡復帰を許され、十月十日盛岡県と花巻県から関係事務の交付をうけて盛岡藩になるわずか五ヵ月間のみに終ったのである。

一 町村役員の心得

 第一に、さき頃太政官から出された三つの高札や、その後追加された布告は定めの通り守り或は禁止の条々はかたく守ること。

 第二に村々の大百姓小百姓は、五人組毎に申し合い、第一条の趣をよく守り、商業を営む者は商売に励み、正しく身代を続けること。(付)商売上不法の利を貪り、又は物価を引上げて他人に難儀をかけ、非法不理をなし、家業を怠り、身分以上におごり、行いよからず、放埒の者があれば、役人や町役等が相談して訴えること。

 第三土地や店を借りる者、及び召使いの男女は、確実な保証人や寺請状のない者を使ってはならない。(付)芸人渡世の者を泊めおいてはならぬ。また神仏の名を借りて怪しい振舞いをなすものなどは、一夜も泊めてはならぬ。

 第四浪人やいぶかしい者がうろずいたならば、早く届け出でよ。但し押し借りや乱暴する者、刀等を振起す者は、取り押え打倒して訴えてもよい。

 第五冠婿葬祭等は、すべて身分相応にして無駄をせぬこと。(付)従来行なって来た祭礼のほか、新しく行わぬこと。ハヤリ神などを受け入れぬこと。

 第六貢の村割当てがあったら、よく確めて捺印して差出せ。また年貢の掛札は名主の宅か高札の場所に立てて惣百姓が見ること。

 第七貢の納入は、期限が遅れれば咎められるし、村の損となるから、油断なく上納すること。

 第八禁田は永久にまたは年貢上納を任せた売買をするな。田畑を質にする時は、年季を定めて役人や五人組中の捺印をもってきめること。

 第九開墾適地等があったら、狭い所でも申告をなし、また開墾した土地は届け出でよ。もし後で隠しておいたのがわかれば、地主や村役のあやまちとなる。

 第十博奕(ばくち)(三笠付(みかさずけ))のほか一切の賭勝負を禁ずる。

 第十一喧嘩や口論をつゝしめ。もし公の争いがあれば、その町や村が窮乏するばかりであるから、役人が意見して穏かにすませるよう、もしだめだったら訴えること。(付)喧嘩等で怪我人があったら宿にあずけて早速注進すべし。

 第十二通行中の旅人や乞食、非人が倒れたらは介抱して本籍をきき、病気だったら医者にかけて手当し、届けること。

 第十三火の元はよく仕末し、出火したら近い町村はもとより、最寄の所に駈けて消火せよ。また役人は失火か付け火かを調べて届け盗人ありときけば出かけて取り押えて届け出よ。

 第十四官林は勿論神社寺院の木や竹をみだりに伐(き)ってはならぬ。

 第十五苗字帯刀を許され、禄をもらい免租であった百姓町人は、さきごろ一切廃止されたから承知するように。但し特別の由緒ある者は詳しく申し出ること。

 第十六村の経費は無駄を省き、わずかの割賦でも惣百姓の納得により、あとで異議の出ぬようにせよ。(付)村役人はどちらへ出かけても用が済んだら早速帰ること。

 第十七町の経費についても、前条と同じである。

 第十八県官が御用のため廻村出張するときは、規定外の人馬を使ってはならぬ。勿論旅費日当手当を支給するから、賄などは一汁一菜とし、御馳走などしてはならない。(付)家来にどんなに些(さ)細な贈り物もするな。もし賄賂などのことがあれば必ず咎められるといっている。

 この条目と大同小異のものが、名主から配下に出された布令に対して、村民から趣旨の請け書を連名で名主に提出されている。

二 訴状箱と上書

 明治二年五月の「心得条目」と共に、同月四ヵ条からなる布達が盛岡県御役所から出されている。

 その第一は、今度の維新について、下意が上達するようにとの趣で、ためになる事、ためにならないこと、国の利益になることなどを忌憚なく詳細に書き記し、五人組や村方役人の奥書捺印をもって申し出るように。その外どのような願い事でも、定めた通りに願い出ること。但し、これに関して、役人共がみだりに保留したならばそのことを付け加え、他村の親類の名を添えて願い出ること。もしその親類もないときは、その事情を願い出るかまたは訴状箱に入れることとある。

 第二御役所の門前に訴状箱を出しておくから、他人にきかせたくないこと、または口頭で言い難い願い事や訴え事があれば、その事情を細かに書き記して、差出人の住所氏名を必ず記して、その訴状箱に入れること。

 第三禁制を犯して悪事をなす者があれば、その事実をくわしく書き記るして、同じく差出人の住所氏名を確かに書いて、その訴状箱に入れること。但しこの訴状に住所氏名を記入せず、不正なものは取り上げない。たゞちに焼きすてることにする。また場合によっては重罪に処する。かつ他人をおとしいれるために、事実無根のつくりごとを訴えたときは、取調べた上でその訴人を罰する。

 第四町村を問わず、大勢でよくないことを企て、徒党を組んで強訴に類したことや、または騒ぎを企て、所の役人もこれに加わったり、あるいは取り鎮めをせぬときは、最寄りの役所に届け出ることにより褒美が下される。

 この布告に対しても名主共が連名をもって承知しており、借地や借家の者共まで、もれなく申しきかせている。

三 褒賞と勧業

 明治二年五月三日、養老その他八条の布告が出されている。

 第一に高齢の者を撫養するため、八十八歳以上の者が居たならば年号と何年生れか、本年で何十何歳になるか、戸主との続柄、名前などをくわしく調べ、六月十五日までに町役人を経て届け出ること。

 第二父母、祖父母に孝養を尽すことが抜群な者。

 第三他人に親切で、善くない者には意見をなし他人の難儀を助け貧困な者を救い、節義に堅く奇特な行いの者。

 第四貞淑な妻や、産業に精を出す者。

 第五自分の仕事を特に励んで他の手本となる者があったならば、こまかに調書を作って審議し、それぞれの賞誉する筋に対して伺いを立てること。

 第六独身の老人や孤児、また不具者や羅災者などあれば、親類や五人組や重立った者が助け合い、力が及ばぬときは事の次第をくわしく申し出て、取調べた上で救助の筋に対して伺いを立てること。

 第七新田開拓の外産業開発の事について着想があったならば、遠慮なく申し出ること。審議の上で所用の資金を貸出すようにする。

 第八商売についても見通しがあり、地元の利益になるときは審議して、元金を貸すようにするから計画を申し出ること。(付)小商人でも出願の者や元金に困っている者は、それを貸してもらうように取計らってやること。

 以上のように表彰に関する五ヵ条と、助成についての三ヵ条が達せられたので惣町中の名主が連名をもって請け印をなし。それぞれ該当者の有無について調査を行い、来る六月十五日までに調書を差出すことを約束している。

 盛岡県では同年六月十五日限り八十八歳以上の老齢者を書上げさせたが、上田部内の厨川通において次の人々が養老の典に浴している。

旧文書→

四 郡村役人の選挙

 明治二年二月四日布達されところの、「諸藩取締各県規則」は、再達をみている。

 それによれば、郡村役人は従来の慣例にとらわれず、徳望のある人材を入札選挙して任用し、その人柄によっては県官に登用することも差支えないことを明示している。

 つまり従来は家柄によって役向きがきまっていたけれども、選挙によって大荘屋以下の役につけ、人物・才能を考査して、県官に登用するみちをひらいたわけである。

 いずれ五月三日から盛岡市中の旧検断は「名主」と改称され、郡村の旧肝入もまた「名主」と改称された。この改称によって、名主・組頭・百姓惣代の三つを三役と言っている。

五 人馬調査と農作行事

 明治二年五月二十八日、切支丹宗門帳の作成について、滴石郷中の名主(この名主の出てくる資料は極めて少なく、間もなくまた肝入となる。)助四郎から、配下の村役に対して差出した書面がある。

 この宗門帳は従来毎年行われていたもので、少なくとも享保以後(1736年)には、四年に一度集計を幕府へ報告することになっていた。南部藩では慶安四年(1651年)に領内の集計をした数字がみられるが、明治二年の宗門書上は、この種頬の最後のものとなった。

 ここでは届出人・名前・宗派などを帳面にしたもので、五月二十九日四ツ時(十時)までに、必ず名主宅まで差出すことを命じている。

 同年六月中に、夏の牛馬惣改めが行われている。藩政時代からあった馬肝入が廃止されたので、今回の名主・組頭・百姓惣代の三役が立ち合って、調査の上書き上げることになったもので六月二十五日明け六ツ時(六時)に調査を実施するから、今年生れた仔馬を入れて、すべての馬を馳下野に集めておくように、五人組の組子まで通達するようにと指図をしている。馬改めとあるところをみると、秋改めか冬改めもあったように思われる。

 同じ月の二十四日には、名主助四郎の名をもって、開発新田を見分けるから、その場所へ立ち合うようにとの通達を行なっている。

 明治二年が凶作であった。滴石郷においても、この天候不順を心配して、五穀豊穣の祭礼で神楽を奉納することになり七月二十六日雫石の鎮守天照皇大神宮の社内で催された。当日は滴石郷中の百姓等がすべて休日とするように、五人組の組子まで触れ廻るよう通達を行なっている。

 以上は『岩手県史』にある人馬調査を農作行事であるが、本村においても滴石郷と同じであったであろう。

六 紙幣の通用と米屋の鑑札

 新政府太政官会計局から発行された金札(紙幣)は、かねがね政府から使用をすすめられていたが、一般には金貨・銀貨が重用され金札のことは俗に「太政官」と呼称して軽視された。その上金貨・銀貨の両替相場に差異があったりしたので、明治二年四月には行政官から布達があり同五月には民部局官から布達が行われて、今後は紙幣のことを「金札」と呼ぶようにし、「太政官」と唱えることを禁じたのであった。

 盛岡県においても、これによって六月二日、布告を出して金札の通用をすすめ、金札も金銀と同様に取引することを命じ、もし不同の取扱いをした者は曲事に申付けるといっており、町内の借家をしている者まで廻状を出し、請け印をとって趣旨を徹底せしめた。しかし金札の通用が思わしくなかったので、八月六日には改めて布告を出し金札や金銀に「段等」をつけたり、受け取らなかったりした者があれば、その者の名前を届け出るように指示しており、その者は厳重に処罰されることとなった。

 また同八月十七日には、米穀商及び搗米屋に対して、仲間できめた鑑札を渡すことになった。従ってこの仲間以外で米穀商をしたい者は、特に願い出て鑑札を受けることになり、もし無鑑札で売買をすれば、その品物を没収して咎めることになったから、城下の惣町の末端までよく徹底するようにというものである。

 新政府により発行された太政官会計局の金札通用に関し、政府よりはかねがね通告を発してあったが、明治二年に至るも不徹底の嫌いがあったので、同四月行政官より、同五月民部官より、それぞれ布達を発するところがあった。これにより盛岡県においても六月二日布告を発している。

七 租税と作柄調査

 南部利泰(ゆき)は、明治二年の租税を盛岡県と花巻県等から請取るように命ぜられ九月には白石から盛岡に転住した。

 盛岡県では同年九月、管内に布告を出し、九月中に管内の作柄を調査するように命じた。

 九月十一日には、盛岡県御役所から、毛見(作柄調査)の知らせがあって、明日中にも実地踏査があるかも知れないから、名主は十二日から内検見(下調査)をすることになったので、今日中に細見(さいみ)(個人別調査)をするようにと組頭に指示している。

 細見は百姓が所持する田形について、地続きの場所を一括して〆高(何十石何斗)とし、さらにそれを一筆ごとに内分け(給所・歳入の別)したもので、早速それを立てさせるように五人組組子へ通知することを命じている。

 またそれと共に、坪刈りを実施する所を、上・中・下の三段階に分けて残しておくように申し添えてある。

 九月十三日には、盛岡県書記西村半六が盛岡を出発し、志和・稗貫郡下の向中野見前通-飯岡通・徳田伝法寺通・日詰通・八幡寺林通・長岡通りの各代官所支配地を廻村し、南部盛岡藩からも、神・瀬川の両人が付添って出張検見を行なっている。

 (1)検見を受ける村方では、村役人と地主が立ち会い、内見帳に比較できるよう田ごとに立札をしておくように、また検見の下働きをする者は、心得違いや粗末な取扱をしてはならない。もし不埒な者があったならば、村役人全部を厳罰に処する。
 (2)川欠や荒地なども、こまかく取調べるし、開墾可能の場所も正直に申すこと。
 (3)先触れの人足以外には差出す必要がない。また旅宿は補築などせず、なるべく一軒で間に合わせるように賄も有合せの一汁一菜だけとすること。
 (但)従来は多勢の人足を出す悪い習慣があるから、厳重に守ることを指示し、この廻状を写し取り村々の末端まで触れるようにいっている。

 西村半六等の一行は、検見御用のために九月十三日朝六ツ時(六時)盛岡を立ち、それぞれ廻村をはじめたが、そのため駕籠人足七人(三挺分)、長持等の人足六人、合計十三人の人足の継立てがスムーズに行くよう、また上・中役人(明治二年五月頃の禄高は一年三斗七升俵七十俵、中士は一年三十五俵、下士は十八俵であったが、十一月八日の俸禄は上士百二十俵、中士六十俵、下士は三十俵、卒族は十五俵であった。)八名が休憩や宿泊をするのに差支えないよう、順送りに達するよう。向中野廻りの村々三役に対して先触れを行なっている。

 本村を含めた厨川通りも十三日以降月末までの間に調査されたであろう。

第二節 盛岡藩

 明治二年正月、薩長土肥四藩が連合して、土地・人民・版籍奉還の建白が行われ、六月には全国諸藩士より版籍の奉還となったのである。旧藩主は、一応その藩の知事に任命され、従来の諸侯は華族に、扶禄の士は士族となって知行より離れ、土地と人民は悉く朝廷に帰し、政令が一途に出ることとなった。官制上から見た藩知事は藩と称する一行政区域の長官であって、政府から任命された一地方の行政長官に過ぎず、従って、その藩の役員も、一地方の官吏に過ぎなかったのである。とはいっても、藩治において旧藩主は藩知事であり、もとの臣下が役司に坐っているので実情は旧態依然たるものがあった。

地券

 この変革によって、各藩が従来扶養して来た家臣を当然藩の扶養から離して、自活せしめなければならない運命となり、藩の有司以外は皆永暇を出し、失職武士に対して職業指導をしなければならない重要な社会問題となったのである。

 同年七月二十二日南部利恭(ゆき)が旧盛岡復帰を許され、その報告が急便をもって東京から盛岡に同月二十八日に到着している。十月十日盛岡県・花巻県から事務の交付をうけて、十三日盛岡城を受取り、十六日には一切の授受が終了し盛岡藩が始まったのは土地及び帳簿の引渡しを受けた十月十日である。十五歳になる南部利恭が藩知事になったのである。地方郷村に対しては十月十日付をもって、南部利恭へ管轄地を引渡した旨盛岡県から布告を出している。この盛岡藩は明治三年七月まで僅か一ヵ年間存続した。この旧慣から新機構へ移行することが容易でなく、明治四年までかかったのである。

一 五部令所の開設

 旧藩時代の代官所を幾つか統合して、十一月には上田部・日詰部(後に郡山部)・花巻部・沢内部・沼宮内部となし、各部には藩の官吏が常勤し所管の郷村を統治している。

 本村は上田部の所轄にかかる、雫石通・厨川通・向中野通・飯岡通・上田通・見前通の厨川通に属し、厨川通は下栗谷川・上厨川・大釜・篠木・大沢・土渕・鵜飼・滝沢の八ヵ村から成立していたのである。

 盛岡藩知事に引渡された郷村高は、四郡十三万石で、岩手郡五十五ヵ村、紫波郡四十六ヵ村、稗貫郡五十一ヵ村、和賀郡十ヵ村合せて百六十二ヵ村(幕府書上の郷村)であった。本村の
大釜村は八五八石〇七六
篠木村は六五一石九六五
大沢村は一、五四七石二四一
鵜飼村は高一、〇二三石八四九
滝沢村の高は脱けている。

二 郷村の役職制

 盛岡藩において前に盛岡県において施行した町村の三役名「名主・組頭・百姓惣代」を旧領時代の旧称に復し、再び検断・宿老・肝入・老名と称したが、さらに十二月にはこれを改正し、翌三年二月には、全く変革し、従前の肝入を村長・老名を副村長と村長市長制を採用し、馬肝入を厩長と改称している。

 村の大小は、その村の石高により、大村・中村・小村と三区分し大村には副村長を三人とし、中村は二人、小村は一人と定め、一人の村長は二村乃至三村をも兼務している向もある。

大釜村 村長 日向 伝吉 戸長 武田理右衛門(六年二月)
篠木村 〃  主浜甚十郎 〃  武田市郎兵衛(六年二月)
大沢村 〃  沢村 三治 〃  三上 善兵衛(五年十一月)
鵜飼村 〃  囗囗 長六 〃  赤石宇右衛門(六年二月)
滝沢村 〃  囗囗 長囗 〃  井上孫右衛門(六年二月)

三 土地制度

 土地の所有権については、従来田地の売買は禁止されてあって、妄りに売買したり譲渡することは出来なかった。しかるに社会経済の実情は、その規定があるにかかわらず、元禄以前(1687年)すでに効力を失し、永代売買が行われだしており、藩政末期になると、公然売買が行われていた。

 明治政府が成立して、庶民が土地を所有することを認める方針のもとに、府藩県に内々調査をなさしめた。盛岡藩では、明治三年四月管内に布告し、所有権確認のため、藩の民事局が村長等の証明によっては、一先ずその所有権を確認するということになった。民事局というのは、戸籍や田宅租税等のことを取扱う役所であったのでそこで扱うことになったものであろう。その確認を得るために括券(こけん)状の提出をすること、または所有を確め得る事柄を書き出すことを指示している。はじめ四月二十五日を期限として括券状の提出をなさしめたが、徹底しない向もあって、さらに提出期日を六月までとしたのである。

 村方で所有を確認さるべき持主は「士族華族社寺三氏」あるいは (旧文書→) とある。沽券状を持っているものは、もちろんそれによって所有権確認の民事局印を捺すこと、その他の場合でも所有を確認するに足る事情があれば、たとえ村留帳に登載されてなくとも、正副村長の奥印ある事由書を作り新券状として差出すと、民事局で確認の印を捺するというのである。但し民事局捺印の場合は新券全部の捺印ではなく、あらためて地券を調成する場合のみの捺印らしい。

 下掲文書によると、上田部令所で「持田畑書上の儀、五月二十五日限り、諸始末類相添え、差出す可き旨、御布告のところ云々」と布告したが、六月下旬に至っても提出の村があったので、七月五日を期限として提出を督促している。またこの持地の券状を調成するに当って、その手数料とも称すべき「判代銭」の標準を布告し、過分の謝礼金を申請けることを禁じている。慶応四年(1868年)三月鵜飼、四月には大釜・篠木・元村の検地がなされている。この検地によって、明治二年(1869年)まで年貢や諸役金が賦課されているから所有権確認には、最も信憑(ぴょう)できる土地台帳であった訳であろう。このことは藩内各村でも、最も新しい検地の名寄帳を利用した例として注意されると共に、家別所有権確認の券状として重要である。

旧文書→

 所有権の確認に関し、その土地が繋争中のもの、或は境界の不分明なるもの、所有の事実不確実なるものに付いては、その帰趨を決定する必要上、両者の証拠提示及び該町村長の意見の具申、または出頭せしめてこれを判定している。この場合は藩の訴訟掛りにおいてなされた。

 このようにして盛岡藩では、明治三年四月から、土地の所有権を確認するため、検地帳等によって、戸ごとに新地券の調整をやり、正副村長の証明捺印ある末書を副えた。この新地券は、その後、明治五年の太政官布令による土地所有権公認の際、そのまゝ有効として確認されることになり、正副村長・百姓代の証明末書捺印となりそれに郡長が裏書捺印して再確認されるようになる。

 盛岡藩では明治三年二・三月のころ、管下各村に命じて山林を書上げさせた。

 山林制度は旧藩時代のまゝ慣用されており、維新政府においては漸次これを整理する方針に出で明治三年三月には民部省より各府県に指示しその管内山林を書上げさせた。盛岡藩においては同年二月山林の方位御山守人名、山林名称等を各部令所を通じて録上せしめた。

四 年貢・租税

 新盛岡藩は、新政府下の一行政区として、明治二年十月事務を開始したのであるが、この年の年貢請役金は、従前の例に準じて徴収されると指令されてあったから、その旧慣によったものと考えられる。

 明治二年七月は天候不良で、稲作の生育が思わしくなく、各地方においては快晴祈祷のために鎮守神社に集合し臨時祭典を挙行したかいもなく、遂に大凶作となる。昨戊辰の年は戦禍に見舞れ生計を脅かされたのであった。

 そこで、年貢歩付のために盛岡県(松代藩)の役人と、新盛岡藩の役人は、郷村を実地検分し、それによって収納を決定する方針をとり、御役金も、充分筋のたつものは、従来の例に準じて徴収をした。

 決定された歩付は、六尺五寸四万一坪にある籾の量を確定し、これを三等して、三分の一を年貢米、三分の一は御村税の諸懸、三分の一をもって農民の収穫飯米と定めた。よってこの年の盛岡藩の収納は四分の一に満たなかったといわれ、その凶作の猛烈さが窺われる。

 盛岡藩ではこの凶作に対処し、管内に命じて米穀の移出を禁止し翌三年四月には更に強化の方策をとり、且収穫皆無の田畑には免租を布達している。

 新盛岡藩の管内は、四郡で表石高は十三万石であるが、その管内より収納される全穀は、平年で米十八万六千五・六百俵(六万九千石前後)、大豆四千四百俵程度、御定役金銭一万九千九百両程度と見込まれていた。十月ごろの算定で、平年作による藩の経常費は、米だけでも十六万俵程度を必要とするものと推定されていた。

 しかるに明治二年の農作は稀有の凶作で、米穀の滅入は予想より甚しかった。翌三年四月の記録は六十九俵不足としている。それでも当初予想した十六万俵の米を十万二千八百九十俵程度としての経費である。いずれにしても、藩財政は明治二年の大凶作によって極めて苦しかったことが推察されるのである。

 御役金の納入は、旧南部藩政時代より種々の名目で徴収されていたが、新盛岡藩になっても、公的な筋の通るものは従来の通り賦課されていた。伝馬や人夫賃の割付がそれである。次掲上田部の十一項目にわたるものは、従来の慣行を調査した際の記録でもあろうか。

 また御役金は、高百石の地について金二両、伝馬高は高百石の地について金一両を賦課されており、それを春上・夏上・秋上・暮上として、年間四季に徴収された様子である。これも旧南部藩時代からの仕来りであった。夏上役金が五月五日を納入期限としたが、この年は田植の農繁期を考慮して、五月三十日まで延期する旨を正副村長に布達している。

旧文書→

夏上御役金、前例の通り御役高は、百石弐両積り、伝馬高は高百石壱両積り割り付け、五月五日取り立て皆納申すべき旨、去月御布告の処、今以て早俄取(はかどり)上納これなく、御遣方甚だ不都合に候え共、兎角昨今の処ハ田植仕付中にもこれあるべく、右に付き、村長副村長早俄取り立てに至りかね申すべく侯え共最早や田植仕付済にもこれあるべく候、近村仕当月晦日限り、遠村は来月五日限り取り立て皆納申すべく、若し右日限一日をも相後れ候向は、村長共用捨なく急度申し達すべき筈の処、今に仕付済かね候向もこれあるべき哉に相聞え、迷惑にもこれあるべきに依り寛典の思召を以て書状差し出し候条、前文の次第得(とく)と思慮致し上納日限取り伺い廻状参着次第差し出さるべきなり。
  五月二十三日
                     上田部民事出張所
                 村々村長共

御年貢米御枡立従前は其時節に至り候えば年々御布告なされ候え共、以後は秋分日を以て御枡立日に御定なされ候条、比の旨小間居御百姓共に至るまで洩ざる様進達申すべきなり。
  七月二十九日
                     上田部民事出張所
                 厨川通村々村長共

五 廃藩事情

 南部利恭の藩知事辞職については藩の有司の問に与論化し、ことに進歩派が「南部藩は常に勤王の名家なりしも、維新に当り一時方向を誤(あやま)り汚名を蒙るに至った。其雪冤(えん)の為にも維新政治の眼目たる郡県政治へ還元せざるべからず、依って南部利恭自ら卒先して藩知事の職を辞し、以テ勤王の二つなきを表明するに如かず」というのであった。

 前の趣意により、南部利恭は明治三年の春に至り、しばしば上申して盛岡藩知事の罷免を請い、県制の施行を建言したのであった。盛岡藩の廃藩置県は全国二百五十余藩に先んじてこの挙に出たのである。ところが政府の要路者は、「広ク天下の政道に関係致し侯儀にて当時朝廷の御見込と相違致し候筋もこれあり、御採用とは相成ず」としてこれを却下したのである。

 当時の政府当局者は、薩長等の大藩に気兼し廃藩を断行し得なかった。しかし単に南部利恭の藩知事職の辞職を認める方針に出たので盛岡藩も止むなくその建言書を撤回し、さらに改めて藩論を取まとめ、明治三年五月十五日藩知事辞職を願い出たのであった。しかるにこれも採用せられず、その志は嘉とすべきも、勉めてその職を奉ぜよと命があり、よって六月二十八日さらに願い出たのである。再三の建言により、七月十日その願意は許可せられる。よって盛岡藩が廃され、盛岡県がおかれることになった。

第三節 盛岡県

一 はじめに

 盛岡県は、明治三年(1870年)七月十日をもって設置のことが布告された。その管轄は四郡十三万石の範囲で盛岡藩の管轄と変っていない。従って、前盛岡藩の士族卒族は、盛岡県所属となった訳である。管轄範囲も変らず、県庁も元の藩庁舎がそのまゝ利用されている。また県官としても元の藩の官吏を多く任命替され実質的には前藩の延長の様相を呈したのである。

 しかしながら諸般の行政は大いに革新され、町村の制度又組織だって実施を見るに至った。この時『郡中制法(同節二、参照)』、並に『村役心得条目(同節三、参照)』が本県に適用されたものと思われる。

 明治初期の民政は新旧種々雑多であったから、明治三年十一月、『三陸会議(同節四、参照)』を開催して、それが同一方向をとることになる。

 明治四年二月十五日から三月末までに三十九人の郡長を任命配置し、通番をもって呼称する。この郡長制は同五年六月まで存続するのである。

 明治四年十月二十三日県内を三十九区に分割し、各区に郡長・戸長・副戸長・祠官・祀掌がおかれ、郡長の下に村長・副村長・百姓代・伍長をおいたのである。

 同四年十一月二日盛岡・一関・胆沢・江刺の四県の廃止が布告され、一年六ヵ月にして、新しく盛岡県(陸中国閉伊・和賀・稗貫・紫波・岩手・九戸の六郡)・一関県が十一月十七日におかれることになった。しかしながらこの三十九区の区画はそのまゝ従前通りに慣用され明治五年に至る(この番区制は明治十二年の改革まで続く)。

 同年十二月八日、区内の伍長は戸長にて人選し、県へ申出ずべき旨定められ、これによって県より命ずることとなった。

 新置盛岡県が明治五年一月八日岩手県に改称し、同年六月岩手県管内を二十一区に編成し直したのである。明治三年七月十日に設置された盛岡県の所管範囲は、わずかに四郡に過ぎなかったが、盛岡城や花巻城があって、旧南部領の中心地であること、旧二十万石時代の多くの士族卒族を抱えていることにおいて、多くのむずかしい問題があった。明治元年の戊辰合戦の痛手、翌二年の大凶作の善後措置、七十万両の献金、藩兵の縮小による解放士卒の就職、士族卒族一千六百戸の帰農と一千町歩の拓植など、問題が山積していた。しかしながら内治には社寺を整理して三十九区の戸籍を作り、土地の所有権を確認し、教育制度を改革し維新後の錯雑した時代に第一次整理を果したのである。

二 郡中制法(明治二年六月四日民部官達)

     =次の条目と共に民制に関する維新後の成文法の最初のものである

  条々
一、御高札の旨謹んで相守るべき事
一、追々布告する趣違背すべからざる事
一、邪宗門並に怪異の宗法堅くこれを禁じ然る上は五人組互に詮索し不審の老これあるは速に申し出ずべく若し緩せにして他より洩聞えるにおいては五人組の者も越度たるべき事
一、五人組の儀は家並に最寄を以て組合親しく相交るべき事
 付 組内喧嘩口論其他故障出来の節は五人組頭へ届け、五人組頭取捌がたき時は戸長へ相届けなるべくは村内にて取治むべし万一心に任せざるときは区長に届出共々取り纏めの手段を尽すべし自然其揃にも任かせぬ時は申し出ずべき事
 付 他所人人別に加り度願い出るものあらば出所産業等聞き糺し是迄の在処役よりの送籍状を取り人柄不審もこれなく請人等もこれあらば其書ものをも取り置き五人担え加ふべし其儀なく不審の者留め置くにおいては五人組のもの越度たるべき事
 付 他処人出稼に来るものも同断是迄の在所役人の添書を取り人柄不審もこれなく請人等もこれあらば其書ものをも取り置き滞留いたさせ兼て司法相違し置く通り取計べし其儀なく不審の者留置において家主五人組とも迄も越度となす事
 付 他処より年限奉公人雇入る時は篤と取糺し親元名前年齢等書き記し戸長へ届出べし其儀なく不審のもの留め置くにおいては主人の越度たるべき事
 付 他所へ転居此地の人別を外れ度願出るものは組合村役旨趣詳に聞き糺し道理至極の俵あらば送籍状差し出し先方へ人別に加へ此地の五人組を除くべき事
 付 年限を以て他処稼に出るものも同断村役より添書差し出すべし尤帰り期限を誤るべからず拠なく滞留致すにおいては其趣速かに申し越すべき事
 付 組合死生縁組改名田畑山林売買譲与其外廉立出入これあるは其度に戸長江相届け戸長より区長江相届け戸籍へ書き記すべき事
一、村内懇和し吉凶相助け善を励め悪を戒め共に渡世の安穏を計るべき事
 付 鰥寡孤独廃疾無告の窮民は村内互に申し合せ常々心を付け救助申し出で等遺漏沈滞これあるべからざること
 付 火災盗難或は病気等にて産業を失ふものあらば組合村内心遣ひ産業に基かしむべし心に任かざる事あらば速に申し出ずべき事
 付 盗賊乱暴人水難火災等都(すべ)て非常警めの儀は五人組村内にても兼て申し合せ置き急変相救ふべし事柄により隣村よりも互に相救うべき事
 付 盗賊悪党搦捕申し出るものは褒美を与ふべき事
 付 用事に付き他国へ出るものは其趣を戸長へ相届け戸長より往来券を取り罷り出ずべし然る上は他国において病気或は死去等の儀相聞えらは親類組合の内又は村役人の者罷り越し一件取り捌くべき事
 付 諸事心得身持ち宜しからず放埒なるものあらば五人組村役人教諭を加へ善道に導べし自然徒党を構へ折檻を用いず悪行相募るにおいては訴え出ずべき事
 付 善行奇特のものあらば申出べし善人の出るは兼て示し方よろしき故にて其組合其村の美事たり当人は勿論品により戸長五人組のもの迄も褒美を与うべき事
一、農業を勤めず不正の商売を事とし高利を貪る事堅く誡むる所なり諸事農家の風を失はず耕作精々相励むべき事
 付 有徳の百姓米銀を貸といへども過当の高利貪るべからず貸家かし地等も同様なるべし諸職人作料手間賃申合せ高値にすべからざる事
 付 米穀商物買いし或は申し合せ高価にすべからざる事
 付 出処知らざる物品は質に取るまじく出所知れたるものにても請人これなき品は質に取るべからざる事
 付 盗物買取り又は質に取置くものは品物取り上げ申す付べし盗物と知りながら買請け又は質に取るものは咎(とがめ)方をも申し付くべき事
 付 贋せ金銀其外悪たくみを以て人の眼を掠むるものあらば速に訴え出べしたとえ一旦其事に携るといヘビも其咎を免し遣すべし
 付 人の売買堅く禁止の事
一、博奕其外賭勝負堅くこれを禁じ若し竊に取扱ふものあらば訴え出ずべし隠し置き他より洩れ聞えるにはおいては村役人五人組迄も越度となすべき事
一、横死人自害人溺死人倒れもの等これあらば番人付け置き注進とぐべき事
一、往来のもの怪我病気飢渇等にて相煩はゞ医師へ見せ能々介抱いたし遣すべし若し歩行も相叶はざる時は其者の在処承り村送りにして送り居るか叉は迎を呼寄るか疎略なく取扱致すべし病気するときは其者の道具等紛失せざるやう封印締りにして在所へ掛合うべき事
一、捨子堕胎制禁なり自然貧窮にて養育能はざるものは申し出ずべく救助し遣すべき事
 付 捨子されある節は村内申し合せ養育致し置き届け出ずべき事
一、出処慥かならざる者へ宿貸す間舗(まじく)都(すべ)て旅人止宿を乞ふ時は在処其外開き糺し往来券相改め村役人へ相届け其上にて止宿いたさすべし一已の了簡にて宿貸すべからざる事
 付 遊女野郎の類一切留め置くべからず一夜の宿もかすまじき事
 付 社寺堂宮に隠れ忍ぶ胡乱の者あらば近辺のもの申し合せ吟味致し搦捕注進とぐべき事
 付 他所より不審のもの入込は五人組所、役人等吟味品によりては搦捕注進とぐべき事
一、新規の社寺建立停止の事
 付 猥りに僧尼と成る事これを禁じ自然理至極の儀これあるにおいては願い出で免許を請くべき事
 付 仏名題目の石塔供養塚石地蔵を建立の儀向後停止する所なり理至極の儀あらば願い出で免許を請くべき事
一、神事仏事祭礼等の節山鉾英外相応からざるところの寄附たとへ旧例たりとも減省致すべき事
 付 神仏開帳所届け出での事
一、角力芝居狂言を私に興行すべからず願い出で免許を請くべき事
一、兼て免許これなき場所にて遊女芸妓等抱え置くべからざる事
 付 百姓の妻娘共三味線舞曲等の遊芸を専らとし遊客酒宴の席に立ち交り芸者遊女等の見習ひする事堅く相誡むべき事
一、身分に応せざる饗応事僣上矯奢の風儀相誡る所なり聟取嫁取養子取り組み出産年賀葬祭等の儀花美虚飾を省き実意を旨とすべき事
一、田畠荒さざる様心を用ゆべし若し水損等にて荒地となり起し返し一家の力に及ばざる処は村中互に助勢すべし村中の力にも及ばざる程の事は申し出ずべき事
 付 永荒地起し返し又は新田畠開き立ては届け出ずべき事
一、田畠を開き然るべき地は村々申合せ村役人立ち合い秣場作導等の妨にも相成らざるは申し出ずべし新に聞き申し付くべき事
 付 堀を埋め溝筋道筋を付け替え又は新に堀堤等築くときは村役人立ち合い吟味の上に差図を請くべき事
 付 用水堤田畠の境界等常々申し合せ置き争論すべからざる事
一、溝川道橋堤防等大破に至らざる内修復を加えべき尤も下においての普請に成りがたき程の儀は申し出ずべく洪水等の節は村中立ち会い守護すべく其儀もこれなく且常々修復を怠り大破に及ぶ事其村村役共の無念となすべき事
 付 川中寄洲等を私に田畠を開き又は樹木を植え付け家屋を構る事停止の事
 付 堤防川岸等へは柳呉竹等を植え出水の節の囲に相成るべき様常々心配りをとぐべき事
一、御林御立山の竹木枝葉たりとも御用の外採用停止の事
一、耕作秣場等の支りに相成らず土地見立樹木植え置くべき事
一、出役の面々権威を振ひ或は私曲を構へ無理を仕掛る等の事あらば隠さず訴え出ずべく末々家来下人等にても同断とするべき事
 付 廻郡の節饗応体の儀一切停止の事
一、賄賂堅くこれを禁じ種々名目を付け軽き品にても差贈をましく別て出役の面々之は是迄如何程の因々これあるとも音信礼物を差し出す事一切停止の事
一、諸事公論に決し衆庶出処をえ各志を遂けしむる事 王政の御趣意たり其旨に背き諸人を妨るものあらば村役は素よりたとえ在官有司の面々たりとも憚りなく訴え出ずべき事
 付 村役公撰入札の儀依怙贔屓なく家格に拘らず至当の人材申出ずべき事
 付 議事に下す事件私曲を構へず忌諱(きき)を憚らず公正に申し出ずべき事
 付 何事によらず世上の為と相成る事心付けは何時にても申し出ずべき事
上条々堅く相守るべく是永世の制法たり聊も違背すべからざるものなり

三 村役心得条目

1 区長心得べき条々

一、区長之儀は区内諸村戸長共へ伝達の事件を始め平生諸世話駈引等其役務たり時により一区内の惣代に相立つべき事に付き謹で御仁政の御趣意を奉し精勤とぐべき事
一、区内諸村より申出る俵を是非をもはからず差押へ情実を上達せず或は公事訴訟に付き賄賂を受け依怙の取り計致す間舗(じく)戸長共へも此旨常々申し聞せべく自然不心得の者これあるは速に申し出ずべき事
一、郡中へ相伝る趣遅滞なく速に戸長共へ伝達し旨趣富に申し聞かすべき事
一、役威に傲り驕奢専大の所行固くこれを禁じ常に正直篤実を旨とし諸村役の模範と相成るべき様致すべき事
一、村々懇和互に扶助保護の手立てをなし常に花美の奢を警め無益の費を省き区中成立の心遣肝要となすべき事
一、善を勧め悪を戒め風儀を宜に導き区中永世の繁栄をはかり窮民救助凶年手当等怠りなく心配りをとぐべき事
一、常に戸籍の取り調べ怠らず支配の区内に不審のもの留置すべからざる事上之通可心得もの也

2 戸長心得べき条々

一、戸長の儀は支配内百姓共へ伝達の事件を始め平生諸世話駈引等其役務たり時により支配内の惣代に相立つべき事に付き謹で御仁政の御趣意を奉し精勤とぐべき事
一、役威に傲り尊大驕奢之所行堅くこれを誡め村内百姓ともより申し出る儀を是非をもわかたずさし押へ情実を上達せず或は公事訴訟等に付き賄賂を請け依怙の取り計等いたすまじく方正廉直を旨とし条理明らかに取り計るべき事
一、追々相違する趣屹度相守り諸布令其外伝達遅滞なく速に取り計旨趣審かに村内の者共へ申し聞すべき事
一、村内の者離散せざる様相心掛け貧窮のものあらば難渋いまだ行詰ざる内扶助の手立をなすべし自然下において心に任かせざる程の事は速に申し出すべく常に花美の奢を警め無益の費を省き農業を勧め請人成立の心遣い肝要となすべき事
一、隣村相親み互に気を付け諸事申談隔絶する事これあるべからざる事
一、田畑荒れざる様提防溝川道橋等修補に怠るべからず自然水損等にて大破に及ぶにおいて普請調えがたき程の事は速に申し出ずべく荒抑場起し返しの儀も村中申し合せ精々心遺べく百姓の力に及ばざる事は是亦速に申し出ずべき事
一、田畑用水水筋山林等境界を正し争論起らざる様兼て心付くべき事
一、御米蔵の儀常に心掛雨もり等これなき様修復を加うべく勿論番人等緩せにすべからざる事
一、収納米其外諸上納物念を入れ百姓のいたみに相成らざる様心掛くべき事
一、官用と号し村内へ不当の出金いたさせまじく村内諸入費成(なる)丈けは相減じ明細に書き記し置き百姓中疑を生ぜざる様其訳具に申聞せ清廉の取り計肝要となすべき事
一、水利を起し土地を開き良木を植え付け物産を盛んにし永世村里の栄をはかるべき事
一、善を勧め悪を誡め風儀を宜に導く事村役人の勤方にあり心得方宜しからざるものあらば慇懃に教諭を加へ行状を改めしむべし且又諸役人を抽て心得よろしき者あらば逐一に申し出ずべき事
一、会所集議の節飲食に長じ叉は雑話に打ち過ず費用を省ぶかず職業を妨る事堅くこれを禁じ心得違いこれなき様村内へも兼々申し聞すべき事
一、常に戸籍の取しらべ怠らず支配内に不審の者留置すべからざる事
一、凶年飢歳の手当怠なく心配りをとぐべき事
一、火の元別て入念相慎み候様申し付くべき事
前之通相心得べきものなり

四 三陸会議

 三陸(陸前・陸中・陸奥の三国で、現在の宮城・岩手・青森の三県をいう)地方には、明治二年に新しく藩県の創置されたものがあり、管地は互に錯綜し、施設の混乱も甚だしく、あるいは旧慣に従うものがあるかと思えば、あるいは新制を実施するもの等があり、民政の種々雑多なることは、実に無統制極まる状態であった。

 ここにおいて、民部省から指導官が来り臨み、涌谷町の登米県庁において、四県(盛岡・胆沢・江刺・登米)、二藩(仙台・一の関)の高官が参集して、三陸会議が開催されることになった。会議は明治三年十一月十三日から同十七日まで続行されたが、その内容は左記の十六件であった。

 すなわち、(1)明治四年から検地を実施すること。(2)来年から総検見を行うこと。(3)年貢米を廻漕する船のこと。(4)石巻商社を三陸商社と改名すること。(5)備荒倉を建てること。(6)育子の法。(7)郡村の規則。(8)訴獄の規則。(9)出納の規則。(10)各県の分課。(11)悪銭引替上納の策。(12)土木の積り。(13)官吏の巡村について。(14)銭相場一定の事。(15)山林調査について。(16)徒刑人扱の事。

 この会議は、各藩県に関する民政自治の事務執行細則が多く、殊に三陸地方に新設された諸県は、置県後日なお浅く、その制度もまちまちで、統治と支障があったので、それらの諸条件を統一制定することは絶対に必要なことであった。

五 村の役職制

 盛岡県では、三陸諸藩県会議の協定による郡村役人の実施は、明治四年(一八七一年)二月十五日以降実施している。この協定によると、郡村には、郡長・村長・副村長・百性代・伍長の五種類の役人をおくことを決定している。(同年十月二十三日実施)

 郡村現則(同節六参照)は五ヵ条からなり、伍組の編成から伍長を定め、伍長の中から百性代や町人代を選定すること、村長・市長は公選して官が任命すること、村や町の大小により副村長・副市長幾人かを公選し官が任命すること、郡中の最寄によって村町が組合その村町を一統する人材を精選し、官がこれを命じて郡長とすることとしてある。

 役員の定則としては、村の石高によって、村長たゞ一人の場合から、百姓代四人・副村長三人・村長一人の八人の場合まで六段階とし、給料は郡長・正副村長・百姓代の分まで規定してある。その外郷村役人選挙規則(同節七参照)が示されている。

 以上は三陸会議の協定による郡村規則の大要であるが、その実施は郷村の役職制の変革ばかりでなく、行政的に郷村の編成啓を意味している。盛岡県の場合は、三陸協定以前に正副村長制を採用していたが、この協定に基づく郡村役人の任命は、明治四年二月からである。初め盛岡の役職員を発令し、郡長を任命し村方に及んだ。

 盛岡県は全県を三十九区となし、本村の鵜飼・滝沢は下厨川と共に第七区に属し、大釜・篠木・大沢は上厨川・土渕・平賀新田と共に第八区に属したのである。

 伍組の編成については、旧藩時代すでに五人組制度があり、維新政体の実施に当っても、この制度を踏襲し、伍組の制を採用し、その組合を伍中、その頭を伍長と称するに至った。

六 郡村親則

一、村町共其家長を以て戸主とし五家を一伍とし家並最寄に随へ更に組合を定むべし則五人組なり
一、伍長人物ヨロシキ者を見立て其組合の頭と定め是を伍長と称すべし 右伍長の内村町中入札して一・二人乃至二・四人を撰み百姓町人の総名代に立べき者と定め是を村方にては百姓代町方にては町人代と称すべし
一、一村町毎に至正廉直都て農商の模範とも成るべき者一人を公摸し官より之を命じて村方は村長町方は市長と称す若し其所に其人なき時は臨機他の村町より兼務する事もあ?