第六章 盛岡県治の財政

第一節 石高法

一 旧慣続行

 盛岡県は盛岡藩十三万石の後をうけて、明治三年(1870年)七月創設されたが、明治三年の産米や諸役金銭は大方従前通りとしたが明治四年の年貢は反取法による納入を求められていた。しかるに旧南部領の際、久しく検地をしていない郷村があり、同四年には検地を実施しつゝ年貢や諸役金銭を新しく反取法に改訂しようと努力したが、全部の検地が終了しないので、新旧両法を併用するの余儀なきに至った。一方通用の銭相場は下落して、諸役金銭の納入に大きく支障を来している。また年貢米・諸役金銭は、すべて大蔵省の監督を受け、後に会計監査をうけているのは、県治は政府の地方分活の一機関である証であり、従来の藩治になかったことである。

二 検見坪苅の規定

 貢米を決定する検見(けみ)は、田圃の坪苅によって実地に稲毛を検するので毛見(けみ)とも称するが、明治三年五月、坪苅定法を布告している。この時は藩治中であるが、この年の歩付はこれによって実施されたものであろう。それによると現地の広狭によって十二に区分し、百石以下のところは三ヵ所の坪苅を行い、千石程度のところは三十ヵ所の坪苅りをやって収穫量を推算し、その推定収量に基づいて定率の貢米を決定するやり方である。もちろん従来とてもあったことである。

 坪苅りの方法は、六尺五寸四方の竹輪をもって、その枠内の稲を苅り、籾の量・米の量を検査する、その検査には、耕作者・村役人・県官が立会する規定である。これも殆ど旧慣の踏襲である。

第二節 年貢と諸税

一 定役金銭の下調べ

 明治四年五月、同年分の御定役金銭上納に関し、県下町村に対して雛形を示し、割付の方法と、その取立に付き取立表を県庁に提出し認可を受くべきを布達した。帳簿は二通作製しこれを租税掛りへ提出せしめ、該掛りはこれを監査して証印し、一通は村元へ下付し、一通は出納掛りが備え置き現金納収の原簿としたのである。

二 貢米の政府納入

 県の貢米上納については、明治三年の産米を石巻出張租税司の指図によって、三陸諸県と同じく石巻倉庫に納入した。しかし本来は政府への納入であるし、東京浅草倉庫へ搬入するのが本筋であるので、三陸の諸県は同四年度の年貢米を、いずれに納入するかについて打合せを行なっている。その後十一月になって四年の産米も石巻倉庫へ納入するよう指令があったという。すでにその時は半ば県の倉庫に納入して来ていたので、その納入済の年貢は大蔵省指定の升目にして俵拵とし、北上川を石巻倉庫へ廻遭のこととした。

 また同年十一月十三日、郡長・村長あて布達し、明五年より各府県並反取法に切替えることを告げた。また年貢米の俵詰は三斗五升入とし、それに口米一升宛を加えると規定して発表した。但し未検地分の村は、俵拵や口米とも検地の終るまで旧慣によるとしている。

 御定役金銭や、諸納米は以後廃止されることになったが、民費に関する諸御役銭は据置きとなっているのは当然のことであろう。また年貢米のうち、東京浅草の倉庫に廻遭する分は、海上運輸となるので、俵拵も一俵四斗入となし、合米一升を加えて四斗一升入とすることを告げている。この海上船舶に積み込む四斗俵も、実は従来と同じである。

三 県の歳入出金穀

 盛岡県一ヵ年の金穀の収入支出について、大蔵省が会計検査をやっている。それによると、明治三年十月より翌四年九月までの、各穀の支出を査定したものである。同三年九月までの明治二年度の収支とし、その後を三年の会計年度として査定したものであろう。米は四万四千七百五十五石余、金は七万二千四十六両余、これが一県一年間の支出高であった。

 米の支出では、士族俸米二万五千三百三十五石余、横浜の高嶋嘉右衛門へ返済米七千六百三十五石余、南部家々禄三千石、庁中官禄二千四百九十八石、県の常備兵用一千四百八十九石、厩養費一千二四百六十四石、県学校費九百十六石、旧藩兵手当五百五石、蔵場給与四百九十八石、以上は米穀の大口支出である。

 士族俸米は、旧藩士族を引き継いでいる県としては当然であろう。人員の明記がない。旧藩兵手当は人員千三百六十七人に対する二ヵ月間の手当であるという。明治三年十一月以降この人員に対して手当の支給のないのはこの時以後解雇になったものであろうか。この外に県の常備兵用の諸費がある。

 南部家々禄は前年十月より、翌年六月までとある。南部利恭(ゆき)の東京移住は八月であるが、十月から起算しているのは、明治二年の会計年度を明治三年九月までとしたためであろう。四年六月の打切は全国の諸藩が七月に廃され、旧藩主は一様に扱われるに至ったことに関係あろう。

 庁中官禄は、県官諸司の月給で、蔵場人草は倉庫係りの月給である。厩養に要する米の多いのは詳しいことは明記してないが、当時の一面を物語るものである。学校費は教官の俸給や官費生の収容費である。

 米の支出の中で、横浜の高嶋嘉右衛門への返済米は、旧藩の藩債に関係し、南部藩の外債問題とも関連するものである。高嶋は旧藩の藩債がオールトの公訴となり、盛岡物産商会が閉鎖となった際、返済事務に関係したとされているが、そのことを示すものである。

 金の支出では、御用達商人十四人へ一万九千四百八十二両余の支出、これは明治二年の凶作に際して借りてあった米穀代、郷村へ八千三百五両の支出、これも前年凶作で借上げていた米穀代、井筒屋善十郎外一名へ二千三百六十両の支出、これも右と同じく凶作対策の一端であった。盛岡の井筒屋善十郎・鍵屋茂兵衛二人の名儀で、野辺地湊の野村治六郎より米穀代を借用していたものの返金であるという。以上三口ですでに三万両を越しており、他の二口を加算するとおよそ三万八百両となろう。

 庁中諸費は七千百二十五両、庁中官禄は千九百十四両、東京出張旅費五千八百九十五両、南部家禄一千両、合せておよそ一万六千両の支出である。県常備隊諸費四千八百二十五両、江刺・胆沢の両県へ出兵諸費およそ八百九十両、これは軍事関係の支出費である。

 県学事諸費は四千七百九十五両、これは教育費である。検地諸入費として二千六百九十両を支出している。これは岩手郡・紫波郡の末検地の分を明治四年検地した際の入費であった。教育費と共に県内の施設費の大口のものである。

 七戸藩に対して、金三千百六十二両と千二百両を支出貸し出している。七戸藩は旧南部藩の分家であるが、土地の分割は明治二年であった。従って両藩の諸費は錯綜しており、その会計上においても両者の諸入費は交錯していたことであろう。

 なお、明治三年の銭相場は下落して、金一両につき十六貫文となっている。また従来は百石割となっていた郷役銭は、人口割と変革している。