第三章 警察

第一節 明治以前の治安

 封建時代の農民生活を規制し、治安と秩序を維持したものは、領主側から出される触書、廻状等でその取り締まり条項が示され、代官を経て村役人(肝入)に達せられるのが常であった。肝入は組頭を通じて五人組に達した。また代官支配の下には検断・目明かし等の役職をおいて、絶えず取締まりを強化していた。しかし取締まる役人は村に常住するものではなく、農民相互の秩序維持には不充分な点が多く、農民が安心して日常生活を営むためには互に協力し合わなければならなかった。すなわち自治形態が必要となって来たのである。これが江戸時代の「村法」のおこりであり、村掟・村議定等となって表れ、村の治安はもちろん、博奕、旅人宿、年貢課役の皆済期日の厳守等詳細に規定と、違反者に対する厳しい罰則を結び、きわめて厳重なものとなってしまった。今日まで村吟味などと称されているのは、村法違反者の詮議や処分のことで村全体で解決することをいい、村役人や五人組の連帯責任制以上の強い性質をもっていた。この村法の最も厳しかったのは天明年間の凶作のときであった。

 江戸末期には村法にそむきながら肝入・老名に頼んで仲裁や内済にしたり、あるいは誤り証文を書いて処罰を免がれるようになった。こうして村法は村の治安維持に大きな役割を果したことは事実であり、従って余程の大事件でなければ藩や代官に報告されなかった。

 本村に関係する犯罪を『南部城事務日記』より集録すれば、

旧文書→

 以上の通りである。これらは大坊直治氏の調査である。

第二節 明治以後の治安

一 司法制度

 検察裁判事務は県の五課中聴訟課に属し、当初「県内ノ訴訟ヲ審聴シ、其情ヲ尽シテ長官ニ具状、及ビ県内ヲ監視シ、罪人ヲ処置シ、挿亡ノ事徒場ヲ掌ル」との分掌規定にあるごとく、県の聴訟課において該事務を扱い来ったが、明治八年(1875年)の裁判制度の施行により、同九年三月聴訟課を廃止して、地方裁判所制の実施となり、民事・刑事の二課として独立をした。

 従って、置県以来、明治九年に至る五ヵ年間の司法裁判の権限は、地方長官たる県令に有り、検察警保は元より訴訟等の審理裁判並びに、断罪徒刑の管理に至るまでこれを掌握した。

 従来検察事務は、県庁警察本部に属し取扱われてきたが、明治十四年十一月より裁判所検事局が開設され、検察に関する一切の事項がこの局所管となるに及んで、検事事務は検事局に移された。

二 監獄制度

 置県当初の監獄制度は、概ね旧慣を踏襲し、県庁の聴訟課においてこれを取扱った。拘獄舎は後に監獄、徒場は懲役所にそれぞれ改称された。拘獄舎は罪人の監禁所、徒場は囚人の労役所に当り、刑場は死刑場梟(きょう)首場は死刑囚の首を衆人に公示し、見せしめとした所である。何れも地方庁の所管に属し後世とは階段の差で看取される。

 徒刑囚の課役は各種草履・草鞋・縄・畳表替・ローソク・米つき・各種下駄・各種紙しき等一日の仕事の分量が定められている。

 明治十七年度より同十九年度まで地租割・戸数割による財源で総工費五万一千七百八十五円の煉瓦造で馬場小路から厨川の狐森に移転をする。

 明治三十六年三月勅令三四号により地方官官制が改正され、監獄に関する事項は司法省所管に移されたのである。

三 警察制度

 明治四年十一月二十七日、太政官達第六二三号により聴訟課が設置されたが、裁判事務・行刑事務・警察事務共に兼掌の形であり、藩政期の制度の移行された形が残っていた。

 警察事務についても、岩手県においては従前の捕亡制度を踏襲し、警察職掌の一部を遂行しつゝあったが、明治五年三月に至り、聴訟譲の中に捕亡局を設置し、警察事務を取扱わしめた。捕亡局には捕亡長(局長)及び捕亡副長があって、捕亡役の者を統轄し、また管内枢要地には捕亡役の者が若干分遣されてあった。その他区内には民費負担の区内見廻役なる者が明治五年三月に設置され、これがまた捕亡局に従属し、受持区内の探偵捕獲風俗視察を司り、選定方法はその区の推挙になるものより任命するか、県より選定する方法をとり、給料は村民費に依り支弁された。見廻役規則は明治六年四月八日布達され十一ヵ条よりなる服務上の事柄を規定し、給料は一ヵ年五石と定められている。

区内見廻役事務章程→

 その後多少の改廃があって、明治八年十月二十四日府県警察部職制が布告され、岩手県では十一月十二日警部と巡査が発令されている。これまでは服装に統一されたものがなく、饅頭笠に三尺棒を抱え込んで二人の組となり、共同して村落を巡視していたが、このころから警察官の服装が全国統一された服装となり警視・警部は帯剣で、巡査は棍棒であり、巡査の帯剣は明治十五年以降になる。

 明治十年五月県庁警察係の中に水難・火災等に関する一切の事務を専務することになる。

 明治十三年七月に警察本署内に検察・警保・会計の三部制をおくことになる。

 明治十四年、盛岡裁判所内に検事局が開局されたので警察本署の検察部は廃止となる。

 明治三十年七月内務省訓令第一六号により外勤巡査は警ら査察・戸口調査・警察に関する法律命令の執行の職務を行うことになる。

 昭和三年には、各府県に特別高等警課が新設され、全国共産党の一斉検挙を促している。

 昭和二十三年三月七日警察制度の大改革により、国家地方警察と自治警察の二本建となる。本村の駐在所は、国家地方警察盛岡地区警察署に属した。

 昭和二十九年七月一日警察法の全面的改正により、国家警察・自治体警察の二本建制度を廃止して、都道府県警察に一本化されるに至った。

四 本村の駐在所

巡査駐在所

 明治二十二年(1889年)市町村制の実施は、県下に一市二十一町二百十九ヵ村の誕生となったが、旧来は六百四十三ヵ村の村単位であり、字の合併分離がなされることによって、新市町村の誕生となった。警察署の管轄区についても併合分離があり、盛岡署は盛岡市及びその近郊に管轄を限り、旧盛岡署の管轄であった北岩手郡一円は、翌二十三年岩手警察署を増設することによって、その管轄下となる。

 本村は市町村制実施と同時に、鵜飼に巡査が駐在して、全村の警察にあたり、大正十年(1921年)橋場線開通に伴い、警察事務も繁雑となったので、鵜飼の駐在所を大釜駅付近に移し、さらに滝沢駅前にもこれをおき、全村を二分して所轄することとなる。その後、自衛隊・自動車の試験場等の施設が一本木に設立されたので、昭和三十二年駐在所が設置される。本村は以上の三駐在所によって治安が維持されることとなる。