第七章 保健

第一節 保健概要

 昔は病気になるとまず「医者より神」をたより、医者にかかる前に修験や巫女を頼み、いわゆる「まじない」によって拝んでもらい、神符を水にひたして飲む等、迷信的信仰療法を試みたり、あるいは薬草を服用してみたりしてなかなか医者の手にかかることをせず、いよいよ治らないようになってから医者にみてもらう者が少なくなかった。それは経済的に恵まれていなかったためである。昔の医者は漢方医であったから漢方薬を使用して治療をした(第四編農民生活の変遷の第一章第十七節の四参照)。病気についてはシャク・ショウガン・のう出血等が多かったようである。昔の人は病気にかかる前に予防することが一般に強く、迷信ばかりでなく常に養生につとめたらしい。

 明治四年の置県当初は、旧藩時代の慣習が多く残っており、医師・医療施設、その他厚生に関する活動は未だしの観があった。かつて、南部藩時代盛岡に医師養成の医学所があり、明治になって県立医学校が開設されたが十年ばかりで廃され、医師養成の機関停止によって本県の医師不足は重大な関心事となった。明治六年の六郡時代の岩手県の人口は三十二万、それに対して開業医は二百六十人で、第一区の盛岡地区約三万八千人に五十四人と最も多く、厨川通の第四区は約七千人に対して二名のみであった。

 大坊直治氏の『大釜野史』中に「佐兵エどの後に江戸の人加藤玄慶なる漢方医がいた(明治九年七月)。翁は山野を跋渉して、蒼じゅつ、人参、桔梗、黄蓮の薬草を採集したが、明治天皇、東北地方御巡幸の際に鵜飼村よりとして、薬草を天覧に供している。」とある。

 明治十二年郡役所設置となり、公立郡病院がぞくぞく開設されたが、経済力が低いため、たちまち赤字経営になり、暫時にして閉鎖される。当時の民衆を県庁の役人が如何に見ていたか「県下の風習は久慣の陋俗に固着している」と評している。地力が低く、生産が上がらず、経済力が弱いところから、民度も低く病気になっても医者にかかれないものが多かった。県北等は病気になっても白米粥さえ食べることが出来なくて、竹筒の中に少量の米を入れて、その音を聞かせたという話が残っている位である。

 岩手県に衛生課が新設され、種痘事務を扱ったのは明治十三年一月からであり、また同年六月に県では衛生会を組織し、人体の保健・住宅地・環境衛生・伝染性流行病の予防その他について協議し、衛生上の諸施設並びに衛生思想の普及に努める。

 明治二十二年四月市町村制を実施し、従来の六百四十二ヵ村を一市二十一町二百十九ヵ村の行政区に編成したので、それら市町村に衛生組合を組織させる。

 明治二十四年三月三十一日衛生組合準則が公布され下部組織が出来、各家庭にまで衛生上の注意を喚起させ、伝染病、流行病の予防に一層力を注ぐこととなる。

 明治二十三年より薬剤師と薬種商に試験制度をとったので、薬店が半減している。しかしながら、医師にかかることの出来ない民衆は売薬に頼らざるを得なかった。

 明治二十八年五月二十一日県令によって、市町村清潔法が制定される。

 明治三十年四月伝染病予防法が制定され、これが予防については、一層の注意が強化される。清潔法施行のことも一層強化して近代化している。

 明治三十七年二月肺結核に青年が罹病すれば不治の病気として忌避される風習があり、兵役にも関係するので「肺結核予防に関する件」が公布施行され喀痰の取締をする。

 明治四十年を境として政府が西洋医学の普及に力を入れたので、漢方医の鍼灸が漸次減少している。

 大正八年には結核予防法が制定され、結核に汚染した家屋物件の消毒、接客業従業員の健康診断と保菌者の従業禁止等、また同年にトラホーム予防法が制定され、壮丁、小・中学校の児童・生徒、接客業・工業労働者に対する集団検診が行われたが、三割位の患者数で、昭和の初期までつづく伝染しやすい病気の一つであった。また、この大正期に寄生虫検査が行われている。

 昭和の初期は大正後期の余波を受けて、深刻な不況時代を過ごし、さらに凶作と生活は極度に逼迫した。

 我国の国情は次第に戦争拡大へと進み、国策の上に軍の政策が大きく影響し、軍国主義は健民強兵の政策のため、衛生行政の上でも新しい発展をみせることとなった。

 衛生行政が内務省の管轄を離れ、新しく創設される厚生省の所管になったのは昭和十三年である。

 戦時となった世情には「殖めよ増やせよ」の掛声がかけられ、出生率も比較的高い時代となるが、徴兵・軍事産業を中心とする産業の拡大など、人口の上に特殊な影響を与えることとなる。

 終戦後、暗い葛屋から明るい住宅に改造され、また環境衛生に留意し、衛生思想が普及するにつれ、伝染病・結核・乳幼児の死亡が減少し、それに伴って、出生・死亡も年々減ずる傾向を示している。

   保健所

 法律第四二号で保健所法が制定され、昭和十三年四月十一日盛岡保健所が開設されたのである。

  保健所法(抄)
第一条 保健所ハ国民ノ体位ヲ向上セシムル為地方ニ於テ保健上必要ナル指導ヲナス所トス。
第二条 保健所ニ於テハ左ノ事項ニ付指導ヲ行フ。
 一 衛生思想ノ涵養
 二 栄養ノ改善及飲食物ノ衛生
 三 衣服、住宅、其ノ他ノ環境ノ衛生
 四 妊産婦及乳幼児の衛生
 五 疾病ノ予防
 六 其ノ他健康ノ増進
第三条――第六条(略)

 また当時保健婦制度が強く要望され、昭和十六年に保健婦規則が制定され、村にも保健婦が設置されたのである。

 国民健康保険については、次節の第二節にゆずり、ここでは省略をする。

第二節 国民健康保険

一 はじめに

 初期の健康保険法の制定は、大正十一年であるが、その施行は同十五年七月からであり、保険給付は、昭和二年一月から開始されている。

 当初の健康保険法は、工場法、または鉱業法の適用を受ける工場、または事業場であり、任意加入として、動力法、鉄道業に使用される人達を認めている。給付は被保険者のみであり、家族給付がなく、療養の給付及び手当金の支給期間は百八十日以内とされた。

 この保険制度は、昭和初期の不況期にあって運用が苦しいものとなったが、昭和七年ごろ、ほぼその基礎を確立し、昭和九年には制度の整備改正が行われると共に、加入者の範囲が拡充され、従来任意包括適用であった工場法、または鉱業法の適用を受けない工場、または事業場、電気の伝導、または動力の発生伝導の事業、陸上における交通運輸業等で、五人以上の労働者を使用するものも強制適用事業とした。

 この他にこの期では労働者災害扶助法などもあるが、いずれも被使用者を対象としたものであり、適用範囲が限られていたが、日支事変勃発以後、あらゆる施策が兵力及び生産力増強の国の要請に従うようになって、社会保険の分野も次々に重要な立法がなされ、変則な主旨ながら社会福祉的な制度が確立されていった。こうして国民健康保険制度の成立まで施策が進んだのであった。同法は最初、昭和五年以後の農業恐慌に対する救農問題の一環として八年ごろから問題となり、十一年社会事業調査会への諮問答申を経て、その後各方面からの要望により、同十三年四月成立したが、その骨子は、

(イ)任意設立主義を採り、市町村毎に普通国民健康保険組合を作り、保険を担当せしめ、
(ロ)その地域内の世帯主を組合員、組合員及びその世帯に属する者を被保険者として任意加入主義を採用し、
(ハ)法定給付として療養の給付、任意給付として助産の給付、葬祭の給付、哺育上の手当等を行い、療養の給付については一部負担をなし得るものとし、
(ニ)保険料は組合員の資力を標準に定め、
(ホ)組合の機関として組合会及び理事を置いてその管理を行わしめ、
(ヘ)診療は組合と医師、または薬剤師の締結する契約によって行う等とした。

 国民健康保険制度の創設と併行して、被使用者疾病保険制度の拡大が図られ、昭和十四年に職員健康保険法と船員保険法が生れ、昭和十五年に政府職員共済組合令が制定されたが、その後の制度の整備と相まって、保険制度は順調な普及を見せ、戦時体制下には、さらに強化された改正が行われ、組合数も増加し、保険医療は次第に医療制度全体に大きな比重を示すようになったのである。

二 本村の国民健康保険

1 発足

(一) 沿革
 国民健康保険法が昭和十三年七月一日公布施行されたのであるが、本村においては、昭和十九年より終戦直後まで、普通組合として国保を実施し、役場内に事業所を置き、未精算のまま休止の状態となったが、同三十年に至り、本制度の必要性を認め、四月一日より公営事業として創設再発足をした。

(二) 事業運営組織
 (1) 本村の財政を司る人々
     村長・収入役・村会議員二十二名。
 (2) 国保運営委員
     公益代表三名、被保険者代表三名、医師代表二名。
 (3) 部落連絡員十名。

(三) 人口と被保険者
 本村における世帯数は同年四月一日現在において一千五百四十二世帯、人口九千二百三十六人であるが、被保険者の世常主数は、一千四百四十四人、被保険者数は八千三百八十人で、人口数に対比すれば八割九分九厘の加入率となっている。他は、生活扶助者百二十四名及び社会保険加入者(十割給付)七百三十二名であるが、村民の大部分は国保加入者であることは、国保運営上好条件である。
 しかしながら、昭和三十年新発足二ヵ年間は加入割合は約九〇%十二年より同四十六年まで五〇%以下を低迷している。この事は他の機関に加入していることを物語るものであろう。

(四) 昭和三十年度滝沢村国民健康保険特別会計予算

歳入→

歳出→

(五) 保険税
 (1) 賦課
  (あ) 一世帯当二、二二四円、被保険者一人当三八四円。
  (い) 最高年額九、八九〇円、最低年額五六〇円、平均二、二二四円。
  (う) 課税総額三、三一一、〇八四円。
  (え) 課税総額の割合所得税 30/100、資産剖 20/100、被保険者均等割 30/100、世帯別平均割 20/100
  (お) 保険税率所得割〇・〇〇五六、資産割〇・一八、被保険者均等割一一五円、世帯別平等割四四五円。
 (2) 保険税徴収の方法
 六月、八月、十月、十二月の四期分一括納入通知書を発行。部落行政連絡員を通じて各世帯に配布し、各個に期日までに収入役へ納入する。

(六) 診療組織
 (1) 担当医との契約状況
 国立盛岡療養所、盛岡赤十字病院、盛岡市立病院、岩手医科大学附属病院、県立盛岡病院、済生会、盛岡産院、乳児院、その他盛岡市内の主なる各科八十二名の医師と五割の一部負担金を窓口に於て委託徴収することに協定する。
 (2) 給付の実態
 本村に於ての保険給付は、現在療養の給付、助産の給付、葬祭の給付の三種である。
  (あ) 療養給付
    診療を受けたる被保険者は医師の窓口で五割を支払、役場では診療報酬請求書により後の五割を協定の結んでいる医者に支払う。
  (い) 療養費
    本村は概ね担当医と協定を結んでいるが、協定を結ばぬ医師にかかった場合、その受領書により、療養の給付に替え療養費として現金を被保健者に支給する。
  (う) 助産の給付
    分娩一件につき一律に五百円を助産の給付に替え、助産費として被保険者に支給する。
  (え) 葬儀の給付
    一件当り五百円を葬祭の給付に替え、葬祭費として支給する。
 (3) 診療の範囲
  (あ) 診療(往診及び処方箋の交付、健康診断を含まない)。
  (い) 薬剤又は治療材料の支給(治療材料中矯正眼鏡、体温計、吸入器、氷のうの類含ない)。
  (う) 処置手術その他の治療(温泉・鉱泉・その他の転地療養を含まない)。
  (え) 入院診養(賄を含まない)。
  (お) 歯科診療(充填インレー、補綴を含まない)。

2 運営機構の事務組織と分掌

運営機構の事務組織と分掌→

3 国民健康保険運営協議会会長一覧表

国民健康保険運営協議会会長一覧表→

4 保険財政

年度別決算の状況→

第三節 医師

 医師については、明治六年以来同三十年ごろまでは五百人内外で、人口千人について医師の数は〇・八人、同三十年代は四百五十人内外で〇・六人、同四十年より昭和九年までは人口増加するも三百人台から四百人台で〇・二人と非常に不足をきたしている。岩手医専の設置をみてから昭和十年には急激に増して五百四十六人になり、毎年増加の一途をたどり、同十六年には六百七十人になり、千人に対して〇・六人であった。

 本村における在住医師は唯一人で、大釜の土井尻正次氏のみである。岩手医学専門学校卒業後、盛岡市立病院に勤務し、昭和二十七年十二月医学博士の学位をえ、後、同病院の副院長になり、同三十六年七月、村に一人も村医在住なきを愁え、同地に開業して今日に至る。その間、大釜・大沢の保育園と幼稚園の園医、篠木小学校と南中学校の校医、村主催の医療にも協力し、本村の南部はもちろんのこと、本村に隣接する盛岡市、雫石町の国道四十六号線沿いの人人まで診察・治療を受けている現況である。

第四節 伝染病

 明治十年(1877年)代の死亡原因の病死が圧倒的に多く、その中で伝染病でたおれる者が少なくなく、伝染予防の未熟期として憂慮されたので、県では全力をあげてその防止に力をつくし、政府の応援協力を待て、その対策につとめてた。

 明治二十年と翌二十一年の死亡者も伝染病にかかったものが県下に五千人を越し、内一千二百三十五人は死亡している。伝染病がいかに流行したかを物語っている。

 明治二十九年も明治二十年につぐ流行であり、死者七百七十六人になっている。

 明治三十二年の夏赤痢・腸チフス・痘瘡・ジフテリヤの伝染病が大流行し、患者が壱万五千六百三十七人中死亡者が三千五百十三人と未曽有の大流行となる。

 本村においても法定伝染病については、大正をすぎ昭和に至っても発生しているのは上水道設備の整わぬのが最大原因である。昭和十二年に越前堰を飲料水兼雑用水として使用せる地区、すなわち、大釜・篠木の雫石川流域を除く地域と、大沢の全地域に腸チフスが蔓延し、軒並に患者を出したのであった。

はねつるべ

 井戸水を利用しているところは、雫石川付近の一部で、吸上ポンプの発明以前は、はねつるべを使用していた。

 昭和四十一年に至り、土地改良区が中心となり、漸く水道が完備し普及するようになる。

 このことは、昭和四十年二月一日付で、農林省東北農政局と越前堰土地改良区との間に潅漑用水切替えに関する協定書に基づく保証施設(飲雑用水施設)として水道が敷設されることになり、昭和三十四年十二月より調査を開始し、同四十年九月一目より浄水場施設をなし、同年九月十六日に知事より設計の確認を得て本管敷設工事に入り、同四十一年一月二十八日に竣工し、水道施設譲渡契約を締結している。同年六月二十日大沢の百七十七戸に給水を開始した。浄水場の敷地面積は一千二十四平方メートルで、大沢の択水(表流水)を水源とし、標高百九十九mの箸木平地内に取水堰堤を設けて取水し、口径百㎝の石綿管で自然流下により、沈砂地に導入泥砂を排除し、濾過地に導き浄水し、調整室で塩素滅菌を行ない配給水は大釜・篠木大沢・盛岡市土淵の一部を含むものとした。これまでの取水浄水配水施設は一切国費をもってなされ二千十万円の総工費であった。給水装置設置工事は一戸当り三万六千九百二十円均一とし、借入金三百六十四万五千円を借入している。給水量については一人一日最大給水量二百八十九・三リットル一日最大給水最三百三十七・五立方メートルとしている。第一次拡張工事は篠木下通り、第二次は大釜地区、第三次は土淵地区であり、昭和四十一年度給水戸数二百十三戸一千三十人、同四十二年度は二百十四戸一千三十八人、同四十三年度は三百六十六戸一千八百三人となっている。

 なお、滝沢村新綜合開発計画は、小岩井・鵜飼・川前・一本木にもそれぞれ水道計画が折込まれている。

第五節 結核

 明治初期、中期の肺結核患者数については不明であるが、一度罹病すれば不治の病気として忌避され、兵役にも関係するので、明治三十七年(1904年)二月「肺結核予防に関する件」が内務省令の公布施行をみ、公衆が集合する場所には痰壷の設置とその消毒、結核患者の居住する部屋及び使用物品の消毒を命ずる極めて素朴なものであった。

 大正八年(1919年)結核予防法が制定され、結核に汚染した家屋物品の消毒や、旅館や理髪店等の従業員の健康診断と保菌者の従業禁止、人口五万以上の地方公共団体に対し結核療養所の設置を命ずる事、他の伝染の恐れある患者にして療養の途なき者を療養所に入所せしめる事、従業禁止、または命令入所のものの生活補給を規定している。この当時は現在のような特効薬がなく、もっぱら大気安静療法に依るより外にみちがなかった。従って結核の減少に余り効果がなく、年々増加していった。

 昭和十二年四月結核予防法の改正があり、これによって結核患者届出制が布かれるに至る。

 政府は健民健兵政策の折から、結核の根本対策の実施を図り、各県に保健所法を制定する。盛岡保健所の事業開始は昭和十三年で結核予防指導等に前進をみたのである。

 昭和十五年国民体力法が制定され、特に結核に重点がおかれ、ツベルクリン反応検査、Ⅹ線検査の集団検診方式が採用され、間接撮影検査を中核とする結核の集団検診が本村においても実施され、逐次減少するに至った。

第六節 乳幼児死亡

こなさせ婆さんの使用した道具

 明治二十四年(1891年)の岩手県における死亡者総数一万三千七百八十三人中、一歳未満のものが二千二百七十六人、二歳未満のものが六百五十二人となっていて、五歳未満の死亡合計が三千八百六十人となっている。これが死亡者の三割を占めている。

 明治三十四年の死亡者総数一万七千五十二人中、生年一歳までの者は四千八百二十二人死亡しており、五歳未満の死亡合計は実に七千四百九十六人で四割を占め、乳幼児の死亡率が高い。

 かつて藩政時代には農山村等食料生産に限界があったので、人口の増殖を抑制する風があった。明治新政になっても堕胎や間引きの悪習が残っており、育子制度を実施した例さえあった。従って明治前期には、育児も大切であるが、家政の貧しさから、病気になっても充分の手当や療養に専念することのできない場合もあったから、栄養不良に陥ったり、治療の時期を失したりすることも多かった。

 大正期は出生率が高い反面、死亡率の高いのは、大正七-十年ごろ流行性感冒の流行のためもある。この時期は出産一千に対し乳児死亡は二百を越えている。この期間を除いた大正期は二百から百五十を上下し、昭和終戦までは百五十以下となり、保健所の指導が徹底するにつれ漸次低下をたどり、終戦後漸く百以下になり、昭和三十五年以降は五十以下に低下をしている。

乳児死亡ゼロ達成に贈られた深沢賞(昭和42年達成)

 本村においては、乳幼児対象に全力を傾注した結果、昭和四十一年母子健康コンテスト優良町村として賞を受け、同四十二年乳幼児死亡零の記録を示し、深沢賞をうけるようになる。

 当時の『岩手日報』は次のように報じている。

 雪道をかきわけ乍、開拓部落へ向っていた職員から、「赤ちゃんは皆元気」の報が滝沢村役場へはいったのは四十二年のおおみそかの夜から四十三年元日にかけての真夜中だった。村長室でのこの知らせを受けた柳村兼見村長は「ついにやった」と一人うれし泣きに泣いたという。これが乳児死亡ゼロの金字塔を打ち立てた滝沢村の一瞬だ。四十一年まで乳児死亡率三〇(千人比)を下回ったことの同村だっただけに、柳村々長以下保健婦や関係者の喜びはひとしおだった。しかも出生百八十四人は、これまでゼロを記録した町村の中でも最高で、三十七年和賀郡択内村が県下で初めてゼロを記録したときの百四十七人をはるかに上回っている。

 保健婦の一人は「開拓部落が多いだけに冬の間一番心配した。未熟児に重点をおいたこともよかったが、なんといっても村民一体の努力のたまもの……」と受賞の感想を語っている。(中略)

 同村の四十二年の出生数は百八十四人。男百三人、女八十一人で死因のトップを占めていた急性肺炎がゼロだったことはもちろん、九人の未熟児の成育が良かったことが乳児死亡ゼロを達成した主な原因だった。

母子保健コンテスト優良町村の表彰を受ける(昭和41年) 昭和42年に乳児死亡ゼロ達成

 乳児死亡率の過去十年間の記録は三十年が出生二百七十五人で死亡十七人、三十五年二百九人に八人、三十八年百九十三人に七人、四十一年百十一人に四人で千人当りの死亡率は三十七年以後、県平均を上回っていた。しかし十年前の死亡十八人に比較すると大幅な減少を示しており、四十、四十一年にはもう一歩のところでゼロの記録をのがしている。

 滝沢村が乳児死亡と本格的に取り組んだのは柳村村政、発足した三十八年からで「他町村にできることが、うちにできないことはない」と職員や保健婦を督励した。この結果同年鵜飼と篠木の二開拓部落をモデル地区として乳児検診を始めた。盛岡市の県済生会青山済生病院長栃内秀衡氏の協力で毎月一回、一般診療を無料で実施した外、夏休みには毎年岩手医大生の協力で妊産婦の集団検診を行ない、また、村でも同年早期に妊婦を掌握するため腹帯を現物給付し、四十年四月から村独自の事業で妊婦に牛乳飲用の補助十五円を実施した。

 これらは移動村民室が全部落を巡回したとき、村民との対話から生まれたもので、婦人層からの強い要望によるものだった。

 さらに、三十九年には個人負担百五十円、村の補助二百円で岩手医大の協力を得て全婦人層の子宮ガン検診が実施された。この外、乳児十割給付、クル病検診、母乳不足児に対する栄養剤の補助など次々に手が打たれた。

 しかし、同村にとって最も頭を痛めていたのが開拓部落だった。三十七年から姥屋敷に県立診療所ができたものの、一週間に一回医師が訪れるだけ。やっと四十二年九月、県と国の補助による患者輸送用二十五人乗りの自動車が配車され、地元の人達にはかっこうの足となった。

乳児死亡ゼロを再度達成し深沢賞を受ける(昭和46年達成)

 現在、本村には保健婦二人、看護婦一人がいて、四十年から毎週金曜日、栃内医師の協力で大釜、姥屋敷など四ヵ所を交代に巡回し、検診に当たっている。開業医は大釜と一本木に一人ずつ、母子健康センターもなければ、県立病院もない。これを克服した原動力は乳児検診にあたった栃内県済生会青山済生病院長をはじめ、村保健婦工藤スエさん、主浜喜佐子さん、同看護婦高藤直子さんらのチームワークに負うところが大きかった。同時に開拓部落へ熱意を傾けた柳村村長が除雪の指揮をとり、道路を確保したことも乳児死亡を防いだ。

 昭和四十三年にはすでに五月、巣子で、昨年十二月に出生した赤ちゃんが肺炎のため死亡、六月には大沢で出生後十日目に早産のため死亡、二年連続死亡ゼロはならなかった。しかし四十二年の記録は全村民に自信と誇りを植えつけ、死亡ゼロと取り組むたゆまぬ努力が続けられている。

 なお年度別乳児死亡状況は、

昭和39年度・出生数一九六人、死亡数七人。
  40      一六六     五
  41      一一一     四
  42      一八四     〇
  43      一三八     三
  44      一六五     三
  45      一五八     六
  46      一八〇     〇