第四章 消防

 藩の解体によって武家火消しは解消したが、元来が自衛のための部落ごとにより夜廻り程度の自主的組織であるから、旧慣により消防組を中心に消防活動がなされていた。

 消防組の改革は藩治が県治となるに及び、治安警察上の権限が県令によって掌握され、消防組の指揮運営に警察官が介入するようになる。

第一節 消防組

 明治十年七月県は消防規則を制定し、既設新設を問わず、消防組は以後凡てこの規則によるべきことになる。

   消防組規則
第一条 消防組ハ頭取以下役組中ニ於テ之ヲ公選シ、戸長ノ承認ヲ受ケテ戸長ヨリ警察署ニ届出ベシ。
第二条 組印其他器械等変更スル事アレバ、戸長ヲ経テ警察署ニ届出ベシ。
第三条 一組人員役割ヲ定ムル事左ノ如シ。但シ、人員ハ市街村落ノ景況ニヨリ増減スルモ妨ゲナシ。
 頭取一人 同副一人 小頭一人 同副一人 纒持三人 梯子持六人 但シ高張ヲ兼ネ水道具平組四十人。
第四条 ポンプ一個ヲ備フルトキハ之ヲポンプ組トシ、人員役割ヲ定ムル事左ノ如シ。
 組頭一人 小頭一人 筒先一人 平組二十人。
第五条 消防組出火ノ場ニ望ムトキハ、進退共警部若シクハ巡査ノ指揮ヲ受ケ、擅ニ消防口を移転シ、人数配賦スベカラズ。
 但シ危急ニ望ミ警部巡査其場ニ在ラサルトキハ頭取之ヲ進退スルコトアルベシ。
第六条 各組内予テ寄場ヲ定メ置、出火ヲ聞クトキハ寄場付エ駆付、組員ヲ纒メ実地尽力スベシ。
第七条 頭取ヨリ小頭マデノ内、出火場ニ至ラバ到着ヲ警部若クハ巡査ニ届ベシ。火勢風路又ハ街衢ノ景況ニヨリ要所ト認ムルトキハ之ヲ申報スベシ。
第八条 消防持場焔煙ニ遮断セラレ、移転ノ道ヲ失ヒ其他危難ニ臨ムトキハ、頭取小頭殊ニ注意シ、雑沓ヲ防ギ救護ヲ誤ルベカラズ。若シ傷疾ヲ被ル者アルトキハ、速ニ警部巡査ニ報シ指揮ヲ乞フベシ。
第九条 消防ニ臨ミ各々其力ヲ尽シ、小頭以上ノ指揮ニ随ヒ、協力一和互ニ勉励スベシ。
第十条 略
第十一条 出火ノ節病気故障等ニテ不参ノ者ハ、其時々相組ヲ以届クベシ。若シ事故ナクシテ屡々不参ノ者ハ、頭取ヨリ戸長ニ届ケ改選ヲ乞フベシ。
第十二条 消防経費ハ各町村ノ議集、又ハ別途賦課等組内ノ僉議ニ任セ、適宜ニ取計ヒ伺ヲ経テ処分スベシ。

防火壁(明治時代) 火事の惨状(江戸時代)

 消防組の組織、活動に際しての要点、組員の改選、消防組経費等、大凡が定められている。警察が組中の役割、組印及器械について届出を受け掌握し、且つ警察官が現場の指揮に当っていることが解る。

 消防器械については、明治三年盛岡に洋式腕用ポンプが移入されたが、同十五年以降次第に普及し、一方旧来の代表的消火器である竜吐水は、年を追って次第に減少し始めている。水桶がこれらに比して例年数が多くなり消防器材として最も重要であった。

 このころはその他に消防器材として、破壊消防に用いる鳶口、熊手、掛矢、鋸、類焼を防ぐための藁むしろや海草で作ったむしろ等があった。

 火災の原因は主として失火が最も多く、その内訳はかまどの不始末、炉の留火・藁灰の不始末等によるものが最も多い。電灯のない時代であるから灯火による失火も多かった。

 明治二十二年四月、市町村制が実施されたが、これに伴い消防組が組織がえされ、同二十七年勅令による消防組規則の公布があり、さらに再編成されることになる。この規則は十九条よりなり、消防組は、組頭一人、小頭若干人、消防手若干人で組織し、組頭は警察部長、または、その委任をうけた警察署長が任免し、小頭、消防手については警察署長が任免すること、防災に際しての指揮権は警察署長にあること、消防組の建物及びその器材は、県知事の定めるところに従って市町村及び町村組合で設備し、組維持費もまたこれによることとした。この勅令により岩手県では、同年四月、消防組規則施行細則が制定される。

  消防組施行細則第一条ニ依リ次ノ町村ニ消防組ヲ置キ名称及ビ人員ヲ定ム
  本令ハ明治二十七年十二月一日ヨリ施行ス
    明治二十七年八月二十四日
                知事名(県令第三十一号)

 このとき、岩手郡におかれた消防組は、北岩手郡においては沼宮内町の沼宮内組で人員は三十五人で、南岩手郡においては厨川村と雫石村の厨川組と雫石組で、人員は各四十人に三十五人であった。

 この年に公布された消防組規則は明治・大正・昭和にわたる我国の消防組織の略基礎を固めた法令であったと言い得る。

 その後大正十五年までの間に二回改正令が公布されているが、根本的な改正ではない。ただ、大正中期以後、青年団等と共に、国の指導が変り、昭和に入ってからは軍事色が濃くなったことであった。しかし、自主的自衛のための組織であったことには変りはない。

蒸気ポンプ

 明治後期・大正期は質的にも量的にも消防組織が最も発展した時期である。雲竜水または竜吐水(木製の旧式な腕用ポンプ)が、これよりやや能力のすぐれた洋式腕用ポンプと変り、蒸気ポンプやガソリンポンプが入り、大正後期には自動車ポンプが移入された。しかしながら、この期は蒸気ポンプ以上のものは大きな町にしかなく、大半は腕用ポンプが主である。従って水桶、鳶口、その他破壊消防用具が主なる消防器械であった。これを補ったものは年ごとに急速に増加していった消防組織であり、逸早い組織の活動であった。

 昭和初期の消防方式は自動車ポンプの導入によって大きく近代化する趨勢にあった。しかし町村には普及せず大半は腕用ポンプに依ったのである。

第二節 警防団

 前第三章警察第一節において述べたごとくに、藩に御目付があって警察事務を総括し、その下に目明があり、さらにその下に御同心と称するものがあって検察事務の第一線にあったが、村に事件が起り、注進によって処理する程度であった。従って警備力はささやかなものであったから、自力によって自己の部落を警戒することになる。当時は夜警によって火災と窃盗を予防している。特に不作の年には窃盗が多かったから夜警が頻繁に行われている。その後幾多の変遷を経て、明治の末期には火盗予防組合となり、大正中期に自警自衛団と称し、昭和七年には、自警団と改め、各部落ごとに部落内の警衛の衝にあたっていたが、昭和のいわゆる非常時時代になると、国家の至上命令により警防団と名を改め、その目的に防空活動を付与され、組織も編成変えされる。

 すなわち、昭和十二年支那事変勃発以来、数年間軍指導のもとにできた防護団と発展的に合同して、同十四年一月二十四日の勅令によって結成されたのが警防団である。警防団には中央本部というものはなく、大体警察署単位に警防団本部が設置され、その下に業務別に消防・灯下管制・交通整理・警護・防毒・救護・警報、その他の各部に分かれ本部の下部組織として分団が設けられてあった。団員は十八歳より五十三歳までの青壮年によって組織され、団には団長、副団長があり、地域別に各分団長、業務別には部長、班長が置かれた。そして団長、副団長の任免は県知事、その他の団員は警察署長に任免権があった。その主なる事項は次のようなものであった。

 一、任務は防空と水火消防。
 二、組織は団長一名、副団長一名乃至二名、分団長若干名、班長若干名、警防員若干名。
 三、業務は警報斑、消防斑、灯火管制斑、交通整理斑、防毒斑、救護班、配給斑、工作班、避難管理斑。
 四、任命権は団長、副団長は地方長官、その他の団員は警察署長。
 五、指揮監督権は、団長、副団長は地方長官これを監督する。警察署長は地方長官の命をうけ警防団を指揮監督する。
 六、経費は警防団に要する経費は市町村の負担とする。

 昭和十四年六月には警防団操典が示されたが、これは歩兵操典を模したものであり、歩兵操典の各個教練に当る訓練方式が定められ、十月には警防団員の服制は軍服にならい、戦闘帽に上下衣とも黄土色の国防色、但し、従来の消防組の服制の一部をとり、戦闘帽と上衣の襟、腰バンド、巻脚絆は黒とした。襟には襟章を付し、昇章をつけた。同十六年には鉄カブトをつけるようになる。戦争が次第に拡大されるにつれ銃後の守りを固くかためるためであった。このように戦時体制化した警防団も終戦後解散をしたのである。

第三節 消防団

消防演習

 昭和二十三年三月七日、地方自治確立の一環として消防組織法が施行され、同年八月一日施行の新しい消防法は、従来警察によって行われてきた消防の管理はすべて地方自治体に移管され、自治消防として団長は村長が任免することになった。また消防施設も逐次近代化され特に各種設備、機械器具、服装の整備、団員の訓練等機動性ある消防体制を整え、さらに火防点検、火災警報の発令夜警の実施、防火思想の普及等予防活動を強化し、充実された消防活動は一段と活発化してきた。

 滝沢村消防団条例の第三条によれば、消防団の定員は、二百九十名とするとしてあり、分団は八分団である。

 昭和二十五年以来腕用ポンプを動力ポンプに切替え、消防自動車ポンプ六台・小型自動ポンプ四台、その他消防機具が整備され、それに加えて、防火活動に重点をおき、定期火防点検をなし、未然に災害を防止するよう努力をはらっている。

歴代団長→

第四節 広域消防

 常備消防は今まで、盛岡市・岩手町・紫波町だけのものであったが、昭和四十六年八月一日を期して、盛岡市・雫石町・葛巻町・岩手町・西根町・紫波町・矢巾町・安代町・松尾村・玉山村・都南村・本村の十二市町村が、盛岡地区広域行政事務組合として、消防業務の発足をみることとなった。それと同時に救急業務も開始されたのである。広域市町村圏の面積は実に三千六百三十四・九二平方キロメートルで、昭和四十五年十月現在の人口は三十六万九千三百八十一人、九万五千三百二十七世帯となっている。

広域消防滝沢分署と救急車

 業務体制としては、本部と消防署を盛岡市内丸におき、他町村には一ヵ所宛の分署をおくことになった。

 この組合の管理者は盛岡市長、副管理者には岩手町長、会計には盛岡市収入役がそれぞれあたり、組合の会議は各市町村長と議会議員一名宛で構成されることになっている。

 本村の消防体制は、この組合発足以来、盛岡地区広域行政事務組合の常備滝沢分署が設置されたので、従来あった本村の消防団は非常勤なるが故に補助的となった。

 現在は滝沢分署の署長は武田岩蔵氏で、その下に六名、車輌救急車一台に、現在の第四分団の消防車一台を借用し、第四分団の屯所に分署をおき、昭和四十六年十二月十五日より隊員三名の二十四時間交替勤務になった。同四十七年度にはタンクシャー一台と、滝沢村公民館隣に滝沢分署を建設する予定になっている。これに伴い、本村消防団の組織が同年四月一日より組織がえをし、従来の第一・二・三分団を第一分団として八十五名にし、第四・五分団を第二分団として六十五名にし、第六・七・八分団を第三分団として九十名にし、本部八名を加え総数二百四十八名に編制がえをすることになる。