第八章 体育

第一節 はじめに

 南部藩時代にお抱え角力の力士があり、農耕・運搬に機械・器具を利用しない時代は、もっぱら身体の力を必要とした。従って成人の象徴は力一点に集中されていた。四辻や神社には力石があり、集っては互いに力較べをし、自慢をしたのである。力石の外に棒押し等「どごそれどの誰それは、四斗俵を腹さあげねぇで、さすたず」また、四斗俵を口にくわえて持上げたとか、春に三本鍬による田打ちのワッパガが終れば早く休すむことが出来、その上、上座にも食事のときに坐るのである。秋の米運搬のときなどは馬の背へ荷付、何から何まで力を必要とした。この力の発揮の場所は氏神様の祭典のときである。氏子の老若男女の集合している中で、自分の腕前をあらわし、村の横綱たらんと技を競うたのである。従って氏神様のお祭には角力の奉納をかかすことが出来なかった。当時の青年は目標を持っていた。

 大力者について大坊直治氏はいう。

 「大正十二年五月、一本木の屋号川原(から)の角掛久兵衛氏もとる年波に抵抗出来ず老衰し、七十八歳を一期として遂にあの世に旅立つ。彼、若かりしころ、京都の智恩院の撞鐘を撞いたもんだと自慢話をときどきする。彼はある日松材尺四方の角物三丁を背負いて人を驚かす。また、明治十二、三年のころ、鹿角より荒銅(長さ一尺二寸、巾八寸、重量八貫目余)を馬の背により田頭を経て輸送し来るものを、ここ一本木で人馬とも継立て盛岡へ送るのであるが、一夜三九郎どの前の小足におかれた。夕方になると、かの久兵衛氏黙々として来たり、両足に各一個宛と両手に各一個宛都合四個三十二・三貫を身につけて歩行したりという。或厳寒中のこと栄養不良で斃死した馬があった。その家では、これを埋葬地へ運ぶ為若者四人に依頼していた。これを聞いた久兵衛氏は、己一人にて背負い行かんとて、ふれぬ様に四肢及び頭を縛りつけて背負ひ、馬墓地に運びしという。」

 また、女子の大力者にお先がある。これについては、第七編、第一章、第一節の九、先子川を参照せられたい。

 ある保健婦はいう。体力向上の意味で、毎年、岩手登山を実施しているが、元気なのは、子供らとむしろ老人であると。

 現在、少・青・壮・老の各年齢層に応じた身体の鍛錬を、昔のように個人的に実行しているであろうか。人間は死ぬまで顔と身体を働かさねば心身共に衰えるという。

 ここで、喜ぶべきことは、昭和四十七年度に、今までなかった滝沢南中と鵜飼・滝沢の両小学校にプールが完成したことである。これで、村内小・中学校の全校にプールが完備し、県下で初めて一〇〇%の普及率を達成したことになった。

 国家は国民体育の向上を重点施策とし、特に青少年の健全な体力の維持は、国家を担う要素として欠くことが出来ないとしている。戦争中には青少年の体位向上はますます緊要となり、この要請にこたえるため体力管理の強化拡充が行われた。戦後においては生活に直結したスポーツの普及がさかんになり、活発な体育活動が行われている。

 昭和三十六年九月一日、全国一斉に体育指導員が発令されたが、本村の体育指導員として工藤一氏・土井尻清見氏・八重樫義雄氏の三人であった。後五人に増員され現在に至っている。

第二節 山の上三太夫

 南部家おかかえ力士山の上三太夫は角力の最高位大関にまで進み、その番付に三太夫とある。

山の上三太夫の墓

 墓石はもと永祥院のあった鵜飼の寺森の丘の上にあって、墓石の高さ二・三m、巾九十cmの自然石を使用しており、重さ八百kgといわれている。命日は延宝四年(1676年)六月十五日で、表面は千応俊勢信士、裏面は三太夫と彫まれている。

 当時は第四代家綱将軍の第廿九世南部重信の時代で、重信の寵愛を受け、南部家のおかかえ力士となっていた。

 一説には大迫出身とか、築川田身とかいわれているが、もともと鵜飼出身で、その子孫が現在屋号作右ェ門といわれる長内仁太氏である。その家族は皆身の丈五尺七-八寸位で、高い人々のみである。

 当時角力が盛んで江戸には全国各藩から名のある力士が集まっていたが、三太夫は、その当時全国一強いといわれた御三家の一つである名古屋侯の力士富士の山を、土俵上の勝負で見事に勝を得たのである。重信は大いに喜び富士山よりも強いところから山の上と改名したという。

 延宝四年の夏、重信の長男行信がカゴで帰宅の際三太夫も御供申し付けられていたが、六人でカゴをかつぐのほ面倒なりと棒に肩を入れ、少しも動揺することなく軽々とかつぎ、幼少の行信を涼ませるという善意で橋のらんかんの外へ差し出した。この事が重信の怒りを買い、三太夫は盛岡に帰され、小鷹刑場で処刑される。処刑の際三太夫は「今後南部領から大関を出さない」と、のろいの言葉を残したといあれる。刑台に上り槍にて胸部を突かれるその時、山の上は呼吸をのみ、満身に力をこめて、全身を緊張させたら、あたかも黒金のようであった。槍は鉄石をつくに等しく微動だに傷を負わすことが出来なかった。事二回、三回目に始めて身体を和らげ深く胸部を突かれて刑場の露と消えたという。

 また、次のような語り草も残っている。

 あるとき、秋田藩の十二荘に近藩の力士会同して角力の催しがあることをきき、角力をしようと期日の前日十二荘に到着し、夕方特製の大きな据風呂で旅の汗を流していた。たまたま六、七十歳に見える一農夫が来て遠路の労を謝し、且つ請うていうには「南部の力士、山の上とは当秋田藩にもその名聞ゆる大力士である。願わくば裸体のままの身体が拝見出来うれば光栄この上なし」と。三太夫その請をいれて立ち上がり、双手を開いて確実に見せて再び湯の中に沈む。この老人再びいうには「如何程重いものか、貴下の入りたるまま持ち上げたし、おゆるしを乞う」と風呂桶に諸手をかけ、己の眼よりも高く之を捧げる。三太夫は恐れその夜の中に鹿角を経て領内に逃げ帰る。その後全く角力を廃して大陸尺になったという。

 山の上三太夫死後十八年後の元録七年(1694年)十二月二十八日付の南部城事務日記に、 (旧文書→) とある。このことから三太夫のような大関は出なかったにしても、本村から多くの力士が出た事が予想されるのである。

第三節 沖田家に伝わる心極流

 大字大釜沼袋の沖田家に須郷金兵衛より沖田栄助殿へとして、弘化五年(1848年)二月に心極流体術表を伝えた秘伝の巻物が残されている。

 それによると、次項のようである。

  心極流体術表
 顔向、指込、風折、鋙返、首砕、腕囗、身壊、囗囗、連捕、捲込。

 〇 捕手
 向捕、追捕、輪囗、こうよく、羽返。
 〇 目録前五手
 大波、岩石小爪返、餌落、湲潺。
 〇 体術柳之巻
 〇 十手之大手
 嵐、技折、羽返、袖縛、稲妻、衣紋締、二重締、釣締、小爪返、風車。
 〇 殺生口伝

 となっている。

沖田家所蔵心極流秘伝の巻物

 明治三年(1870年)九月十九日太政官から「自今苗字、差し許され候事」という布告が出る約三十年前に沖田栄助の沖田と苗字が明記されているから、沖田家は武士であったように推察される。

 前述のように角力で有名な山の上三太夫をはじめとし、当時は、三本鍬で田打をするにも、馬の背中に米等をつけ上げるにしても、力を必要としていた。力のあるものは自らも自慢をし、他からも羨まれ、特に青年は力持になることを一つの目標にし、力石等によって鍛錬をしたのである。この力を発揮する日は氏神の祭典の角力奉納であって、村人全員の面前で力量を出し合うこの祭典は氏子にとっては最大の楽しみであったことは前述の通りである。

 私は、本村に角力のみが盛んであって、柔道に類する唐手のごとき体術の秘伝が皆無と思っていた。過日、家人より提示され、ここに記述をすることとした。

 第四編、第二章に述べたように幾多の災害に手の施す術(すべ)を知らなかった当時、積極的に尊い人命を守る躰術を沖田家が中心となって普及したことをここに特記をしたのである。

第四節 滝沢村体育協会

毎年行われる村民体育大会

 現在の体育協会発足以前は、地域の青年が主となり、各種の交換競技、部落の対抗競技を催していたが、本村のスポーツをもっと振興するため、昭和二十九年四月滝沢村体育協会の発足をみた。

 初代会長には柳村兼見氏が就任、各部制をしき、積極的に体育行事を開催、また、部落の指導者、支部の結成を促進した。

 協会結成以来、毎年陸上・野球・排球・卓球・相撲等総合体育大会を開催し、第十六回大会からは、ソフトボール競技を新たに加え昭和四十六年は第十八回大会となった。

 その間柳村兼見会長は、岩手郡体育協会長にも選任され、岩手郡の体育振興のため、また、その予算獲得のため、文字通り足を棒にして各町村をまわり、事業の運営に支障なからしむべく努力された結果、郡体育協会の関係者に理解され、体育指導奨励費として予算の計上をみ、体育協会運営事業推進を軌道にのせた。

 グラウンドの整備にも力を注ぎ、会長以下の努力奉仕により、東北本線の沿線にある滝沢第二小・中学校の校庭を拡張整備をなし、村のみならず、郡の中心会場ともなった。

婦人も全員参加するバレー大会

 その結果、本村から優秀遥手を多く出している中で、第十六回メルボンオリンピック大会に武田泰彦選手(大釜)が漕艇競技に、第十七回ローマオリンピック大会、第十八回東京オリンピック大会と連続して自転車兢技に大宮政志選手(大釜)が日本代表として出場したのが特筆される。ほかに青森、東京間の駅伝大会選手として、上野春蔵(川前)・畠山孝美(柳沢)・釜択常矢(元村)・小沼繁(一本木)等、また、国体選手も数多く養成派遣している。

 総合体育大会とは別に村民登山大会、体育の日の行事として、村民歩・走大会、婦人バレーボール、壮年野球大会など多種多様の行事を開催している。

 昭和四十四年には体育協会の傘下にスポーツ少年団を結成した。県下一の団員数を誇る村ぐるみのスポーツ少年団(本部長柳村兼見村長)が誕生し、六月二十八日滝沢南中学校グラウンドで、団員、役員ら約六百人が参加して結団式が行われた。

 本村は五月十五日の滝沢南中スポーツ少年団を皮切りに、各小、中学校単位に十団(団員五百十九人)が結成された。これは現在県下に組織されている団員数の約十分の一というマンモス少年団で、これまで他にみられるような種目別の少年団とは違って、卓球、野球、バレーボール、ソフトボール、サイクリング、柔道、剣道、テニスなど県下でも珍しい総合的な組織。事業計画では種目別競技の親善試合やリーダー研修、キヤンプ大会、スポーツテストなどを織り込み、計画的、継続的に活動を見守り、育成しようと、村の体育指導員や青年会の幹部らも指導者のメンバーに加わり、子供たちの健全育成と教育振興運動にも成果が期待された。

社会体育の振興がみとめられ文部大臣表彰を受ける

 同年十月十日、昭和二十九年結成以来、毎年、陸上兢技、野球、バレーボール、相撲など各種競技を盛り込んだ総合体育大会を催し、また、大会とは別に、村民岩手山登山、婦人バレーボール大会、青年男女ソフトボール大会、村民歩・走大会など多彩なスポーツ行事が認められ、社会体育団体の優良団体として、文部大臣表彰を受けた。

 昭和四十五年には第二十五回国民体育大会が岩手県で開催されたが、本村においては、山岳、射撃、ラグビー・フットボールの三種目、国体はじまって以来の会場となり、見事に大成功したことは、今後の体育振興のみならず、村の発展に大いなる力を与えた。

 村民生活への影響を二・三あげるならば、各種大会は、勝敗を争うとか、相手を敵視、憎悪することではなく、セクト的な部落根性を超越して、村民の親睦、融和、心の交流に大いに役立った。国・県等の大会に派遣された選手は、視野を広め、あらゆる面において、村をよくしようという意識を高めて帰村し、村によい影響を与えた。スポーツが盛んになることによって村民の保健・衛生の思想が向上した。

 なお、本協会の会長は昭和二十九年発足以来、同四十六年現在に至るまで柳村兼見氏である。

第五節 岩手登山

岩手登山大会

 昭和四十一年村民の体力づくりの一つとして、岩手登山大会が実施された。当時の『広報たきざわ』は次のように記している。

 八月二十一日、絶好の登山日和りに恵まれ、村民約五百人が参加して実施された。各部落から馬返しまでの往復の乗りものについては自衛隊の協力によりトラック三十台からの支援をうけている。五百名もの大人数なので救護の万全を期すため、青山済生病院院長自らの指揮による救護班が編成され、酸素ボンベまで用意をする。

 年前六時半全員馬返しに集結、開会式、全員に「秀峰岩手山」と村長揮毫の手拭がおくられた。

 登山隊を十二班に編成したが参加者は最高年齢者七十三歳の鵜飼在住藤村長松さん、最年少者は同じく五歳の工藤良子さん、殆どが初めての登山者なので、リーダーを受けもった滝沢村山岳会では、調査のため六回も登山したという。

 午後一時全員山頂をきわめ、家内安全、村の発展を祈念して村長の音頭で万歳を三唱し下山をした。

 下山にあたっては一人一つ以上のゴミを拾うこととし、山の清掃をもなした。

 以来二回・三回と重ね、昭和四十六年は第六回目である。その間一千二百名もの参加をみたこともある。

第六節 スポーツ少年団

スポーツ少年団

 昭和四十四年南中スポーツ少年団の結成を期に村内各小・中学校を中心とし、スポーツ少年団十団、五百二十一名によって六月二十八日に結成された。

 このスポーツ少年団はスポーツその他の文化活動を行うことにより、心身ともに健全で豊かな人間性をもち、正義と平和を愛する次代の国民を育成することを目的としている。

 この少年団は岩手県スポーツ少年団本部、さらに日本スポーツ少年団本部に登録された。

 滝沢村本部長には村長が当り、副本部長には教育長と校長会長がそれぞれ当っている。

 スポーツ少年団は種目によって異なり柔道スポーツ少年団とか、野球、バレーボール、バトミントン、剣道、登山、キヤンプ等一定のルールに従って行われ、このきびしさの中で正々堂々と戦うところに美しさがあり喜びがわいて来る。このスポーツの精神によって、自主的で積極性が養われ、同時に友情と協力の精神が育てられ、社会に貢献する社会人育成に必要な組織であるという。

第七節 第二十五回国民体育大会

沿道を人でうめつくした歓迎会 村長みずから先頭に立って聖火リレーに参加

 「百四十万県民の総力を結集し、誠意と協力によって受入態勢の万全を期し、スポーツの普及を通じて体位の向上と志気の高揚をはかり、明朗で、積極的な県民性を涵養し、県勢の飛躍的な発展を期するための挙県一致の健全な岩手国体を開催する」の趣旨に沿い、秋季大会が昭和四十五年十月十日から十五日まで開催された。

 盛岡市は開閉会式の外に七つの会場、他の市町村は二つか一つ、多くて花巻市の三つであったが、本村は山岳、ラグビー、フットボール、ライフル射撃、ロードレース、雨天時のハンドボールと村において、盛岡市の七つの会場に次ぐ、五つの会場を設営したことは、国体史上稀にみるところであった。

数々の成果を生み終了したライフル射撃終了式 みえないところもきれいに スポーツ少年団の清掃活動

 本村におけるライフル射撃の監督・選手等三百四十二名、ラグビー、フットボールは六百四十名、山岳は三百十九名で、計一千三百一名であった。

 そこで、滝沢村実行委員会においては、総務部・競技演技部・保健部・警備部・輸送部・宿泊観光部・村民運動部の七つに区分して組織をした。

 昭和四十一年十二月十日、国民体育大会滝沢村準備委員会を組織し、同四十二年二月十四日総会を開催し、会長に柳村村長をえらんだのである。開催までの間に他県国体参観、受入態勢をととのえるために各種団体を村一本にまとめ、観迎のレクリエーション等の練習には幼稚園・小学校・中学校・青年団・婦人会・名物のチャグチャグ馬コ等、民宿旅館の打合せ、環境美化の設営及び花壇造り、鳩の会等、全村をあげ、村長である会長を中心に一丸となって、見事に終えたことは、ライフル会長の言をまつまでもなく、同体史稀にみる精華であったことは、大威張りで誇っても差支えないほど完全に施行されたのであった。

村民の歓迎に感激した選手団 天皇陛下をお迎えする

 一、準備、打合、講習会等終了までの延日数は約五七〇日
 二、大会協力者、実人員二、七二八人、延人員五、一六七人
 三、大会係員弁当必要数 一〇、一二四個
 四、期間中使用車輌 五二四輌
 五、民泊延一、〇一六人、旅館延一、二四六人計二、二六二人
 六、四四・四五年度支出済額 約三、七〇〇万円
 七、国体開催によって、村内の道路網が完備したことと、誠実・明朗・躍進をスローガンとして村民が一致協力したことは、何にもまさる収穫であった。